八兆分の一の世界〜オレンジスペル〜
(ボンゴレリングを破壊するタイミングが遅く、ボンゴレデーチモが暗殺されずに洗脳された世界)



「こんな世界も、面白そうだよネ」
フニフニと指でマシュマロを押しつぶしながら、男はニヤリと口元を細める。それを背後で聞いていた男は、居心地悪げに眼鏡の位置を直した。無言を貫いていたが、ソファに座る男へ返事を促され、眼鏡を弄っていた男はつっかえながらも同意を返す。
パソコンに置いた手は強張って、タイプすらまともにできそうにない。それを悟られないよう、少しずつ指を動かしていたところ、スルリ、と肩を撫でられた。びく、と身体が硬直する。
「さて、守護者クンたちは、どう動くかな? どう思う、正チャン?」
「……」
グッと唾を飲みこみ、「さあ」と辛うじてそれだけ呟く。それにどれほど相手が満足感を得たかは知らないが、肩を掴む力からは解放された。
男はソファに戻り、テーブルに散らかしたマシュマロを一つ摘まんだ。それを人差し指と親指で潰すように持ち、向いに座る男へ翳す。
「愛しい大空が海に沈んだら、天候はどれだけ荒れるんだろうね?」
訊ねた相手からの返答は、ない。

◇◆◇

ミルフィオーレとの会談の日取りが決まったとき、彼がまず守護者たちに下した命は、ボンゴレリングの破棄だった。当然、反対の声が上がる。それを強く主張したのは、右腕だった。
「せめて、奴らとの会談の日まではこのままに。Aランクリングでは、護衛に不安が残ります」
努めて冷静に、獄寺はそう進言する。綱吉は彼の顔を見て何かを言いかけたが、結局は口を噤んだ。そして、信頼する右腕の言う通りに決めた。
――それが、一つの分岐点。
会談は、ボス同士三人だけで行われた。と言っても、会談の部屋に入るのが三人というだけで、外には守護者たちを始めとする部下たちが護衛のためずらりと並んでいた。珍しく、雲雀も護衛に参加し、クロームと一緒に周辺建物の見回りに動いていた。
獄寺は部下へ指示を出しながらも、チラチラとこちらを見やるブラックスペルたちの視線が妙に気になっていた。少女のボスを「姫」と呼んでいたのは、雷属性のγだ。彼の視線が一層鋭く、獄寺や山本を刺してくる。
「何だ、アイツ」
「さあな。ただの殺気にしては、気味が悪い」
山本も、怒りと憐憫の混じったような視線に、違和感を否めないようだ。
どれほど時間が経っただろうか。居心地悪い空気だけが流れる中、扉が静かに開いた。そこから姿を見せたのは、獄寺たちが待っていたボスだった。そちらへ近寄った獄寺は、様子の可笑しいボスに首を傾げた。
「十代目?」
「ボス、会談はどうだった?」
山本も様子の可笑しさに眉を顰めながら、ボスの後ろから部屋を出てきた相手ファミリーのボスたちを一瞥した。
「――ボンゴレとミルフィオーレは、統合する」
彼の口から出てきたのは、思いもよらない言葉だった。山本と獄寺は揃って目を丸くし、目の前の男を見やる。
顔を上げた彼は、凪いだ海のように静かな瞳で低い声を出す。それは祈るように拳を振るうときと似た姿形だったが、明らかに違うと分かる。秘めた意志や覚悟を湛えた筈の瞳に感情は何もなく、それと合わせれば声も抑揚なく無機質だと判じられる。
「つ、な?」
「統合後、俺はユニと共にナンバーツーとなる。実質的なボスは白蘭様だ」
「おい、ツナ!」
普段、他ファミリーの前では「ボス」と呼ぶようにしている山本も、そんな余裕なく声を荒げて彼の肩を掴んだ。しかしその手はパシリと他でもない、本人に払い落される。
「触れるな、俺を誰だと思っている」
「――白蘭!」
とうとう我慢できなくなった獄寺が、ギラリと白蘭を睨みつけた。彼の睨みを受けても白蘭は笑顔を絶やさず、何か、という風に首を傾げて見せる。獄寺の声を聞き、少し離れた場所で警備をしていた笹川とランボも駆けつけた。
「何事だ!」
「ご、獄寺氏!」
二人の困惑を聞かず、獄寺はAランクリングに炎を灯して匣を開いた。手首に装着する銃器を構え、獄寺は白蘭に狙いを定める。山本も刀へ手をかけ、白蘭を睨んだ。
「手前、十代目になにをしやがった!」
「ん〜、さあね?」
「このやろう……!」
「やめろ、ボンゴレ!」
トリガーに指をかけた獄寺を制止したのは、ミルフィオーレのγだった。彼の声にハッと我に返った獄寺は、発射しかけた炎を地面へ向けた。間一髪前方へ放つことを避けたものの、獄寺はギリリと歯を噛みしめた。山本や笹川たちも息を飲み、ランボは震える手を口元へやった。
「ぼ、ボンゴレ……? どうして――どうして!」
信じられなかった。彼らの愛するボス――沢田綱吉が、獄寺の攻撃から白蘭を庇うようにマントを翻して立ち塞がったのだ。
「白蘭様を傷つけるな。俺の命令が聞けないのか、獄寺」
「これは一体……」
「白蘭、手前……!」
状況を把握できない四人へにこやかな笑みを向けながら、白蘭は綱吉の肩から黒いマントを取り去ると、代わりに部下から受け取った白いマントをかけてやった。
「さあね。君のボスの言葉が全てなんじゃないのかな?」
ニヤリとした笑みに腹が熱くなる。しかしボスが近くにいる今、下手に攻撃もできない。
「さて、外を警備している部下たちも呼びなよ。新しいファミリーの形をしっかり周知させないと――」
「ほ、報告します!」
白蘭の言葉を遮るように、耳元の通信機へ手をやっていた部下の一人が前に出た。
「向かいの建物を警備していたブラックスペルが昏倒させられていました! 共に警備に当たっていたボンゴレ雲の守護者の姿がないようです!」
「……へぇ」
口元を笑みの形にしたまま、白蘭は目を細める。
「雲雀が? クロームは?」
「ボス!」
山本が通信を繋げようとするより早く、当の本人が駆けこんできた。服の裾を焦がしたクロームは、荒い息を吐いていたが大きな怪我はないようだ。
「ごめんなさい、雲の人、どこかに行っちゃった」
「何?!」
「どうしよう……リングも匣も全部持っていかれちゃった……」
「リング?」
ふと白蘭は眉を顰め、綱吉の右手を掴んだ。そこには確かにリングが一つはめられていたが、白蘭の求めるものではない。よくできた偽物だ。白蘭はそれを抜きとり、人差し指と親指で挟むと、パキンと砕いた。
「……ボンゴレリングはどうしたのかな」
「やはり、お前の狙いはそれか」
「応えなよ」
ギリギリと綱吉の手首を握りしめる白蘭は、笑顔を湛えていたが骨を折りそうな勢いだ。獄寺たちは少し顔を見合わせた。
「……成程、雲の守護者、雲雀恭弥クンが持ち逃げしたってわけか」
沈黙だけでそれを理解した白蘭は、部下に雲雀を追うよう指示を出す。
バタバタと動き始めるミルフィオーレの面々を横目に、獄寺たち守護者はボスである綱吉の方へ駆け寄った。横を通り過ぎる一瞬、γが同情するような顔をしていたのが、少し気になった。

◇◆◇

並盛町外れの森の中、慌ただしい人間の足音を聞きながら男はひっそりと息を潜めていた。暫く経って追手の気配が消えたことを確認し、男――雲雀恭弥は身を潜めていた霧の炎から姿を現した。
(忌々しい借りを作ったが、まあ役には立ったな)
一回限りの霧の炎を込めた幻術匣。手の中でボロボロに崩れ落ちたそれを更に細かく握りつぶし、雲雀は埃のようになったそれを地面へ落とした。
それから雲雀は、一人静かな森を進んだ。やがて目的の物を見つけ、ムッツリと引き結んでいた唇を僅かに解いた。それは歓喜や安堵の笑みではない。呆れを含んだ自嘲気な笑みだ。
「全く、本当に腹立たしいよ」
緑の森の中、ポツンと置かれた黒い棺桶。計画が順調に進めば、雲雀はここへある男の身体を納める筈だった。しかし今は、何も入っていない。手向けの花すらない、空のままだ。
「『この世界ではない』、か。つくづく、超直感とやらは呆れるほど正確なようだ」
聞く者のいない皮肉をぼやき、雲雀は棺桶へ近づく。背の低い草が彼の重みを受けてしなり、赤く染まった。どろり、と粘性のある赤い液体は草葉の養分にはならず、地面へ流れて行く。
雲雀は懐へ手を差し入れた。手向けの花を添えに来たのではない。
「そんなものに縛られるのは御免だったが……今回だけだよ、沢田綱吉」
手の平に乗せたのは、世間が雲雀の上司と称する男から預かった世界の礎の一角――ボンゴレリングだった。右の中指につけたままだった雲のリングも外し、雲雀は、彼にしては丁寧な動作で手の平に並べる。
「可能性を秘めた別世界の僕たちか……少々癪だが、それに賭けてみよう」
以前の雲雀恭弥からしたら、随分と譲歩するようになったものだ。そんなことを思い浮かべ、雲雀は薄く笑った。
グ、と七つのリングを乗せた手の平を強い力で握りこむ。
様々な事象へ向けた怒りを乗せるように、紫の炎が立ち上がった。隠す気のないそれは天高く立ち上り、すぐにこの場所を追手へ伝えることだろう。もしかしたら、哀れにも心を壊されたあの男の瞳に映ることがあるかもしれない。それを想像すると雲雀の胸はスッとすいて、口元にまた笑みが浮かんだ。
「――頼んだよ」
ぱきん。
握りこんだ手から、キラキラと輝く欠片が零れ落ちる。
数秒前から背後に感じていた気配が動揺し、足音さえ立てる。奇襲しようとしていただろうに、それでは追手としても減点物だ。
雲雀は砂でも払うように手を叩き、クルリと振り返った。
「僕の並盛を荒らしたつけは、払ってもらう。地の底までも、追い詰めてね」
ボウ、と両手に構えたトンファーから紫の炎が立ち上る。手負いの獣が最後の牙をむき出しにするかのような気迫は、彼を追い詰めたと踏んでいたミルフィオーレたちをたじろがせるほどだった。

◇◆◇

「成程ねぇ、ボンゴレリングは破壊されちゃったのか」
マシュマロを指で弄りながら部下の報告を聞いていた白蘭は、少しも困った様子を見せずに首だけ傾げた。彼とテレビ通話をしていた正一は、大きく息を吐く。
「呑気ですね、白蘭さん」
「いやぁ、これでも悩んでいるんだよ。正ちゃんほど態度にでないだけ」
「……しかし、どうするんですか? トゥリニセッテポリシーを決行するとしても、折角手に入れた戦力を手放すことになりますよ?」
チラリ、と正一は自分の執務室の隅に座る男を見やった。
例の会合の後、白蘭はイタリアへ戻ったが何故かこの男を連れて行かなかった。同郷だからという理由のみで、この日本支部に身柄が置かれることとなったのだ。
「それに雲雀恭弥も……」
「ああ、彼は大丈夫。きっとしぶとく生きているんじゃないかな」
死体を回収したという報告は上がっていない、と白蘭は言う。マシュマロを頬張る彼を見上げ、正一は小さく息を吐いた。
「では天候のボンゴレリングはまだ手に入る可能性はありますね。しかし大空は……」
「確かに、僕も彼の戦力を手放すのは惜しいかな。だから、先に天候の方を集めちゃおうか……それに、そっちの方が面白そうだし」
「……悪趣味ですね」
精一杯の正一の皮肉も笑顔で流し、白蘭は新しいマシュマロを指で摘まんだ。
「オレンジスペルの幹部たちに、態と隙を作ってアジトへ集まれる時間を与えておいてね。で、十年前の彼らが集まったところでネタバラシ」
語尾にハートでも付きそうなほど軽い調子で言って、白蘭はマシュマロに歯を立てる。ゾクリ、と正一の背筋が泡立った。
「自分たちの未来のボスがいかに強くなったか、見せてあげようか。右腕くんなんかは感涙しそうじゃない?」
「雲雀恭弥あたりは問答無用で戦いそうですが」
「あはは。そう言えば僕、その二人はどっちの方が強いか気になってたんだよ。十年前っていうハンデ有だけど、検証してみるのも良いかもね」
楽しみが増えた、と白蘭はケラケラと笑う。正一はキリキリ痛む胃を抑え、グッと眉間に皺を寄せた。
「僕は胃が痛いです……」
「あははは」
笑うだけのこの白い男が心底腹立たしく、そして心底恐ろしい。ギリ、と歯を噛みしめ、正一は頬に流れる汗を気づかれないよう肩に擦りつけた。
「……お望み通りにお膳立てはしますから、暫くこうして邪魔しないでくださいよ」
「はいはーい。――よろしくね、正チャン」
プツ、ン。
通信を切り、正一はやっと詰めていた息を心置きなく吐きだせる気分だった。
それから部屋の隅に座る男――ボンゴレファミリー十代目ボスにして、今はミルフィオーレオレンジスペルボスという肩書を与えられた彼の前で膝をつく。
「……ごめん、計画は失敗だ。君の言った通りになったな……この世界では、可能性がまだ足りない」
悔しさがこみ上げ、正一は唇を噛んだ。
八兆あるうちの一つが、白蘭を斃す可能性を秘めた世界。しかし、この世界は違う。それは三人で密かに計画を立てている際、ある男が言ったことだった。
悔しい筈がない。正一も雲雀恭弥も、そのことを直感した沢田綱吉本人だって、そうだった筈だ。自らの力が届かず、他に託すしかない歯がゆさ。それを、メカニックである正一は嫌というほど知っていた。
「……それでも、いつかこの世界も可能性の一部になると、僕は信じている。可能性を託して待つことは、慣れているんだ」
見上げた瞳は夜の闇に閉ざされた空のように、静かで暗い。それでも、この希望を吹き消してはいけないと強く言い聞かせ、正一は綱吉の手を握りしめた。

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