転想録
一人の少女が、人通りの多い駅前広場の噴水前で佇んでいた。
年は、十代半ばといったところか。愛嬌のある顔立ちと、黒く艶やかな髪をしている。着ているのも柔らかい色合いとふんわりとした素材の、実に女の子らしい服だ。程々に着飾っているといったところだろう。
頻りに手首に巻いた腕時計を見ているから、誰かと待ち合わせているようだ。と、彼女の顔が上がり、パアと花開くように輝いた。ひらひらと手を振り、笑顔を浮かべる。どうやら、待ち人が現れたようだ。
そんな彼女のもとへ、同じように笑顔を携えた一人の男が駆け寄ってくる。
年は彼女より一回りほど上か、少なくとも同い年ではない。モスグリーンを基調とした服の下に隠れた身体は、よく鍛えられているのだろう、服越しでも筋肉がついているのが解る。
男はバンダナを巻いた頭に手をやり、指をピンと伸ばしたもう片方の手を顔の前で立てた。苦笑しているから、彼は少々待ち合わせ時刻に遅れてしまったらしい。少女はニコニコ笑ったまま、気にするなと言うように手を振っている。男はまだ申し訳なさそうな顔をしたまま、少女を促すように指をさした。
少女も頷き、二人は一緒に歩き出す。二人が入って行ったのは、駅から然程離れていないドーナツショップ。可愛らしいキャラクターポップの目立つそこは、女子学生やカップルで賑わっている。その中に何の躊躇いもなく足を踏み入れた二人は、違和感なく溶け込んでいた……何にとはつまり、雰囲気に。
そう、二人は一端のカップルそのものであったのだ。


【壱】


「どー思う?」
ソファの上に行儀悪く胡坐をかき、藤堂は何処か不機嫌そうに腕を組んだ。頬杖をついた沖田は生返事にもならない言葉を溢して、自身の赤茶けた髪を弄っている。斎藤は我関せずと言うように黙々と弁当を食べ続けており、原田はそんな噛みあわない三人に苦く顔を顰めていた。
「……お前ら、教室へ行け」
大きく息を吐き、土方は持っていたペンを高く鳴らして机に置いた。
学園長の代わりに諸々の雑務をこなす土方教頭へ、特別に割り当てられた部屋にて、である。
来客もあるからと設置されたソファに寝転び、沖田はカラカラと笑い声を立てた。
「いやだなぁ、僕らと土方さんの仲じゃないですか」
「一部の生徒を依怙贔屓しているって、文句言われるんだよ」
「まあまあ、俺も平助もいるんだし、成績についての面談とか補習とか言い訳すれば良いだろ」
「左之さん、それどういう意味?!」
沖田の向い側のソファでゆったりと寛いでいた原田が言えば、その隣にいた藤堂が食って掛かる。それを笑って受け流し、原田は藤堂へ話の続きを促した。茶を啜りながら土方が睨みを投げるが、原田はそれを敢えて無視する。
「そうそう、新八っつぁんと千鶴のことだよ」
土方のジト目に気づかない藤堂は、少々居住まいを正して話を続けた。再びどう思うかを聞かれ、原田は少し肩を竦め、沖田は興味なさそうに首を傾いだ。
「どうって言われてもなぁ……」
「別に興味ないなぁ、新八さんのことなんて」
「新八っつぁんと、千鶴のことだって」
二人は期待した返事をくれないし、斎藤はマイペースに食事を続けているし―――ついでに土方は睨んでくるし―――で、藤堂は不満げに唇を尖らせた。
「めっちゃ良い雰囲気でさー、本物のカップルみたいで」
「本当に千鶴ちゃんだったの?南雲薫の女装じゃなくて?」
欠伸を溢して、沖田はソファに身を沈める。藤堂は阿の字に口を開き、土方はピクリと眉を動かした。
第一学年第一クラス所属、南雲薫。確かに、彼の少女と魂を分け合った双子である彼ならば、女子の服を着れば正に生き写し。そもそも、原田と沖田はそんな姿を一度目にしている。
成程、と顎を撫で、藤堂は深く頷く。
「じゃあ、日曜日に俺が駅前広場で見た千鶴は、南雲の奴……」
「それは在り得ないと思います」
藤堂の言葉を遮るような声が、唐突に聴こえてきた。バッと藤堂たちが声のした方へ視線を走らせると、その勢いを予想していなかったのか丁度部屋へ入って来た山崎は驚いたように肩を揺らした。
「山崎、それはどういうことだ」
「え、その、南雲薫は、俺と共にその日ずっと、井吹龍之介の補習を……」
手に抱えているのは、土方に届ける予定であった書類であろうか。それを更に強く抱きしめ、山崎は拙く言葉を紡いだ。その姿は『以前』の彼を知る藤堂たちからすれば些か頼りなく、違和感を拭えない。
「龍之介の?」
「はい。奴は先日のテストで赤点を取りましたから。南雲は井吹のクラスの委員長です。俺も、井吹のお目付け役にと……原田先生と永倉先生が」
少々言い辛そうに付け加えられた山崎の言葉に、藤堂の視線が隣の原田へ向かう。原田は今気付いたとばかり、呵呵と笑った。
「そういや、そんなことも頼んだなぁ」
「左之さん!」
そりゃないぜ!と藤堂はガックリ肩を落とす。山崎から書類を受け取るとさっさと彼を退室させ、土方はじっと原田の横顔を見つめた。
「原田……手前、『昔』よりも食えない男になったな」
「本当に」
ソファの肘掛に手をついて、沖田も上半身を起す。彼と土方の言葉に目を瞬かせていた藤堂は、食事を終えた斎藤が手を合わせた途端、大きく声を上げた。
「左之さん、知っていたのか!」
「今更か」
漸く言葉を発し、斎藤は弁当箱を片付ける。
『以前』から馴染み深い二人は、現在大学時代からの付き合いとかで同じアパートに住んでいる。そんな原田が、永倉について何か知らないということはあるまい。
原田は困ったように笑って、また肩を竦めた。
「俺が聞いていたのは、新八が誰かと出掛けるってことだけ。服装についてやたら気にしていたから、相手が女だろうってことは想像ついていた。まさか、その相手が千鶴だとは思わなかったがな」
「本当かなぁ?」
ニヤニヤと笑う沖田に苦笑を溢し、原田は赤い髪をかき上げる。そんな三人を余所に、片付け終えた弁当を手に斎藤は席を立つと、丁寧に頭を下げて退室していった。
「……なーぁんか、一くんも臭いよねぇ」
ソファに座り、沖田は膝に頬杖をついて静かに閉じられた扉から視線を外した。すっかりペンから手を離し、土方も顎に手をやって同意を示す。
「……『あの戦』の後、斎藤も生き延びたんだったな」
「『あの戦』の後、何処かで三人が再会していたってことですか?」
「でも一くん、何も言ってねぇぞ」
「口を開かねぇのは、何も死人だけじゃねぇさ」
土方の吐息交じりの言葉に、藤堂は頬を膨らめた。そんな彼の様子に苦笑し、沖田は頬杖ついたまま首を傾いだ。
「平助はさ、どうなりたいの?」
沖田に言われ、藤堂はパシリと瞬きを一つ。言い淀むように唇を尖らせ、頭を掻いた。
「俺は……また、『昔』みたいになれたらって……」
言いながら、藤堂はそっと視線を手元へ落とした。
「『昔』はさ、無理だったことがいっぱいあったじゃん。ずっと皆で仲良くすることとか、別の道を行ってもマメに連絡とりあうとか」
『以前』は、何度も分かれ道に立たされた。その度に仲間の誰かが別の道を行き、共に歩く人数は減って、最後は。
藤堂は手の平に爪を立て、下唇を噛んだ。
「そういうこと、やっていきたいよ。折角、平和な世に生まれたんだから」
顔を伏せる藤堂から視線を逸らし、原田は天井を仰いだ。藤堂らしい言葉であると思う。しかし、だからこそ。
きっとそれは、今世であっても夢物語なのだろう。

「斎藤さん」
教頭室を出てすぐ、斎藤は控えめな声に呼び止められた。視線を横にやると、先に退室していた筈の山崎が扉の脇で所在なさげに佇んでいた。
「山崎、どうかしたのか」
「その……少々気になることが……」
視線を彷徨わせ、山崎は言い難そうに口を開いた。
「……土方先生たちの様子です。先日の、島原女子高との合同文化祭以来、少々可笑しいように感じて……」
「……」
流石、『以前』は監察方を務めていただけはある。長けた観察眼は変わっておらぬようだ。斎藤はただ、気にするなとだけ言い置いて彼の肩を叩くと、そっとその場を離れた。問いかけるような山崎の視線を、背中に感じながら。
そう、全ては一か月ほど前のこと。ここ薄桜学園とその姉妹校・島原女子高校が合同で行った文化祭が切欠であった。


【弐】


薄桜学園は、武士道精神を校訓に掲げる男子校である。あまりに古臭い校訓にも関わらず、校舎は新しく設備もそれなりに整っている。姉妹校として島原女子校があり、そことの交流の意味もこめて、毎年五月には合同で文化祭を行っている。これは、その最中の出来事である。
「ふぁ〜あ……」
「……総司、だらしがないぞ」
「そうは言ってもねぇ……退屈すぎてしょうがないよ」
ペタリと体育館の壁に背をつけて座り込み、沖田は抱えた竹刀で肩を叩いた。彼の隣に立つ斎藤は凛とした背筋のまま、呆れたように吐息を溢す。
二人の視線の先では、近藤たちが、文化祭を訪れた子どもたちに剣道の指導をしていた。地域の人々との交流を深めるためという趣旨を掲げる、剣道部の毎年恒例の催しである。強敵との実践を何より好む沖田からすれば退屈極まりない企画だが、あの近藤が楽しそうだから文句も言えない。
沖田は少し頬を膨らめ、頬杖をついた。
「一くんのクラスは何やってるの?」
「……お化け屋敷だ」
「何それ。一くんもお化けやるの?」
「俺は受付だ」
死装束を着て頭に矢を番えた恰好で、という説明は心の中に留めておくが。
自分から訊ねたくせに沖田は生返事をして、ぼんやりと宙を見つめた。
「おうおう、何ボケーっとしてるんだ」
そんな二人に、聞き知った陽気な声がかかる。頬杖を解いて顔を上げようとした沖田は、しかし急に負荷をかけられて首骨を軋ませた。
「痛い!原田先生乱暴!」
「サボりの罰だと思え」
呵呵と笑って沖田の頭を乱暴にかき混ぜると、原田はパッと手を離した。ぼさぼさになった髪を梳きながら、沖田は唇を尖らせて彼を見上げる。
「サボりも何も、暇を持て余していただけですよ」
あの通り、体育館と近藤は子どもたちに占領されてしまっている。原田はそちらを見やって苦笑すると、手にしていたビニル袋をどさりと床に置いた。
「これは……」
半透明の袋から中身は判別し辛いが、漂う香りからするに甘味であるようだ。斎藤が腰を屈めて袋を拾い上げると、中に詰まったパステルピンクの紙で包装された何かがズッシリとした重みを伝えてきた。
「ウチのクラスからの差し入れだ。クレープ屋台やっててな」
「へー、龍之介の奴、クレープなんて焼けたのか」
匂いでも嗅ぎつけたか、いつの間にか歩み寄っていた藤堂も、ひょっこりと袋を覗きこむ。斎藤の記憶によれば、彼はつい先刻まで順番待ちの子どもたちに、良い玩具として扱われていた筈だ。ぐちゃぐちゃになった道着や髪からするに、それは間違っていないだろう。どうやら原田の姿を見つけ、無理矢理抜け出してきたらしい。
クレープの一つを手に取る藤堂の隣で、原田は思わせぶりにニヤリと笑った。
「まあな。アイツは器用だから。結構繁盛してるんだぜ、何せ看板娘がいるし」
「看板娘?ここは男子校だぜ、左之さん?」
訝しげな藤堂に、後で顔を出して見ろとだけ言って、原田は彼の頭を撫でて会話を終わらせる。まだ不満げな藤堂を余所に、原田は体育館内を一度見回すと、小首を傾げた。
「あれ、新八はまだ来てないのか?」
「新八さん?」
「いや。そう言えば、今日は見ていないな」
沖田と斎藤の言葉に眉を顰め、原田は赤い髪をガシガシと掻いた。包装紙を破って柔らかいクレープに齧りついた藤堂は、クリームのついた口をもぐもぐと動かしながら首を傾いだ。
「どうかしたのかよ、左之さん」
「いや……ちょっとな……」
「何だ、新八の奴、またサボりか」
藤堂と同じく子どもの集団から逃げてきた土方が、首にかけたタオルで額を拭きながら大きく息を吐いた。それに対し、原田は困ったように笑い返す。沖田が何のことかと問うと、土方は、生徒が羽目を外し過ぎないよう、文化祭中教師が見回りをする当番があるのだと答えた。そろそろ原田と永倉の番なのだが、肝心の永倉の姿が見当たらず、原田は少々困っていたというわけだ。
「永倉先生なら、御見掛けしました」
その言葉に、何より勢いよく反応を示したのは原田だ。昼食の買い出しへ行っていた山崎は、これから配るつもりだったのだろう、両手に焼きそばのパックを持ってキョトンと目を瞬かせた。
「何処で?」
「1-1が出店するクレープ屋台の前です。島原女子の生徒らしき女生徒と親しげに話しておられました」
ピクリ、と藤堂の眉が動いた。
「……新八っつぁんが、女と?」
「それも、島原の女の子」
沖田は暇潰しを見つけたときのように、ニヤニヤとした笑みを口元へ浮かべる。あの万年女日照りの永倉にまさか、と藤堂は顔を強張らせた。斎藤は沈黙を貫いたまま、その場に正座して山崎から受け取った焼きそばのパックと割り箸を膝に置く。
どうでも良いという姿勢を見せていた土方だが、続く山崎の言葉に一二もなく、原田と共に駆けだしていた。
「そう言えば、その女子生徒、何処となく南雲に似ていたような―――」
一瞬呆気にとられた藤堂も慌てて残りのクレープを頬張って駆け出し、それを見送った沖田もゆっくりと腰を上げ歩いて三人の背を追った。


【惨】


薄桜学園第二学年第一クラス所属・沖田総司を始めとする剣道部の関係者の一部には、『過去』の記憶を持つ者たちがいる。それは単なる幼少の頃の記憶というものではなく、もっと以前、生まれる前のもの―――所謂『前世の記憶』というものだ。
刀に命を預け、信念を貫いて生きた激動の時代―――そこを駆け抜けた記憶である。
第二学年第二クラス所属の山崎烝や山南敬助養護教諭、永倉新八数学教諭など、前世の記憶を持ち合わせておらずとも、前世で顔を合わせた者もいる。そういった者たちは戦乱の記憶を持たぬためか、少々気質が変わっているが。
南雲に似た少女―――土方たちの前世の記憶と山崎の証言が正しければ、彼女は雪村千鶴という名の筈だ。前世で土方たちと出会い、土方の最期を看取った鬼の少女だ。
(千鶴、アイツも転生してやがったのか……!)
いや、前世で彼女の双子の兄であった南雲薫も現世にいるのだ、その可能性を考えなかったわけではない。しかし改めて考えると、俄かには信じ難かった。
1-1が陣取った屋台の場所は、しっかり覚えている。見回りのルートや当番の順を決めるために配置図は何度も見たから。
背後で待つよう藤堂が喚いているが、土方と原田は足を緩めず、人ごみの中、僅かな隙間を縫って駆け抜けていく。酸素が足りず、肺が悲鳴を上げたが、呼吸を整えている間も惜しい。前世では守るだ傍にいるだと言いながら、結局独りにしてしまった。そのことを後悔はしていない。土方は己が信念を貫き、千鶴もまたそれを認めてくれたからだ。しかしだからこそ、今世では最期まで傍に在りたいと何処かで思っていた。
つらつらとそんなことを考えながら駆ける土方の視界に、目的地であったクレープ屋台が飛び込んでくる。その店前で、エプロン姿の井吹がセーラー服姿の少女と何やら話し込んでいた。艶やかな黒髪をシュシュで緩くまとめ、肩にかけた後ろ姿―――服装は違えど、土方には見覚えある背格好であった。
「千鶴……!」
ガシ、と土方は少女の肩を掴んでこちらへ振り向かせた。顔を覗きこんで言葉を重ねようとした土方は、しかし口を阿の字に開いて静止する。少し遅れて彼に追いついた原田は、眉を顰めながら土方から少女へ視線を動かし、ガクリと肩を落とした。
「ったく二人とも、少しは待ってくれよ……」
「ん、どうかしたんですか?」
ぜーぜー息を切らしながら追いついた藤堂の傍らで、沖田は想像と違う二人の様子に首を傾ぐ。
パシリ、と、肩に置かれた土方の手を払う音が、やけに高く響いた。
「……セクハラですか?土方先生」
少女の口から零れた声を聞き、沖田と藤堂は「あ」と声を漏らす。原田は苦笑して前髪を掻き揚げ、未だ固まったままの土方を同情するように見やった。
「―――南雲、薫」
「はぁい」
ニコニコと少女―――の恰好をした南雲は、晴れやかな笑顔を浮かべる。彼の後ろに立つ井吹は、気の毒そうな顔をして土方を一瞥した。そう言えば原田が「看板娘がいる」と話していたな、と土方は頭の片隅で、ぼんやりそんなことを思い出す。
「……新八さんと話していた女の子って、君のこと?」
すっかり勢いを削がれて棒立ちになる土方を押し退け、沖田はチラリと周囲を見回した。井吹は小首を傾げ、頬を掻く。
「永倉なら小鈴たちと来たぜ」
「小鈴?」
「井吹の彼女だよ。島原の生徒の」
「ば、南雲、お前!」
カ、と顔を真っ赤にして井吹は南雲の肩を掴んだ。井吹も成長したのだなぁ、と『以前』から彼を知る藤堂は、思わず涙ぐんでしまった。
「その小鈴ちゃんたちと、クレープ買いに来たのか?新八が?」
原田が眉を顰めた真剣な表情で訊ねてきたものだから、井吹は少々まごつきながら頷いた。
「あ、ああ。小鈴の姉さんと友だちを案内するんだって」
腕を組み、沖田はフムと顎を一撫でした。
「小鈴ちゃんて、南雲くんに似てるの?」
「いんや。まあ、同じ黒髪ではあるな」
言いながら、チラリと井吹は南雲を一瞥する。彼にニコリと笑い返し、南雲はどちらが可愛いか比べたのか、と揶揄した。
「……じゃあ、」
南雲のからかいを真に受けて食って掛かる井吹を余所に、土方はようやっと声を絞り出した。
「―――南雲に似た少女ってのは?」
千鶴は、何処に行ったというのだ。
「あそこにいるじゃないか」
周囲の喧騒の中、南雲のその声は凛とした風に土方たちの鼓膜を叩いた。す、と彼が指さす方へ、土方たちはゆっくりと視線を向ける。その先にいたのは間違いなく、先ほどまで土方たちが捜していた少女と、永倉だった。
「新、八」
掠れた声で、原田が呟く。
井吹たちの店で買ったものであろうか、クレープを片手に並んで歩く二人は、楽しそうに笑い合っていた。
すぅ、と土方の胸が冷えていく。綺麗に笑った南雲が、そっと彼の顔を覗きこんできた。


【伍】


永倉新八に、『前世』の記憶はない。それは原田が彼と出会った大学生時代に、既に確認済みの事項だ。藤堂たちとの再会で思い出すこともなく、永倉新八は『前世の記憶』を持たぬまま、ずっと原田の傍らにいた―――そう、思われている。
「本当に覚えてないのかよ、新八っつぁん」
「アイツは『昔』からそんな嘘吐けるほど器用じゃねぇだろ」
そうだけれど、と呟いても藤堂は納得し難いようだ。唇を尖らせ、眉間に皺を寄せている。
「いや、でも兆しはあったんじゃないのかな」
「ああ……あのことか」
天井を見上げながら呟かれた沖田の言葉に、土方は小さく顔を顰めた。ぴくり、と原田が反応を示すと、土方は小さく吐息を漏らして頬杖をついた。
「あれは俺が大学入った頃で……」
「僕が小学校上がった年だから……新八さんが中学生のときかな」
つまり、藤堂と原田、そして斎藤が、近藤の経営する試衛館道場へ入門する前か。沖田と土方曰く、その頃の永倉には三日間ほど行方知れずとなった期間が存在するという。
「新八っつぁんが……?家出とか?」
「さあな。本人はジョギング中、道に迷ったって適当なこと言ってやがったが」
二人の言う『兆し』はしかし、その消失した三日間のことではない。その一週間ほど前から、永倉は妙なことを周囲の人間に聞いて回っていたのだ。
「『俺の妹分を知らねぇか?』」
ひたり、と冷たい空気が部屋に満ちた。どこまでも無表情な原田を視界に入れないよう努力しながら、藤堂はゆっくりと言葉を選びつつ口を開く。
「それ……千鶴のこと、か?」
「俺たちもそう思った。アイツにも『昔』の記憶が戻ったんじゃねぇかってな」
「でもそれ以外に『昔』のことを匂わせる様子はなかったんだよねぇ」
幾度かカマもかけたが、一向に反応なし。永倉も質問の内容や意図に関しては首を傾いでおり、これは『昔』を思い出す予兆なのではないかと、土方たちは結論づけた。三日間の失踪は、思い出した『昔』の記憶に精神諸々が耐え兼ねたのではないか―――平和な世で暮らしていた身に、血に塗れたあの記憶は酷過ぎるから―――そうも思った。しかし家出から帰還した彼に『妹分』の話題を振ると、土方たちの予想に反してきょとんとした顔を返されたのだ。
―――そりゃ、何の話だ?
「アイツは、自分が周りに聞きまわった質問のことを、さっぱり忘れてやがったんだ」
あのときは落胆を通り越して苛立ったものである。その理由を知らずに永倉は、半ば八つ当たり的に土方と沖田二人の総稽古に付き合わされたと聞き、つい藤堂は彼に同情してしまった。
「……その三日間に、何かあったのか」
ポツリ、と部屋に落ちた原田の声は、梅雨時の雨粒よりも冷たい。ゾクリ、と思わず背筋を震わせ、藤堂はチラリと彼を一瞥した。完全に顔から色を隠した原田の様子に、沖田はこっそり片目を閉じた。
こん、と扉の向こうから音が聞こえた。土方が入室を許可すると、静かに扉が開かれ、養護教諭の山南が顔を見せる。入室した彼は土方の他にも部屋に入り浸る人間を見つけ、少し眉根を下げた。
「おや、また君たちですか」
「こんにちは、山南先生」
「こんにちは」
沖田の挨拶ににこやかな笑みを返し、山南は部屋の主である土方の方を見やった。
「土方くん、今度の出張の件ですが……申し訳ありませんが、私は欠席ということで」
眉根を下げる山南に、土方は目を丸くした。
「珍しいな、アンタがそんなこと言うなんて」
「すみません、こんな間近になって」
「いや、代理を立てれば大丈夫だが」
「それですが、永倉くんに頼みましたので」
先ほどまで話題の中心にいた人物の一人の名前に、藤堂は大仰に、他二人も僅かに反応を見せる。鋭い山南がそれに気づかぬ筈もなく、しかし事情を知らぬ彼は少し眉を顰めて土方へ視線を戻した。三人に内心毒づきながら、土方はゆっくりと口を開いた。
「……新八に?」
「ええ。欠席の旨を芹沢さんにお話しに行く途中、彼と会いまして。彼にしては珍しく、是非にと」
ゆったりとした口調は、普段の山南そのものだ。彼に『昔』の記憶はない。だから、土方が苦虫を噛み潰したような顔をする理由を、説明することはできない。
「ほら、早く教室へ行きなさい。遅刻は許されませんよ」
山南に急かされ、藤堂たちは渋々腰を上げるとゾロゾロ退室していく。最後まで原田は、探るような視線を山南に残していた。彼の視線の意図が読めなかったからか、山南は小さく肩を竦め、土方の方へ向き直った。
「では、私の分の資料を永倉くんに渡しておきますね」
「ああ、頼む」
それで、と土方は山南を見やった。山南はピタリと僅かに動きを止め、土方の言葉を繰り返す。
「それで?」
「隠すこたぁないだろう」
苦笑して土方はヒラリと手を振った。山南敬助は、自身の体調不良を理由に公務を休むような男ではない。それは、『昔』から変わらない彼の性質だ。山南は困ったように微笑み、少し首を傾いだ。
「少々、島原の女子生徒に説得されてしまいましてね」
「島原の……?」
何というタイムリーな登場人物だ。眉間に皺を寄せる土方に頷いて、山南は話を続けた。
その女子生徒が山南の前に現れたのは、一週間ほど前のことであるという。山南の名を知っていたらしいその女子生徒は、ただ一言。
「『出張には絶対に行かないでください』と」
何だそれ。そんな感情はありありと顔に浮かんでしまったのだろう、土方の歪んだ表情を見て、山南はクスクスと笑った。
「可笑しいでしょう?普段の私なら、下らないと一蹴する筈なのに」
そのときは、君には関わりなきことだときっぱり断ったのだ。しかしそれから毎日、帰宅途中の山南の前に現れては同じ言葉を繰り返す。それでとうとう、折れてしまったというわけか。
「何故か……あの目には弱くて」
目を細め、何処か自嘲気に山南は微笑む。その顔を、土方は『昔』にも見たことがある。そんな表情をさせる原因も、何となくわかった。
「……その女子、誰かに似てなかったか?」
唐突な土方の問いに、山南はパチリと目を瞬かせて首を傾いだ。
「例えば……南雲薫とか」
「……ああ、確かに。何処となく」
よく解ったなと言いたげな山南の視線から逃れるように、山崎の持ってきた資料に目を落とす。真っ白なその表紙を少し捲り、土方は目を眇めた。
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