「――してください。」
「……え?」


アレックスの声が良く聞き取れなかった。
いや、そんな筈はない。
彼女の声は小さくともハッキリと響く。
凛としたアルトの声は、女官長としての誇りと威厳を併せ持った声だ、聞き取れないなどある筈がない。
そう、私の耳は彼女の唇から零れ出た有り得ない言葉に、聞き取る事を拒絶したのだ。


「お願いです、アフロディーテ様。殺してください、あの男を。」
「っ!!」


だが、二度目は鋭くも痛々しい響きで、私の耳へと飛び込んできた。
そのような言葉、彼女の口から出てくるなんて有り得ない、嘘だと思いたい。
そんな願いも虚しく終わった。


「まさか、キミがそんな事を言い出すなんて思いも寄らなかったよ、アレックス。」
「…………。」
「キミはもっと、冷静だと思っていた。」


そうだ、片時も能面のような涼しげな表情を崩さないアレックスは、冷酷なまでに冷静なのだと思い込んでいた。
でも、それは私の思い違いだったらしい。
才色兼備で完璧な女性そのものの彼女とは言え、それでも人の子。
美しく冷たい微笑の裏側で、父親を殺されたという悔しさと憎しみが渦を巻いていたのだな。


初めて彼女と会ったのは、私が聖域に来て間もなくの事。
四歳か五歳か、そのくらい幼い頃。
彼女は幼いながらも、既にアテナ神殿の巫女見習いとして働いていて、接する機会も多かった。
その時にはもう、父一人、子一人で暮らしていたアレックス。
聞けば、母親は記憶もないくらい小さな頃に亡くなったのだという。


ずっと父親と二人三脚で生きてきたアレックス。
事故で亡くなったと信じていた父親が、実は殺されたのだと知り、やり場のない怒りと、それと同じだけの深い悲しみが、彼女の心をどれだけ掻き乱したのか。
それは、肉親の温もりを知らない私には、計り知れない程なのだろう。


「もし、仮に私がソレを引き受けたとして……。その後、キミはどうするつもりなんだい? まさか、このまま聖域にはいられないだろう?」
「そうですね……。自ら命を断つ事が許されないのなら、何処か遠くの修道院にでも身を置いて、その罪を一生掛けて償っていきたいと思います。」


駄目だ、そんな事、アレックスにさせる訳にはいかない。
彼女を罪人になどさせてたまるか。
アレックスの事を深く想っているからこそ、彼女の願いを叶える事など出来はしなかった。
そもそも、怒りに任せた人殺しの依頼など、私が引き受けるとでも思っているのか?
そんな事も判断出来ない程に、彼女の憎悪は大きいのか?


「悪いが、そのお願いは聞けないよ。デスの奴なら喜んで殺しに行ってくれるかもしれないけどね。私には出来ない。」
「そうですか……。このまま、あの男の顔の見える場所で働き続けるなど、私には無理です。選択肢は二つでした。あの男が消えるか、私が消えるか。ですが、こうなればもう、私がココを出て行く他はないのですね。」


悲しく苦しげに歪められたアレックスの表情。
こんな顔をする彼女は、この長い年月の中で初めて見た。
少しでも彼女の歪んだ心を和ませたい。
そう思い、冗談のつもりで微笑みながら彼女に告げる。


「なら、デスマスクにでも頼めば良いのに。」


クスッと笑いながら零した冗談混じりの言葉。
だが、アレックスは困ったような、それでいて真剣な瞳を私に向けて言った。


「それは出来ませんわ。だって、デスマスク様は――。」


その後に続いた言葉は、先程、知らされた事実よりも、更に大きな衝撃を私に与えた。





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