水槽世界



その日。
彼は少し怒っているように見えた。


怒っているというよりも、軽い嫉妬というべきか。
彼には不似合いな表情を浮かべ、彼には不釣り合いな行動を取った。
いつもの落ち着きも優雅さもなく、苛立ちすら見える様子で、私の手首を掴んで引き摺るように歩いていく。
立場上、抵抗出来ない私は、早足で後を付いていくしかなく、宮の中に入るまではヨロヨロと不格好な足取りで、彼の背中を追い駆けた。


「あの……、アフロディーテ様。」
「何?」
「手、痛いです……。」


その言葉で、やっと気付いたのか、ハッとして手を放す彼。
漸く足が止まった私は、少しだけ息が上がっていた。
自分のペースで歩けない時、急な階段では非常に神経を使う。
うっかり躓いたりしては、彼を余計に苛立たせるだけと分かっていたから。


「すまない、つい力を入れ過ぎた。手首、大丈夫かい、アイリス?」
「えぇ、大丈夫です。少しだけ赤くなりはしましたが。」
「そう。ならば、良かった。」


そして、暫しの沈黙。
沈黙は嫌いではない。
話す事は、得意ではないから。
でも、彼は沈黙に気まずさを感じていたようで、落ち着きなく踵を鳴らした。
いつもの冷静さは何処に消えたのか、カーンと高い靴音が石造りの宮内に響いた。


「アイリス……。今日は、何処に行っていた?」
「え?」
「今まで、何処に行っていたのかと聞いているんだ。」
「買い物です、ロドリオ村に。」
「そう。では、昨夜は?」


それを答える義務はない。
例え黄金聖闘士といえど、私の行動を縛る事は出来ない。
私が誰と床を共にしようと、彼には関係のない事だ。


「キミは観賞用の魚のようだね。大きな水槽の中、美しい姿で優雅に泳ぎ、皆の心を惹きつける。でも、アイリス自身は何処にも辿り着かない。水槽という狭い世界をグルグルと巡るだけだ。」
「それは……、悪い事ですか?」
「いや。でも、息苦しそうではある。」


そうね。
見た目の美ばかりを求められるのは、息苦しいし、疲れもする。
でも、美しいというのなら、彼だってそうだ。
美の戦士と呼ばれ、その容姿は、美を売りにする女性よりも遥かに美しい。
だけど、私と決定的に違うのは、彼の美しさには誇りと気高さと、そして、圧倒的な強さが含まれている。
私には何もない。
観賞用、まさにその言葉通り、愛でるだけの美しさ。
表面だけの、ただ人の目を楽しませるだけのもの。


「キミは、私の気持ちを知っているだろう、アイリス?」
「知ってはいると思います。ですが、理解はしません。それは私には必要のない事です。」
「冷たいな、キミは……。」


仕方ない事、それが私という存在だから。
そのように作られているのだ。
心を動かさぬよう、ただ淡々と求めに応じるだけの人形のように。
いや、人形ではなく、彼の言葉を借りるなら、美しい魚。
求められるまま誰の元にも泳いでいく。
夜ごと、違う人の寝床へと、無意味な熱を交わすために。


「恨むなら教皇を……、いや、サガを恨めという事か。アイリスを、このようにした張本人を。」
「私には分かりません。教皇様を恨む理由も、アフロディーテ様が怒る意味も。」
「そうだね……、そうだ。キミには分からないだろう。知っていても、理解はしないのだからね。」


求められたなら、誰とでもベッドを共にする。
それが、デスマスク様でも、シュラ様でも、アフロディーテ様でも。
彼等の身体を癒すのが私の役割なら、夜ごと、それぞれの宮を渡り歩いて、夢と熱と歓喜を運ぶ。
ただただ美しい魚となり、それを愛でてくれる人の元へと泳いでいくだけ。



熱帯魚、夜を泳ぐ



‐end‐



お題配布元:「fynch」



聖戦前の設定です。
昼は普通の女官、でも、夜は……、というアレな女性とお魚さまの話。
偽教皇であるサガ様に色々と仕込まれて、彼に従う聖闘士のために夜伽を繰り返す女官さんは、何の疑問もなく、その役割を果たしているのですが、お魚さまはそんな彼女に惹かれてしまったのです。
という解説なしでは意味不明の話でスミマセン;
そして、蟹さまか山羊さまの話を書こうと思っていたのに、気付いたら魚さまを書いていました。
どうしてだ?

2021.09.28



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