ピアニカ



静かな部屋にピアノの音だけが響く。
優しく奏でられるその音は、美梨の心を落ち着かせた。


「…聞いてて楽しいの?」
「うんっ、翼くんのピアノは好きだよ」
笑顔で美梨は答えた。


その顔を見て、翼は少しだけ顔を赤くしてそっぽを向く。

「別にお前のために弾いてるわけじゃないけど」
「じゃあ次は私のために弾いてよ」
「はぁ?何勝手なこと言ってんの」

翼に呆れられて、美梨は眉を下げる。


「…聴きたいのになぁ、翼くんのピアノ」

「どうせ俺のより兄貴のとか聴いた方が楽しいだろ」
「そんなことないよっ!」

美梨は立ち上がる。その激しい剣幕に翼は少しだけ後ろへ下がった。


「翼くんは…実力は、あるもん。本番に少し弱いだけで…」
「それを実力ないって言うんだろ」
「実力はあるよ!だって私翼くんのピアノ好きだもん!」


英才教育を受けている美梨は、音の善し悪しくらい分かっていた。翼は本当に実力がある、ということも、もちろん確信している。


ただ本当に本番に弱いだけなのだ。もしかしたら翼の兄たちよりも、実力はあるかもしれない。


「また…コンクールとか、出てみればいいのに」
「才能ないんだったら意味ねぇだろ」
「またそうやって逃げてる」
「それをお前が言うか?」


翼は立ち上がった。

「何でも親の言いなりになって…自分から何かしたいって、言ったことあんのかよ」

「そ…それは仕方ないじゃん!私は後継ぎなんだから」

「だからって、やりたいこと我慢する必要までねぇだろ!?お前ももう良い歳なんだから1人暮らしとか彼氏とか、色々やりたいことあるだろ!」
「1人暮らしなんてさせてもらえるわけないし、彼氏なんて作ったって許嫁いるんだからいらない!」
「許嫁って…お前許嫁いたのかよ」

そこでやっと、美梨は自分が何を言ったのか気がついた。


許嫁がいる―――なんて、友達の、誰にも…言ったことはなかった。


古臭い、なんてからかわれるかもしれない。同情されるかもしれない。とにかく知られるのは嫌だった。


「…別に翼くんには関係ないでしょ」

「っ、あぁそうだな。関係ねぇよ」


涙目になって美梨は言う。知られたくなかった。


翼の前から消え去りたい。今すぐこの部屋を飛び出したい。


ピアノが1台だけ置かれた、小さいようで広い部屋。防音のこの部屋に吸い込まれてしまいそうで、美梨はこの部屋が嫌いだった。


翼が来てからは、暗かったこの部屋も光がさすようになった気がする。だからこそ、翼とこんな言い争いなんてしたくなかったのに。


「俺は別に…親同士が仲良いってだけで、それだけだし…」

「…そうだね」


部屋に飾られた時計が鳴る。時刻は15時をさしていた。


「…お稽古の、時間だ」


限られた時間。午後の1時間だけが、美梨の1日の楽しみだった。


何も言わずに美梨は扉へと向かう。今日は食事会もあったと言っていた気がする。
これからの稽古と食事会のことを考えながら、重い足を1歩ずつ前へと出して行った。


「あのっさ、…」


立ち去ろうとした美梨を翼は引き止める。


不審に思いながらも、それでも声をかけられたことが嬉しくて、美梨はゆっくりと振り向いた。


翼は少しだけ顔を赤くして、美梨のことを見ていた。


「…また、また…聴かせてやるからさ。ピアノ…だから…」
引きこもりがちだった自分のピアノを、美梨はいつも笑顔で聴いてくれていた。

多忙な美梨の、少しでも息抜きとなっているなら。


「だから、稽古…頑張れよ」
段々と声を小さくするも、耳が良い美梨にははっきりと聴こえた。


「…うんっ!楽しみにしてる!」




その後の食事会で、翼が許嫁として紹介されるのは…また別のお話。

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