※注意

和風パロです。
凌牙が何の疑いもなく巫女服着ています(女装)。
遊馬が神様です。
ぬるいですが、性的表現があります。









人里から遠く離れた、深い深い山。
遥か太古から霊山と畏れられた山は、人の気配は全くない。
清浄すぎる空気に、血肉を好む猛獣も寄り付かず、森は静寂に包まれていた。
そんな霊山の中腹に、どうやって建てたのかも分からない神社が一つそびえ立つ。
赤塗りの鳥居も、小さいとはいえ立派な社も、人の気配の無い山の中で唯一の人工物であり、どこか異様な雰囲気を纏う。
その社から、一人の緋色の袴に、白の小袖とよくある装束に身を包んだ巫女が現れた。
「…さま。遊馬様、遊馬様!どちらに居られますか?」
巫女は和紙と水引で一つに結った髪を揺らして、境内へと降りて行く。
そして樹齢500年以上の御神木に目を向けると、太い枝に人影がある。
「遊馬様!降りてください!」
「…」
「遊馬さ…」
「……くー…」
耳を澄ませば、僅かに寝息が聞こえてきた。
微笑みを浮かべた巫女はすう、と大きく深呼吸をする。その間にも気持ち良さそうな寝息は続く。
プッツン
何かが切れた。
「……ってめぇ遊馬!御神木の枝で寝るなって何度言えばわかるんだ!いい加減起きろ!」
先ほどまでの敬語をかなぐり捨てて、巫女は木上の人影に向かって怒鳴る。
「んー…シャーク…?」
「遊馬!早く降りてこい!」
巫女…神代凌牙は寝ぼけた声に、思わずため息をついた。
ここは、麓の村では有名な霊山にある、名を「九十九神社」と言う。遠い昔から代々、神代家が守ってきた神社である。
齢十四の凌牙は霊力の高さから、幼い頃にこの神社の巫女に選ばれた。
「なんだよー!怒鳴ることないだろ?」
御神木から一人の少年が飛び降りる。少年の身体は神社の屋根よりも高い位置の枝から降りたにもかかわらず、地面に叩きつけられることなく、ふわりと地に足を着けた。
凌牙とほとんど身体の大きさの変わらない少年は、橙色の浴衣に若草色の帯を無造作に巻いているごく普通の村人に見える。
「自分の御神木を寝台代わりにする神がどこにいる…!」
「だって寝心地いいからさ。」
「老木を労れよ…。」
屈託ない笑みを浮かべる少年こそ、この神社の主である九十九神の遊馬だ。
九十九神とは付喪神とも言い、長い時を生きた生き物や長く使われ続けた物などに神霊が宿ったものである。八百万の神の中でも、妖怪に近いような、弱い神。しかし紛れもなくこの土地を守る、神代家が何代も仕え続ける神様だ。
この土地と、神代家と、遊馬は少し特殊な事情がある。
「ところでシャーク。オレに何の用?」
『シャーク』とは、凌牙と遊馬が契約した時の名前だ。本当の御名で本来は主従の契約を神代家の巫女と遊馬は行う。しかしまだ当時十歳にもならなかった幼い凌牙と契約するのを躊躇った遊馬が、凌牙に御名を名乗らせず、仮契約として代わりの名前で契約させた。
凌牙の鎖骨の辺りには、鮫の牙で作られた首飾りがある。鮫は異国の言葉で『シャーク』だと聞いて、凌牙はそれを契約名とした。
それから遊馬は、凌牙のことをその名前で呼ぶ。
「最近、紅葉が綺麗だろ?」
「ああ!もみじも桜も葉っぱが真っ赤だよなー!」
「だから遊馬、境内の落ち葉掃きしといてくれ。」
「わかったぜ!………え?」
呆けた顔をした遊馬に箒を渡す。まだ状況が掴めない遊馬は、渡された箒と凌牙を交互に見た。
「シャーク、オレ、一応神様。」
「だから自分の家の掃除くらい手伝え。オレは本殿の掃除があるから。」
「いいじゃんか…参拝客なんて居ないんだし…。」
九十九神社の本殿(御神体等がある社)はあまりに険しい山にあるため、参拝しにくる物好きはほとんど居ない。代わりに拝殿(参拝用の社)のみが山の麓にあり、村人や参拝客はそこを訪れる。拝殿のほうが人が来るため、大きく立派だったりする。
「人が居ないからこそ手入れしないと、すぐ駄目になるんだ。本殿だって古いからこの前雨漏りしただろ。」
「…シャークって本当に十四歳?もっと楽しいこと考えようぜ?」
「無理だな。」
凌牙が髪を結う水引をほどくと、まとめられた髪が広がり、肩までしかない髪を長く見せる為の義髪も落ちる。朝の勤めも終わり、掃除をするのに長い髪は邪魔なのだろう。
「オレは、お前の巫女だから。」
神代凌牙は、九十九神の巫女になるために生まれた。
しかし凌牙は、正真正銘の男である。
本来、巫女は字の通り、女性しかなることが出来ない。
それでも、凌牙は遊馬の巫女なのだ。
「…掃除が終わったら朝御飯な。」
釘をさしてから、凌牙は本殿へ戻っていく。
その後ろ姿をじっと見つめた遊馬は、悲しげに眉を寄せた。
「この山にシャークを…縛りたくない。」
神の願いは、一体誰が聞き届けてくれるのだろうか。



***



何の為に生きているか、わからなかった。

いずれ消えてしまうのであれば、どうして生まれたのか。
終末を待つだけの生は苦しくて、いっそ自分で終わらせたいと願ったこともある。決して許されぬ事と知りながらも。

『ひとりじゃない。』

その言葉を掛けてくれた、あのひとに出会うまでは。
このひとの為に生きていたのだ、と体が歓喜に震えた。

このひとの為に、生き続けよう。

初めて、温かい涙を流した。



***



一通り社の掃除を終わらせた凌牙は、本殿内にある御神体の納められている箱を乾いた布で拭いていた。
手のひらより大きな木製の箱の中には一枚の札が入っている。
遠い昔に子どもが好んで遊んだカード、というものらしい。
子ども達は大変その札を大切にしていたようで、そこに遊馬が宿った。
子ども達の想いから生まれた遊馬は、そのせいか子どもにはとても甘い。
「…早く、大人になってれば…遊馬だってオレと契約してくれたのか…?」
今の凌牙の年齢であれば、普通の世界では成人している。しかし、遊馬はまだ凌牙を子どもと見ているのだ。
凌牙はそれが悔しい。
御神体を安置しなおすと、凌牙は社から出て、境内に降りる。
「遊馬?」落ち葉は、綺麗には片付いていないが、ある程度掃かれていた。遊馬だから、大雑把な掃き掃除は凌牙も仕方がないと思っている。だが、どういう訳だか彼の姿が見当たらない。
「遊馬!」
「遅いわ!」
突然後ろからの殺気に横に飛び退くと、今まで凌牙の居た場所に薙刀が振り下ろされた。
「璃緒!何しやがる!」
いくら鞘がついたままとはいえ、薙刀を容赦なく振り回したのは、凌牙の双子の妹の璃緒だ。
紺色の男物の袴姿に、高い位置で結い上げた髪、胸もさらしで潰している為、その姿はまるで少年である。
「油断大敵よ。普段は凌牙しか遊馬様の近くに居ないんだからもっと気を配ったほうがいいんじゃない?」
どうやら試されていたようだ。遊馬が居なくなったのも、多分璃緒の仕業だろう。
璃緒は、神代家待望の女の子だった。だが、期待とは裏腹に璃緒の体には霊力が微塵も存在しなかった。そして共に生まれた凌牙には通常有り得ない、二人分の霊力が宿るという神代家始まって以来、例を見ない事がおきた。
「お前らが来たのは、結界が揺れたからわかってた。」
結界とは、凌牙がこの山全体に張った目には見えない壁のようなものであり、害を為すものや、なにも知らない村人が迷いこまないようになっている。
「ふーん。わたしだけじゃないって分かってるんだ。」
「お前が来たって事は小鳥もいるんだろ?どこだ?」
「凌牙の家でご飯食べてるわ。遊馬様と。」
「…は?」
凌牙の家は神社の裏手にある小さな小屋で、巫女の勤め以外の時に凌牙はそこで生活している。
「って事は…オレの朝食…!」
「早くしないと遊馬様に全部食べられるわよ?遊馬様、小鳥の作ったおにぎり大好きだから。」
小鳥とは、代々山に籠る神代家の巫女の世話をする観月家の少女だ。霊力はないが、「観る」ことは出来るため、常人には見えない遊馬や神霊を見ることができる。
小鳥は凌牙の食事や生活に必要な物を険しい山を登って定期的に持ってきて、璃緒はその付き添いで来る。人が居ないこの霊山で会える数少ない人間だ。
「……ところで璃緒、何があった?」
普段この険しい山で、璃緒が武器を携帯することは珍しい。霊力が無い璃緒は、本来神代家男子が行うこの山の守護を総括する。その璃緒が警戒体制なのは異常事態だ。
「あった訳じゃないわ。これから、起こりうるかもしれないの。」璃緒には巫女になるための霊力が無い。遊馬や神霊を見る力も非常に弱く、霞んで見えるという。
しかし、璃緒には「先読み」の力があった。
とても正確な予知能力である。あまりに強力な能力のため、極秘であり、知る人は少ない。
「何を先読みした?」
「凌牙と、遊馬様のこと。」
妹の口から語られた未来に、凌牙は拳を強く握り締めた。






「うめー!」
遊馬は大きな握り飯を両手に抱えながら、大きな口で頬張る。
「今日は新しく梅じゃこおにぎり作ってみたのよ。」
小鳥はそんな遊馬を嬉しそうに見守る。
小鳥にとって遊馬は、幼い頃から親に連れられて毎日のように会っていた、神様というより幼なじみに近い。
「梅じゃこ!?」
「もー遊馬ったら!そんな忙いで食べるとむせるわよ。」
昔はお兄ちゃん的な存在だった遊馬も、外見年齢が近くなるにつれ、本当の友達のようになった。
「だって小鳥のホント旨いから!………この前シャークが作ったのは酷かった…。」
「何を作ったの?」
凌牙は巫女としては優秀だが、料理の腕はあまり良くなかった。
「塩おにぎり。」
「…塩入れすぎたの?」
小鳥のオーソドックスな答えに遊馬は首を左右に振る。
酷くするには難しい、単純な料理を、凌牙は一体どうしたのか。
「じゃあ、塩と砂糖間違えたとか?」
「そんな可愛いのだったら良かったけどな…。」
「じゃあ塩と何を間違えたの?」
「……塩は、塩だった。」
「どういうこと?」
遊馬は新たに握り飯にかぶりつくと、具の鮭を小鳥に見せる。
「シャークのおにぎり、かじったら…ジャリってした。」
「じゃ、りっ…?」
遊馬は食感を思い出したのか、少し苦笑いを浮かべる。
「おにぎりってさ、梅や鮭は真ん中にいれるだろ?だからシャーク……具として、砕いた岩塩入れてたんだ。」
「岩塩…。」
「あ、でも食感は酷かったけど、食べれたぜ!」
「食べたの!?」
「せっかくシャークがオレのために作ってくれたおにぎりだし…」
「無理に食べなくてもよかったんだぜ?」
遊馬が振り返ると、眉間にシワを寄せた凌牙が璃緒と共に部屋に入ってきた。
「オレ、神様だから大丈夫。」
「どうせ人間の食べ物は、お前の力にはならないだろ。味も食感も悪いなら無理に食べる必要ないぜ。」
本来、神は人間の食物を食べなくても問題はないが、遊馬は食事をするのが好きで、凌牙と共に三食食べるのだ。
「拗ねるなって。」
「…ふん。」
不機嫌そうな凌牙はそのまま座ると、遊馬の方を見向きもせずに自分の食事を始めた。
「相変わらず、巫女としては良いのに常識ないのね。遊馬大変でしょう?」
璃緒も話を聞いていたらしく肩をすくめて笑う。
璃緒は、任務中は遊馬を様付けするが、普段は呼び捨てである。凌牙もそうだが、遊馬は「様」を付けられるのを嫌がるのだ。
「仕方ないぜ。シャークは小さい頃からこんな山ん中にいるんだし。」
「このままじゃ外の世界じゃ世間知らずすぎて、生きてけないわ。」
遊馬のうしろに立った璃緒はため息をついた。
「…ところで遊馬様、ご報告がありますわ。」
遊馬と凌牙の食事が終わる頃、璃緒が話を切り出した。様付けと言うことは、仕事の話だ。
「明日から、東の村に集中的に豪雨が続きます。わたしの先読みでは一週間続くと思われますわ。」
璃緒の外れることのない予言に空気が凍りつく。
「…東の村は地盤が弛い…川もいくつもあるから、災害が起きるかもな。被害はわからないのか?」
凌牙の問いに、璃緒は悲しげに頷く。
「そこまで見えなかったわ。…申し訳ありません、遊馬様。どうかしばらくは東の村に気を配ってあげて下さい。」
「わかったぜ。ありがとな!」
遊馬は明るい笑顔を浮かべた。土地神でもある遊馬はこの霊山の周りの村を守ってきた。その信頼感から璃緒も小鳥も安心したように微笑む。
ただ、凌牙だけは心から笑うことが出来なかった。遊馬の巫女は凌牙一人だ。
しかし、何代か前は何人もいたそうで、遊馬に霊力も多く与えられ
ていた。
その頃と同じことを遊馬が行うならば、遊馬には相当負担がかかる。
それを思うと、凌牙は辛くなるのだ。








璃緒達が暗くなる前に、と早々に帰ると、賑やかだった部屋は急に静かに感じる。
凌牙は慣れた静寂の中、小鳥が持ってきてくれた食料や生活用品を片付けていた。
「食料も雨で山登れないこと見越して、保存食大量にあるな…。遊馬、食うなよ?オレが飢えるから。」
「わかってるよ。はぁ、しばらくご飯はお預けか…。」
残念そうな遊馬に、凌牙は呆れたような視線を向ける。
「お前の主食は違うだろ?」
「そうだけどさ…。」
片付けが終わると、凌牙は遊馬の隣に座る。
「シャーク…」
「ん?」
「じゃあ、オレのごはん。」
隣を見れば、先ほど小鳥のおにぎりを目の前にした以上に瞳を期待で輝かせた遊馬がいた。
「ちょっと待て、義髪付けるから…」
「いちいち巫女の正装はしなくてもいいぜ。」
律儀に巫女服を整え始めた凌牙を、遊馬は止める。
「なら…『遊馬様、どうぞ私を糧に…」
「その前台詞も初代の巫女が嫌みで作っただけって昔オレ言ったよね?」
「嫌みで言ってる。」
「酷いぜシャーク!」
ひとしきり遊馬をからかいスッキリした凌牙は、遊馬に向かって両手を広げる。
「来いよ、遊馬。」
その腕の中に遊馬は飛び込む。
「…いただきます!」
遊馬の『主食』は巫女の霊力だ。
弱い九十九神には土地神の責務は難しい。その為、神代家の巫女はこの土地を守ってもらう代わりに、その身に宿る霊力を毎日少しずつ遊馬に分け与えた。
霊力を貰った遊馬は、それを力に変えて遊馬は神力を高めて、土地神としての神格を保つ。代々変わらぬ、遊馬と巫女の関係である。
その力を分け与える方法は至って単純で、遊馬に触れればいいのだ。
こうして凌牙は毎日、遊馬と抱擁を交わしている。
「やっぱシャークの霊力は、暖かくて優しいぜ。」
その時の遊馬は本当に幸せなのだろう。凌牙の腰に腕を回しながら肩に頬を寄せて、微睡むような顔をしている。
凌牙も遊馬に霊力を与えている間は気持ちが良い。
しかし、それが問題なのだ。
「…はぁ、遊…馬、まだか…?」
「んーもうちょっと。」
気持ちが良い。良すぎるくらいに。
遊馬に霊力を与えると、性的に気持ちが良いのだ。
「…んっ」
凌牙の前の巫女曰く、霊力を与える時の気持ち良さは人によって三つに別れるそうだ。凌牙のように性的に気持ちが良い人も居れば…満腹感を得られたような、美味しいものを食べたような食の気持ち良さの人、これから眠るような、よく寝たような睡眠の気持ち良さの人、である。
いわゆる人間の三大欲求であり、生きるために必要な欲望だ。
神は力を貰う代わりに、そんな欲求を満たしてくれるのだと、先代の巫女は話した。
…性的欲求を満たす人はまれにしか居ないらしいが。
「シャーク…美味しい。」
「…ゆ…遊馬…っ」
気持ち良さに体が震えて、完全に遊馬に体を預ける形になる。
幼い頃はただフワフワと気持ちいいだけだったが、一年ほど前に精通してから、性的な気持ち良さに変わった。
お陰で自慰などしたことがない。性的欲求が満たされているのだろう。
「…ご馳走さま。」
しばらくしてようやく遊馬から解放されると、凌牙は床に倒れこんだ。
霊力が無くなった疲労感が途端に押し寄せるが、それ以上に快感に満たされた身体は、しばらく膝が震えて立てそうもない。
射精はしないが、不可抗力とはいえ毎日こんなふしだらな姿を晒すのは恥ずかしい。
いつも終わると袖で顔を隠してしまう。神である遊馬が気にしないのは知っているが、毎回羞恥心で死にそうだ。
「大丈夫?シャーク。」
「あぁ…。」
労るように、遊馬が声を掛けてくる。
触れると、霊力を僅かでも奪ってしまうので、遊馬から決して触れることはない。いつものように遊馬は、部屋の隅に畳んであった布団を凌牙の隣にひいてくれた。震える膝を叱咤して凌牙が敷き布団に寝転がると、遊馬は上から掛け布団を被せてくれる。
「すまねえ…遊馬、少し休む…。」
「わかってる。ありがとな、シャーク。」
「何かあったら起こしてくれ…何もなくても、一刻で起こして…くれ…。」
「わかった。」
休息が必要な凌牙はそのまますぐに眠ってしまう。
遊馬は眠る凌牙の顔を見ながら、自分の肩を腕で抱く。
「シャークを糧に生きるオレは…神なんかじゃない…化け物だ。」
力なく横たわる彼を介抱することも、眠る彼を撫でてやることもできないこの身。
それでも求めずにはいられない。

凌牙と触れあうことが出来るのは、その瞬間しかないのだから。





***






璃緒の予知の通り、翌日から雨が降り始める。
東の村では一時も暴雨がやむことなく三日がすぎて、ついに璃緒から怪我人の出る被害が起きたと報告があった。
緊急を知らせるために璃緒は雨でぬかるむ山を登り、神社まで来た。さすがに小鳥は麓で待機している。
「凌牙、遊馬様は?」
「隣の土地の神が来ていて、どっかで何か話している。多分今回のことだが、お前を途中まで迎えに行ってたから、何を話してるかは知らない。割り込むのも悪いしな。」
「アストラル様?」
「ああ。」
アストラルとは遊馬の旧知の友人の戦神である。戦神といっても主に戦術や策略の神であり、神社には多くの知将や名将が信者になっていた。
アストラルの土地も東側にあり、海に近い。被害も大きいはずだ。
「そうだわ、凌牙。ちょっとこの雨、ただの悪天候じゃないみたいなの。それの話かもしれないわ。」
「なんだと?」
「わたしにはただの雨にしかみえないんだけど…東の村に嫁いだ元巫女のおばあさんが、神代の本家に連絡してきたの。『龍が暴れている』って。」
璃緒には神霊を見る力はほとんど無いが、いくら現役を引退したとしても神代家の巫女を勤めたほどの人が見たと言うのなら、龍で間違いないだろう。
しかし暴れまわる龍などこの辺りでは聞いたことがない。他所から迷いこんだのか、とりあえず面倒なことこの上ない。
「参ったな…一体どこからそんな龍なんて…。」
その瞬間、神社の頭上の結界が大きく歪むのを感じた。
幸い巫女の正装のままの凌牙は、懐の小太刀を袖に隠しながら小屋の外へと向かう。
「どうしたの?」
「侵入者だ。」
「なんですって…!」
璃緒も薙刀を掴むと、険しい顔で凌牙の後に続く。
外に出ると、まだ霊山は小雨ほどしか降っていないが、外気温の寒さに身を震わせた。
「どこから?結界は?」
「神社の上だ。今結界すり抜けられた…!」
「凌牙の結界をすり抜ける…?」
急いでいた二人の歩みが段々とゆっくりになっていく。
そんな芸当ができる知り合いに、双子は心当たりがあった。
社の境内にたどり着くと、白い狩衣を纏う青年が立っていた。
「遅いぞ!」
「知るか!なんでテメーがいるんだ、カイト!」
突如現れた天城神社の宮司であるカイトは、相変わらずの不敵な笑みを浮かべる。
天城神社は、遊馬の守る土地よりも北側にあり、強力な龍神・銀河眼光子竜に仕えている。神の神格も高く、神主としても宮司という高位なカイトだが、隣の土地ということもあり、何度か関わることがあった。多分、アストラル同様この雨のことで来たのだろう。
だが、式神を使って空から来るのはいい加減やめてもらいたい。
「愚問だな。貴様らも雨のことは知ってるだろう。」
「…雨の中、立ち話はごめんだ。社に入れ。」
「いいのか?」
「うちの神様は、どこか知らない別の所でお隣さんと話してるから気にするな。」
社に入り、蝋燭を灯す。カイトは珍しそうに明るくなった社を見回した。
「…狭い。」
「出てくか?」
「断っておこう。それより、この雨の原因知ってるか?」
「龍が暴れていると聞いたわ。」
凌牙は、幼い頃からこの山の外には出たことがない。それを知りながら、あえてカイトは聞いてきた。なので代わりに璃緒が答えても、特にカイトは気にしなかった。「その龍が問題なのだ。どっかの馬鹿が、海底に封じられていた荒魂の龍神を目覚めさせた。」
「封印が破られたのか!?」
「ああ…ウチの神社にも記録が残っているから間違いない。荒神・海咬龍。お前らの祖先が封じた筈だ。」
凌牙と璃緒は顔を合わせる。
そんな話は初めて聞いた。しかし、凌牙も璃緒も事情があり神代家のことについては遊馬の事を除いて詳しく知らないのだ。
「なら、また海咬龍を封じればいいんじゃないのか?」
「否、そう簡単に出来る相手なら、とうに海辺の巫女か誰かが封じているだろう。オレだって銀河眼光子竜と共に戦って、叩きのめすことは出来ても、オレの霊力じゃ封じるのは無理だ。」
凌牙は驚きを隠せなかった。カイトは二人分の霊力を持つ凌牙には敵わないとはいえ、相当霊力の高い優秀な宮司だ。そのカイトが封印できないとなると、一体誰がそんな化け物のような荒神を封印するのだろう。
「神代一族もどうにかしようとしてるみたいだが、一向に歯がたたないようだしな。このままウチの土地に来られても困る。」
「神代家は無理ね。引退した巫女か、霊力が低い遊馬様に仕えることも出来ない巫女か、わたしみたいな霊力無しばかりですもの。そちらに行くのも時間の問題…賢明ですわね。それで?あなたが直々に来たと言うことは…。」
璃緒が警戒するように凌牙の前に立つと、カイトを睨み付ける。
そんな璃緒に構わず、カイトは凌牙の手を取る。
「海咬龍を封じれるのは、お前だけだ。」
璃緒はその手を叩き落とす。
「残念ですが、それはできませんわ。九十九神社の巫女は霊山の結界を保持するため、この山からは離れられません。」
完全に守護者の顔に変わった璃緒は凌牙を庇うようにカイトから離れさせる。
「結界ならその間だけ、オレの弟が引き受ける。弟の…ハルトの結界の強力さは保証する。」
カイトの弟は幼いながら宮司の補佐、禰宜を務める。結界においては大人にすら勝る優秀さだと噂にきく。
高慢なカイトが最愛の弟を引き出すほど凌牙を必要としている。予想以上に重い状況に、凌牙は璃緒の陰から前に出る。
「凌牙!」
「…話だけ聞こう。遊馬様に聞かなくては答えは出せないが。」
巫女としての凌牙の答えに、カイトはおかしそうに笑う。
「話も何も簡単だ。オレが叩きのめして弱った海咬龍を封印してくれればいい。」
「明日まで待っててくれ。遊馬様に許しをもらう。」
カイトはため息をつくと、憐れむように凌牙を見下す。
「まるで籠の鳥だな。…九十九神が嫌になったらオレの所に来るといい。」
「お前の巫女なんてごめんだ。」
憐れみをはね除けるように、きつく凌牙はカイトを睨み付けた。
凌牙は望んで遊馬に仕えている。それを他人に可哀想だと思われるのは不快以外の何ものでもない。
「遊馬様に聞いてくる。…見つかればだが、答えはどのみち明日になる。…雨も降っているし、泊まっていくか?」
「結構。海咬龍がいる限り雨はやまない。オービタルを待たせているから一度帰って、また明朝答えを聞こう。」
オービタルとはカイトの式神だ。いつも上空から来るのも飛行能力のあるオービタルに乗っているからである。
「じゃあついでに璃緒も連れていってくれ。この雨の中、下山させるわけにはいかない。」
「…仕方ないな。」
「ちょっと!わたしは泊まっていくわよ?」
驚いたように璃緒は凌牙に食いかかる。
「海咬龍の事を神代家に報告する必要があるだろう?ついでに、神代家の知る海咬龍の封印の事を調べてきて欲しい。…明日またカイトに乗せてもらって調べてきたことを報告してくれ。」
「……わかったわ。」
凌牙の頼みは、璃緒も断ることができなかった。
「待て。明日もコイツを連れて来なければならんのか?」
「海咬龍の情報は多い方がいいだろう?」
「…今回だけだからな。」
カイトにもどうにか了承を取る。
凌牙は微笑みを浮かべると、社の扉を静かに開けた。小雨が本格的な降りになって来ている。

遠くから、寂しそうな鳴き声が聞こえた。








カイトに麓の小屋まで送られた璃緒は、ほとんど雨に濡れなかった身体に驚いていた。
仕方ないと言いながらも、カイトは璃緒を濡らさないように庇いながら飛んでくれたようだ。
「あなた、紳士ですのね。良かったら着替えていきません?こんな雨ですし、馬車でも出して送りましょう。今から行けば天城神社にも夕方までには着きますわ。」
「…フン。悪いがオレは神代一族に借りを作るつもりわない。」
「送って下さったお礼です。そこの麓の小屋はわたしのものですし、小鳥くらいしか知りませんから、神代家は関係ありません。」
「…着替えだけ、させて貰おう。帰るのはオービタルの方が早いからな。」
カイトはオービタルを外で待たせたまま、璃緒の小屋に入った。
璃緒は狭い小屋の囲炉裏に火を入れると、手拭いをカイトに差し出す。
「拭いて、火の近くで待っていてくださいません?」
「…。」
手拭いで体を拭きながら、カイトは暖かい囲炉裏に手をかざす。冷えた指先にじわりと熱が伝わってくる。
その間に璃緒は、自分よりも大きな男物の着物と袴を持ってくる。
「あなたには、少し小さいかもしれないけど…。」
「よくあったな。」
「前に間違えて自分用に買ったの。大きくて着れないから差し上げますわ。」
「…そういえば、お前は何故男装してるのだ?口調は完璧に女だが…そもそも九十九神の守護総括の役は神代本家男子の役目だろう。」
話すこともないので、常々思っていた疑問を聞いてみる。
「動きやすいからよ。袴じゃなきゃ戦いにくいでしょう?…着替えながら話しましょうか。明日風邪をひいたら元も子もありませんし。」
着物を渡した璃緒はくるりと後ろを向く。
この小屋は一部屋だけだ。着替えるにはこうするしかない。
カイトは自分も璃緒に背を向けて、濡れた着物を着替えだす。
「先ほどの話ですが…残念ながら神代本家には守護総括の役を務められる男子が今は居ないので、わたしが遊馬様の命により引き受けました。」
「…十数年前、神代本家に男子が生まれたと風の噂で聞いたが…そいつは死んだのか?」
「生きてますわ。」
「なら、何故そいつがならない?」
璃緒は衣擦れの音を聞きながら、カイトの勘違いに肩をすくめた。
「あなた…もしかして気付いていないの?」
「何をだ?」
着替え終わったのでカイトが振り返ると、そこには長襦袢だけ纏った璃緒がいた。
長襦袢とは、下着の着物でありカイトは驚きのあまり固まってしまう。
「貴様っなななんて、はしたない格好を!」
「わたしは女だって分かって、凌牙は女だと思っていたの?」
「アイツは巫女だろう!」
先入観、というヤツであろうか。声も口調も名前すら少年のものだと言うのにカイトは疑わなかったようだ。
「男なら、神に仕えるとしても、オレのように神主になる筈だろう!?」
「九十九神に仕えるのは巫女だけと、決まっているの。」
「神代一族はどうなっているのだ…!馬鹿馬鹿しい!」
カイトは呆れ果ててしまった。そもそも神に霊力を分け与える時点でおかしい。それを知った時よりも更にカイトは神代一族を嫌いになった。
「遊馬様に仕えられる霊力を持つのが凌牙しか神代家には居ないのよ。こんなこと、今まで無かったから…お堅い本家の年寄りは、凌牙を代わりに巫女にすることくらいしか譲歩もできなかったんですわ。」
「だからって…黙っていたが、このままだと、アイツは死ぬぞ?」
霊力を毎日分け与える事は人の身には大きな負担だ。それ以外に霊山を覆う強固な結界まで張っている。
璃緒は袖をぎゅうと握りしめた。
「知ってます!だからわたし、あなたにお願いがあるんですの!」
肌着の璃緒がカイトに迫ってくる。璃緒の目が本気で、カイトは思わず少し後退った。
逃がさない、と璃緒はカイトの腕を掴むとそのまま足を払い、床へ押し倒す。
年齢差に男女差もあるが、戦闘職の璃緒に、神職のカイトが敵うはずがなかった。
「わたしに、あなたの子どもをくださいません?」
カイトの頭の中が真っ白になった。
璃緒の言葉が、まるで頭が理解するのを拒否するように、入ってこない。
「…オレに子どもはいないが?」
「違います!…ハッキリ言います。あなたの遺伝子をわたしに下さい。別に結婚しろとかそういう事ではないですわ。あなたとの子どもが、わたしは欲しいんですの。」
「………どういう、ことだ…?」
カイトにはハッキリ言われても、意味がわからなかった。
自分より四つも幼い少女が、一体何を企んでいるのか。
「…九十九神の巫女は、神代家の女でないと産めません。どんなに霊力が高くても、神代家の女から産まれた者でないと遊馬様と相性が合わないのか…契約すら出来ないんですわ。」
神代家には、九十九神の巫女は凌牙しか居ない。つまり璃緒は、凌牙の次の巫女になるべき子どもを産まなくてはならないのだ。
「神代の血を一番濃く継ぐ、二十歳以下の女はわたしだけ。でも、わたしには霊力が無い。だから霊力の高いあなたの子どもが欲しいんです。」
璃緒は長襦袢の襟の間に手を入れると、サラシを弛ませる。抑えられていた胸が、本来のふくよかな膨らみに戻った。
「凌牙の命はせいぜい二十五歳まで。それまでにわたしは、巫女になるべき子どもが必要なの。凌牙が死ぬ前にその子が巫女になれば、凌牙は死ななくてすむわ。別に父親になれとは言わない…。わたし、見た目はそんなに悪くないでしょう?」
「ふざけるな!」
カイトは上に乗る璃緒を怒りに任せてはね除ける。
「ふざけてないわ!」
「いいや…お前は甘い!そんなこと、凌牙が望むはずないだろう。たとえ霊力のある子どもが産まれても、凌牙は死ぬまで巫女を続ける。大切な家族の子どもを自分の身代わりにするような事…絶対に望むものか!」
「あなたに何がわかるのよ!」
「わかるさ…オレは兄だ。自分の弟がそんな事するならばオレは全力で拒否する。凌牙も兄だ。大切な妹がそんな事するのを良しと思う訳がない。」
カイトの言葉に、璃緒は唇を噛み締める。
凌牙が望まない…心の奥では分かっていたが、それでも兄に生きてほしい璃緒は、そんな心に蓋をする。
俯く璃緒に、カイトは背を向けた。
「日の出の時間に、迎えにくる。早くに休んで明日に備えろ。」
小屋の扉の前に行くと、カイトの頭から大きな紙が降ってきた。驚いて持ち上げると、大きな油紙の合羽(かっぱ)だった。
これなら雨に濡れることもない。
「言われなくても、わかってるわ。それもあげる。」
合羽を投げた本人は、不機嫌そうにカイトと目すら合わせない。
「あと、あなたのこと、諦めた訳ではありませんから!絶対!」
「それは諦めてくれ。」
「嫌ですわ!」
合羽を羽織ったカイトは、雨風吹き荒れる空へ、逃げるように飛び去った。
「諦めて、たまるもんですか…!」
たった一人のわたしの半身。
悲しい宿命に囚われた、兄。
本来、霊力が璃緒にあったならば、璃緒があそこにいたはずだ。
それでも凌牙は、璃緒を憎むことも、妬むこともなく、巫女で短い一生を終えようとしている。
璃緒には、それが耐えられなかった。

たとえその場しのぎの、何の解決にもならない方法でも。
凌牙を救いたいと、璃緒は願う。








「海咬龍?」
アストラルの口から出た、この雨の真実に遊馬は驚きを隠せなかった。
「おかしいぜ。ソイツは何百年も前に、初代の巫女が海底に封印した筈だ。」
目の前にいる旧知の友、アストラルは腕を組みながらため息をついた。
「誰かが封印を解いたのだ。おかげで我が土地の民は酷い被害にあっている。」
ふわりと浮く遊馬とアストラルは神だけがいれる異空間のようなところにいた。
太陽の光が差し込んだ明るい水の中のような空間は、神の領域だ。ここなら他の者に話を聞かれることもない。
「そんな…アイツを封印できるような人間、神代家には居ないし、どうすれば…。」
「いるだろう?」
「…シャークは、だめ。」
霊力が文字通り人一倍高い凌牙を頼りにしていたアストラルは、驚いたように金色の目を丸くする。
「何故だ?作戦はわたしが立てよう。絶対に失敗などさせない。」
知略の得意な戦神の言葉にも、遊馬は首を横に振る。
「シャークは駄目だ。海咬龍と相性が悪い。」
「君の巫女…シャークは初代の君の巫女に似ているからか?」
「それもあるけど…違う。」
確かに凌牙は、遊馬が土地神になるきっかけになった初めての巫女に似ているところがある。
しかし、それとは別に凌牙には海咬龍と相性が悪いことがあった。
「海咬龍は人の心の闇を好むだろう。だから、シャークはだめ。」
「彼には心の闇があるのか?」
アストラルは生粋の神様であり、聞きにくいことも、容赦なく口にする。
遊馬が話さなければ、本人に直接問うだろう。それは避けたかった。
「…シャークと、双子の妹は7歳まで神代家に軟禁されていたんだ。」
信じられないような話にアストラルは彼にしては珍しく顔色をかえた。
「まさか。」
「嘘じゃない。シャークがここに来たのもその位だったろ?」
アストラルの記憶では、確かに突然、新しい巫女だと幼い凌牙を紹介された。
「あの二人は、生まれる前は霊力の高い男女の双子だと神代家では持て囃されてた。だが…生まれたとたん死産だったと、オレには伝えられた。」
「……隠蔽か。」
二人分の高い霊力を持つ凌牙と霊力無しの璃緒。男子は巫女に出来ないが、その霊力は神代家にとって喉から手が出るほど欲しかったに違いない。
そして、頭の固い老人ばかりが重鎮にいるプライドだけは高い神代家。公に発表してただけあり、歪な双子の誕生は無いものにしたかったのだろう。
「どうにか、シャークの霊力を妹に移そうと神代家は考えていたんだ。幼い双子は様々な儀式を施されたらしい。灯台もと暗しって言うけど…七年も気づいてやれなかった。」
「それで、どうして気づいたのだ?」
「先代の巫女が、シャークの叔母だったんだ。…先代もシャークは死んだと聞かされてたけど。」
先代とは、凌牙のひとつ前の巫女で、初めて遊馬に一人で仕えた巫女だった。
「シャークの母親が体調を崩したと聞いて、一日だけ里帰りしたんだ。シャークの母親は霊力が低くてオレの巫女になれなかった人。妹である先代に対して劣等感を持っていて、普段から精神を病んでいた。先代は死の間際のシャークの母親から、双子は死んでない事を聞いたんだ。」
それは、母親としての僅かな愛情か、妹よりも霊力の高い優秀な子どもを生んだと少しでも先代を見返したかっただけなのかは定かではない。
凌牙と璃緒は母親と隔離されて育ったので、二人にもその真意はわからなかった。
「それでオレは双子を助けるために、シャークを巫女に、妹を守護者にするよう神代家に神託を下した。」
外の世界に出るには肩書きが必要だった。
だが今思えば、自己満足だったのかもしれない。
凌牙にとっては神代家に閉じ込められるのも、遊馬に縛られるのも同じようなものだ。
神代家の儀式で身を崩すのと、遊馬に命を吸われていくのと、凌牙にとってはどちらも変わらない。
遊馬の苦い顔を見て、アストラルは首を傾げる。
「…後悔しているのか?遊馬。わたしにはシャークも妹も今は幸せそうに見えるが…。」
「もっと別の方法があったんじゃないかって、後悔してるさ。守護者の任につけなければ、シャークの妹は汚れ仕事に手をかけることはなかった。シャークだって長生きできたかも知れない。」
遊馬に霊力を一人で与え続ける限界はおよそ十五年前後だと思われる。
先代の巫女は幼い頃から他の巫女と共に遊馬に仕え、他の巫女が引退し、十五歳から一人で遊馬に霊力を分け続けた。二十七歳の時に凌牙が来たが、体調を崩して三十歳の時には遊馬に霊力を与えるのを止めた。しかしあっと言う間に亡くなってしまった。
霊力は、生命力と繋がっている。霊力を与えすぎると、生命力も崩れる。
そして霊力をほとんど使いきった凌牙の叔母は、簡単な病で無くなった。
凌牙は十歳から遊馬に霊力を一人で分けている。
このままであれば、一体何年生きられるのか、遊馬にもわからない。
「…その過去がシャークの心の闇なのか?今の彼にはそんな様子は感じられないのだが。」
「表に出さないだけで、シャークは神代家を嫌悪している。心の傷は癒えてないんだ。…そんなシャークを海咬龍の相手にしたくない。」
「遊馬、正直に言うとわたしには君が過保護に見える。」
遊馬自身、本当は分かっていることを、長年の付き合いの友神はすぐに指摘する。
「シャークは立派な巫女だ。性別も年齢も関係なく、霊力も知識も技術もほとんど独学とは思えないほど素晴らしい。君が、土地の人達を大切に思っているのも十分知っている。…だから、彼は海咬龍を封じることを自ら決心するだろう。それを君は止めるつもりか?」
アストラルの何一つ間違っていない言葉に、遊馬の心は揺れる。
「止める…シャークが海咬龍と戦うくらいなら、オレが…」
「君では勝算が皆無だ。」
「…ハッキリ言うなよ!」
「君は君の役割がある。君こそ、この山から離れることは出来ないだろう。」
遊馬はぐっと口を一文字に結ぶ。
神様、とはいえ万能ではない。
役割を、役目を、守ることで精一杯だ。
「……オレに、もっと力があれば…!」
「力を手に入れるなら、方法はあるだろう?」
アストラルにいつも勧められる、遊馬の神力が上がる方法。それさえ行えば、遊馬は神としての神位も上がり、役割以上のことができるようになるだろう。しかし遊馬はその方法を承諾することは、できない。
「その方法は絶対にしない。」
「何故だ?シャークも死なずにすむぞ?」
「………それでも、その方法でシャークが苦しんだら…。」
アストラルは呆れたように、肩をすくめた。
「君はシャークを過保護しすぎて、下に見ているところがあるようだ。彼は君と共に居れるならなんだってするだろう。君が望めば、全て受け入れる。」
アストラルは凌牙が遊馬をどれほど大切にしているか知っている。
凌牙が来てからの二人をずっと見てきたからこそ、“ある方法”を勧めるのだが決して遊馬は納得しない。
「そんなのシャークにはオレしか居ないからだ…!雛鳥が最初に見たものを親だと認識するような、刷り込みだ!」
生まれた時から絶対と教えられてきた神様、助けてくれた恩人、七歳の頃から毎日一緒に生活し、寝食を共にした遊馬に、凌牙が心開かない要素は何一つない。
だが、凌牙がこんな閉鎖した世界ではなく、広い世界を見たらどうだ?
遊馬の存在など、彼にとって微々たるものになるだろう。
「馬鹿か君は。シャークは君が好きなんだ。」
そんな遊馬の考えを嘲笑うかのように、アストラルの冷静な声が現実に引き戻す。
「な!」
「刷り込みだったら…君に霊力を与えて、性的欲求が満たされるワケないだろう。神に恋した人でない限り、三大欲求の『性』は反応しない。」
アストラルの言うとおり、神に恋愛感情を稀にもってしまうと、凌牙のように性的に気持ちよくなる。敬愛などでは絶対ならない事を遊馬も知っているが、目を逸らしてきた。
「好きな人と共に生きたいと願わない者など、居ない。」
「そんな事はない。神と違って人の心は変わる。初代だって、そうだった。」
「…双子の次女は、そうだったな。」
初めて遊馬に仕えた巫女は、双子の少女達だった。 その内の次女は、凌牙と同じく遊馬に恋心を持っていた。
しかし、時は流れ少女が大人になるとその恋心はゆっくりと薄れ、霊力を分け与える代償も、睡眠欲の方へ変わっていった。
「…でもそれは君のためでもあった。神代の血族の者でしか君に霊力を分けることができない…そして神代の娘しか、巫女を産むことができない。大人になった彼女は、君が存在することの方を大切にしたんだ。」
アストラルは初代の巫女のこともよく知っている。
遊馬の耳に、遠い昔に聞いた巫女の言葉が甦る。
―…遊馬様。わたしはいつかあなたより先にいなくなるわ。でも―
凌牙によく似た巫女は、いつの間にか大人になり、微笑んでいた。
―わたしの子どもが、子孫が、あなたを助ける。一人ぼっちになんかさせないわ。そしてね、この世界は巡っていくの…終わりが来る、その日まで。―
あれから何百年も経った。
彼女達の子孫は確かに遊馬を救ってくれた。
だが、彼女の言った“終わり”も近づいている。
「アストラル…お前はオレが土地神になる前から仲良くしてくれたし、土地神になってから色々神様の事も教えてくれて、本当に感謝してるんだ。」
「遊馬…?」
凌牙という異質な存在が現れてから、遊馬は本格的に感じた。
神代家の限界。
自分自神の限界。
「でもオレ…本当は、消えたい。」
役目が無ければ、凌牙を苦しめるだけの役に立たない自分など存在しなければいい。
そうすれば、凌牙を縛るものなど何もない。
「…笑えない、冗談はよせ。」
不機嫌そうにアストラルは背を向けた。
「冗談じゃねえよ。」
「なら尚更だ!そんなことしたら、シャークはすぐ死ぬぞ!」
「……そう、だったな。…消える事も、許されないのか…。」
「当たり前だ、馬鹿者!」
珍しく声を荒げるアストラルは異空間から出ようとする。
「死にたがりには頼らない!だがシャークには協力してもらう…わかったな、遊馬!」
怒ったアストラルは、遊馬の返事も聞かずに、異空間から消えた。
残された遊馬は、苦笑する。
「駄目だぜアストラル…シャークはオレの巫女なんだから。」
今回はなぜか胸騒ぎがした。
どうしても、凌牙と海咬龍を会わせたくない。
絶対に、どんな手を使おうと凌牙を止めてみせる。

それが、誰もが望まない結果だとしても。









あんなに怒ったアストラルをみるのは初めてだった。
凌牙は社に向かいながらため息をつく。
どうやらウチの神様はこんな時にお隣さんと喧嘩したらしい。
アストラルも遊馬も、凌牙が嫉妬してしまうほど、互いを分かり、信頼して、言い合いはしても異空間から別々に出てくるようなことはなかった。
とりあえずアストラルが海咬龍の封印を協力すると言ってくれたから良いものを…自分の主の考えはわからない。

そして、社の中で遊馬と顔を合わせた瞬間、主の考えがよくわかった。

明らかに、機嫌が悪い。
海咬龍どころの話じゃない位に。
「遊馬…様?」
「…。」
完全に視線を合わせない。それどころか、手の平で両耳を塞ぎ始めた。
「遊馬様!」
「オレが様付け嫌いなのに、しかも二人しかいない時に様付けするような、奴の話は聞かないー!」
「仕事の話だ!…っ聞け遊馬!」
無理矢理、遊馬の手を離させるよう引っ張る。
渋々、遊馬も凌牙に引かれるように向き直る。
「なんだよ。」
「海咬龍の事だ!知ってるだろ。ウチの土地でも被害者が出た。これ以上見過ごせない。だから…」
「それは駄目。」
遊馬は凌牙の手を振り払うと、一歩離れる。
「シャーク。」
そして遊馬の纏う雰囲気が、先程までの拗ねた子どものようなものとは違う、冷たい清らかな空気へと一変する。
遊馬の神気にあてられて、畏敬の念から、思わず凌牙はその場に膝をついた。
この状態の遊馬には、巫女である凌牙は逆らえない。
「海咬龍には、関わるな。」
遊馬の力のある言葉…言霊に、凌牙は従いそうになる。
「…土地の人を見殺しになんて出来ない。」
「オレがどうにかする。シャークは頼むから、海咬龍と戦わないでくれ。」
「無理だ…。遊馬はこの土地をいつものように守るだけで精一杯じゃねえか。」
突如、遊馬はどこからか出した千早を凌牙の頭から被せた。
千早とは、巫女が儀式や祭事などで巫女服の上に羽織る、巫女装束の一つである。
凌牙は知識あるが、実際に着用したことはない。
「何すんだっ遊馬!」
「土地の人達も、シャークも、オレが守ってみせる。だから、凌牙は何もしないでくれ。」
「オレは守られたいんじゃない…守りたいんだ…!」
被った千早を床に落とすと、遊馬を睨み付けた。
今の遊馬は、異様に感じる。
これがアストラルを怒らせたのかもしれない。
カイトもアストラルも凌牙を頼ってきた。九十九神の巫女である凌牙に。
自分達だけでは手に終えないことだと判断したからだ。
一番力の無い遊馬が、無謀だと分かっていながら、凌牙を海咬龍から遠ざけるのは何らかの理由があるのだろう。
だが遊馬はそれさえ語ろうとしない。
「シャーク…シャークはオレの巫女だろ?」
「そうだ。オレはお前の為に生きている。だから…遊馬がこの土地の民を、神代家すらも大事に思ってるのもわかっている。」
土地の人々が傷付いたら、一番悲しむのは遊馬だ。そんな遊馬を凌牙は見たくなかった。
「じゃあ…一つだけオレの言うこと聞いたら、海咬龍を封印しに行ってもいいぜ。」
「…何をすればいい?」
「今からオレがやることに、逆らうな。」
遊馬の一言を、とっさに断ろうとするが、うまく言葉が出ない。
「オレは何をしてもシャークを止めたいから、容赦しない。」
紅玉のような遊馬の瞳が、凌牙の目の前に現れた。逃げようとした凌牙は、足がすくんで動けない。
そのまま遊馬に抱きしめられた。

凌牙の霊力を、遊馬は奪うつもりなのだ。

「遊…馬ぁ…っ!」
「ごめんな。」
いつもは嬉しそうにしている遊馬も、今日は辛そうに顔をゆがめている。
無理やり奪う立場だからだろうか。
じわじわと快感が凌牙の全身に広がる。
「コレをやると、ガタが外れるからやらなかったけど…今回だけだから許してくれよ?」
「何を…」
快楽に溺れかけていた凌牙の頬を遊馬は片手で持ち上げる。視線が交わるだけで凌牙の胸がきゅう、と締め付けられた。
そして、突然重ねられた唇。
驚いた凌牙が後ろに飛び退こうとするが、腰に回された遊馬の腕がそれを遮り、バランスを崩した二人は床に倒れこむ。幸い床に落ちていた千早のおかげで思ったよりも痛くはない。
遊馬に押し倒された状態で凌牙は再び口づけられ、抵抗することも出来ない。

コレは「口寄せ」。

九十九神に効率良く大量の霊力を与える方法だ。
叔母…先代の巫女に教えられていたが、実際に遊馬とするのは初めてである。
何故なら、口寄せは大量の霊力を遊馬に与えられる反面、制限ができず本能のまま満足するまで巫女の霊力を吸いとってしまう。
だから、遊馬が力の使いすぎで弱ってしまうような緊急事態でしか行ってはいけないとキツく言われていた。一度に大量の霊力を奪われる巫女への負担が大きい為である。
「…やめ、ん…ぅ」
息継ぎの合間に抵抗しようも、唇はすぐ塞がれた。
身体が熱い。蠢く快楽の熱が、凌牙の全身を駆け巡ると、最後に一点に集中し始めた。下腹部に集中する熱の意味に気づいた凌牙は、混乱して閉じていた唇を少し開いてしまう。
その唇の隙間から、遊馬の舌が入り込んでくる。より濃い霊力を奪うかのように凌牙の口腔に侵入した遊馬の舌は、固まったまま動かない凌牙の舌を絡めとった。
幽閉されて育った箱入り巫女の知識にはない、荒らされるような深い口づけに、凌牙の頭の中は真っ白になる。
遊馬に強く舌を吸われた瞬間、下腹部の熱が弾けたように感じた。
びくびくと揺れる腰が止まらない。悲鳴は遊馬の唇に遮られたが、訳も分からず涙が流れた。不安になり、行き場のなかった手で遊馬の背中の着物を掴む。
だが、遊馬の口づけは終わらない。まだ遊馬の力は満たされていないのだ。与えられ続ける快感に気が狂いそうになる。
息継ぎのためか、再び唇が離された。遊馬の瞳は、先ほどと違いギラギラと鋭い光を宿しており、凌牙はこのまま全て奪われてしまうのではないか、と錯覚しそうになる。
「シャーク…」
熱っぽい遊馬の吐息混じりの声が聞こえる。その声だけて鼓膜は悦びに震えた。
何も考えられない。
「っあああ…!」
遊馬に左の首筋を噛みつかれ、そのまま吸い上げられると、じんと痺れる。
揺れる下腹部に遊馬の膝が偶然当たる。耐えきれず凌牙はその膝に浅ましく下腹部を擦り付けた。
嬌声を上げる凌牙の唇を遊馬はまた塞ぎ、荒々しく霊力を奪い、一方的に過剰な快楽を与える。

何度目かわからない絶頂を迎えた凌牙は、意識を手離す。
その時に見た遊馬は、ポロポロと涙を溢していた。




意識を失った凌牙を、遊馬は泣きながら千早を纏わせた。
この千早は特別なもので、千早の上からであれば遊馬も霊力を奪わずに凌牙に触れられる。
「これで、一日は目覚めない…ごめんな。」
千早の上から凌牙を抱きしめる。ぐったりとした凌牙は汗でべっとりと髪の毛が顔にはり付いていた。
「無理にとっても…おいしくない。」
用意していた布団に凌牙を寝かせようと身を起こした時、予想もしなかった事がおきる。
凌牙の睫毛が震えたかと思うと、瞼が開き、涙で濡れた瞳が現れる。
意味がわからず思考が止まった遊馬の腕を掴んだ凌牙はそのまま自分の方へ引き寄せると、布団の上に転がるように倒れた。
「…かかったな。」
遊馬の上に乗り、ニヤリと勝ち誇ったように笑う凌牙。暴れたせいではだけた巫女服もそのままに、汗ばんだ髪を掻き上げる仕草すら艶かしく、遊馬は生唾を飲み込む。
「動くんじゃねーぞ。」
凌牙の袖から四つの菱形の水晶を取り出すと宙に投げ、水晶は真っ直ぐ遊馬の両手足にくっつく。その瞬間、四肢の自由が奪われた。
この水晶の神気は…アストラル。
ようやく遊馬は、自分の方が嵌められたことに気が付く。
「アストラルか…!」
「ご名答。アストラルにお前の考えがわからない訳ないだろ。」
早くに地上に戻ったアストラルは凌牙に遊馬のやりそうな事をいくつか警告し、対策までも与えた。
遊馬の体を縛る神具、もし凌牙が霊力を奪われた反動で気絶した時の気つけのまじない等、お陰で無事に立場逆転ができた。
「…なら始めから、オレの体の自由を奪えばよかっただろ。」
気つけで無理に意識を取り戻しただけの凌牙は荒い呼吸を繰り返し、体も弱々しく震えている。
霊力を強奪される前に遊馬を止めていれば、こんなことにはならずに済んだろう。
「たまには遊馬に…満腹になって欲しかった。いつも、足りなかったろ?」
「…足りてた。」
「嘘つけ、ガッツいてたくせによ。」
いつもは凌牙の体を考えて必要最低限しか霊力を貰っていない為、たしかに久しぶりに遊馬の体は凌牙の霊力で満たされていた。
満たされたと同時に罪悪感は半端ない。
「半分冗談はさておき…ところでオレが今やろうとしてること、わかるか?」
「え?」
明日までずっと縛られているものだと思っていた遊馬は油断していた。
凌牙は肩に掛かる千早を邪魔そうに床に落とすと、遊馬に自らの体を密着させた。
「…駄目だ、シャーク…これ以上霊力をオレに渡したら…!」
「オレの霊力ナメるな。意識トばなきゃ問題ない。」
「そっちじゃない!」
凌牙の寿命をこれ以上減らしたくない。
だが自由のきかない体は、凌牙の意のままである。
「やめろ!やだ…もう、いらないから!シャークっ離れてくれよお!」
「断る。…さて、問題です。」
普段は従順な凌牙も、今は何一つ遊馬の言葉に従わない。
それどころか、霊力を限界近くまで遊馬にとられたのに、優位に立った喜びなのか実に楽しそうに笑みを浮かべていた。
「霊力が満たされているところに、ドカンと大量の霊力が更にブチ込まれたら…許容量の少ない九十九神はどうなるでしょう?」
嫌な汗がじわりと遊馬の背中に滲む。
「ばかシャーク…!そんなことできるわけないだろ!」
遊馬の中で、むしろできないでくれ、という祈りの方が強かった。
完全に凌牙に翻弄されている。
「できるんだろ。口寄せなら、大量に注ぎ込む事ができる。」
「それはオレの理性が飛ぶから…」
「容量いっぱいのお前の理性は飛ばない。そして、口寄せは巫女からも霊力は注ぎ込める。」
何故知っているのだ。
この事は、先代も知らないはずだ。
知っているのは初代と…
「……アストラルめ、余計な事を。」
「遊馬、お前に拒否権はないぜ。」
凌牙の指先が、遊馬の顎を上に向かせる。
させまいと、顔を背けようとすると、額を片手で押さえられて頭の動きすら封じられた。
「シャーク…オレ、死神にはなりたくない…必要以上のものを奪いたくない…シャーク!」
「なに言ってんだ。」
凌牙は苦しそうな呼吸を繰り返しながらも、遊馬に蕩けそうな微笑みを浮かべた。
遊馬にしか見せない、凌牙の信頼しきった表情だ。
「お前はオレの神様だ。死神なんかじゃない。お前に全てを捧げられるなら、こんなに幸せな事はないだろう?…心配するな、オレはこの程度じゃ死なない。」
心酔、尊敬、愛情混じる凌牙の声音は、遊馬を逆に不安にさせた。
凌牙は、いつか遊馬の為に命を落とす。
「オレは、シャークに生きて…」
遊馬の言葉ごと飲み込むように、凌牙は唇を重ねる。噛みつくような下手な口づけはガチリと歯がぶつかる音がした。それに構わず凌牙は無理に唇を押し付けたため、遊馬の歯が凌牙の唇を傷つける。
遊馬の口腔に凌牙の血の味がじわりと広がった。
(ヤバい…!)
遊馬は次の衝撃に耐えるべく、瞼を強く閉じた。
――血は、命の源ともいえるほど大切なもの。時に契約や呪詛などにも使われる。
そこに含まれる霊力も、濃い。
先ほど遊馬が奪った凌牙の唾液などの比でははない。

一瞬で、予想以上の衝撃が遊馬を襲った。

全身に受け止めきれない霊力が押し込まれる。動けないはずの四肢があまりの力の暴走にガタガタ震える。
そして…限界を感じた遊馬の肉体は、瞬く間に凌牙の目の前から消えた。



『君が触れている遊馬の肉体は、この世に神が留まるために実体化したもの。…わたしの記憶が正しければ、許容範囲を越えた異常事態が起こればおそらく、御神体に避難する。そうなれば遊馬が実体化するには時間がかかる。』
アストラルはそう凌牙に説明していた。実際その通り遊馬は跡形もなく消えた。
しかし突如、存在が消えたことに不安を覚えた凌牙は御神体が納められた木箱に駆け寄る。駆ける、といってもまともに動かない体はよろけて、何度も膝をつきながら、最後は這うようにして近づいた。
「遊馬…っ」
木箱にどうにか指先を掠めると、そこから遊馬の濃い神気を感じる。
遊馬は、存在している。
安堵と共に力尽きた凌牙は、遂に床に倒れ伏した。
流石に霊力を消費し過ぎたようである。
倒れてる暇はないというのに、手足が言うことを聞かない。
「シャーク。」
閉じかけた瞼の向こうから、凛とした声が聞こえた。
靄のかかったような頭の中が、その声と共に覚醒する。
「…アス、トラル…。」
「大丈夫か?全く、無茶をする。」
遊馬の神友、アストラルは、呆れたような顔をしながらも、凌牙が起き上がるのを手助けしてくれた。
「遊馬を御神体に戻すのは、体の動きを封じるのが失敗した場合じゃなかったのか?」
「…全部見てたのか?確実に邪魔されないようにしたかったんだ。」
「だからといって、こんなに霊力を消費したら元も子もないだろう。」
アストラルの言う通りだ。凌牙が封じ手として選ばれたのは霊力の高さ。
しかし今は一般人並みの霊力しか残っていない。
「問題ない。」
凌牙は狼狽えることなく、口角を上げた。
鎖骨の間に常に収まっている鮫の牙の首飾りを凌牙は指で弾く。
「これは、神代家が作った呪具だ。常に身に付けていることで毎日微量の霊力を蓄えるもの…元々は璃緒に霊力を移したかった奴らが、ダメ元でオレに持たせたが…万が一の時のためにずっと着けていて正解だったぜ。」
アストラルは珍しい呪具に、まじまじと見いるように顔を近づけた。
「足りるのか?わたしには霊力が貯まっている感じはしないのだが…。」
「八年は身に付けてるから余る位あると思う。見た目は装飾品だからな。持ち主の血が付かない限り貯まった霊力は封じられたままなんだ。」
説明しながら凌牙は首飾りの紐をほどく。
ほどいた首飾りの、鮫の牙の先端を胸の中心にあてがう。
「シャーク…大丈夫か?」
「…気絶したらまた気つけてくれ。」
アストラルに見守られながら、凌牙は勢いよく鮫の牙を振り上げると、胸にそのまま突き刺した。
チクリと小さく痛みが走る。皮膚を少しだけ突き破った牙は、滲んだ血に触れた。
血に反応した鮫の牙は、長年蓄えた霊力を空になった入れものに注ぎ込む。身体中に流れ込む霊力はけして気分の悪いものではない。
視界が朦朧とする。霊力は戻っても疲労感が消えることは無いようだ。

意識を手放した凌牙は、懐かしい夢をみた。

叔母と、遊馬と、三人で暮らしていた時の思い出。璃緒と小鳥もよく顔を見せに来ていた。
あの頃が一番、遊馬が幸せそうだった。
叔母にからかわれ、幼い三人の子どもに手を焼かされながらも、未来を憂いることはなかった。

オレは、叔母…先代のように、遊馬の力にはなれないのだろうか?
遊馬はオレが簡単に死ぬように思えるのだろうか?

心で答えのない問いかけをしていると、死神になりたくないと本音を漏らした遊馬を思い出す。

馬鹿だな。
九十九神社の巫女の務めの一つには、「遊馬を一人ぼっちにさせないこと」っていうのがあるんだぜ







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