カイさま | ナノ
 




・第1条:朝のあいさつ

 シオンはパチリと目を開けた。目の下の隈で分かるようにあまり眠りに恵まれない彼だが、寝起きは悪くない。手早く身支度して居間へと足を向ける。
 扉の前で足を止め様子を探ると、誰かが動き回る気配がした。アニスは猫なのでほとんど足音を立てず、気配を消していることも多い。だからこの家で他人の気配を感じたことなんか、数えるほどしかなかったのだけど。
(いいもんだな)
 独りじゃないと実感できて、ふんわりと胸が温かくなる。
 扉を開くと、食卓に皿を並べていた少女と目が合った。
「あ、シオンさん! おはようございます!」
 目が覚めて真っ先に思い浮かんだ人物から、軽やかな挨拶。その声で、身体と意識が覚醒する。とくとくと音を立てて心臓が動き始めた。まるで螺子を巻かれたぜんまい仕掛けの人形のようだ。
「おはよう、エマ」
 今日も一日頑張ろう。

  

・第2条:食事は一緒に
 食事は可能な限り家族全員でとることになっている。言葉にして約束したわけじゃないが、暗黙の了解と言うやつだ。朝決まった時間に起きて、昼や夜も、食事の時間になると仕事の手を休める。
 他人と生活するというのは、互いに遠慮や妥協が必要だ。もっとわずらわしく感じるかと思っていたが、全然そんなことなかった。
 一人と一匹で生活していた頃は完全に自炊だったが、今はエマが調理してくれる。練習中であまり美味しくない、と申し訳なさそうな顔をするが、自分のために一生懸命作ってくれた料理がマズイはずない。
 ルーが来てからは、元野生児に教育を施す役目も増えた。食事の作法も、自らが手本になって教えねばならない。父親というのも責任重大だ。
 教育的指導をしている間に、サラダを取り分けたりグラスに水を足したり、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。慣れてないので、少し照れ臭い。意識を食事に集中させてやり過ごそうとしたのだけれど。
「ふふっ、付いてますよ」
 頬にふわりとした感触。驚きと焦りで固まった。不意打ちだ。
「あー、シオン食べカスつけてんのー!」
 ルーが嬉しそうに囃した。
(お前だって毎回エマに拭いてもらってるだろ!!)
 小さな子供と同じ扱いと考えると情けないが、にこにこしてるエマを見てたら、もう何も言えなくて。折角の手料理の味が分からなくなるのは勿体ないから、次からは口の周囲を汚さないように注意しようと心に誓った。


  

・第3条:仕事の邪魔は
 基本的に、家事はエマがやる。最初はそんなの俺がしてやるのに、ともどかしく感じたが、今は少し違う。
 彼女は家族の役に立てるのが嬉しいようで、掃除も洗濯も楽しそうにこなしている。失敗も多いが、着実に上達している。本人も手ごたえを感じているのだろう、作業に没頭することもしばしばだ。
 シオンも仕事に熱中できればいいのだが…。
 鼻歌や足音に耳を澄まし、転んだり物を引っくり返す気配につい腰を浮かせてしまう。一瞬でも視界をよぎれば目が追うし、焦げた匂いがすると思ったらアイロン片手に四苦八苦している現場に行き合わせたり。
 無意識のうちに、五感をフル動員してエマの動向を探ってしまうので、他の事が手に付かないのだ。
 こんな状態で魔女結婚儀の整理などして、ミスがあったら大変だ。だから重要な仕事はやらない。手持ち無沙汰になれば、ますますエマの動きが気になる悪循環。
(ルーは手伝うのよくて俺は駄目なんて、ズルイよな)
 邪魔しかしないであろう娘が「手伝うー」と寄って行っても拒まないのに、シオンだと「大丈夫ですから」と遠まわしに断るのだ。納得いかない。
 アニスも監督と称して付いて回っているので、疎外感さえ覚える。
(一緒にいるとドキドキして落ち着かねーけど、いないとなんか苦しい)
 砂を噛むような虚しさを抱きしめて、少年はそっと溜息を落とした。  

・第4条:トクベツな声
 普段は朗らかなエマが、緊張した面持ちで見上げてきたので内心首をかしげていると、おずおずと呼ばれた。
「あなた」
 意識が飛ぶかと思った。顔が熱い。
「ふ、夫婦になったら旦那さまのことそう呼ぶんですよね…!? それで、あの、その、」
 ちらっと期待に満ちた瞳を向けられる。流れから何を望まれているか悟り、シオンは唾を嚥下して緊張で干乾びた咽喉を潤す。
「お…おまえ」
 かすれた声で紡ぐと、エマはじっくりと聞き入った後、あれ? と首をかしげた。
「すみません、名前で呼んでもらえますか…?」
「―――エマ」
 少女は納得したように頷いた。
「わだし、そっちの方が好きです」
 他の人間にも使う呼び方より、名前で呼びかけてもらう方が嬉しいのだという。
「俺も、そっちのが助かる…」
 手を握るのもおぼつかないのに、意識しすぎてしまいそうな呼ばれ方は刺激が強い。
 それにエマに名を呼ばれると、一緒にいるんだと何度でも実感できて嬉しくなる。10年間、心の中で一方的に呼び続けたけど、今はこんなに近い。 

・第5条:以心伝心
 なんだか今日は甘いものが飲みたくて、お茶の時間にココアを用意した。
 エマが来るまでお茶といえば「気分の落ち着くお茶」「滋養強壮茶」など、怪しげな薬草を煎じた薬効重視の液体ばかりだったが、魔法使いではない少女の舌には合わなかったようだ。一緒に飲めるものを、と紅茶や緑茶、コーヒーなど幅広く揃えるようになった。
 いつもはお茶の準備も「お嫁さんの仕事です!」とエマが張り切るのだが、今日は洗濯物干しで忙しそうだ。ベッドからシーツを剥がしていたから、量が多かったのだろう。
「たまには、いいよな」
 ひとりごちると、ナイスタイミングで家族が戻ってきた。洗濯籠を抱えた少女がシオンの手元を見詰めて目を丸くする。
(気に入らなかったのか?)
 一瞬肝を冷やしたが、花がほころぶような大輪の笑顔を咲かせたので、逆にカッと腹の底が熱くなった。
「わだしもココア飲みたいなって思ってたんです! 一緒ですねっ」
 嬉しそうに告げると、すぐ戻りますからお茶にしましょう、と洗濯籠を置きに部屋を出て行った。
 離れていても同じことを考えていた。「つながってる」って感じが嬉しい。光の赤い糸は、見えなくても魂と心を結んでくれているのだろうか。
「どーしたんだ? シオン真っ赤ー」
「そっとしておいてあげなさい」
 椅子に陣取る一人と一匹から火照る顔を隠し、少年は幸せを噛み締める。 

・第6条:はんぶんこの美学
 アニスは早々に退散し、お茶請けを口一杯に頬張ったルーが遊びに行ってしまうと、居間には夫婦が残された。ソファに並んで腰掛けているが、真ん中が空いている。今の二人の関係を露骨に物語る微妙な空白領域だ。
 和やかに談笑を交えてココアを啜り、菓子に手を伸ばす。本日のおやつはサクサクの食感が楽しめるクッキー。気が付けば最後の一枚になっていた。
 顔を見合わせ譲り合うが、互いに遠慮するので埒が明かない。いつもなら、こんな時はルーに与えて終わりなのだが。困り顔でぽつんと残ったクッキーをみつめる。
 ふと思いついたエマが両手を打ち合わせてにっこりした。
「はんぶんこ、しましょうか」
「お、おう」
 幸いクッキーは分割可能だ。打開策を見出しホッと安堵の息を吐く。微笑み合って同時に口に運んだ。
 まるで「しあわせ」そのもののように、独り占めするより分かち合うほうが満足度が大きいと気付いて、気付けた自分が少し好きになる。
(半分なのに、倍、美味い)
 割られたクッキーは舌の上で甘く崩れた。


・第7条:うたたねの結末
 寝不足気味だと、思わぬところで睡魔に襲われることがある。
 以前は気合で撃退し魔法の研鑽に励んでいたが、エマの動きを追いかけて仕事に身が入らないので、無理に起きていても意味がない。隈が濃くなると家族が心配して安眠対策を講じ始めるので、その前に解消しておくかと瞼を瞑った。
 魔女結婚儀を始めてから、良い意味で緊張感が抜けたように思う。張りつめた糸は弱って切れる、適度に緩めることも大切なのだが、何事にもひたむきで一生懸命なシオンは、休むのがちょっと下手くそだった。
 10年みっちり努力し続けたから大魔法使い―――西方三賢者の一人にまでなれたとはいえ、無茶を続けたせいで肝心な時に動けないのでは意味がない。
 周囲の警戒を怠ることなく、しっかりと休息をとる。難しいが両立できている。…はずなのだが。
 温かさに目を覚まし、シオンは硬直した。椅子の足元、膝に頭を預けてエマが眠っていた。腕の中にはルーの姿もある。
(全く気付かなかった…)
 眠っていても侵入者は見逃さない自信があったが、家族には警戒心が働かないらしい。それだけ心を許しているのだと思い知り、赤く染まった顔を机に伏せた。 

・第8条:姿が見えないと
 夕食後、食器の片づけをしていたエマの姿がいつのまにか消えていた。
 アニスもルーも行き先を知らない。外に出た気配はないので家の中にいるはずなのだが、所在が知れないだけでひどく落ち着かない気持ちになった。心当たりを順繰りに探すが、なかなか見つからない。
「どこだ、エマ!」
 不安と焦燥に、早足が駆け足に変わる。どこにもいない。
(まるでこっちが迷子みてーだ)
 足元の地面が崩れてゆくような感覚に悩まされながら、頼りない気持ちで少女の背を捜し求める。このまま見失ってしまったらと考えたら心臓が痛くなった。
「シオンさん? どうかしましたか?」
 使われていない部屋の扉からひょっこりと顔を覗かせた時は、安堵のあまりへたりこみそうになった。
「いきなりいなくなるな」
「すみません、お片づけしていて」
 言いながら後ろ手に扉を閉めようとするのでピンときた。隠そうと奮闘する手をかい潜って確認したら、明らかに片付け前より物が散乱している。また失敗したらしい。
「……手伝う」
「すみません…」
 しょんぼりと肩を落とす少女を視界に捕らえたまま箒を使う。家事を頑張るのは結構だが、目の届く場所にいて欲しいというのは我儘だろうか。



・第9条:進んでるのか、それとも
 つん、と引かれるわずかな感触に振り返れば、袖の端っこに指がかかっていた。なんだか気まずくて、慌てて前を向く。
 最近、エマの態度が変化してきた。
 以前は問答無用で腕を掴んで引っ張ったり、感情のままギュッと抱きついたりしてたのに、ちょっと距離が生まれたというか…目が合うだけで逃げられることもある。
 そのたび「俺、何か嫌われるようなことしたか!?」と自問するが心当たりがない。
 それにこうして袖をちょこんと掴んできたり、可愛い声でおしゃべりしたり、嬉しそうに笑ったりするから、嫌われているのではない…はずだ。多分。
 ウブで照れ屋でツンデレなシオンとしては、あまり近づかれると挙動不審に陥ってしまうから、適正距離に落ち着くのは悪くないことなのだけど。
(寂しいっつーか、物足りないっつーか…)
 複雑な想いで、少女の足に合わせてゆっくりと進んだ。 

・第10条:夜のあいさつ
 ルーが家に来て変わったことの一つに、就寝の挨拶が挙げられる。TVで知識を仕入れたらしく、「おやすみのチュウ」なんてものを流行させた。彼女の目には、いかにも家族めいた親愛表現に映ったのだろうが、シオンとしては穏やかな気持ちでいられない。
 ルーは子供だし問題ない。だが、仲良し家族なんだから当然、と自分とエマにも同じ行為をさせたがるのは、どうにかならないだろうか。
 「特別に好き」な人の唇が頬に触れて、破裂しそうに鼓動が高まる。かすめるような接吻けを返す時は、白くてスベスベしてて柔らかくて温かな頬の感触に眩暈がする。このまま死ぬんじゃないかと毎回思う。
 今日もまた。
「眠気、吹っ飛んじまったな」
 ドキドキ騒ぐ胸に手を当て、落ち着くまで時間を潰す必要がありそうだと溜息を落とした。 

・第11条:気がつけば君がいて
 眠れない夜は魔女結婚儀の整理に限る。
 家族が寝静まり静寂が支配する書庫で、蝋燭の明かりを頼りに仕事に集中する。昼間の散漫さが嘘のように、資料の精査に没頭してゆく。
 調べ上げたとはいえ魔女結婚儀は謎が多く全容を把握しきったとは言い難い。ゾディアを筆頭に黒魔女を狙っているであろう魔法使いたちの動向にも気を配る必要がある。
 なるべくエマの負担が少なくなるように、彼女が笑っていられるように、情報を解析しまとめてゆく。
 ひと段落すると、満足の吐息を漏らして書き起こした文章を再確認…。
「終わったべか?」
 優しい空耳にシオンの動きがピタリと止まった。ギシギシと軋むように首を回せば、先に休んだはずの少女が両手を膝にきちんと添えて椅子に座り、こちらを見ていた。
「エエエエマっ!? なんで…」
「ルーちゃん眠ったから来ちゃいました。シオンさんが頑張ってるのに、わだしだけ寝るわけには」
 何かお手伝いできることあれば言っでください、なんでもします。
 いじらしい申し出に胸が温かくなる。守ってるつもりが、支えられている―――嬉しいような悔しいような複雑なくすぐったさに表情が緩んだ。
「今日はもう寝る。エマも休め」
「はい。…戻ってルーちゃん起したら可哀想ですし、シオンさんのお部屋に行ってもいいですか…?」
 甘えるような声音に世界が揺れた。寝室で二人きり、同じベッドで寝ようと誘われたのだ、動揺も無理はない。断れたら良いのだが…。
(上目遣いは卑怯だ)
 いまだかつて、エマのお願いを拒みきれたためしがなかった。
 徹夜を覚悟する必要がありそうだ。 

・第12条:ぬくぬく、ほかほか、あっつあつ
 パジャマに着替えて潜りこむと、冷えていたベッドも二人分の体温ですぐに温かくなった。エマはとろりとした声で「おやすみなさい」と告げると、無防備に眠ってしまう。
 健やかな寝息を耳に、シオンはまんじりともできずにいた。初恋の少女と並んで寝て平気でいられるほど幼くはない。こうしてるだけでドキドキが止まらないのだ。眠れるはずがない。
(誰かと寝るなんて、なかったしな)
 子供の頃から一人でいることが多かった。母は自分しか愛せない人で添い寝してもらった記憶なんかない。屋敷は広すぎて逆に圧迫感に潰されそうだった。幼いシオンは不安になると、ベッドの下やワードローブの中の狭い空間に逃げ込んでは、膝を抱えてじっとやり過ごしたものだ。
 思えば生家にいた頃はずっと寒さに震えていた。孤独感、無力感、劣等感、諸々の悪想念。
 でもエマと出逢ってからは、胸に明かりが灯ったように、いつだってほんのりと温かかった。一人でいても孤独じゃなかったから、頑張ってこられたのだ。
 眼差しに感謝と愛しさを込めて、少女の寝顔を見詰め―――シオンはそっと、両手で顔を覆った。目の毒すぎる。
 安心しきった寝顔に深い信頼を感じて嬉しい気持ちと、男として意識されていない情けなさが、グルグルと渦を巻いて押し寄せる。
 純粋に彼女を助けることだけ考えて過ごした10年の歳月、出逢いの記憶は温かな光となって包み込み、導いてくれた。
 でも今は、それだけじゃ足りない。好かれたい、嫌われたくない、―――愛されたいと願ってしまう。(ずっと一緒に、寄り添いあって。あったかい家庭を築いていきたい)
 自分が笑えば彼女も笑う、そんな夫婦になりたくて。そのためには沢山儀式をして、まだまだ頑張らねばならないが、二人なら明日に手が届く。
 眠る少女の左手、薬指の指輪に唇を落とし改めて誓いを胸に刻む。
(俺は、お前を、諦めない)
 世界一幸せにしてやると決めたのだ。必ず助けてみせる。
「ん…」
 エマがもぞもぞと身じろぎした。今ので起してしまったのでは、と少年は青ざめた。
 直接触れたわけではないが、夫婦とはいえ寝ている相手に勝手にして良いことではない。軽蔑されたらどうしよう、とビクビクしながら息を潜めて見守っていると、少女は手探りでシオンの腕を捕まえ、へにゃりと微笑を浮かべて再び深い眠りに戻っていった。
 つながれた手がぬくもりに包まれ、心拍数が上がってゆく。
(ダメだ、温かいの通り越して熱い…)
 すやすや熟睡する少女の隣、空回りする想いに胸を焦がしながら、身体だけでも休ませようと瞼を閉じる。
 朝はまだ遠い。
2011.11.11





 
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