Red

 静かに重厚なドアが開く。ふわりと外の空気が入ってきて日常から隔離された空間に初夏の香りが漂う。まだ早い時間だから客は疎らだ。きょろきょろと辺りを見回してカウンターに見知った顔を見つけたクラウドは隣に座った。
「あんたが一人で来るなんて珍しいな」
「やっと論文が一本終わったんだ」
「ああ、そうか」
 必要以上に酒を飲まないウォーリアは、だがこの店の雰囲気は気に入っていて何かの記念にはここを訪れている。今回も長期間に渡る研究の成果を纏め終えたご褒美に一杯を求めて来ていた。
「ええと…コスモポリタン」
 バーテンダーがクラウドにオーダーを尋ねる。クラウドはウォーリアのグラスをちらりと見てから答えた。
「あんたはレッドアイか。相変わらず健康的なんだな」
「徹夜明けなんだ」
 キツイ酒は疲れた体には辛い。本当なら一眠りしてから来ればいいのだが、論文が完成した達成感や高揚感をクラウドもよく知っているのだろう。そうか、と相槌を打ったきり特に何も言われなかった。この感覚が睡眠によって霧散してしまううちに余韻に浸りたかったのを理解してもらえたようだ。
「君こそ一人だなんて珍しいな」「いつも一緒って訳じゃない」
 クラウドはプライベートではスコールと一緒にいることが多い。互いに都合や予定もある日もあるが、そんな日は稀だ。今夜はスコールはティーダと一緒に高校の同窓会なのだとクラウドが言う。全寮制だったから結束の固い仲間がいると聞いている。何だかんだと言いながらティーダに連れて行かれたと言うクラウドは少し嬉しそうだった。
「完成おめでとう」
 クラウドが目の前に置かれたグラスを軽く持ち上る。それに合わせてウォーリアもグラスを傾けた。
「ありがとう」
 カチンとグラスが鳴る。グラスの向こうのクラウドは穏やかな笑みを湛えていて、釣られてウォーリアも微笑んだ。それから暫くは互いに無言だった。目を閉じて低く流れるピアノの音に耳を傾けていた。最近はいつもクラウドの周りに誰かがいてこんな風に二人きりになるのは初めてだ。
「私は」
 沈黙を破ったのはウォーリアだった。目を開けて隣のクラウドを真っ直ぐに見据える。
「私は学部生の頃から君を知っていた」
「セフィロスの稚児だって?」
 自嘲気味にクラウドが口元を歪める。今まで何にも興味を示さなかったセフィロスが周囲が驚くほどクラウドに執着し、形振り構わず溺愛したのは有名な話だ。クラウドの成績を知る者などなく、周囲からはその容姿がセフィロスの気を引いたのだと思われていた。
「いや、もっと前だ。…君が入学して間もない頃だったか。新生活に期待を膨らませ輝いた目をした君を」
 新入生の集団の中にいても尚一際輝いていたと言うウォーリアに、クラウドは遠くを見て当時を思い出した。確かにそうだったかもしれない。閉鎖的な田舎から出てきたばかりで見る物全てが新鮮だった。内向的な自分を変えたいと、笑い合える友達がきっとできると思っていた。そう呟いたクラウドは少し寂しそうだった。



 クラウドは真新しい教科書を握り締めて教室に入った。念願のセフィロス教授の授業だ。麗しい見た目もさることながら、先進的な論文に衝撃を受けた。高校生には少し難解だったが何度も読み返し調べるうちに内容を理解した。この人の下で勉強したい、その一心で勉強してこの大学に入った。家は貧しく経済的にも苦しかったが運良く奨学金を貰うこともできた。
 そして初めての授業で運命の出会いを果たした。セフィロスの講義は無駄がなく、しっかりと聞いていなければあっという間に取り残されそうだった。一字一句を逃さぬ思いで聞き、ノートを何度も整理した。
 セフィロスは些細な質問も丁寧に答えてくれた。初めて研究成果を論文にまとめた時は自分のことのように喜んでくれた。ゼミは当然セフィロスのゼミを選んだ。希望者が多く選抜があったが何とかクリアした。
 サークル活動をしたり友人と遊んだり、と思い描いていた学生生活とは違ったが、セフィロスの下で勉学に励むのは楽しかった。
 自分が異端だと気付いたのは大学三年の時だった。セフィロスのゼミには勉強したい者だけが集まる訳ではない。セフィロスの研究室の出身というだけで就職が有利になり将来が約束される。中にはそういうメリットを求める者もいた。更にここ数年はエリート専門と呼ばれるようになり進学でも就職でも進路は選り取り見取りだ。いつしかセフィロス研究室にはある程度学力があり要領のいい者が集まっていた。
 セフィロスの研究室は専門書が豊富で飽きない。入り浸って読み漁っているがまだ読んでいない本はたくさんある。今も演習があるのを忘れて読み耽っていたが、演習の教官が当のセフィロスだったために先に行けと追い出された。既に授業開始時間は過ぎている。クラウドの遅刻をカウントしないために先に出してくれたのだと感謝しながら急いで演習室に向かう。ドアを開けようとしたその時だった。
「いつも時間通りに始める教授が珍しいよな」
「そういやストライフも来てねえな。あの真面目君がさ」
自分の名前を出されて思わず手が止まる。盗み聞きするつもりはなかったが結果的にそうなってしまった。
「また教授に取り入ってるんじゃねえの?」
「足開いてか?」
 どっと下品な笑い声が起こる。それからはクラウドの容姿を揶揄する言葉と更にはセフィロスとの関係を邪推する話が続き、クラウドは思わず耳を覆った。ショックだった。あまり話をしたことがないとはいえ、同じ教授の下に集い切磋琢磨して研究をしていると思っていた。
 今は中に入ることはできない。だが演習を欠席することもできずにその場に立ち尽くす。足下から崩れそうだった。
「何をしている」
「っあ…」
 タイミングが良いのか悪いのか、後からセフィロスがドアを開ける。さっきまで笑い声が響いていた教室は急に静まり気まずい雰囲気が流れた。クラウドは無言で中に入ると端の席に座った。
 それからだ。遠巻きにひそひそと噂されるようになったのは。それまでは普通に接してくれていた友人らも申し訳なさそうに離れて行った。



「大学生になって大人になったと思ってたけど何も変わってなかった。中身は同じ子供のままだったな」
 本当は思い出したくはないのだろう。苦しそうに眉を顰めて言うクラウドに心が痛む。ウォーリアは首を横に振った。
「そうではない。君は純粋過ぎるんだ。人を疑うことを知らない」
「あんたにそう言われるなんて思わなかった」
 思わずくすりと出た笑顔にウォーリアはほっとした。嫌な事を思い出させて気分を害したのではないかと不安だった。
「君は覚えていないようだが、学部生の頃に会ったことがある」
 クラウドは意外そうにウォーリアを見た。知人の少ないクラウドが人と言葉を交わすことは少ない。全てを覚えているわけではないが、ウォーリアのような目立つ人物を忘れるはずがないと思っていただけに衝撃を受けたようだった。
「多分あれからすぐだろうな。晩秋の寒い日だった」



 冷たい風が頬を刺す。冬の気配はもうすぐそこまで来ている。加えてその日は太陽が雲に隠れていた。
どんよりと曇っていた空が耐え切れずとうとう泣き出す。ぽつりぽつりと降り出した雨にウォーリアは足を速めた。そして人も疎らな構内に立つひとつの人影を見つけた。彼は濡れるのも構わずにぼんやりと天を仰いでいる。雨はいよいよ本降りになるが動く様子はない。ウォーリアは思わず彼の手を掴んで建物の中に入った。
「雨の中あんな風に立っているのは感心しない…」
 顔を見て思わず言葉に詰まる。クラウドだ。三年前に見た時はまだ幼さの残る愛らしい容姿だったが美しく成長した。だがきらきらと輝いていた目は今はどんよりと濁っていた。暫く見ないうちに何があったのだろう。
「とにかく、このままでは風邪をひく」
 ウォーリアは時計を見た。あと十分もすれば大学院の入試が始まる。濡れた服を乾かして体を拭いてやりたいが生憎時間がない。ウォーリアはハンカチをクラウドの手に握らせると鞄を持ち直した。
「すまない、時間がないんだ。早く帰って体を温めた方がいい」
 そして返事も聞けずに足早に立ち去った。
 それがずっと心残りだった。風邪をひかなかっただろうか。それを拗らせたりはしなかっただろうか。せめてそれだけでも知りたくてまた会えるのを期待していたが、その願いが叶うことはなかった。



「私は後悔した。確かに時間に追われてはいたが、もう少し立ち止まることができなかっただろうかと。あれから君をずっと探していた。そして今年の四月、やっと君を見つけた」
「どうだった?まだ死んだ目をしていたか?」
 そんな風に思っている人がいたなんて知らなかったと少し照れながらクラウドが肩を竦めて聞く。ウォーリアはグラスを飲み干した。氷の乾いた音が大きく響く。
「いや、初めて見た時とは違う、だが穏やかな目をしていた」
 久しぶりの再会は胸が高鳴った。美しさだけではない。四年前ほど躍動感はないが本当に楽しそうに笑う様子に不安の影はなく何故か安堵した。そして一人の人間にこんなにも惹かれるのかと自分自身に驚いた。言葉を交わした訳ではない、何度か見かけて一方的に声を掛けただけの相手だというのに。
「そしてスコールの事を知った」
「?」
「彼の隣で笑う君はとても幸せそうに見える。…その役が私だったら、と何度も思った」
 言葉の意味が理解できずに首を傾げるクラウドに苦笑してウォーリアは続けた。ストレートな物言いでも理解するのに時間がかかったのは、クラウドの中ではウォーリアは尊敬できる先輩であり恋愛対象から外れていたからだろう。それは信頼を得ている証拠だか少し寂しくもあった。
「ずっと君を探していたのは、君に恋していたからだ」
「え…」
 目を見開いて顔を上げたクラウドの唇をウォーリアの唇が掠める。それは触れるか触れないかの些細な出来事だったが、クラウドは唇の感触にも動けなかった。
「四年も初恋を捧げたんだ。これくらいの役得はあってもいいだろう?」
 悪戯っぽくウォーリアが笑う。クラウドは頬を赤く染めたまま口元を押さえてウォーリアを見上げていた。


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