視界の端で、自動販売機の電灯が瞬いている。
 日が沈む頃、「お先に失礼します」と事務所を出て夜間の学校へと向かった時に、同じ道を通ったはずだが、どうしてかまるで初めての土地に立っているような感覚を覚えた。
 さっきは明るかったけど、今は暗いからかな。それとも、今までこんな夜に事務所へ行ったことがなかったから、とか。
 昼間とはガラッと雰囲気を変えた街に圧倒されながら、今からそういう仕事に行くのであろう際どい服装をしている女性やどこからか聞こえてくる酔っ払い達の喧嘩の声に思わず背筋をびくりと震わせつつも、暗いほうが落ち着く性質のためなんとか歩みは止めないでいられていた。

 まさか携帯電話を事務所に忘れるとは思わなかった。
 学校で同じクラスの人に課題について尋ねられ、話しているうちにいつの間にか世間話に内容が変わり、そういえばと連絡先を聞かれた。俺は、こうやって友達ってできていくのかな、などとぼんやり思いながらいくら背広のポケットをまさぐっても出てこない携帯電話に、そこでやっと忘れたんだと気が付いた。
 霊幻さんにこのことを話したら、折角友達を作るチャンスだったのにと怒られそうだと、小さく溜息を吐きながら事務所へと向かう足を速めた。
 時間はまだ日付を越えていないくらいだが、さすがにもう霊幻さんは事務所にはいないだろう。遅くても22時かそこらへんでいつも切り上げている印象だ。
 事務所の鍵は一応持たせてもらっているし大丈夫と、角を曲がって事務所が見えるところまで来てみると、窓から光が漏れていた。
 霊幻さん、こんな遅くまで仕事しているのか。どうしたんだろうと、首をかしげる。俺が帰った後に大きな依頼でも入ったのだろうか、でも夕方からは影山くんが来ることになっていたはずだし、大抵の依頼は問題ないはずだと思うのだけど。
 影山くんの圧倒的な超能力を思い出しながら、ビルの中に入り事務所へと続く階段を上る。
 カツン、カツン、と響く自身の足音を聞きながら、もしかしてと顔を上げた。影山くんだって勉強や部活動で忙しいだろうし、いくらシフトに入っていたとしても来れないことぐらいあるんじゃないか、そしてもし入った依頼が超能力者関係だとしたら、霊専門の霊幻さんは一体どうなる。
 あの人は自分や影山くんと違って、超能力者ではない。だから、あの時に社長から守ったんじゃないか。いや、その一度だけではない。たまに入る霊の仕業ですと言いつつも実は悪い超能力者が悪戯をしていたという依頼。そういったものは、すべて俺か影山くんが対処してきた。
 それがもし霊幻さんが一人の時に起ったらと、考えただけで冷や汗が垂れる。それなら連絡ぐらいしてくれればいいのにと、急いで一個飛ばしで階段を上りながら、だからその携帯電話を忘れたから今こうして取りに戻って来ているんだろ。馬鹿か俺はと、肩を上下させながら事務所のドアを勢いよく開いた。

「霊幻、さんっ……!!」

 大丈夫ですか、と続けようとした言葉が喉から出てくることはなかった。なんだこれはと、開けたドアのドアノブを握りしめたまま固まる俺に、霊幻さんは一瞬驚いた様子だったがすぐにばつの悪そうな顔をした。そして、霊幻さんが言葉を発するよりも早く、「ねぇ、誰この人」と甘えたような高い声が事務所に響いた。
 霊幻さんの隣に座っているその女は狭いソファーを気にすることなく、寧ろ好都合といった様子で霊幻さんの腕に手を回し肩にもたれ掛かっている。

「うちの、従業員ですよ……さあ、除霊はもう済んでますから、今日のところはもう……」

 そう言って霊幻さんが笑いかけると、その女の人は少し名残惜しそうにしつつも素直に帰っていった。事務所から出ていくとき、横にいた俺に向けられた表情があまりにも怖いもので、つい数秒前まで霊幻さんの横で微笑んでいた人とはまるで別人のようだった。
 それに、うぷっ、と胃の中のものがせり上がって来るのをなんとか耐えた。社長に外に連れ出してもらい、霊幻さんにこうして生き方を教えてもらっている今でも、誰かに敵対視されるのは怖い。脳の奥のほうへと仕舞いこんだ幼少期の嫌な記憶が、ちりちりとまた蘇り始める。息が上がり始めた、怖い。

「芹沢?おい、お前聞いてんのか」
「え!あ、あの、俺すみませんっ!!」

 不意に叩かれた肩に驚いて、ばっと顔を上げるとすぐ近くで霊幻さんと目が合った。霊幻さんは「何、謝ってんの」と呆れるようにして笑った。そのささやかな笑顔に、恐怖から今にも暴走してしまいそうだった力は、振るわれることなく落ち着いた。

「とにかく座れよ」
「は、はい……あ、あのじゃあお茶入れましょうか」
「あー、頼むわ」

 再びソファーに座りに行く霊幻さんを横目に見つつ、給湯室に向かうと流し台には霊幻さんがいつも使っている湯飲みとお客様用の湯飲みが一つずつ置かれていた。昼間に使った湯飲みは自分が帰る前に洗って片付けたはずだから、あれからまた使ったんだろう。今日は依頼者が多かったのかなと考えながら、後で洗えばいいやといったような感じで流し台の中で転がっている湯飲みを手に取った。
 すると、そこには真っ赤な口紅の跡が付いていた。それにドキッとして、落としてしまいそうになったのをギリギリで握り直す。
 これは恐らく先程の女の人のものだ。顔は少ししか見ていないが、それでも鮮明に覚えている。昔から、嫌なことだけは覚えることが得意だった。
 横にある霊幻さんの湯飲みを見る。飲み切れなかったのであろう、少し残っているお茶の水面に目を見開いた自分が映っている。
 つまり、これは霊幻さんが淹れたのか、あの女の人のために。霊幻さん自身のものも用意してあるのは、長時間の対応を予想したからか、相手に気遣わせないためか、それともあの女の人はただのお客様ではなく霊幻さんにとってもっと特別な人なのか。
 色々と考えていると湯飲みを持っている手が震えてきた。いつもは自分のような下の者がやっている雑用を、霊幻さんがわざわざあの女の人のために。
 先程の恐怖とは違った感情で心が埋め尽くされていく。これは、恐らく怒りだ。俺は怒っているんだ。震える手も、逆立つ髪も、ぜぇぜぇと上がっていく息も、全部怒っているせいなんだ。
 でも、なんで。なんで怒っているんだろうという疑問が生まれた頃には、パリンと大きな音を立てて持っていた湯飲みが砕けて辺りに散らばった。

「芹沢どうした、大丈夫か」

 どうしようと焦って足元に落ちている湯飲みの欠片をただ見つめることしかできない俺に対して、音を聞きつけて給湯室に入ってきた霊幻さんは落ち着いていた。

「落としたのか」
「いえ……あ、いや、そんなとこです」

 俺の曖昧な返事に霊幻さんはふーんとそれほど気にしてない様子で「まあ、そんなこともある。あんま気にすんなよ、安物だしな」と、湯飲みの欠片を拾い始めた。それを見て、俺も慌てて拾い出す。
 怒りで超能力が暴走しましたなんて言えるはずもなく、勝手に居た堪れなくなってずっと黙ったまま欠片を拾い集めた。

「あとは俺がやっとくから、芹沢お前は掃除機持ってきてくれるか」
「はい……分かりました」

 大体を拾い集めた頃に、このへんでいいだろうと霊幻さんは言った。集めた欠片を霊幻さんにお願いをして、物置へと向かう。確か掃除機はこの辺にあった気がするんだけどと、まだ事務所に来て長くない俺は物置の中を見るのも数回目で、探すのに手間取ってしまった。
 何をするにも要領が悪い自分に落ち込みながら、掃除機を持って給湯室に戻ると大分時間が経ってしまっていたこともあり、そこにはもう霊幻さんの姿はなかった。代わりに棚の隅のほうに袋に入った湯飲みの欠片が綺麗に片付けられている。
 つくづく霊幻さんは俺とは違って要領が良いと思った。それに手際も良い。霊幻さんのようにとまでは言わないけれど、せめて迷惑をかけないくらいには早くなりたいと、尊敬の気持ちを膨らませつつ掃除機の電源を入れた。
 そういえば霊幻さんはどこに行ったのだろう。お世辞にも広いとは言えない事務所なのだから、給湯室にいないのであれば物置から掃除機を持ってくる間に見かけそうなものだけど。
 あまりの不甲斐なさにとうとう見捨てられたのだろうか、じわりと滲んでくる涙を、掃除機の騒音を聞くことによって紛らわした。

 掃除を終えて、一段落とソファーに座ろうとした瞬間にどこからか着信音が聞こえてきて、ビクッと体を震わせた。それに、そういえばそもそも携帯電話を取りに来たんだったと画面を覗いてみれば、そこには霊幻さんと名前が表示されていた。慌てて電話に出ると霊幻さんのいつも通りの淡々とした声が聞こえてきた。

『掃除終わったか』
「はい……あの、今どこにいるんですか」
『近くのコンビニ。お前腹空いてない?』
「そうですね、それなりに、まあ」
『俺夕飯まだなんだわ。適当に買って帰るから、そっちで食おうぜ』
「は、はい!」

 じゃあなと言われて切られた電話を耳から離し、画面を見る。通話時間45秒の文字を見つめながら、良かった嫌われたわけじゃないみたいだと胸をなでおろした。


◇◇◇


「もっと食えよ」
「霊幻さんこそ食べてくださいよ。随分細いんですから」
「いや、でかいんだからお前のほうが食べるだろ普通」

 あの電話から数十分後に霊幻さんは両手にビニール袋を抱えて事務所へと戻ってきた。そんなに買ったんですかと聞くと、なんか気付いたら買ってたと、俺もどうしてだか分からないとでも言いたげに困ったように眉を寄せていた。
 テーブルに並べて二人で食べ始めて数分、俺は結構食べるほうではあるけど、あまりの量の多さとさすがに三十という歳では若い頃に比べると胃も弱ってきていて、すべてを食べきることはできなそうだった。そもそも食の細い霊幻さんは、いくらなんでも買いすぎたなと笑っている。

「そういや、酒も買ってきたぞ。飲むか?」
「こんな、たらふく食べた後にですか。せめて一緒か最初に出してくださいよ」
「普段買わねーから忘れてたんだよ。ほら」

 そう言って差し出された缶チューハイを受け取る。果物の絵が前面に描かれているデザインは甘いお酒だということを分かりやすく表していて、下のほうに表記されているアルコール度数はとても低いものだ。
 そういえば、霊幻さんがお酒を飲んでいるところを今まで見たことがない。何度か仕事終わりに、一緒にラーメンやらなんやらその時の気分で色んなものを食べに行ったことはあるが、お酒は飲んでいなかった。影山くんがいたからかなとも思うが、俺と二人きりのときも飲んでいなかった気がする。

「あまり、お酒飲まないんですか」
「ん?あぁ……まぁな、あんま自分からってのはねーかもなぁ、飲み会ともなればそりゃ飲むが」
「そうなんですね」

 霊幻さんは袋からもう一本チューハイを取り出すと、プシュッと音を立てて開け、飲み始めた。俺も同じように缶を開けて飲むと、口内いっぱいに甘ったるい果物の味が広がった。
 霊幻さんは、こういうお酒が好きなのかな。覚えておこうと、でかでかと書かれている商品名を頭の中で繰り返し唱える。
 今まではこうして誰かとご飯を食べたりお酒を飲んだりするなんて考えられなかった。だから、こういったこと、誰もが普通にやっている当たり前のことが、自分にとっては新鮮で、そして嬉しかった。相手が、霊幻さんともなれば、尚更だ。
 そこまで考えて、また小さな違和感を覚えた。霊幻さんだから、なんで。怒りで湯飲みを割ってしまった時に感じたものと似ているこの感覚に、よく分からないと頭を振る。多分、霊幻さんのことを、尊敬しているからだろう。うん、きっとそうだ。
 自分なりに結論を出して、ずっと見ていたチューハイから目を離し、テーブルを挟んで前に座っている霊幻さんを見ると、目が合った。そういえば、あの女の人が帰ったすぐ後にもこんなふうに目が合ったっけと、思い出した。
 霊幻さんはそのまま視線を外さずに瞬きを数回すると、口角を上げてにやりと笑った。

「だから、どうしてだと思う?」
「え、どうしてって……すみません、えっと、何の話でしたっけ」
「俺が、普段あんま酒飲まねーのに、どうして今日は買ってきたのかって話」

 ソファーに腰かけながら足を組んで偉そうに肘を背もたれに掛けている霊幻さんの顔は、もう大分赤くなっていた。まだ一本も飲み終えていないのに、そしてこんなにも度数が低いのに。
 いや、酒弱いからですよね、と出かかった声を飲み込んだ。これだと、普段お酒を飲まない理由であって、今日買ってきた理由にはならない。
 難しいなぁと何も答えないでいると、困っている俺が面白いのか霊幻さんは嬉しそうに声を上げて笑った。大分酔ってきているようだ。

「分からないです」
「分からないか、そうかそうか」
「すみません」
「いや、お前はそのままでいいよ」

 そう言って目を細めた霊幻さんの表情が少しだけ寂しそうに見えたのは勘違いだろうか。確認のためにもう一度見てみると、もうお酒に酔った締まりのない顔に戻っていた。


◇◇◇


「起きてください、霊幻さん」

 名前を呼ばれながら肩を揺すられる感覚にゆっくりと目を開くと、目の前に芹沢の顔があった。俺が目を開けると芹沢は安心したようで、肩から手を離した。

「頭いてぇ……今何時?」
「朝の10時ですよ。今日が休みで良かった」

 体を起こすと、寝ていた場所がソファーの上で、それも事務所だということが分かった。テーブルには昨日の夜に食べていた料理の容器やら包装紙やらが点々と置かれていたが、それでも芹沢が大分片付けてくれた後のようで、大きなものはもうゴミ袋にまとめられていた。
 悪いな俺もやる、と痛い頭を押さえながら立ち上がると、何かが足元に落ちたのに気が付いた。拾い上げてみると、芹沢の背広だった。寝ている俺に掛けてくれたのか、ここの事務所タオルケットとか毛布とか無いもんな、なんて思ったりして少し嬉しい気持ちを隠しつつ背広の皺をのばす。

「霊幻さん、いいですよ、そんなの気にしなくて」
「いや、借りてたんだから」
「勝手に俺が貸してたんですよ。寒くなかったですか」
「ん。助かったわ」

 そう言って背広を手渡してやると、芹沢は「霊幻さんに風邪でもひかれたら困りますから」と、ヘコヘコしながらも笑う。俺は芹沢に出会ってからずっと、こいつのこういったところに弱い。
 はじめこそは新しい環境に慣れないのか、客に対しては勿論だが、俺やモブに対してもどう接していいか分からないといった感じで一線を引いていた。そして、事あるごとに社長はどうであっただとか、こういうとき前いたところではこうしていただとか言っていた。
 その都度俺は、随分と過去に囚われた奴だ可哀想にな、なんて思っていたが芹沢の過去といったら引きこもる前の幼少期に周りの奴らから気味悪がれていたことと爪というテロリスト集団のなかで期待されていたことの2つぐらいしかないのだから、まだ良いほうに縋りたくなるのも仕方がないはずだ。
 基本的に俺は面倒事は嫌いだが、芹沢のことは何とかしてやりたいと思った。あいつの社長だとかいう男から身を挺して俺を守ってくれた背中が、今でも記憶に鮮明に残っている。

「水飲みますか?」
「頼むわ」

 ソファーに座り直して、給湯室に入っていく芹沢を目で追う。
 そして、そんなあいつも、今ではこうして俺のために動いてくれているんだもんなぁとしみじみ思うと、優越感やら何やらも少しずつ生まれ出す。気付いたら、社長だったらと言っていた台詞は霊幻さんだったらに変わっていて、そのあまりの嬉しさに自分でも驚いた。
 いつの間にか、自分でも思っていた以上に芹沢に惹かれていたようだ。優越感が恋心に変わるのに時間はそう掛からなかったというわけだ。
 だから昨日、マッサージをしつこくねだってくる勘違い女に迫られているところを見られた時は肝を冷やしたし、一緒に夕飯を食うと思ったら折角だからと色々と買ってしまった。酒も、芹沢となら飲みたいと思って買った。我ながら阿保みたいに酒が弱いことを理解しているし、外だと芹沢が緊張するから、事務所でならいいだろうと。
 けど、やめといたほうが良かったかと、痛い頭と曖昧な記憶に少しだけ後悔をする。

「霊幻さん、水どうぞ」
「おお、悪いな。てか、俺昨日変なこと言ってなかった?」
「いえ、特には」
「あ、そう」

 差し出された水を飲みながら、安堵する。
 酔った勢いでそのままお前が好きだなんて言っていなくて良かった。もしそんなことを言っていたとしたら、今からこの痛い頭で弁解を考えなければならないところだった。
 やっとこうやって社会に少しずつ対応しはじめたんだ。それを、俺の勝手な都合で壊してはいけない。芹沢に対してできることは、モブと同じように相談に乗ってやることぐらいだろう。それで充分だし、それしかやってはいけないのだ。
 芹沢だってようやく軌道に乗り始めたところで、急に男に愛されてそれでそのまま初めてが男ともなれば、超能力を拒絶された以上のトラウマになりかねないんじゃないか。
 まあ、こいつだって普通に女が好きだろうしなと、水を飲み干したグラスをテーブルに置くと頭の隅で何かが引っかかった。何か忘れているような。

「あ!!」
「わっ……ど、どうしました?」
「そうだ女だ、今何時?」
「女?」

 そういや昨日のあの女と昼にご飯に行く約束をしていたのを思い出した。あまりにマッサージをもっとしろとしつこくなかなか帰ろうとしないため、じゃあ代わりにランチ一緒に行ってくださる?との申し出を受けたのだった。その頃だ、芹沢が事務所に入ってきたのは。
 その場しのぎだからといって、我ながらなんて面倒な約束をしてしまったのだろうと思う。
 壁に掛かっている時計を見ると時間は10時15分くらい。起きてからまだ15分ほどしか経っていない。今から急いで家に帰って準備をすればまだ間に合うはずだ。
 さらに腹立たしいことは、指定された店がここから随分と遠いこと。どうしてもあのお店がいいのって上目遣いでねだってくるのに、あーはいそうですかーと返事をしてしまった。その分、より急がないといけなく、本当に女のこういうこだわりと我儘は理解ができないし嫌気がさす。かと言って、こんなことでお得意様を一人逃がすのは惜しい。
 仕方がないと、全く以て気は進まないが、立ち上がって帰り支度をはじめる。鞄どこやったっけと、辺りを見回していると、不意に芹沢に腕を掴まれた。
 どうしたんだと言いかけて口をつぐんだ。掴まれている腕がギリギリと悲鳴を上げている。
 恐る恐る顔を見ると、瞳孔が開いた目が俺を見据えていた。ゆらゆらと揺れる髪に芹沢の意思とは別に超能力が発動していることが分かった。事務所にあるものもガタガタと音を立てはじめ、先程水を飲んでいたグラスは宙に浮き始める。
 なんだかよく分からないが相当不味いなと、どうやら芹沢は怒りで我を忘れている。一体どこで怒らせたんだ、分からない。
 とりあえず落ち着かせるように、できるだけ静かな口調で名前を呼んでやると掴まれていた腕を引っ張られた。

「まっ……ちょ、せりっ……ざ」

 衝撃に思わず瞑ってしまっていた目を開けると、数センチという近さに芹沢の顔があった。
 いつの間にか先程まで座っていたソファーに押し倒されており、俺の上には逃がすまいと芹沢が乗っている。

「……芹沢?」
「霊幻さん、すみません……」

 怒った顔とは裏腹に、喉の奥から捻りだしたような弱々しいその声に、ごくりと俺は喉を鳴らす。
 徐々に近づいてくる顔に、どうしようと俺が頭を働かせるよりも早く、芹沢が乱暴に口を重ねてくるほうが早かった。


◇◇◇


 俺がトイレに行っている間に寝てしまっていた霊幻さんに背広をかけてあげ、粗方片付けが終わった時にはもう深夜の3時を過ぎていた。今から家に帰るにしては問題がある時間だし、何より霊幻さんをこのまま一人置いて帰る気にはなれなかった。
 昨日は朝から仕事をして夕方には学校に行き夜遅くはどたばたと色々なことが起こり、そしてそのままこうやってご飯を食べた。
 怒涛の一日に、体力的にも精神的にも疲れが溜まっていた。それに運の良い事に今日は休日だ。このまま泊まっていってしまおうと思い立って、子供のような顔をして眠っている霊幻さんをちょっと可愛いなと思いながら事務所の電気を消した。

 次に目が覚めたのは窓から差し込んでくる光を煩わしく思った時だ。霊幻さんを見ると、変わらずその場でまだ眠っていて安心をした。
 霊幻さんはたまにふらっといなくなる時がある。大抵その理由は、昨日のようにコンビニに行っていただとか単純なことが多いのだが、それでも俺は毎回不安で堪らなくなる。この人に見捨てられたら俺はどうしていいか分からない。こんなことでは駄目だと思ってはいるのに、どうしようもできていなかった。
 このまま霊幻さんに社会での生き方を様々教えてもらっていれば、自然と自立していけるのではないかと考えていたが、どうも甘かったようで結果はその真逆だった。
 霊幻さんが傍にいてくれることに酷く安心をし、かけてくれる言葉一つ一つを嬉しく思い、一緒に食べるご飯は今まで一人で食べてきたものとは比べようもないくらい美味しかった。どんどんと、俺の人生には霊幻さんがいることが当たり前となっていっていた。
 雑用だってなんだって、この人に頼られるなら、それだけで心が明るくなった。それは、多分、尊敬しているから、だと思う。
 すぅすぅと寝息を立てている霊幻さんをちらりと見て、どうしてだか火照ってくる頬に、あまり見すぎるのも悪いなと思い、起こすことにした。時計を見るともう10時近い、いくら休日でも霊幻さんにだって何か予定が入っているかもしれない。

「霊幻さん、霊幻さん、そろそろ起きたほうがいいんじゃないですか」

 そう呼びかけても全く返ってこない返事に、今度は肩を軽く揺すりながら再び「起きてください、霊幻さん」と声をかけてみると、薄らと霊幻さんの目が開いた。
 気分が悪そうに頭を掻くようにして押さえる霊幻さんに水でも持ってきてあげようと思い、給湯室に向かおうとすると霊幻さんも立ち上がった。その拍子に俺が掛けてあげていた背広が床に落ちたが、それを霊幻さんはわざわざ皺をのばして、俺にはできっこないくらいに綺麗に畳んで返してくれた。
 こういった一挙一動に人としての優しさと大人としてのかっこよさが垣間見れて、つい数秒前まで眠っていた人とは思えない。
 すごいな霊幻さんはと感心しながら給湯室でグラスに水を入れて持っていくと、霊幻さんはそれをゴクゴクと飲みだした。本当にお酒が弱いんだろうな。

「てか、俺昨日変なこと言ってなかった?」

 思いがけず言われた言葉に、俺は寝る前の記憶を呼び戻す。
 楽しそうに影山くんの話をしたり、以前こんな客が来たんだと愚痴を言ったり、俺のちょっとした相談に親身になって色々と教えてくれたり、俺が携帯電話を忘れて取りに戻ってきたんだと言うとドジだなぁと笑ったり、どれをとっても霊幻さんが言う変なことには当てはまらない気がしたので、首を振った。すると霊幻さんは納得した様子で水を飲み干したかと思うと、急に焦ったような表情になった。
 ころころと表情を変えて楽しい人だと思ったのも束の間、次に霊幻さんの口から出てきた言葉によって俺の平和な思考はぷつりと切れるようにして止まった。

「女?」

 女がどうたらと霊幻さんは口にすると、慌てた様子で帰る準備をしはじめたのだ。もしかして、昨日のあの女のところへ行くのだろうか。何かしら予定はあるとは思ったが、それにしたってこれはあんまりだ。
 霊幻さんのその焦った様があまりにも気に入らなくて腕を掴んで制すると、怯えたように「芹沢」と名前を呼んできた。それに俺は心臓をギュッと握られるような感覚を覚えた。
 霊幻さんが俺を恐れている。幼い頃に周りの人達がそうしてきたように。
 嫌だ、と思ったらいつの間にか霊幻さんをソファーに押し倒していた。俺の下で霊幻さんは、喉を震わせている。
 「霊幻さんすみません」と、辛うじて残っていた気遣う心でなんとか詫びの言葉を捻りだして口付けた。
 霊幻さんに嫌われたと思ったら、訳が分からなくなった。俺を嫌わないでほしい、他の連中のように恐れないでほしい。
 霊幻さんを、俺のものにしてしまいたくなった。


◇◇◇


「あっ、せり……や、やめっ」

 最初に口付けられて、こんなことは駄目だとは分かっているのに、どこか期待してしまっている自分もいて、強く抵抗ができない。
 それでも、俺の体を力強く撫でていく芹沢の手を止めさせようと肩を押し返すと、邪魔だというふうに超能力で両手を一纏めにされ頭上で押さえつけられた。

「こ、ら……超能力を、人に使うな……」
「ちょっと、黙っててください」

 一つ一つ外されていくシャツのボタンに恥ずかしさを覚えて顔を背けると、芹沢は露わになった俺の胸を揉むようにして触れてきた。そのくすぐったさと、たまに触れられる突起のもどかしい感覚に身をよじらせる。

「あ……ンっ!」

 不意に突起を指で弾かれ、思わず漏れてしまった己の声が気持ち悪い。こんなものを聞かされれば芹沢も萎えるんじゃないと思ったが、もっと声出してくださいと、さらに攻め立ててくる。
 指先で摘ままれたり、指の腹でギュッと押しつぶされたり、見ずとも感覚で分かる程にピンっと立ち上がったであろうそこを、今度は舌で舐められる。

「ふっうぐっ……う」

 女と違ってあまり敏感ではない胸の突起を弄られただけで、徐々にズボンの中で質量を増していく自身に、超能力で押さえつけられたままの拳を力強く握って耐える。普通ならこんな弱い刺激で、ここまではならない。それが、今は相手が芹沢だからだろうか。
 芹沢は片方の手を胸から脇腹を撫でるようにして下ろしていき、俺のベルトに手を掛けると簡単にそれを外して、ズボンから抜き取った。慣れている様子に少々苛つくも、いきなりズボンの中に手が差し入れられてそれどころではなくなった。
 舌で胸を刺激されながら、自身を指で輪を作り握られるようにして強く上下に擦られる。自分で行う処理のときとは全く違った、大きな快感が沸き起こってくる。

「あぁ、うっ……あ、くっ」
「霊幻さん、気持ちいいですか」
「ン……せ、りざっ……!」
「なんですか」
「う、うで……はず、してぇ……っ」

 芹沢は顔を上げて俺を見ると、少し悩んだように眉を寄せたが、つい先程押さえつけたばかりの超能力をすぐに解いて手を解放してくれた。
 自由になった腕を俺は芹沢の首に回して抱き締める。すると、芹沢の動きがぴたりと止まった。

「え、あの……霊幻さんっ?」
「なん、だよ……」
「どうして……お、怒ってないんですか」
「怒ってな……いや、ちょっと怒ってる」

 俺が芹沢のために越えないでおこうとしていた一線を軽く越えようとしてくるこの行為に、今までの俺の我慢と努力は一体何だったのだろうという気になった。
 今ならまだ後戻りできるだろうか。いやもう俺も、多分芹沢もそんな気さらさらない。

「お前、なんか慣れてそうだったけど、初めてじゃねぇの」
「は、はじめてですよ……」
「そっか……それが俺でいいのかよ、普通に女とか」
「霊幻さんがいいんです」

 さっきまで怒りに任せて俺の体に触れてきていたのに、今はもういつも通りのおどおどしたそれでいて優しい芹沢に戻っていた。俺は、それにより一層頬が熱くなっていくのを感じた。

「れ、霊幻さん……」
「んー?」
「い、いれても……いいです、か……?」

 消え入りそうな語尾で恐る恐る聞いてくる芹沢に、いいよと頭を撫でてやると、優しく口付けをされた。何度か触れるだけのキスを繰り返してから、挿入されてきた舌に俺の舌も絡める。
 たまに吸ったり、軽く噛んだりして、漏れる吐息はどちらかのものか分からないくらいに、俺も芹沢も肩を上下させていた。ぬるぬるとした感覚に頭が真っ白くなりそうだ。

「霊幻さん……すみません、足いいですか」

 舌を抜いてそう言うと芹沢は、俺のズボンを下着と一緒に下ろして、膝を曲げるようにして持ち上げて足を左右に開いてきた。全てを露わにされ、中央で嫌という程に目立っている俺のものに芹沢は触れると、ゆるゆると刺激し始めた。
 先程とは違って優しいが直接的な刺激に思わずソファーに爪を立てる。
 すでに少し硬くなっていたそこは、芹沢の手の温もりと感触に合わせて脈動し、さらに熱を帯びていく。先端部分を掌で包み込んで円を描くように擦られると、先走りがくちゅくちゅと音を立てた。

「あ、あぁっう、ん……」
「霊幻さんっ……ちょっと、我慢してください、ね」
「ん、う……だい、じょぉぶっ……だか、らッ……!」

 芹沢は俺の先走りで濡れた指を自分の唾液でさらに濡らしてから、固く閉ざした部分に当て、じわりじわりと少しずつ中へと進めてきた。その異物感に足に力が入って、勝手に腰が持ち上がる。

「だ、大丈夫ですか」
「う、っん……くっ……つづ、けて」

 時間を掛けて入れられた指はやっと奥に到達し、そこから関節を曲げて内側を広げていく。色々な方向をまさぐられ異物感にも慣れ始めたが、指がある一点を押し上げた瞬間ぞわりと背が仰け反った。

「ぁあっあ、まっ……ま、て……せりっざ……」
「あっ……もしかして、ここですか」
「あぁ、あ……だか、らぁ……やめ、っン」

 いつの間にか、二本、三本と増やされた指で、執拗にそこばかり攻め立てられ、湧き上がってくる快感に歯を食いしばる。
 もう大丈夫だからと、動かしている腕を掴んで指を抜かせ、起き上って芹沢のベルトに手を掛けた。自分でやりますから、と言っている芹沢を無視してそのままチャックを下ろし、芹沢のものを露出させる。まじまじと眺めると、恥ずかしそうに再び押し倒してきた。

「でかいな」
「も、やめてください……」

 耳まで真っ赤にしながら俺の胸に顔を埋めるのを見て、本当にからかいがいがあるなと思った。もう少し悪さをしてみたくもなったが、下手して超能力が暴発しても困るので、悪かったよと頭を撫でてやる。

「続き、しようぜ」
「は……はい」

 顔を上げると芹沢は充分に慣らされた俺のそこに自身のものを宛がう。熱い感触に、意識して力を抜けば、それは内側へと潜り込んできた。
 ちゃんと慣らされていたといっても指とは全然違う質量に痛みが伴い、芹沢の背中に腕を回して強く抱きしめることによって気を紛らわす。

「れ、霊幻さん……だい、じょうぶですか」
「ん……ゆっくり、な」

 胸を上下させ息をなんとか落ち着かせると、緩やかな芹沢の動きは痛みを徐々に緩和させていき、段々と馴染んでいった。できる限り力を抜いて、身を任せる。
 早くなっていく動きに、熱い息を吐き、芹沢を抱きしめながらじわじわと込み上げてくる快感に目を瞑る。

「ぁあっんん……っ!」
「霊幻さ、ん」

 芹沢の呼吸も乱れてきて、はぁはぁと上がった息が聞こえてくる。
 入り口付近まで抜かれて、また奥へと入れられるその動きは、時折芹沢が指で弄っていた俺の気持ちの良いところを掠めて、その都度意図せず声が漏れていく。

「あ、あぁ、っう!」

 ガクガクと揺さぶられ、腰が打ち付けられるたびに、水音が事務所内に響く。
 芹沢は腰を動かしながらも、前にも触れてきて、手で上下に擦ってくる。その2つの刺激に耐えられなくなって、芹沢の背中に爪を立てた。

「あ、ああ、もっ……もう、イク……ッ!」
「お、おれも……霊幻さ、んッ」

 一番深いところを突いて、芹沢は俺の中に注いだ。その刺激と熱さに、続けて俺も堪えられなくなり、芹沢の手の中に放った。受け止めきれなかったものが、パタパタと自分の腹に落ちたのが分かった。


◇◇◇


「すみません!すみません!」と何度も土下座しようとする芹沢を止めるのも流石に飽きてきた。
 あれから我に返った芹沢はすぐに俺の上から飛び退き、なんてことをしてしまったんだと、この世の終わりのような顔をした。今にもまた引きこもりかねないその様子に、とりあえずこのままじゃぁあれだし、と先に片付けだけしようぜと肩に手を置いてやると、存外聞き分けも良くしおしおと散らばった俺の衣服なんかを拾い出した。
 そこから色々と全てが終わる頃にはもう時間はお昼近くになっており、多少時間を置いて少し冷静になったのであろう芹沢は改めて俺に謝ってきた。

「すみません……あの、本当に俺、どうしたらいいか……」
「だから、どうもしなくていいって」

 そうは言いつつ、実際のところは、全て何もかも問題がないといったわけではない。
 こうして男の俺と関係を持ってしまった以上、芹沢を一般的な社会人に育て上げるといった計画は見事に崩れてしまった。
 好きな奴だからこそ、まともな人生を歩ませてやりたかったんだが。と、流された俺も悪いなと思って頭を掻くと、そんな俺を見てまた悪いほうに思考を巡らせたのだろう芹沢は、どうしようどうしようと呟く。そして、それをなだめてやるという繰り返し。

「でも……」

 まだ何か言いたげな芹沢を静止させるように、俺の携帯電話の着信音が鳴り響いた。それに芹沢は、びくりと体を強張らせる。セックスしていた時とは大違いだなと、縮こまる芹沢を横目に、携帯電話を開く。すると、ディスプレイには例の女の名前が表示されていた。
 完全に忘れていたと、時計を確認すると約束の時間まであと数分というところだった。タイムオーバー目前に、あーあ、と心の中で呟き携帯電話の電源を切った。
 どうせもう、たとえ間に合う時間だったとしても、行く気は一切なかった。
 携帯電話をぽいっとテーブルの上に放るようにして置くと、芹沢の震えた声が聞こえてきた。

「あ、あの……霊幻さん、行っちゃうんですか」
「どこに?」
「それ、昨日の女の人なんじゃ……」
「お前にしては、鋭いな」

 やっぱりと、悲しそうな表情を浮かべる芹沢に、いいから座れと促す。俺の向かいに座った芹沢は頭を垂れて、じっと地面を見つめている。
 それに、何を勘違いしてるか知らないけど、と俺は話し出す。

「あれは、ただの客だ。そして、恐らくたった今縁が切れた」
「え、あっ……え?彼女とかでは……」
「ない。俺モテねーし」
「そんな!霊幻さんは俺と違って、かっこいいし落ち着いてるし空気読めるし、絶対モテますよ!」
「はいはい、そりゃどうも」

 他にも霊幻さんはこんなところがすごくて、とむず痒い話を永遠続けられそうだっため、それを早急に制し、論点を元に戻す。

「で、他に聞きたいことあるか。不安に思ってることとか、あるんじゃねーの」

 俺のその言葉に、表情を一瞬にして曇らせて、視線を落とす芹沢。ぽつぽつと浮かぶ冷や汗に、何をそんなに心配しているのだろうと。

「俺のこと、嫌いになったりだとか……」
「全然ないから」
「えっでも、その」
「欠片もないから」

 何度もそう言ってやると、芹沢もやっとそれが事実だと受け入れ始めたのか、表情が明るくなってきた。
 そもそも、あんなに受け入れてやったのに、どうして俺が芹沢を嫌っているのではないかという疑問が浮かぶんだ。お前は嫌いな奴とセックスするのかよ。少なくとも俺はしない。体だけの関係なんてそれこそ面倒くさいもの。いつ縺れて、ぐだぐだな感情論に付き合わされるか分からないし、それなら一人で抜くほうがはるかにマシだ。

「俺、あの女の人が霊幻さんに近づくのが、どうしても嫌で」
「うん」
「霊幻さん。俺、霊幻さんが好きです」

 涙交じりのその声に、ほらお前も同じだろうと、気付かれないように苦笑する。まあ、こいつとならきっと何とかなるだろ。
 俯く顔を覗き込むようにして、「俺もだよ」と言ってやった。

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