洗面台に置いてあるコップには歯ブラシが二本並ぶようになった。洗濯機も一日おきにしか回ってはいなかったものが、毎日忙しく動くようになった。色々と変わったことはあるけれど、一番の違いは左手の薬指で遠慮がちに光っている銀の指輪だろうか。


「まだそんなの持ってたのか…」


ケンジは不機嫌そうに声を上げた。先程までは明るい声で藤田と会話をしていたのだけれど。たった一つのものを見た途端、眉根を寄せた。
今日は二人とも用事がなくのんびりと起床し、遅めの朝食を済ませた。そして何をするわけでもなく、二人でソファーにならんでテレビを見たりゲームをしたり。もう何度も繰り返していること、日常とまで呼べるようになったのではないだろうか。
そうして昼食も済ませて、いよいよ何をしようかと。二人で悩んだ末、ふと目に止まった山積みの雑誌や無造作に並んでいる空き缶、結局掃除をしようかということになった。前にしたのはいつだっただろうか、男二人の生活なんてこんなものである。

がさごそと藤田が押入れの中を探っていると、見覚えのある黒い筒状のものがころんと落ちて出てきた。何故こんなものがここにあるのだろう、自分のものは実家に置いてきてしまっているしあるはずがない。それならば藤田のものか、とケンジは思った。
あれから二人は暫くはケンジのアパートで暮らしていたが、やはり少し狭いということで思い切って広めの部屋を借りた。二人で選んだものだけが部屋を埋めていく、他人の関与は一切受けない。それは二人が望んでいたことだった。


「あー懐かしいね」

「いや、マジでなんでまだ持ってんの」


ケンジの言葉に藤田は軽く笑うと、よいしょっとと押入れの中から出てきて床に落ちている賞状筒を拾った。蓋こそは開けないけれどまじまじと見てから、はいっと言ってケンジに渡した。ケンジはそれを渋々受け取るとめんどくさいなぁと呟いた。
ケンジにとってそれを見るのは二、三年ぶりだった。今の今まで存在すら思い出したことはなかったし、記憶に新しいものではなかったがそれでも思い返せばまるで写真のように鮮明に想像することができる。そういえば此方に来るときも全く同じようなことをしたなとケンジは苦笑いをした。あの時は押入れから落ちたこれを見た瞬間に嫌悪感を抱いたが、今はそれほどでもない。変わりに羞恥心が溢れてくる。


「でも普通ここまで持ってくるか?」

「あーだってこれケンジのだから」

「は?」


藤田の言葉に少し戸惑いつつも急いで蓋を開けて中に入っている卒業証書を確認すると、雨で滲んだ文字だがなんとかケンジと自分の名前を確認することができた。そういうことならば未だ実家にあるものは自分のものではなくて藤田のもので。嫌がってあまり中を見なかったのと、雨の滲みが酷かったのとで気が付かなかったのだろう。どこで入れ違いになったのだろうか、屋上にいたときだろうか。流石にそこまでは思い出せない。


「自分のじゃこんなところまで持ってこなかったよ」


高校の卒業式の後、家に帰った藤田は賞状筒を開けて自分のものではないことに気が付いた。自分のものならば焼こうが切り刻もうが勝手だけど、人のそれもケンジのもということで藤田は引越しをした後もいつまでもそれを大切に持っていた。押入れにさえ入れず、いつかきっと返してあげようと。大学生時代はそれをいつも見て過ごしていた。
ケンジのものを何か一つ近くに置いておきたい、そう無意識に思っていたのかもしれない。藤田にしろ、依存心は強かった。


「はい、それもう返したからね」


その言葉を聞くとケンジは持っていた卒業証書をびりびと破きだした。それに藤田は驚いてどうしたのと聞くが、自分のものに何をしようと自分の勝手だろとケンジは胡散臭い笑みを浮かべると可燃ごみのごみ袋に突っ込んだ。細かく破かれたそれはみるみるうちに隙間へと入り込み奥へ奥へと進んでいく。もう他のごみと混ざってしまって、どれだったかさえ分からなくなってしまった。


「何で?」

「だってもういらないし」


過去への依存心と嫉妬心を具現化したようなものだった卒業証書と賞状筒。目の前に藤田がいる以上、それは全くのお門違いだ。過去と同等いやそれ以上のものを手に入れた今、嫉妬を受けるのはこの瞬間にいる自分だろう。しかしもうそんな感情を生まれさせる気は一切ない、藤田を手放すなんてもう二度とやるものかと。きっと拒絶されようと追いかけるだろう。そんなことを思っている自分に、ケンジは嫌気が差したが仕方がないと諦めた。一生治ることのない病気みたいなもの。

藤田はケンジの言葉に始めのうちは疑問を抱いていたが、暫くしてそういうことかと納得をしたようだった。自分もケンジもどうやら同じなのだと。


「じゃぁ俺のも返してよ」


自分のものが戻ってきたら、どうしてやろうかと。ケンジのものと同じように破くのもいいかもしれない。それはいつになるかなぁと藤田は遠いであろう未来を見つめた。


「そうだな…じゃぁ俺の実家くる?」

「え、いつ?」

「じゃぁ今から」


ケンジのその言葉に藤田は思わず大声を上げた。自分はともかくケンジは明日は仕事だ。今から行って今日中に帰って来れるなんて思えないし、来れたとしても明日に支障がでることは間違いないだろう。あまり無理はさせたくなかった。別に来週とかでいいよと藤田は言ったが、ケンジは呑気に休めばいいだろなんて言っている。一日くらい大丈夫と、既に会社に電話をかけ始めた。こうなってしまったらもう止められはしないだろうと、仕方なく藤田も支度をし始めた。「ちょっと風邪を引いてしまいまして、医者に二、三日は外出を控えるようにと…」なんて声が聞こえてきて、まったく何歳になっても相変わらずだなと藤田は苦笑いをした。


「きっと弟もお前に会いたがっているよ」


いつの間にか電話を終えたのか携帯をポケットに入れながら言う。


「今、高校生だっけ?」

「そうそう」

「俺、小学生の頃以来見てないなぁ」


懐かしいなと思い返してみると、嫌な思い出しかでてこなかったのでそれ以上はやめておいた。会っていたのは狼男になっているときばかりだったから更に記憶も曖昧だけど、なんとなく掌が疼くようだった。未だに少しだけ傷跡が残っている。


「あの時の写真残ってるけど見るか?」

「見ないよ!ていうかいい加減消せよ!」


何台も携帯を買い換えているはずなのにまだ残っていることは驚きであったし、加えて藤田にとっては有難迷惑だった。それほどのものなのかなぁと、学生の頃に聞いたことがあったが、大事だと即答された覚えがある。きっと今聞いてみてもその答えは変わっていないだろう。

最小限の荷物だけを持って部屋を出た。雲一つ無い空とその下で無邪気に駆け回る子供達が真っ先に目に入ってきた。しかし今日は本当に天気が良い。そういえば高校の入学式は卒業式と違って、このように綺麗に晴れていたっけと二人は思いだしていた。


「でも、卒業証書なんてものにこんな時間割かなくてもよかったんじゃない?」

「あぁ、だって目的それだけじゃねーし」


ケンジの言葉に藤田は何かあるのかなと不思議そうな顔をする。それにケンジは笑うと、あのなと話し出した。


「親に藤田との関係をちゃんと言おうと思うんだ」


思わず藤田は足を止め、それに合わせてケンジも立ち止った。その言葉には強い意志が込められていて、藤田は俺もしっかりしないとなと思った。ケンジの家に着いたら軽く挨拶をして、同じように卒業証書を破り捨てよう。そして報告を無事に済ませたら、俺の家にも寄ってもらわないと。そう考えると一気に緊張感が増してきた。それを感じ取ったのかケンジは大丈夫だよと、藤田に笑いかけた。「何が何でも守ってやるよ、俺はお前の夫だぜ?」なんて余裕そうな笑みは昔からよく見るケンジの顔だった。この表情に何度助けられてきたことか、藤田はそうだなと笑い返した。


「よし、じゃぁ行くか」

「うん」


そうして二人は再び歩き出した。

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