男はだんまりを決め込んだ。例えるならそう、苦虫を噛み潰したような面、を貼り付けながら。可笑しくて仕方がなかった。疾うにカットは掛かった筈なのに、クラウンは未だその仮面を外す事をしない。こうまで感情移入してくれるだなんて、脚本家冥利に尽きるね。それにしても、とんだ指示待ち人間だ。一体何処まで、彼は俺を楽しませてくれれば気が済むのだろうか。
愛しのハニーを視線だけで見送りながら、ひたすらその余韻に浸る。残響は俺をこの上なく震え上がらせ、昂らせる。ヒール顔負けの哄笑さえ披露してしまいそうだった。この行為に意味があるのかと問われれば、自信を持ってノーと答えよう。目眩く悪循環にただ陶酔していたいだけだ。出番を待っている駒をほんの少し動かしてやるだけで、こうも思い通りに事が進むのだ、これ程陳腐で滑稽な事はないだろう。
彼が何故そんな顔をするのか、俺には皆目見当も付かない。大嫌いなジャンカルロを抱くのがそんなに嫌だったのか、それとも余りにも手応えのない芝居に憤慨しているのか、はたまた抗えない自分自身にか。そのどれであろうが興味がない事に変わりはないし、彼に対して何の感情も抱かない俺が、その答えを見出せる筈もなかった。男は動かない。動けない。当然と言えば当然だ、この先の台本がないのだから。その顔を直視する事が出来なかった。彼の憤慨するそれは、ただのジョークでしかない。お前はお前にしか出来ない役目を果たしたんだ、誇れば良いじゃないか。
「笑ってくれよ、ルキーノ」
そういえばあの時も、お前はこんな顔をしていたな。下唇を噛み締めて、何処か憐れむような色を滲ませて。何をする事も叶わず、ただ立ち尽くすのみなのだ。何処までも間抜けな道化。しかしながら、頭の片隅でその渾身のパフォーマンスを見ていたい気もするのだから我ながら質が悪い。所詮はないもの強請りだ。お前もそうなのだろう。なあ、ルキーノ。喉から手が出る程に、俺が欲しくて欲しくて仕方がないのだろう。大嫌いなジャンカルロを抱く事を厭わない程に。大好きなベルナルドが目の前にいるにも関わらず動く事を忘れたそいつに、揶揄するような声音を向ける。
「なあ、どうだった」
俺のジャンカルロの味はどうだった、なんて野暮な事は聞かない。この男は、葛藤に咽びながらも、俺を喜ばせる快感に浸っているのだ。自ら望んでその悪循環に身を投げた心地は、一体どんなものなのだろう。この俺が言葉の羅列で理解出来るものなら、是非噛み砕いてご説明願いたいね。期待に溢れた眼差しに気付いただろうか、ゆるりとこちらに視線が向けられる。くっ付いていた唇が漸く離れたかと思うと、感情を押し殺しているのだろう、やけに落ち着き払った音が絞り出された。
「…何が、だ」
「てっきり、ジャンを通じて俺の唇の味を楽しんできたのかと思ったよ」
かっと見開かれる双眸。言う前から分かっていた事だ。随分と情熱的なキスをする男だ、と思ったまで、だ。それが女々しくも俺の余韻を少しでも味わおうと躍起になって貪っていたのかと思うと、腹が痛い。男は、否定をする事さえ忘れてしまったのだろうか、それとも、俺に失望しただろうか。ぎりりと奥歯を噛み締めた音が、こちらまで聞こえてきそうだった。
舞台は急速に加速していく。彼は躯ごとこちらに向き直る。実にありがちな立ち回りだ。ぐちゃぐちゃになって何処から手を付けて良いか分からないその思いを、ただひたすらにぶつけて無様な告白をするのだ。
「お前…っ!…ジャンはお前の、」
「ああ…恋人、だね」
言葉でしか理解する術がないという意味では、この男も同類なのかもしれない。だったら何だと言うんだ。お前はそれを断る事も出来ただろうに。俺は、ただ弾を込めただけ。それを勝手に取り上げて引き金を引いたのは、他でもないお前じゃあないか。それなのに、一体どんな面で糾弾しようと言うのか。おこがましい事この上ない。
「意外だったよ、お前がジャンを気に掛けているなんてね」
嫉妬に狂うのは、寧ろ俺の方でなければならない筈なのに。ごっそりその感情だけ抜け落ちてしまったかのように、喉からはさらさらと思ったままの音が流れ出る。一歩ずつ確かめるように、言葉を返す事も出来ない男との距離を縮めて、双眸を見据えた。そうだ、その渇望に似た眼差し、それがお前にはお似合いだ。自然に頬が緩む。
手を差し伸べる。意図が分からない、と言うように眉を顰めながらも唾を嚥下させた彼に、口角は上がりっぱなしだった。既に緩んだネクタイをぐいと引っ張って、そっと口付けてやる。これは、俺から彼にしてやれる最初で最後の。
「愛しているよ、ルキーノ」
俺の思い通りに動くお前を、ね。
するりと腕を回して躯を引き寄せ、その確かな抱き心地にほくそ笑む。昂揚した躯を見せびらかすように腰を押し付けて、耳へ熱い吐息をひとつ。男はびくり、と柄にもなく肩を震わせた。嗚呼、傑作だな、ルキーノ。ファンクーロ、とぽつりと響いた音は独言以外の何でもない。それを言ってしまえば、俺は何時から、独り舞台を続けているのだろうか。震え上がる躯は、きっとまたその残響に酔っているから。
そうだ、ジャンに会いたい。愛情も熱情も劣情も何もかもぐちゃぐちゃに織り交ぜられた感情を全て向けられたい。その体温を感じたい。ほんの一時も離れたくないんだ、嘘なんかじゃあないよ。空っぽの俺を満たしてくれる存在、それがお前。俺の、ジャンカルロ。次々に湧き上がる思いは、決壊してしまいそうだ。第三者に力任せに押し倒されながら、愛しのハニーだけをひたすらに思う。ほうら、そうするだけで、目を背けたくなる現実にさようなら。
ドアを叩く。それは許可を得る行為ではなく、確認の行為。ノブを回して、中へと足を踏み入れる。彼が鍵など掛けている筈もない。俺が、こうして追い掛けてくると分かっているのだから。こうして見ると、俺はジャンカルロの描いた台本通りに動く優男、なのかもしれない。彼にとって、これ程陳腐で滑稽な事もないだろう。(しかし俺はそれを心の底から望んでいる)
ベッドの中で蹲る彼は俺の姿を認めると、がたがたと躯を震わせた。嗚呼、可哀想に。怯えているんだね、ジャン。その細腕で自分の躯を抱きながら、どうして良いか分からず顔色を窺う不安げな瞳。今すぐに逃げ出したいにも関わらず、俺に逃げられないように抱き締めて欲しいんだろう?俺に、慰めて、欲しいんだろう?その葛藤、たまらないね。こんな時、どんな顔をすれば良いのか俺には分からないけれど、お前が望むなら何にだってなろう。何故かって?決まっているじゃないか、誰よりもお前の事を、
「あいしてる、ジャン」
限りなく陳腐な音の羅列。俺に向けられたその双眸がぐらつくのがありありと分かった。躯を引き寄せ、お望み通り強く、抱き締めてやる。泣きそうな顔をして言葉を忘れたままのジャン。そうしているお前も可愛いよ。イイ子でいられたご褒美に、蕩けるようなキスをあげよう。夢のような話だろう?なあ、知ってたか、ジャン。俺だって、ハニーとこうして一緒にいられる事自体、夢のようなんだよ。俺は誰よりも臆病で、誰よりも人間らしいんだ。だから、意味などないと知りながらこうして悪循環に溺れるんだ。(そう、いいきかせる)音もせず触れるだけで離れた唇。それだけで十分だ。目の前には潤んだ瞳。今にも涙が溢れそう。
「やっぱり、俺にはお前がいないと生きていけないんだ」
泣き崩れながら声にならない声を押し出すジャン。その腕は確かにこちらへ回され、何処にも行くな、とでも言いたげに力が込められていた。そうして俺は、また自分の首を絞めて歓喜に打ち震える。救えない自覚はある。がんじがらめになっていないと、どうにかなってしまいそうなんだ。酷く甘ったるい声音を耳元で震わせて。彼は、俺は、心地好い悪循環に陶酔する。
俺をどうしようもない男だと罵倒する人間がいるのだろうか。この世界にはたった二人きり。(それと頭数にもならない奴らだ)そもそもそんな人間がいるとすれば、それは別の世界で生きているのだ。こちらに干渉してくる事はない。この世界の人間は、自らの意志で、舞台に上がっている。それも、終わる事のない喜劇の。
病み付きになる
(これを悪夢だと陳腐な喩えをするなら、一体誰の見ている夢なのだろうね。何れにしても、目覚める術を知らない俺達には踊る事しか出来ないのだ)
101208