妙に現実味がなかった。地に足は着いているのに、浮遊感に似た心地好い感覚が躯を纏う。何でも出来ると紛う程の高揚感に見舞われ、まるで自分の支配する世界でヒーローにでもなったかのような、どうしようもない夢想が頭を過ぎる。下らない。俺はこんなロマンチストだったか。きっと疲れているのだ、そうに違いない。ここ数日まともに寝ていなかったから、いよいよ限界を訴えているのだろう。おめでたい頭は、一瞬ハニーの顔をちらつかせた。嗚呼、ジャンに逢いたい。顔を見たい。その躯に触れたい。短絡的だと罵られても構わない。今は仕事よりもベッドよりも、ジャンが恋しかった。
 それからは記憶が曖昧だった。どうやって部屋に戻ったのかも、何時シャワーを浴びて着替えたのかも覚えていない。意識が飛び飛びになる程に疲れていたのだろうか。はっきり覚えているのは、ジャンの顔を見た途端にきつくその躯を抱き締めていた事だ。泣き付く餓鬼をあやすように背中を優しく叩かれたかと思うと、疲れてるならマッサージでもしてやろうか、なんて甘美な羅列が耳を擽った。これは一体何のご褒美なのだろうか。
 ぐらつく意識を持て余しながらベッドへ寝転ぶと、間髪入れずにジャンが覆い被さってきた。この上ない幸福感に包まれながら、彼へ腕を回そうとすると。ふと手首を掴まれ、頭上で一纏めにされた。突然の事で思考がそれを追うのに時間を要していると、がちゃりという手錠の虚しい音が聞こえた。捕まるのはもう懲り懲りだと言うのに。これは一体何の冗談なのだろうか。

「おい、ジャン…?一体、何を…」
「大丈夫。お前は、俺に全部委ねてればそれでいーの」

 それでも疲れているダーリンをご奉仕するには、少々演出過剰というものではないか。そんな文句の一つや二つ、言ってやりたいつもりだったが、何故だか口からは否定の言葉は発する事が出来ず、寧ろその演出を期待するかのように、またあの高揚感に見舞われた。とうとう俺はどうかしてしまったのだろうか。金魚のようにぱくぱくと口を開閉させる事しか出来ないでいると、ジャンは、にやりと口角を吊り上げた。どう見てもそれは悪巧みしているとしか考えられないのに、どきりと胸が高鳴るのを知覚する。まるで、彼に与えられる快楽を知っているかのように。

「なあ、ベルナルド…喉渇いてねえか」

 そう低く囁かれると、確かにそんな気がした。それは喉を渇いているのを彼が知っている、と言うよりは、彼の言葉によってそう誘導されているような。しかしこんな不可解な状況にも特に疑念を抱く事もなく、思考は形にならないまま過ぎ去ってゆく。そして気付けば、肯定を表すように首を縦に振っていた。これではまるで、彼の支配する世界に迷い込んでしまったようだ。
 俺が頷いたのを認めるとジャンは、唇を重ねてきた。久し振りの柔らかい感触に思わず目を細めて、ゆっくりそれを堪能しようと思えば、突如として唾液が送り込まれる。ねっとりと絡み付く生温かいそれは、不思議と甘かった。それをゆっくりと味わいながら嚥下させる。もっと飲みたいと思うまでに、少しの時間も要さなかった。その意図を汲んだか、ジャンは次から次に唾液を飲ませてきた。飲めば飲む程、もっと欲しくなる。極上の甘露をただただ貪ろうと、我を忘れてはしたなく唇を突き出し求める。それは何時の間にか、快感に掏り替わっていた。

「は、ぁ…っあ、ん、ん…」

 感じている声をこうして惜しげもなく漏らすのが、こんなに気持ち良いとは思わなかった。眼前のだらりと出された舌に見惚れていると、首へ唾液を垂らされる。嗚呼、もっと汚して欲しい。自由にならない両手が憎くて仕方がなかった。今ならきっと、彼を離すまいと縋り付くのだろう。
 飲みきれなかった唾液で濡れた唇と指が徒に戯れたかと思うと、それは胸へと滑らされた。ジャンが触れた箇所が熱を持ったように熱く、疼いていた。触られただけで躯が跳ねると、彼がふ、と柔らかく笑むのが見えた。包み込まれるような表情に、何だか、全てを赦された気がして。良い歳した大人が、こんな浅ましい姿を曝していても良いように思えてくる。頭がぼうっとして、何が正しくて何が間違いかさえ分別出来そうになかった。
 少し湿った感触が、乳首を掠めた。小さく声を漏らせば、ジャンは指の腹で優しくこね回してきた。躯の奥底から、ぞくぞくと快感がせり上がってくる。

「ほら、ベルナルド…こうされるの、好きだろ…?」
「は…っあ、ぁ、…ま、待、ってくれ…ジャン…」

 混濁する意識。僅かに残った理性とやらが、どろどろに溶けた思考をどうにか形作ろうと呼び戻す。確かに、気持ち良い。けれど、好き、というのは語弊があるのではないか。俺はそこを弄られた経験もないし、況してや好きである筈もない。これは、俄には信じがたいが、ジャンに操作されてそうなるように仕組まれているだけなのではないか。
 否定を封じられた今、制止を求めるのでさえ、思ったよりも力が必要だった。絞り出すのは、か細く頼りのない音。自分が自分でなくなってしまう事を畏れる俺に、彼は、また微笑んで。優しく、甘い声音が、耳を擽った。

「良いんだ、これは夢なんだから」
「…夢、…?」
「そう、夢。目が醒めたら、どうせぜーんぶ忘れてるんだ」

 そうか、夢か。現実味がないのも、何でも出来るような高揚感も、下になっているのに何の違和感も覚えないのも、ジャンに汚されたい、愛されたいと思うのも全て。夢だから、なのだ。錯乱する頭は、目の前に提示された答えに縋り付くしか出来なかった。

「だから、お前はただ気持ち良くなってればいい」

 意識に直接侵蝕してきた音色に揺り動かされ、今度こそ俺は理性をかなぐり捨てた。そうだ、何も考える事なんて、なかったじゃないか。それより、早く、続きをして欲しい。俺の好きな、ところを、全部触って欲しい。

「触るだけで良いのかよ?」

 いやだ。触るだけじゃ、足りない。奥まで暴いて、ずたずたにして欲しい。ジャンが、欲しい。譫言のように彼の名前を呼ぶ俺は、もうそれ以外の言葉を忘れてしまったかのようだった。
 思考と同様に、どろどろに融解した視界ではうまく姿を捉える事は叶わなかったが、ジャンが笑う気配がした。嗚呼、ジャンが笑ってくれるなら、もう、何でも良い。乳首を指で挟まれ、ぐりぐりと乱暴に刺激を与えられる。もっと強くして欲しい、と願えばそれだけ痛く、酷く責め立てられた。爪を立てられ、思い切り摘まれ、それでも俺は、もっともっとと懇願していた。

「…そろそろ、我慢出来ないだろ」

 痛いくらい屹立したペニスに、ジャンのアヌスが宛てがわれる。どうやら俺を愛撫しながら後ろ手で解していたらしい。焦らして俺を追い詰めるつもりなのか(これ以上逃げ場などないと言うに)だらしなく溢れる先走りをそこに塗り付けたかと思うと、ゆらゆらと腰をくねらせて行き来する。俺が我慢出来ない、と知っていながら。願っても、請うても、それを楽しむように笑うだけ。
 早く、早く、お前に入れたい。悲鳴にも似た叫びが、喉から溢れ出る。

「っ…ジャン、ジャンっ…!」



 がばっと反射的に上半身を起こしたところで、自分の叫び声で目が覚めたのだと気付く。心からの声とも取れる叫びは、妙にリアルな夢、と重なっていた、気がする。そう言えば昨日は疲れてベッドで寝る事にしたのだった。寝言で起きたなんて生まれて初めてかもしれない。何に必死になっていたかは思い出せないが、暑くもないのに額にはじっとりと汗が滲んでいた。喉はからからだ。

「…なーにダーリン、朝っぱらから恥ずかしい寝言で起こさないでくれるー?」

 血が上ったように興奮していた俺は荒い呼吸を肩で落ち着けながら、隣で呆れ顔をする恋人を怖ず怖ずと見やった。そんなに情けない顔をしていただろうか。何だよ、と朗らかに笑う彼は、何時ものジャンだ。何時ものジャン?何を考えているんだ、俺は。ジャンはジャンじゃないか。
 一人ほっと溜め息を吐いていた俺に、ジャンはあやすように髪を撫でてくる。相変わらずの口調は健在だ。

「ベルナルドおじさん、良い歳して怖い夢でも見たのかしら」
「あ、ああ…よく覚えていないんだが…そんな気が、する」
「気がする、って…曖昧だなー」

 はあ、と今度はジャンが溜め息を吐いた。その表情には先までの呆れはなく、憤りに似た色が浮かんでいた。

「…でも、随分魘されてたぜ、あんた。疲れてんなら、無理すんなよ」
「悪いな、お前に心配掛けるつもりじゃなかったんだ。自分なりに気を付けているつもりだよ…昨日だってお前の顔が見たいと思って、こうして、」

 はっとした。その続きが、思い出せない。思い出そうとしても、それをしたくないと本能が訴えているように、頭がずきずきと痛む。俺は昨日、ジャンを目の前にしておきながら、そのまま、ベッドで深い眠りに就いてしまったのだろうか。それとも、
 治まらない痛みに頭を抱えながらも、記憶の糸口を手繰り寄せようと思考を張り巡らせていると、ふわりと、何処かで聞いた事のある歌うような優しく甘い声音が、耳を擽った。

「…なあ、ベルナルド、夢は願望を表すって知ってるか」




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