21Q 2
 第3Q、それまで緑間によって突き放されていた誠凛は、火神の驚異的な成長によって秀徳との点差を詰めていた。
 このまま、火神が秀徳を圧倒し、いけるのではないか。
 一部の部員達はそう思っていたことだろう。
 けれど白美が事前予告していた通り、疲労の上にジャンプを重ねた火神は終盤、ガス欠を起こしてしまった。
 黒子や白美の件が残っている、まだ希望はある。
 けれども、緑間を防ぐ直接的な有効手段を失った穴というのは、あまりに大きい。 
 更に、動けない己への苛立ちに頭に血を登らせた火神の、独善的プレーが、チームワークをかき乱そうとする。

 丁度その悪い流れを止められるタイミングでインターバルが来たというのが、せめてもの救いか。
 けれども、誠凛のベンチは重く殺伐とした空気に支配されていた。
 溜息に近い息が、選手達の口から洩れる。

 ベンチメンバーやリコは、戻ってきた選手達にベンチを譲り、彼等と向き合う様にバラバラと並び立つが、進んで口火を切ろうとするものは、なかなかいない。
 黒子も白美もすっかり黙り込み、特に白美などは、相変わらず長い髪を垂らして黒子の傍らで俯いていた。

「くそッ……!」

 が、この空気を作り出したともいえる本人は、周りの雰囲気などちっとも気にしてはいなかった。
 背を丸め貌を歪めて、火神は早々に悪態をつく。

 隣に腰掛け、タオルで身体の汗を拭きとっていた伊月は、あからさまにイライラしている火神を諌めにかかった。

「火神。熱くなり過ぎだ。もっと周りを見ろよ!」

 火神の反対隣りで眉間に皺を寄せていた日向も、続けて口を開く。

「そうだ。それにさっきのは行くとこじゃねえだろ。一度パスして――」

 一度パスして、そこからまた攻め直すべきだった、と日向は言おうとする。
 けれど、据わった眼をした火神の底を這う様な低い声が、それを遮った。

「戻してパス回してどうすんだよ」

「あ?」

「現状秀徳と渡り合えるのは俺だけだろ。今必要なのはチームプレーじゃねえ。俺が点を取る事だ」

 白美は、ひっそりとまた、笑う。
 あまりにも、自己中心的。
 それを聞いた、ベンチの面々は顔色を変えた。

「おい、何だよそれ!?」

「それと自己中は違うだろ!」

 抗議の声があがる。

 と、その時だった。
 火神の目の前に立っていた黒子が静かに、一歩、前に踏み出した。

――黒子が、動いた。
 彼を逐一観察していた白美は、咄嗟に視線をちらりと黒子に向ける。

(おっと――?)
 
 火神がワンマンプレーに走ることで、秀徳を抑える代わりに、黒子が傷つくことを白美は知っていた。
 黒子がそんな火神に、何を思うかも知っていた。
そして、このインターバルで黒子が火神の軌道修正をするだろうことも、予想していた。

 だが、黒子の纏った空気を至近距離で感じ、白美は反射的に黒子が何をするつもりか悟った。
 咄嗟に身体を動かす。

――黒子が火神の頬に向かって拳をつきだしたのと、白美がその間に割って入ったのは、ほぼ同時だった。

 黒子は、火神の左頬を力いっぱい殴ろうとしていた。拳にあらん限りの力を込めて、腕を突き伸ばした。
 けれど、拳が火神の頬に触れることはなかった。

「ッ!!」

 その刹那、その場にいた白美以外の全員が、息を詰まらせ、身を強張らせた。

「いッ……、あぁ――……」

 白美の口から、小さく呻き声が漏れる。

 思わず、リコはその場で身を乗り出した。

「黒子くん!? 橙野くん!?」

――果たして、ぎょっと目を見開き固まる火神の頬のギリギリ手前、黒子の握りこぶしを白美が右手で受け止めていた。
 包み込むように、だが極めて力強く。
 白美の腕はそれ以上どれほど力を込めてもビクとも動かなくて、黒子は諦めて腕から力を抜く。
 白美は黒子の拳から右手を離すと、僅かに顔を歪ませて小さく舌打ちをした。

「橙野、くん……!?」

 火神に食らわせるはずだったそれを、あろうことか、白美の手に。
 割り込んだのは白美といえ、不本意だ。
 しかも自分は拳にかなりの力を込めていた。「何故止めた」という疑問と同時に、白美が心配だった。
 黒子は、目を見開いて白美の顔をまじまじと見つめる。

 すると白美は、フッと小さく口角をあげて微笑んで見せた。
 それは、嘲笑の笑みではなかった。
 同時に、彼等をただ安心させようとする笑みでもない。
 まるで読めない、貼りつけられた薄ら寒い笑顔。

「意外と威力あるんだね、でも大丈夫。大したことない。――でも、黒子が火神の殴るのはいただけない、かな」

「なんでッ……?」

 黒子は感情が表に出ていることに気を留めず、咄嗟に尋ねた。
 そうすれば、白美は肩を竦めた。

「殴られる方は勿論痛いけれど、殴る方も結構痛い。――その痛みは、お前が味わうべきものじゃあないよ」

 白美の声は、途中からいつも白美が喋っているトーンより遥かに低く、抑えられたものに変わった。
 更に白美の顔からは、一切の笑みが消えている。

――「お前が味わうべきものじゃない」。
 その意味を考えて、黒子はハッと息を呑んだ。

 瞬きをしてから、まじまじと白美の貌を見つめ返そうとすれば、白美は既に黒子に背を向けていた。

 自分に向いているのが背中だけというのに、四肢が、金縛りにあったみたいに動かない。
 黒子だけではなかった。リコも、先輩達も、1年達も、何より火神も、白美を凝視したまま微動だにしなかった――否、出来なかった。

 自分が恐怖を抱いていることを、理解できない程の、恐怖。

 白髪の下からギロリと、火神を見下ろす橙の双眸は、「視線だけで人を殺せる」などという表現をまさに実体化しているのではないかと思うくらいの強烈さだった。
 けれど何より、その口元はいつもと変わらない穏やかで優しげな弧を描いていて、それがますます彼等の背筋を凍らせる。

 そのことを知ってか知らずか、白美はゆっくりと右の拳を持ち上げた。

「ッ……?」

 火神も、一同も、白美が何をするつもりか悟るが、けれど身体が言う事を聞かない。
 そうして次の瞬間、火神は頬に突き刺さった重い一撃により、ベンチの後ろに転げ落ちた。
倒れた火神の頬は早速変色していて、白美の拳の強さを物語る。

「白美、くん――!?」

 周りの者たちは状況に思考が追い付けず固まったままだったが、リコの喉から辛うじて声が漏れた。
 同時に、周囲の視線が一気に自分たちに集中する。

「うのっち――!?」

「おいおい……」

 黄瀬も高尾も、まさか白美がこの場で火神を殴るなどとは思いもよらず、驚く。

 会場はざわめきに包まれる。

(おっと……)

 それを期に、白美は纏う殺気を一気に霧散させた。
 恐ろしい形相がまるで幻覚であったかのように、いつもの「頭はクール、心はホット」な白髪の選手の姿に戻る。
 真顔で、静かな眼をしてじっと火神を見下ろした。

 痛みに加えてその事が、火神に今しがたの白美の恐怖を忘れさせたのだろう。

「くっそ……! しらが、てめえッツ!!」

 火神は怒りに顔を歪めると、むっくり起き上がり、ベンチを跨いで白美の胸倉を思いっ切り掴みあげた。
 苛立ちに任せて、白美の貌を思いっ切り睨みつける。
 なのに、白美の静かな眼差しは一切揺らがないまま、そこに火神の歪んだ表情を真っ直ぐ映し続ける。
 そのことはますます火神を苛立たせ、白美の胸倉を掴む手には力がこもった。

 2人、視線を注ぎ合う事、数秒。
 先に口を開いたのは、白美だった。

「火神、バスケは1人でやるものじゃない。1人でやりたいなら個人競技にでも転向しろ」

「あ!? 皆仲良く頑張りゃ、負けてもいいのかよ! 勝たなきゃなんの意味もねえよ!!」

 白美の言葉に、火神は獣が吼えているかのように言い返した。
 すると、白美の脇に立っていた黒子が、強い意志の籠った揺るぎ無い眼差しで火神を見上げる。

「1人で勝っても、意味なんかないだろ!」

「っ!?」

 傍らで黒子が言えば、火神は白美から目を離した。
 声を荒げ、感情を露わにした黒子に、ハッと息を呑む。

「キセキの世代倒すって言ってたのに、彼等と同じ考えでどうすんだ!」

 黒子は、火神を真っ直ぐ睨みつけて言った。
 普段なかなか見ることのない黒子の姿に、誠凛の面々は瞬きを繰り返して彼等の動向を見守る。
 黒子は、火神を真っ直ぐに見上げて言葉を続ける。
 その傍らでは白美が、火神に胸倉を掴まれたまま、視線だけを黒子に向けていた。

「今の、お互いを信頼できない状態で、仮に秀徳を倒せたとしても、きっと誰も嬉しくないです!」

 だがそれを聞いて、火神の怒りは更に高まったようだった。

「甘っちょろいこと言ってんなよ!!」

 火神は白美の首から手を離すと、黒子に向かって大きく拳を振り上げる。
 黒子が殴られる――、誰しもが身構え、ベンチの面々も弾かれたように立ち上がった。

 けれど、二つ続いた鈍い音の後、地面に倒れ込んだのは、黒子ではなく他ならぬ白美だった。

 傍らから黒子との間に飛び込むようにして拳を受けたのだろう、身体をくの字に曲げてフロアの上に横たわる。
 長い白髪が目元を覆い表情はうかがい知れないが、頬が強く腫れているのだけは見て取れた。

 火神は、黒子を殴るつもりだった。けれど拳を受けたのは白美だった。
 だが、そんなことは火神にとってどうでも良かった。

「ッチ! そんなん、勝てなきゃただのきれいごとだろうが!!」

 火神は、動かない白美を見下ろし、吼える。

 誰も、何も、喋らない。

 無音の時間が数拍過ぎて、白美はゆっくりと身体を起こした。
 のそりと立ち上がり、火神に、一歩、また一歩と迫る。
 そうして、そっと火神の胸倉を掴んだ。

(1日に2回も胸倉つかんじゃったよ俺)

 長い髪で火神や周りの者からの視線を遮り、耳に口元を近づける。
 彼にしか聞こえない声量で言葉を紡ぐ。

「『勝たなきゃなんの意味も無い』。ッハ、そんなこたどうだっていいさ」

「――!?」

 聞こえた声は、白美の声とは別人のそれで、火神はまた四肢を縛られる。
 自分を殴った時の白美の表情が、自然と脳内に蘇ってきた。
息すらも、忘れる。

「ま、俺はこの試合勝ちに行ってるけどねェ。でもさァ、じゃあ仮にチームワーク<勝利として。あまっちょろ〜い考え方してんのは俺らとお前、どっちかなァ」

「っ!? ――なん……だと?」

「ッふ、手前がここで単独プレーしたところで秀徳に勝てる程、バスケは甘くねェつってんのよ。思いあがりも甚だしいなァ。ちょっとできたくらいでいい気になってんじゃねェよ。しかもガス欠? そんなんで勝てるかよ。ハッ、頭使え。大体、1人でバスケしたって虚しいだけだろうが……。言いたいことは山ほどあるけどなァ――、思い上がんな」

 火神は、ハッと目を見開いた。
 そして耳元で聞こえた知らない声と、そこに混じっていた微かな悲哀が、三重に火神の動きを封じる。

 白美はそこまで言うと火神の胸倉を離し、数歩後ろに後退した。
 何時もの橙野 白美に戻って一言放つ。

「だいたい火神は、好きでバスケやってるんだよね。じゃあ、『勝利』ってなんだと思う? 試合終了した時、どんなに相手より多く点を取っていても、嬉しくなければ――」

 そうして、白美がちらりと黒子に視線をやる。
 アイコンタクトを受けて、黒子は火神に一歩近づき、口を開いた。

「それは、勝利じゃないです。火神くん」

「っ――!」

 白美の、思い上がるなという言葉も、黒子のそれは勝利じゃないという言葉も、どちらも火神の心に大きく突き刺さった。
 真っ直ぐで的を射た二人の言葉に、もう火神に言い返す余地はないだろうと、誠凛の面々は表情を晴れやかにした。

「そうそう! 別に負けたいわけじゃないって!」

 小金井が、明るい笑顔で火神に声をかける。

「ただ一人で気張ることはねえってことだよ」

「つか、何か異論、あるか?」

 伊月に続いて日向が声をかければ、火神は「異論とか、別に、いや」としょぼんとした声で呟いた。
 そうして火神は、目の前で穏やかに佇む白美と目を合わせると、真っ直ぐ前を見据えた。

「勝った時、嬉しい方がいいに、決まってらぁ……。悪かった」

 静かに、確かめるように、言う。
 嗚呼、熱は冷めたと、これで大丈夫だと、周りの皆は安堵した。
 白美も、皆につられるように頬を緩める。
 けれど、その眼は全く笑っていなくて、黒子はつと目を細めた。

 白美は火神ではなく、どこか天井を向いて口を開く。

「火神、自分じゃなくて、黒子に謝ってくれ」

「は? いや、だって俺」

 戸惑う火神の言葉を、白美は緩やかに頭を振って遮った。

「自分はこの試合で、殴られても当然なことをした。秀徳に勝つためには、前提として火神の成長が必要――、自分は高尾の目の事を知っていたけれど、黙って敢えて無効化されることがわかっている黒子をそのまま出して貰った。そうすれば、火神のストッパーが1つ外れると読んだから。これは賭けみたいなものだったけれど、結果は上手く行った。伸びると思っていたよ。但しその代償に、火神の単独プレーが起こるってことも予想がついていた。けど――、放置した。何故なら、1度そうなって軌道修正されれば、同じ脱線はそうそうしないよね。未来の為に、1度、間違って貰った。『緑間を倒すのは火神だ』って背中を押したのも、その為……。勝つために、仲間の気持ちやチームワークを一瞬でも犠牲にしたのは、火神じゃない。自分だ」

「……」

 白美の話を、誠凛の面々は真顔で、無言で聞いていた。
 白美が言葉を切っても、誰も、何も言わない。
 否、言えない。

 白美は彼等の様子を一望すると、フッと小さく自嘲した。

「非情な事をしたとはわかっている。でも、後悔はしていないし、しない。ただ、殴られても仕方ない」

 誠凛の面々の頭の中を、様々な感情や考えがぐるぐると渦巻いた。
 それは決して掴めない形をして、彼等を戸惑わせ、わからなくさせる。

――何より、橙野 白美自体がつかめなくて。 

 やはり誰も、何も言わない。
 かと思いきや、火神はが「じゃあ」と声を発した。

「何?」

「じゃあ、お前は、今こうしてバスケしてて、楽しいか?」

 火神は控えめに、ゆっくり言葉を選びながら白美に尋ねた。
 その問いに、白美は一瞬目を丸くする。

 それから、フッと目じりに皺をよせ、破顔した。

「愚問だよ、誰に向かって聞いてるんだ。――好きだから、――」

――「好きだから、バスケしてんだろうが」

 途中から消え入った声を、白美の隣にいた黒子だけが、聞いた。

(じゃあなんで、なんで、そんな辛そうにしているんですか)

 それは、黒子しかわからないギリギリのラインに滲み出た、白美の感情。
 ふとした時にそれを目の当たりにすると、黒子は胸が抉られる様などうしようもないもどかしさに襲われる――昔も、今も。
 もっと、分かち合って欲しい。けれど、彼はそれをしない。
 否、それができないのだと、黒子は知っている。
 知っているからこそ、こんなにも苦しい。でも、きっと彼はもっと、もっと苦しいに違いない。
 それでも、こうやって、残酷に気丈に振舞ってみせる。

――何故。

 元々、火神の件で感情が高まっていたのだろう。
 黒子は思わず、ユニフォームの上に来たTシャツを脱ごうとする白美の手を、掴んで押さえつけた。

「橙野くん」

「……?」

 俯いた黒子から放たれた低い声に、白美はスッと目を細める。

 本当の所黒子は、どうしてだと、そんなことするなと、言いたかった。
 でも、白美の眼は明らかにそれを拒絶していて、黒子は拳をきつく握りしめる。
 いつもこうだ、いつも。
 それでも、もどかしさを飲み込む。今この場で、彼の心を捉えていられるのは、自分だけだ、と。

 顔をあげて、白美の眼をじっと見つめた。

「君なしでも、今なら、高尾くんの眼を破れるかもしれない」

 それを聞いて、周りの誠凛の選手達はハッと反応する。どういうことだと説明を求める表情をした者も当然いた。
 けれど黒子は、白美の眼をじっと見続けた。

「……それでも、考えは変わりませんか?」

 尋ねれば、一拍、二拍、白美は目を伏せる。
 けれど目を開いた白美は口角をあげ、小さく頷いた。

「信用してないわけじゃない。でも、『人事を尽くして天命を待つ』。これが俺なりの――」

 そう言って白美は、来ていたTシャツを今度こそたくし上げた。
 脱がれたTシャツを、傍らにいた伊月が黙って受け取る。

 何故白美が、どういうことだ、と声をあげる日向や火神、他の部員達は、リコ、伊月、黒子の3人が「伊月と白美が交代することは途中から決まっていた」と、そっと黙らせた。

 沈黙の中、白美は腕にはめられたオレンジ色の髪ゴムを口にくわえると、流れるような長い白髪を、両手で丁寧にひとまとめにした。
 間もなくゴムで髪の束を結うと、オレンジのバッシュで一歩、前に踏み出す。

「人事の、尽くし方だ。これが、俺のバスケだ」

 そう言った白美の眼は、鋭利な刃物の様に冷ややかな光を湛えていた。
 表情は引き締まっているが、唇は薄らと弧を描いている。

「俺が、お前をコートから掻き消す。――構わないね?」

 白美の問いかけは、修辞疑問文。
 肯定しか彼は認めないのだろうというのが一聴瞭然だった。

 嗚呼、やはり信じるしかないのだと。

 黒子は、「わかりました」とそっと頷くと、白美同様シャツを脱ぐ。
 シャツは誰も座っていないベンチに放られ、皺を寄せながらも綺麗に広がった。

 その後、白美が出場する意味や何をするかを深くは語られぬまま、黒子のもう一段階 上のパスについての話題をこなして、インターバルの終わりが告げられた。

――今から、このコートを支配するのは、俺だ。

 全身に漲る血潮の熱さに心が高ぶるのを味わいながら、白美は、黒子や火神と共にオレンジのバッシュでコートのラインを跨いだ。

(This is how I do)

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