八分咲きの桜の木の下で、私は薄桃色の花びらを見上げていた。あの日降り続いていた雪にも似たその景色は、あの人を思い出すには十分過ぎるシチュエーションだった。

「嬢ちゃんどないしたんや」
 自分に向けて発せられたであろう声に驚き、びくりと肩を震わせる。声の主を探して辺りを見回すと、人混みの中に一人だけ、私を見ている人物がいた。
「さっきからずーっとそこに突っ立って、彼氏に約束すっぽかされたんか?」
 にやにやと笑いながら近づいてくるその人物に私は警戒しながらも、その場から動けずにいた。
「違いますけど……」
 左目を隠す黒い眼帯に、素肌に羽織った蛇柄のジャケット。そこから、胸元まで鮮やかに彩られた刺青がちらついていた。
 どこからどう見ても「その筋」の人にしか見えないその男に、私は怯えながらも冷静に返事をしていた。
「なあんや。 ならどないしたん?」
「友達と約束してて。でも神室町なんて初めて来たから、道わからなくて」
眼帯の男は、ほうほう、と大げさに相槌を打ってみせた。
「でも、携帯の充電切れちゃって。雪が降ってきたから、携帯でいっぱい写真撮ってたら、それで」
「あほやのー」
 ケケケ、と小さく笑われる。
「で、どこ行きたいんや」
 うわ、会話続くんだ。このまま流れで、変な場所に連れていかれたらどうしよう、と嫌な想像をする。
「……アルプス、っていう喫茶店。 そこで待ち合わせしてて」
「なんや、アルプスならすぐそこやないか。 いくら神室町言うても、おっかないやつばっかやないで。 ぼーっとしとらんで道くらい聞き」
 そう言うと、男は私に背を向けて歩き始めた。私がその場で立ち尽くしていると、おーい、付いて来んのか、と男は背を向けたまま、ひらひらと左手で私を呼ぶ仕草をする。
「え、あ、待って!」
 のっしのっしとゆっくり歩いているように見えるのに、どんどん遠ざかっていく背中。慌てて地面に置いていた鞄を掴み、小走りで追いかける。
「ねえ! どこ行くの!?」
「どこって嬢ちゃん、アルプス行きたいんとちゃうんかー」
 男が言い終わる頃に、ようやく隣に追いつく。
「……っ、はあ……追いついた……え、連れてってくれるの?」
 相変わらず長い脚でスタスタと歩いていってしまう男に必死で付いていく。
そうやって歩いていると、やがて男は歩く速度を落とし、立ち止まった。
「ほれ、着いたで」
 そう言われて、男の背中越しに建物を見上げると、「喫茶アルプス」という文字が目に入った。
「……あ、着いた」
「ほな、今度は連れて来れへんからな」
 男はそう言うとあっという間に人混みに紛れていった。
「あ、ちょっと待って! 待って!」
 友人との約束を思い出しながらも、私は男を追いかけずにはいられなかった。慣れない人混みを掻き分けながら、男を見失うまいと蛇柄の背中を目で追った。
「ま、待って……おじさん!」
 なかなか近づけないもどかしさに、思わず大声が出る。すると男はゆっくりと立ち止まり、振り向いてこちらを見た。
「なんや」
 先程までのおちゃらけた喋り方とは打って変わって出てきた低い声に驚き、私は言葉を詰まらせる。
「あ、いや、ありがとう、ございました……って言おうと」
「なんや、ぼけーっとしてて、そういう所はしっかりしとるんやのお」
 そう言って男は、ケケケ、と笑い、私に背を向けると再び歩き出した。私はその場から動くことができず、もう一度追いかけることはなかった。
 何故だか、胸の奥が、じんわりとむず痒かった。

 あの日以来、一度も神室町へは訪れていない。あの後、無事に友人とは合流できたが、ケーキを食べている最中も、帰りの電車でも、眼帯の男のことが頭から離れずにいた。
 ぶわっと音を立てて風が吹く。
「あ、桜吹雪」
 私は制服のカーディガンのポケットから携帯を取り出すと、薄桃色の景色を、小さな画面に閉じ込めた。


初恋は桜吹雪と共に散る




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