1
ただ、あなたが空の下を堂々と歩けるように。
いつまでも笑って、
それで、幸せに暮らして欲しいと願っていた。
ベッドに腰掛けて、すやすやと眠るその顔を見つめながら溜め息が零れた。
そっと頬に手を置けば、つい先日触れた時よりも細くなっている。
つい舌打ちをしたくなる衝動をなんとか抑えた。
「あと、少しなのに……」
あと少しで望みが叶う、例え修羅の道だったとしても引き返せないところまで来てしまった。
もうその道を進む以外に方法はない。
「ん……」
ピクっと彼女の瞼が動き、触れていた手を離した。
ゆっくりと開かれた瞼が俺へと焦点を合わせ、そして彼女は驚いたような表情に変わっていく。
「アスプロス……任務は?」
「終わって戻ってきた」
そう、と小さく溢して体を起こそうとする彼女を制止した。
連日、小宇宙をかなり使っている。
そのせいで倒れることも何度かあった。
大丈夫だと気丈に振る舞うばかりで、見ているこちらが心配をするほどだ。
「疲れているのにすみません……」
「何故、謝る」
「心配をいつも掛けさせてしまっているからです」
「だったら、その役目を降りればいいだろう」
彼女の役目は聖域を裏で支えること、
でもそれはほとんどが公にされていない。
今世のアテナが誕生するずっと前から、彼女の小宇宙を使ってこの地 は守られてきた。
「それは出来ません、それが私の……私たち一族が行ってきた役目ですから」
「そんな古いものを守り続けているなんて……役目に縛られすぎだ」
「そういう訳にもいきません、あなたが黄金聖闘士としての役目があるように、私にも私だけの役目があるのです」
きっぱりとそう言い切るなまえの姿は少しだけ眩しくて、
同時に、胸の奥が軋むような感覚になる。
手を伸ばせば伸ばすほど、
汚れてしまった自分と、埋められないものが出てきてしまう。
「っ、」
触れたくても、これ以上は触れられない。
手を伸ばしても、もうそこへ戻れることはないのだから。
「アスプロス」
「……なんだ」
「顔色が悪いですね……大丈夫ですか?」
なまえが手を伸ばして頬に触れようとしてきたが、それを寸前で交わした。
「………なんでもない、大丈夫だ」
「そう、ですか」
「それよりも、まだ寝ていろ。夜が明けるには早すぎる」
これ以上ここにいるとなにかが崩れそうな気がして。
ベッドから重たい腰を上げて、部屋を出ようとした。
「アスプロス、待って……」
その声にピタリと足を止めて、後ろを振り返った。
「……どうか、あなたが思う道を進んでください」
「なんだそれ」
「なんとなく、あなたに言わなきゃいけない気がしたので」
それから、疲れているから変なことを口走ったなどと言って、
忘れて欲しい、
彼女はそう言った。
部屋を出るとそのまま振り返らずに歩き出す。
その足取りはどんどんと速くなって、ここから早く遠ざかりたいと願った。
(忘れるわけがない……)
きっとなにかを悟ったのか、それともこれから起こることを見透かしていたのか。
それは分からない。
「それでも、」
それでも、もう引き返すことが出来ない道を歩んでしまっている、
手に入れたいものも、願いも、
全ては自分自身の為に。
「ただ、笑って空の下を歩いて欲しい……」
彼女も、あいつも、
ただ、それだけだった。
完
.
[back]