神様のお気に入りになれなかったわたしたちの話12/31B




 夕食をこんなふうにゆっくり、そして暖かな場所で人に囲まれて食べるのはいつぶりだったろうか。だからきっと、人は結婚したり子供作ったりペットを飼ったりするのだろう、となんとなくぼんやりと英虎は感じた。そのぐらい久しく穏やかな、そして時間に追われない食事などしていなかったことに気付く。だが、
「もう一杯、食べる?」
 静の母にそう聞かれてはガキの頃に戻った心が遠慮なんてものをすっかり忘れさせた。勢いよく頷くと茶碗に手を伸ばされてそれは瞬間的に英虎の目の前から消えてしまうけれどすぐにご飯が山と乗った茶碗が現れるからとても嬉しい。茶碗にご飯をよそってもらう、そんな家庭のごくありふれた光景がまるで夢のような生活になっていたことに気付かされる。あまり甘えてしまってはまた望んでしまうような気がして、今の時が少しだけ怖い。だが英虎は長く同じことを考えていたり覚えたりするのが極端に苦手なため、ご飯を口に運んだ瞬間から思考は味の方へ向かったのだったが。

「ご馳走様でした。マジ美味かったっす!」
 立ち上がりかける英虎に静は何か言いたげな視線を送るが、言葉がなければそれは英虎にとっては特別な意味を持たない。ただ食事だけで帰るなんてせっかく久しく一緒に食事をとったというのに、だがそれを口にするのは何だか浅ましいというか、まるで何かを欲しているみたいで憚られる。何より静にとっては親のいる前である。変に勘繰られても後が面倒だという気もした。そんな思いを口にすることもできない静にとって天の声が聞こえた。それは確かに。
「虎くん、明日忙しくないんなら泊まってってくれないかしら?」



*****



 まさか年の瀬に暖かい食事が取れるなど予想もしていなかった。寒い時期に暖かいものを皆で食べることがこれだけ幸福感を満たすなどと今まで知らなかった。それだけにもっと、もっとここにいたいと思った。だがいる理由がない。だがふと思った。
(どうして静は呼んだんだろう?)
 そして思い立つのが、兄弟の多い静だけれど、もしかしたら同じ思いを抱えているのかもしれないな、なんて。それでも両親がいる以上は英虎とは違うのだがやはり兄弟がいるのといないのとではきっと心持ち違うのだろう。昔は確かに一緒に食べたり遊んだりしていたのだ。いつしか英虎は荒んだ世界に足を踏み入れて生きていくので精いっぱいになったけれど、静はそんな英虎の後ろ姿を見て思うことがあったのかもしれない。ある意味ではやはり英虎と静はキョウダイに近いなにかだったのだから。



「お、おかあさん?!」
 声を発したのは静の母だった。心を読み取られていたみたいな率直な言葉に胸かドカドカと五月蝿い。顔がぽっぽと熱かったけれど知らないふりをすることにした。それよりももっと、母の言葉の意図を知りたいと思った。咎めるような口調になってしまったけど母に何なのよ、と言う。
「明日、昔みたいにお餅つき、やりたいって思ってたのよ。虎くん見たら余計。だから餅つき係、できたらよろしく」
「……う、ういっす」
 急な言葉に英虎でさえも言葉を失っている。何年ぶりに一人じゃない年越しをするのだろう。そんなことを思いながら英虎は再び充てがわれたその場所に腰を落ち着けた。本当に子供の頃に戻ったみたいだ。自分以外の誰かといてあたたかなこの場所はきっと幸せというんだろう。



 歳が一桁の頃だ。
 英虎は孤児であったけれど、その親を知っているという静の両親はよくしてくれた。だがどんな人だったのかということは言わないから、英虎自身も聞こうとは思わなかった。自分を捨てたであろう親の話を聞きたいとは特に思わなかったし、彼らが優しくしてくれたからそれでよかったのだ。
 同い年の静が休みの時はよく遊び相手として呼ばれ、時に同じ部屋で眠ったりもした。そう、言葉通りきょうだいのように一緒にいたのだ。
 それは今、この時のように。静の母はお風呂はこれから沸かすからそれまで静の部屋でゆっくりしてたら?ということだった。しかし静の部屋でゆったりしたのはそれこそ十年くらい前の記憶だったからひどく薄い。要するにどうすればいいのかイマイチ分かりません、けれどもわざわざ聞くのはお互いにおかしいような気がした。それとも、わざわざそんなことを気にする方がおかしいのだろうか?ふとそんなことを思った単純思考な英虎は言う。
「泊まって……なんて、懐かしくてびっくりした」
「そうよね。私も、びっくりしちゃった。でもおもしろいじゃない、ゆっくりできるんならしてって」
 静は英虎のバイトがないことを知っているからまったく気にする様子もなく言ってのけた。逆にそれはバイトとか生活とか、そんなに考える必要のなかった懐かしい時代を思い起こさせる。確かに幸せと呼ぶに相応しい、そんな時代だったろう。それを思い出したのなら昔に身を浸すときなのだろうからゆっくりと浸るのがきっと最善なのだろう。瞬時にそこまで考えることなどできはしないだろうけれど、身を任せるのは大事だろうと思ったから英虎は頷いた。だが、子供の時からこんなに寛いだ空間はなかったように思う。自分が寛いでもよいものかと思えてしまう。ケンカとバトルに明け暮れて、他は生活のためのバイト。生きるだけで金は入り用なのだ。きょうだいのような静とはまったくかけ離れた世界に英虎は暮らしている。
 でも入ってきてほしいと静は心のなかだけでひっそりと願う。きっとそれは静の母もそうだったのだろう。だが静には分かっている。自分の思いと母の思いはまったく違うところにあって、また、母を思う英虎の心と自分の心もまた違うところにあるであろうことを。すべてを理解してしまっている自分という存在は、きっと今ここでは邪魔なものなのだろう。けれど、分かっていても、今彼と一緒のときを過ごせる嬉しみ。その喜びを悟られないために反対の意味の言葉を発するのが今の静にとってのやっとだ。
「お風呂とかいうけどさ、うちに服がないのにさあ」
「それなら最低限のはここに入ってるし」
 英虎はボロボロのずだ袋から着替えを器用に取り出す。元より移動の多い彼はこうしてものを持ち歩く習性があるようだ。これも、幼い頃から今までずっと七海の家にいることができならば、きっとつかなかった習性なのだろう。それを思うと幼いときの彼の暮らしが目に浮かぶようで胸が痛む。
「ヤドカリじゃないんだから」
「今日は俺、静んとこのヤドカリみてえなもんだろ」
 ずだ袋を適当なところに置いて乱雑に中身をブチまけつつ服を準備する姿を見ると、きっとこの人と暮らしても違和感なんてないのだろうなと静は思うのだった。そう、昔となにも変わっていない。変わったのは────



「はあ、いい湯だったぁ」
 ほわほわと湯気をなびかせながら上がってきた英虎の姿は、あんまりにもほんわかとしていて、ある意味では見ものだった。彼は昔から変わらない。ただ、驚くほど変わっていたのはその体格だ。昔はちいさかったし、可愛らしかった。それは見る影なく180センチを超える長身に、ガッチリでムッチリとした筋肉を隆々とたくわえて雄々しいところが見られる。むろん服は着ているのでタオル一枚で上がってくるほどではないのだから、思っていたよりは分別があるようである。髪をセットしていないのですこしばかりいつもの迫力は薄れているが、上気したが気の緩みを表しているようだ。
「お前も入ってきたら?」
 英虎のことばでオカシな想像をしてしまった。静は顔に熱が集まるのをなんとか阻止しようとあちらこちらと顔を動かしてごまかす。そんなことをする必要などない相手だということは重々承知なのだが、こんなときにツッコミを入れられてしまうとどう逃げてよいのか分かりはしない。せめてもの抗いは英虎と目を合わせないことしかないのだった。情けないったらありゃしない。
「弟たちのあとでまたお湯入れなおしてから入るの」
「えー、なに? わがままだなあ」
「汚いんだもの」
 英虎はこうしてゆったりとお風呂に浸かるという日々を送ってこなかったのかもしれない。ましてや、この年頃の女子なら割とありがちな、家族とは別のお湯で入りたいという、たぶん一時期だけの悩みだって。
「で? チビどもは?」
「夜までおばあちゃんとこ。毎年なの。元旦の準備で忙しいからお願いしてるのよ」
 七海家では毎年恒例の元旦家族イベント。細かいことをいうと毎年やることは違ったりするのだが、今年──というか来年か──は餅つきのための準備がある、といったていだ。まだ夜というには早い時刻なので静のきょうだいたちはしばらく帰らない。すこしだけ続くふたりだけの時間は、どこかこそばゆい。と思っているのは静だけで、英虎にしてしまえば懐かしい日々を思い出す子どもに戻れる時間にすぎない。彼の変わらなさはどこまでいっても静の秘めた想いにはきっと残酷で、こうしていっしょにありたいと願うのがどこか間の抜けたことのようにも思える。口にできない想いばかりが静のこころのなかだけにじんわりと広がっていく。そんな静のこころなぞ英虎はいざ知らず、窓の外を眺めて見下ろしている。その視線の先に見るものを静は知っている。それでいてワザと聞いてしまう。そういう自分自身をあざとい、そんなふうに感じてしまうのが嫌だと思う。
「なに見てるの」
「んー? なに、ってわけじゃねえけど。…なんとなく? 誰もいねぇしな」
 その視線が求めたものは、そこにはいないらしい。静は目を伏せた。どうして同じ部屋にいる静のことをまっすぐに見ようとしないのか。見てほしいと思いつつも、あんまりにもまっすぐすぎる彼の視線を受け止める自信がないのもまた、現実なのだった。だが、急激にくすぐられる冷気のような想い。それは瞬間的に高められて、きっと抗いきれない。静はふつふつと滾る冷気のことばに、吐ききってから気がついた。
「違うでしょ。お母さんのこと、探してる目じゃない」
 そのひやりとした言葉尻に自分自身で寒気がした。これではあまりにも、嫉妬に狂った女狐のようではないか。ここのなかで現れては消えていく想いに言葉をつけるのならばそれは───
 ほかの誰かを見てほしくない。私だけを見てほしい。こっちを見てほしい。虎は一人でいることは寂しくないの? 私は虎がいないことが寂しいと思う。だから、ここで一緒に住めないものなのかしら。そうしたらきっと周りが持て囃すだろうけど、そんなの、目に見えているし、困ったふりをして笑えばいいのよ。いつの間にか夫婦扱いされたりしちゃうんだわ、きっと。そのまんま虎のお嫁さんなってしまうことが、昔からの夢なのだけど。これは誰にもいっていない静だけの秘密。だけど虎の見ているものは静ではなくて、たくさんのものを目に映して、そのなかのきれいなものだけを記憶している。そのなかに静のこういう思いなどはこれっぽっちも入っていなくて、それを感じるだけで彼の目に映る、だいじなものが邪魔に思えて来る。それが自分にとってもだいじなものなのだから、静にとっては複雑なのだ。自分の母のことは好きだ。それはもう、なんというかこんなに数多いきょうだいを育ててくれてありがとう、とも思うし、自由にさせてくれて、しかも聖石矢魔みたいな学校に行けるよう、受験生のときは塾に通わせてくれたこともあるし、もちろん感謝もしている。だからこそななみ整骨院を継ぐつもりでもあるし、母親のことが嫌いになれるはずもない。ただ、英虎を思っているだけのなのだ。それはきっと、英虎には伝わることもない。それが歯がゆくて、もどかしくて堪らない。好きという想いはいつしか蓄積し、胸なんてすでに一杯いっぱい。それは口から溢れてこぼれ落ちそうなほどたくさんになっていたんだって、ようやく気づくと同時に、それらの想いはすくないことばとして迸る。英虎を撃つみたいに。
「虎が知らないなんておかしいのよ。私は、見てるだけで知ってるのに。虎がお母さんのことがすきだなんて。あんなにちっさい子どもだっていうのに。恋、なんて言葉も知らないのに」
 英虎はその言葉の意味を測れずただただ静の目を見つめ続けた。いっていることが理解できない。もちろん英虎はおきまりの勘違いに首をかしげる。
「こい…?」
「サカナじゃないわよ。バカ虎」
 静は目をそらした。その揺れる睫毛と髪の毛が、どこか寂しそうだった。なにも考えず、英虎は静に向けて手を伸ばしていた。どうしてこんな悲しげに目を伏せてしまうのか、その理由が分からずに。頭を撫でる。その髪はすこし痛み気味で、でもつるりとして触り心地は悪くない。硬さは英虎のほうがクセがあるので柔らかいようだ。それを踏まえてもこの心地は好きだと英虎は感じる。橙色のピン留めした髪は英虎の手には馴染まない。それを撫で続けて馴染ませたいと思うことは、どこかおかしなことだろうか。英虎はそのまま強引に華奢な彼女の身体を頭ごと抱き寄せた。自分の心臓の音を聴かせるみたいに。温かさを分け合うように。
「ぐずんなよ。チビどもじゃねぇんだから」
 触れたかった距離が、もどかしく切なかった距離がこうも、いとも簡単に詰められてしまったことに、すこしの間静は息を止めて時間すらもこころのなかは止めて、ただただ感じ入っていた。だが気持ちが追いつかない。恋じゃないからこそ、彼は簡単にこんな近いことができてしまう。伝う想いに恐れることもなく。恐れる気持ちも伝うことはないと、静は冷酷にも知りながら、それでも今この瞬間に湧き上がる想いを隠すこともできない。それは責められる感情などでは、きっとない。静から沿うようにぴったりとくっついて英虎の身へ己の体を寄せる。それは体温を分け合う行為に似ている。分け合うとは、情の上位だ。
「どうしてこんな、」
 静の声はくぐもっていて、まるで濡れているかのように聞こえる。それに英虎は反応しない。否、反応しようとしない。静はそのことに嫌々をするように顔を彼の身に押しつけ首を振った。それは気づいてくれないことが悔しかったり、悲しかったりするのではない。それこそが東条英虎、その人であることを知っているのだから。そう、どうしてこんな、などと口走ってしまった自分自身を消したいと願ったのかもしれなかった。だが、言葉にできるほど気持ちの整理ができているわけでもない。それほど静はまだ、大人ではない。バストは大きいけど。
「ぐずったときは、コレだ、って教えてくれたの、静だろ」
「……え?」
 静はその小さな呟きみたいな言葉に、驚きを含めたいろんなものがないまぜになった心持ちで、顔を上げていた。昔のことを覚えてくれていたのだという喜びや、二人きりで抱き合って静、と呼ばれた照れ臭さや、いつそんなこといったっけ? といった間の抜けた疑問やら、いろんな思いがそこにはごちゃごちゃに混ぜこぜになってしまっていた。だが、ほとんどが悪いものではない。すこしの不安はあったとしても。
「しんぞーの音、聴かせるとガキは泣き止むんだ、ってよ」
 この話に、手放しで喜んでいいのかどうか。静は無言のまま思うのだった。でも、この温かさをもうすこし、ぐずり、という子どもの戯れ言のようないいわけにくるんだまま、感じていたい。こんな風に抱きしめてくれるであろう日のことを、静は夢見てきたのだから。
 だが、英虎にしてみれば静の喜びなど分かるはずもない。そしてまた、そんな鈍い英虎のことを静は今までどおり思うのだった。これに代えられるだいじなことなんて、きっとないだろう、と思うほどに静は。だから今は泣き止まない困った子どもになりきってしまいたい。その思いが、静に嗚咽のちいさな涙へと変わっていく。英虎の心臓の音とともに。その音はなぜだろうか、勝手な妄想かもしれない。ドクンドクン、と乱れたものに聞こえてしかたがなかった。階下から、ざわめきのような、気を散らせる物音も聞こえない。静はただじっと英虎の、その曇りなきまっすぐの瞳を見つめ、見つめ返し続けた。それは祈りのように。



17.02.01

このシリーズ、ちゃんと終わらせるつもりで書いてましたっ!
ええ、まだ3分の2くらいですかね、内容としては。


静はこんなふうに嫉妬に狂う女の予定ではなかったんだけど、そうしたほうが「女らしい、悪さとよさ」がきっと出るかな?と思ったんです。そして寄り添う、というのがいい飴と鞭、みたいなものになったかな、的なものです。

本当は1月ちゅうにアップしたかったのですけれど、なかなか書けてないというか…!下手ウンコですみません。
2017/02/01 23:53:39