もう昼と呼べる時間は過ぎていた。太陽が眩しいし、ばかみたいに暑い。蒸し暑いなかチャリを漕ぎだした。じゅうぶんに冷房に当たったので派出所へと戻ることにした。自転車をこぐ足が暑さの遠のきのお陰かいつもより軽い。だが腹ごしらえもしたい気もする。両津は辺りの店へと見やりながら商店街のほうへわざと入っていく。
 25日に給料が入ったので一部の店にツケは支払い済みだが、うるさくない店には払っていない。というか、両津としても自分の食いぶちがなくなるのだけは避けたいので、そういう甘い店については後回しになってしまうのだ。だから視線はすべての店の名前を追っている。こぢんまりしたそば屋。あの店ならツケはないし、なかなかの味だ。両津はすぐにチャリを停め、店へと入っていく。
「おう、オバちゃん。天そば一丁ね」
「ああ、両さんかい。いつもありがとうね」
 たまにしか来ない店でも顔見知りだ。オバちゃんがオーダーを裏方に伝えると、おう、と野太い店主の声が耳に届く。こんな光景が平和であたたかだと、先のパチ屋の喧騒のなかを思えばホッコリできる。両津はすぐにタバコに火をつけ灰皿を自分の近くにズリズリと引き寄せながら座る。奥の厨房からは天ぷらを揚げる小気味良い音がすぐに響いてくる。どうやら麺を茹でるのと天ぷらを揚げる役割の二人がいるらしい。すぐにオバちゃんの「お待ち〜」とともに出てきた湯気のあがる天ぷらそばがドンとテーブルに置かれる。
「うゎ、うまそっ」
 思わず出る感想。両津はすぐに天そばにむしゃぶりついた。ズルズル音を立ててはあふういいながら啜るそばは絶品ののど越しで、のっかっているかき揚げのしゃりしゃり感がまた美味。かき揚げのサクサクしているのをつゆにつけてそばと一緒にかきこむと至上の味がする。そういえばいつだかの芸能人がそばを啜る音が嫌いで振っただとか、くだらないニュースを何年も前にやっていたが、両津勘吉にはそんなことなど無関係だ。あとから一味唐辛子をサラッとふりかけてさらにかきこむ。食事時間は実に3分半というところ。どんだけ飲むだけなのか。げふっと一つ、周りを気にすることなくゲップをひとつし、すぐに料金の100円玉3枚を置いて彼は駆け出す。
「オバちゃん、うまかったぞ。また来るからな! ごっつぉさん」
 実にあっけないほどにす早い行動と食事。別れの挨拶が終わるか終わらないかの間にすでにチャリのサドルに腰掛けんと、尻はサドルにはつかないが足はペダルにかかっている状態。太めのチビなのにどうしてこんなに早く動けるのか、というほどすばしこい動き。これこそが両津勘吉らしさなのだが。サドルに座る前に彼は早くも漕ぎ出していた。腹が一杯なのとあの店では残念ながら冷房の効きがイマイチだったのが仇となり、午前中のときよりもいくばくかペダルを漕ぐ足の動きはわずかに遅いが。

 派出所への帰り道、漕ぎ出して数分の道のりの間に、さんさんと降り注ぐ太陽のなかには似合わない光景が両津の目には映った。彼は慌てて地面をガンガンと蹴りながら地面から砂埃を立てつつ強引に自転車のタイヤの回転を止める。両津の目に映るのは、幼い二人の少年と少女の姿だった。それだけならばいい、彼らは揃って泣きながら歩いていたから両津は気になって足を止めたのだ。だって、泣きながら歩く小学一年生──あのランドセルに黄色いやつを付けているのだから間違いがない。──の男の子と、それよりもだいぶ大きめに見える女の子の姿。どちらもべそをかいているものだから、あまりに異様に映る。チャリがまだ動きを止めるか止めないかのときに両津は声をかける。いつものように大声なので瞬間、彼らはビクッと身をすくめたけれど、服装で分かる警官は安心な存在だということ。すぐにビクビクした態度を改めて、すがるような目で両津の姿を二人は見上げた。
「どうしたんだ、お前ら」
「……警察のおじさん…」
「泣いてちゃ分からん、話してみろ。ワシでできることなら力になるぞ」
「あの────」
 子どもの話というのは時系列もメチャクチャで、前後のつながりがなくて分かりづらい。それでも両津がそんな子どもの話を理解できるのはなぜか。それは、彼もまたおなじような子どもなところを沢山に持ったまま、おとな、否、おじさんになったからなのだろう。
 かいつまんで説明すると、まずはこの四年生の女の子と一年生の男の子は姉弟であり、最近都内のもっと若いおとなの人たちが多いところから引っ越してきたばかり。学校にはやっと慣れてきたけれど、まだ子ども会とか先生には慣れてはいない。友だちは誰ちゃんと、誰ちゃんと、誰ちゃんが仲がいい。その辺りは割愛する。さすがの両津もよく分からないので、機会があれば亀有公園前派出所にこいと伝え済みである。そんななかで先生には相談するのがむずかしいことが今日、起こった。それは弟のほうだった。弟が小学校の昼休み、小学校の校庭側ではなく裏側のほうに雑木林があり、そちらに犬がいた。薄汚れた野良犬でまぬけな顔をしているのだが、その犬が弟がポケットからぽろりと落としたものを咥えて逃げてしまった、というのだ。それは学校の敷地を出るまで友だちたちとともに追いかけたが、結局は学校の昼休みの時間。友だちも「あ〜あ」といって校舎から遠ざかっていく犬の姿を見るだけになった。だからといってまだ慣れていない先生にはそれをいいだせなかった。子どもの世界というのはそういうものなのだ。泣くほど悲しくて悔しいことだったのに。
「で? 結局お前が持ってかれたのはなんだったんだ?」
 小学一年生は目を潤ませながら首を横に振った。だが両津は譲らなかった。
「黙ってても、お前の落としたモンは戻ってこないぞ。ワシだって探してやれない」
 両津がこういったのには訳がある。子どもが大事なものというのは、総じて大人にとってはがらくたと呼ばれたりするものだからだ。だが、当人にとっては宝物と呼ぶ。頭ごなしに持ってきたことを怒られることを思えば、子どもはいいだせなくなるものだ。宝物というものはおとなも子どももない。価値観によるものだ。それを長く生きてきたおとなというものたちは忘れてゆく。がらくたと呼ばれるもののなかでイキイキと生きる両津ならではの感性だった。少年は泣きべそをかきながらも両津に向けていいはなった。
「大事で持って歩いてたんだ。この間でたばっかの、ポケモンプラチナのソフトだよ」
 姉も落としたものについては聞いていなかったが、見つからないし探しようがないといって困り果てて泣いていただけだったのだ。隣で彼の姉が呆れた顔をした。子どもに限らず、女の子っていうのは大人ぶっているし男の心を踏みにじるようなことを平気でいうものだ。両津は彼女が口を開く前にいう。
「うーん、そりゃあなくしたらたいへんだな。よし、ワシが一緒に探してやる。だからさっさと泣きやめ。あともう一つ、どんな犬だったか、もっかいくわしく」
 両津の言葉に目を輝かせた姉弟。両津がこんなことをいったのには、これまた理由がある。彼にはアテがあったのである。
 薄汚れた野良犬。体は中型犬より少し大きめ。色はうす茶。耳が黒っぽいこげ茶。落としたものをヒョイと器用に咥えて走り去るでっぷりとした尻。尻尾の先も耳と同じこげ茶っぽい色。吠えずにおとなしいから学校内にもするりと入り込める。ジトッと見ている目。その犬について両津は見当がついていた。両津はその犬の特徴を反芻して口に出すと、姉弟の二人を乱雑にチャリの後ろに乗せて警官にあるまじき三人乗りでチャリを猛スピードで漕ぎ出した。きっとその姿を大原部長が見たのならばいつもの「ばかもーん」が怒涛のごとく飛び交うのだろうけれど、そんなことは今はどうでもいい。向かう先は派出所からそう遠くない公園のそばの裏の林だ。林のほうへと足を踏み入れるだけでヒヤリとした空気が彼らの身を刺す。木々というのはこんなにも日から身を守ってくれるものなのだ。暑い陽射しの届かないなかはだいぶ過ごしやすい。だが、その薄暗さは子共にとっては怖いと思う対象でもあった。行きたいと行きたくないの狭間で、姉弟は揺れながらもゴリラのような力強い背中の両津に必死でついていく。道がない道なのでおとなである人を見失ったらもう終わりだ、と彼らの幼い本能は必死に告げている。ガサガサと木々をぬって歩く音がいくらか薄れてパキパキと小さい落ちた枝を踏みしめる音が何度かしたかと思うと、視界は途端に明るくなった。姉弟は「わっ」と小さく悲鳴をあげながらもなんとか目を開けていた。暗いところから明るいところへ急に出ると起こる、目の前がまっくらになるみたいなあの現象。もちろん両津にだってあるけれど彼にとっては勝手知ったる道だけに、そう驚くものでもなく毎度のさも当たり前のできごとに過ぎない。開けた視界の先には辺りの背景に溶け込むようにぼんやりと建っている犬小屋、しかもとてもオンボロでところどころにコケが生えている泥臭さすら感じるような小屋がそこにはあった。周りは木材などでごった返している。その犬小屋のすぐ脇には不器用にへこんだ地面が木々の山でならされている。両津はすぐにその枝木の山のなかを覗き込み、ガサゴソとやり始めた。小学生二人はキョトンとしている。
「おい。おまえら、なにしてんだ。あのクソ犬の住処はここだ。たぶんここにあるぞ。手分けして探せ。縄張りをあさってるのを見つかると面倒だからな」
 そう、この界隈で一時期話題になった犬だった。特徴が驚くほど一致する。前に両津とは何度かドンパチとはいわずとも、わちゃわちゃしたことがあった。犬が縄張りを荒らされたと怒ってしまい、えらい勢いで追いかけられたりしたのだ。今回もそうならないとは限らない。両津は片手でそこにある犬の宝を漁りながら、もう一方の手では愛用のスマホをいじり器用に電話をかける。電話は手で持つことはなく耳とアゴを器用に使い、頬で挟み込んで固定しておけば、両津の耳にはきっちりとコール音が届くのだ。数回のコール音ののち、まったく艶っぽい話ではない両津の電話らしく男の声がそこから聞こえる。
「おう、左近寺か。ワシだ」
 同じ警察仲間の左近寺に連絡を取っていたのである。あの犬がもし来たときの保険は武闘派でなければならない。できれば、最初っから左近寺に盾になってもらうつもりでうまくいいくるめて呼びつける。左近寺としても、武闘派として力を借りたいといわれれば悪い気はしない。そもそも、オリンピック代表に選ばれてもおかしくはない柔道を中心とした、合気道や空手などのさまざまな武道の腕を持っているのだ。自信があって然るべきであろう。
 左近寺を待つあいだも両津と姉弟らは犬の住処で宝探しをしていた。ほんとうにさまざまながらくたたちを持ってくる犬。なかなかに迷惑なことではあるがそれはしかたのないことだ。両津は思い出していた。この辺りでは数年も前のことになるが有名な話である。だが、引越ししてきたばかりの彼らが知らないのはしかたがないことだ。それにしても最近は一向にその犬の悪い話など聞かなかったのでおとなしくなったのかと思っていたものの、いまだに子どものおもちゃなどを奪って隠す習性はなおっていないらしい。彼もまた人間から捨てられた犬なのだから、しかたないと表したのだ。人間がいないと生きていけないとよくいわれるやつが生きていけるのもまた、人間の仕業で…。その名残がこの場所だ。両津は犬の話を二人に話す。
「元々はかわいがられてた犬だったんだろうな。人に近づいてくるし、イタズラをするとき以外は逃げもせん。だが、引越しのときに捨てられたみたいでな。それが、ここだったってわけだ。小屋はその名残りだな」
 捨てられたペット。ペットと呼ばれた彼らは人間の都合で何度も裏切られる。そうされるうちに人間に対して不信を募らせ、人間を信じられない野良という野生の動物が生きていくことになる。勝手なことをしてきた人間のせいだというのに、それを動物に罪をなすりつけ悪者にするのだからたいしたものである。そういった動物の楽しみの一つが、こうした人が捨てたものや落としたものを奪ってしまいこむことだったというわけだ。
 比較的新しいがらくたの類が木々の下に隠されていた。この中にあるはずなのだが、イマドキのゲームソフトは小さいので探しづらいのが玉にきず。とはいってもしかたない。三人は辛抱強くあちらこちら、その山を掘り返しながらごみみたいなものたちをかき分けかき分け探した。まるで探検隊のようである。指先は気付けば真っ黒で、姉のほうはそれに気付きブツブツと今更泣きべそをかきだす始末。いざとなると女の子は服が汚れただとか、いちいち細かなことで面倒だったりする。しかたなしに両津がへたながらもなだめていると、けたたましく犬が吠えだかって走り寄ってくる。両津が最初に見つけて驚く。思ったよりも速いし近い。
「あっ、危ない!!」
 いうやいなや、両津は二人を片腕ずつに抱えてその場から体ごと跳んだ。すばやい跳躍は彼らしい動きだ。自分の隠し財宝がある家を荒らしているものがあるとあっては、人間でなくて犬であっても怒るのは当然だ。犬は吠えながら両津たちに向かってくる。ひどく怒っているのが伝わってくる。
「や…、やばい…! 左近寺を呼んでおいて正解だったな。だが…」
 両津一人ならばなんとしてでも犬に向かっていって、一時的に追い返すことなど容易いだろう。野犬相手というのはそう簡単ではないが、不可能ではないはずだからだ。しかし、両津は両腕に子供たちを抱えている。不利というしかない。そしてまだお宝は見つかっていない。ここにあるというのは両津の読みというだけのことだが、ギャンブルで培った野生の勘をなめてはいけない。ここにあるはずなのだから、探さなければならない。そのためには左近寺が今すぐ到着するか、もしくは両津が犬をうまく追っ払うことが必要になる。前者は左近寺頼みでしかないし、急げとはいわなかった以上、望み薄だろう。場所はそう遠くはないがもう少し後でいいといってしまったのでゆっくりしてからくることだろう──沙織に会っていなければいいが。──そう早くは辿り着かないだろう。つまりは後者になるであろうことは考えずとも分かりきったことだ。野犬と闘うには両手にしがみつく子どもが邪魔だ。それを回避するにはつまり、
「う、うぉりゃぁぁああぁあああ!!!!!」
 両津は向かってくる犬に向かうように走っていく。まるで頭がおかしくなったかのように。それと同時に姉弟の悲鳴がこだまする。あああああああああああああ、というふうに。

 もちろん、そうしたのは両津の捨て身の戦法だったわけではない。目指す先に逃げ道があるからだ。なんの考えもなく動くときは、それは野生100%のときなのだが、それよりも先に本能が必要なときになる。今は半々。つまり、勘もあるけれど、目指す道があるからそこに向かったのだ。両津の目指す先には高くて太い木が聳え立っている。つまりはこれが目的だ。相手に向かうと思いきや、目指すところは違うのだった。太い木の幹にがっしと掴みかかり、子ども二人には先に、
「しっかり掴まってろよ!」としがみつくように指示しておく。それを聞いた子どもたちは、いわれたとおりに縋りつくので精いっぱいだ。なにより両津の腕はごつごつと武骨で毛むくじゃらで、しがみつくにもひと苦労するものだからだ。両津は思いきり地面を蹴って木の幹に向けて跳んだ。辺りは土けむりが舞い、それがうまいこと犬への目くらましになる。犬が怯んだところで木の幹に抱きつき、ネコよろしくザカザカと木登りをするゴリラ…否、両津の姿はジャングルの王者のようだ。徐々に辺りの風景がクリアになっていく。子どもたちもビックリだ。
「うわあ…!」
「うわあ、じゃない。おまえら、木登りもせんのか」
 両津はなんとか足を枝のところや木のボコボコしたところに引っ掛けて、犬が登れない位置までさらに上へ向かおうとする。まるでボルダリングだ。クライマーのように登るのを誰かが見ていたら驚きに声を失うだろう、そのあまりに鬼気迫る様子で。しかも弟のほうは高所恐怖症らしく途中から怖い怖いとべそをかきだす始末。姉がなんとかなれば今度は弟の側である。
「コラッ! おまえのポケモンを取り戻すためにやっとるんだぞ、泣くんじゃない」
 その文句には子どもも納得したようで、泣きべそをかきながらもなんとか涙を止めようと躍起になるさまはよく見て取れる。少年は邪魔にならないように、まだ動きが収まらない両津に、さらに強めに抱きつくことで応える。両津はさらに上へとサンダル履いた足を上へ、上へと重力すら騙すように進めていく。その下から、ガウゥ、と犬が獣みたいに唸る恐ろしい声色が聞こえる。それですくみあがるのは普通のことだろう。だが、その暇はないのだ。両津はそのうなりが聞こえないほどに吠えていた。すでに。
「うりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃおるぁ〜〜〜〜〜!!」
 これでは周りの騒音も聞こえない。子どもの手を取って両津は頷きかける。ここで待っていろという合図だ。だが、子どもというのはそれを汲んでくれない。弟はべそべそと泣きべそをかいている。姉はそんな弟をバカにしたように見る。きっと、いつもそんな関係なのだろう。
「おい、弟のこと頼んだぞ。ここから落ちたら笑えんからな」
 姉に向けて両津がいうと、すぐに足を伸ばして木から降り始める。と見せかけて、両足を太い枝に引っ掛けて下を眺め狙いをつける。高さは4メートルほどだ。いつもの瞬発力にものをいわせてそこから飛ぶつもりなのだ。ついでにその勢いを弱めるために犬を使ってやろうという、攻撃兼防御ということをやってやろうというわけなのだが、さすがに簡単にやらせてくれる犬ではない。ウロウロと木の周りをクルクル回り両津の動きを見張っている。上下に分かれての、激しい睨み合いとなった。睨みながらも両津は構え、そこから飛び降りようとする。攻撃したもの勝ちだ。両津の目は爛々と野生に輝いている。それを見た元飼い犬はすこしだけ怯む。どちらが野生の生き物なのか、それすら分からない対決。そして、そんな対決に両津は本気を出し燃え上がる。
「うっだらぁあああああああああ!!」
 両津が叫んだのと、飛び降りたのとは同時だった。ポカンと上から姉弟はなにもかもを忘れて見つめていた。両津が犬に飛びかかる。だが、犬はそれを読んでいて、サッと避ける。そこで子どもらの悲鳴はあがりかかるものの、すぐ両津が駆け出したのでなんともないのだということは分かった。両津が向き直るのと、犬が飛びかかるのとが同時。ダメッ、と女の子の悲鳴が木の上から響く。そういうんじゃなくて、援護射撃のようなことをいってもらえれば助かるのだが、と両津は内心溜息をつくが、相手は女でしかも子どもとくればしかたない。なるべく悲鳴は気にしないようにして、近くに転がる枝木を引っ掴む。犬はこういうものを嫌がる傾向があるからだ。だが、向かい合ったこの犬はウゥ〜、と低く唸りながらじりじりとにじり寄ってくる。長いものは効かないのかもしれない。もしくは、長いものでいじめられた過去があるから敵対してかかってくるのだという可能性も…。どちらだって構わない。両津にとってこれは飛道具だ。一瞬のうちに振りかぶって犬に向けて投げつける。さすがに犬は動体視力がよく、横にサッと避けてしまう。チッと舌打ちをする。
「うわあああ! た、たすけ」
 弟の声だった。両津が木を見上げると、彼はブランと枝に垂れ下がっていた。動くなといったのに、ともう一度舌打ち。姉はなにをしていたのか、という思いも含めて。そしてその姉が弟を思い泣きべそをかき始めている。これではそちらが気になって、犬どころではない。子どもと共にいるという不自由を感じながら、両津は踵を返した。犬ではなく子どもらの側へと。先と同じように木に抱きつくように飛びつき、幹から伝って登っていく。これを見るのは二度目だ。子どもとしても、犬としても。犬はすぐに駆け寄ってきた。子どもたちの泣き声が辺りに響くが、恐怖のせいかそれも小さめだ。そんな声では近所の誰それが聞きつけて出てくることもない。なにより、今の時代、保育所や幼稚園をつくるのに地域住民から苦情が出てできなかった、なんてことも珍しくない。時代は変わる。そんななか、子どもたちも両津たちも過ごしている。世のなかからお節介なオトナが消えている、そんななかで。だが、ここには両津勘吉がいる。犬と敵対して。幹下で待つ犬がずる賢く笑い──というふうに、両津たちには見えた、だけかもしれないが──、木の根を叩くように乗っかりどんどんとやる。小型犬ではないので、それだけでも少しは木が揺れてしまう。そこでまずいのは両津ではない、子どものほうだ。枝にぶら下がる弟がやっと大きな声で泣いた。ワァっと。
「な、なんだ?! 子どもの泣き声」
 そう叫びながら駆けつけたのは、両津ではない。左近寺である。呼び人来る。駆け寄ってくる、巨躯をこれほど頼もしく思ったことはない。がっしりとした、道着のよく似合う──むしろ、それ以外はタンクトップしか似合わない、というのが署内の定説だったりするのだが──肩幅の張った男らしい姿だ。両津は木登りをしながらも手を振ってこちらだとジェスチャーをしてみせる。
「おおーい、左近寺! こっちだ、こっち。そのクソ犬をなんとかしてくれ!! 子どもはワシがなんとかする」
「なんでおまえはいつも説明がないんだ両津ぅ」
 急にいわれてもアワアワと状況の把握だけに追われる左近寺だがしかたない。いわれたとおり犬のほうへと向かった。つまりはこれが呼ばれた理由だと分かればそれでいい。でえっ、と野太い雄叫びをひとつ、左近寺は勢いよく犬のほうへと踊りでた。もちろんそのままの勢いのまま倒すつもりはない。相手は獣といえど、元は人間の持ちものだった犬だ。そこまでする必要はない、驚かせれば逃げていくはず。ダッと寄って、間近でわざと止まる。犬はビクッと一瞬動きを止めたが、それだけだ。ビビる様子はない。音のない埃だけが舞う睨み合い。
 その最中で両津は子どもがぶら下がる枝には届かないと見て、いつものとおりよじ登り中の木の幹を勢いよく蹴って、枝のほうへと身体ごと跳んだ。今日、跳ぶのは二度目だ。少年はそのとき不思議なものを見たような気がした。どうしてか分からないが、宙を舞う両津のずんぐりむっくりの体が、まるでスローモーションのように、いいかたとしては間違っているかもしれないがマトリックスみたいに、細かな動きの一つひとつがゆったりと流れる空気のなかで、クッキリハッキリとよく見えた。それは気づかぬうちに落下という恐怖をも忘れさせるほどの光景で、少年はただ自分に手を伸ばしてくる両津の手を握り返そうと必死に手を伸ばす。そうしなきゃならない、と恐怖もない世界で、なぜだか思った。きっと両津の表情が必死だったからだ。スローモーションの世界はもどかしい。伸ばした手の、指と指が触れた途端、ときの進みかたが戻った、ような気がした。
「だぁーーーーーっ! クソっ、と、届かねぇ…っ!!」
 両津は空を、手をバタバタさせて泳いだ。これは彼ならではの無茶振りでしかない。だが、無茶振りをやってのけるのが両津勘吉というむちゃくちゃ野郎のなせる技だ。ある意味では空を自由に──数秒にも満たない時間ではあるが──飛んで、その小さな子どもの手を握った。そのときの少年の顔といったら、よろこびの色。恐怖の色。不安の色。縋りつきたいと目に涙すら浮かべて、情を訴える色。震える視線。そして手が掴まれた安堵感。すべては一瞬のうちに表れて、そして、消えてった。なぜならば、それはその場からの落下という幕引きで、色が失われたのだった。
「うわあーーーーーーーーーーっ!!!!!」
 両津と少年が手を握りながら落ちていく。少年の姉はそれを見て泣き叫ぶ。死んでしまうのではないかと心配して。そして犬と対峙する左近寺は、落ちる軌道を見、その場所の安全を確保するために犬に向かって向かっていった。両津のことは心配などしない。木から落ちた程度でケガをするタマでもないし、子どもはなんとかするといった以上、なんとしてでもなんとか守るのだろうことも分かっている。両津と少年が落ちゆく場所には、犬が近い。だから左近寺のやるべきことはすっきりと明白。その犬を遠ざけて、無事に両津と子どもが落ちることができる環境をつくってやるだけだ。だが、その整備の時間がどう考えても足りない。なぜなら、すでに落下は始まっており、それは秒速で終わるだろう。この地球上では重力に逆らえるのは花咲かジジイくらいのものだ。つまり、できることは限られている。両津と少年の叫びに、左近寺の雄叫びが混ざった。巨体が跳ぶ。
「両津ぅーーーーー!!」
 ぼすっ。
 両津と子どもが、なにかの上に墜落した。もちろん少年は両津の太い両腕に抱きすくめられた格好で、かすり傷ひとつない。そして両津もまた、すぐに彼へ言葉を投げかけ、その無事を確認した。彼は先のように弱々しくべそをかく子どもではなかった。
「ありがとう! おまわりさん!!」
 すっくと立ち上がって安堵したのは両津だけではない。彼の姉である、木の上にいる女の子や、犬と対峙している左近寺だってそうだ。だからといって感極まっている場合ではない。なぜなら、掴んだ犬ががぶりと左近寺の手に噛みついたからだ。
「いでーーーっ!! こんな場面でなんてことする、このバカ犬!」
 左近寺は力をセーブしつつ犬にチョップした。犬はキャイン、と情けない声を上げながら、こいつに逆らうのはまずい瞬時に悟って逃げ始める。地面を踏み蹴る音がどたばたと響き、さらに情けなさを増長させる。犬にとってみれば自分の身の安全が第一なのだからどうでもよいのだろうが。逃げた犬の姿を見つつ、噛まれた手をふるふると熱いものを冷ますかのように振ってその痛みをやわらげようとしつつ、左近寺は両津と少年が落ちた場所へと目を向けた。そこは、犬が集めていたおもちゃ・がらくたが隠された地面の上だった。なかには壊れたクッションなどもありやわらかな場所となっている。そこに向かって落ちた二人は無傷。さすがの飛び込みである。それを見て安心し左近寺は声をかける。
「おい両津、無事か」
 もはや疑問符すらない。無事なのは分かっていて、あえて声をかけているだけなのだから。両津からはすぐに「だいじょうぶだ、助かった」と短い答えが返ってくる。それになんの感情も湧かないのは、まだまだこんなものはピンチのうちに入らないことを知っている、お互いに。そんななか両津と少年は自分たちのクッションになってくれたがらくたたちと再び向き合う。まだ彼の奪われた宝物は見つかってはいない。と、急に上からうわーんと泣き声が響き渡った。こんどは姉のほうだ。すっかり忘れていた。両津は顔を上げた。
「おう、すまんすまん。ワシらは元気だ。今から降ろしてやっからな。おい左近寺、こっちでこいつのポケモンのDSソフト一緒に探してくれ」
 簡潔に説明し、両津は再度木に登っていく。女の子を助けることなど両津にとっては朝飯前なのだった。さっさと木に登り、子どもを抱きかかえてネコのように降りてきた。弟と姉は顔を見合わせてワアワアと喜んだ。それに水をさすわけではないが、両津は呆れたように声をかける。
「おおい、あの犬が戻ってきたらまた面倒だ。早くさがせよー」
 少年と左近寺はしゃがみこんではいたものの、探している様子がなかったからわざといってやっただけのことだ。はーい、と子どもたちの声が重なる。あとは作業の時間が始まる。喜びはそのあとでじゅうぶんだ。気づくとなぜか左近寺に至っては己の小脇に沙織の汚れた抱き枕をかかえている。
「おい左近寺、おまえはなにを探しとるんだ? ワシはどきメモの沙織を探せとはいっとらんぞ」
「ん、うう…む、だがな、見つけてしまったものはしかたがない。さ、沙織がオレを呼んだんだ。うぉー! さ、沙織ぃーーー!!」
 相変わらずの美少女オタクっぷり。これも両津がハマらせてしまったようなものだからしかたない。これだけ体育会系の無骨な男がいわゆるギャルゲーにハマり込むとは。そしてその姿は女子じゃなくとも気持ち悪いものだ。両津は苦い表情を隠すことなく溜息を吐きだす。これを糧にちゃんと作業さえしてくれれば構わない、そういい聞かせて動くよう促す。
 そこから再び、ゴミをよりわけるような作業が続く。小さなものを探すのはほんとうに骨が折れる。もしかしたら、さっきの着地で壊れてしまったのかもしれない。だが、確信のないことは黙っておく。また子どもたちに泣かれたらかなわない。両津は子どもの相手は得意なほうだが、泣き止ませる自信はあまりない。そもそもいまだに結婚というやつをしたことのない独身男なのだから当たり前なのだろうが。
「おおっ?!!」
 左近寺が喜びの声を上げる。みんながそれに駆け寄る。
「なんだ、あったのか」
「沙織のシールだあああ!!」
「ばっきゃろーーー」
 両津はそんな左近寺を思いきりポカリとゲンコツをやり、ちゃんと働くように諭す。子どもたち二人は意外な気持ちでそれを見ていた。大人だってこうやってほしいものを見つけたときははしゃぐんだ。その姿は大きい子どものように、彼らの目に映った。それが彼らにとっては悪いものではなく、自分たちの救いのように思えたのは、いうまでもない。だから笑った。このなかでは大人も子どもも関係ない。今やるべきことは、奪われたものを全力で取り返すことだ。少年は一度空を見上げてから、すぐに作業に戻った。やがて、少年が歓喜の声を上げる。夕暮れが迫りつつある時刻に差し迫っていた。すこし暮れつつある空は、陽射しの力が気付けば弱まっている。
「おまわりさん、あったよ! 僕のだ!! ポケモンプラチナ。僕の!」
「よくやったな、ぼうず」
 くしゃくしゃと短い髪を撫でて笑いかけると、彼もそれに返すように太陽みたいに笑みを返した。こんなふうに笑う少年を、今の小学校教諭は見たことがあるだろうか。ふとそんな疑問が頭に沸いた。瞬時に消えたが。やり遂げたことを褒める、そんなことは昔ならば当たり前のことだったというのに。それがゲームという遊びになった途端、今の世のなかは怒りへの矛先に変わってしまった。それでは今現代の子どもたちは世知辛い。悪いことをしているというわけではないのに。屈託のない笑みを浮かべる少年を見る目も、いつの間にか曇っているのかもしれない。両津は片手に姉の手を握り、片手に弟の手を握り立ち上がる。
「なら、帰るか」
 言葉なんていらない。それは、子どもだけではなく、この世に生きるなかで本能で生きるものたちの心だ。両津と左近寺は二人の子どもを囲って歩きながら辺りを見回った。それは、下町らしいゆったりした時間で、引っ越してきたばかりの彼らの心には染み入るほどに必要なものだったのだろう。両津にとってはさも毎日の光景だとしても。別れ際に両手を握り、
「おまわりのおじさん! 今日は、ほんとうにありがとうございました!!」と泣きべそをかいた辺り。いやいやここも区内なんですけど、といいたい気持ちを抑えつつ──たぶん中央とか渋谷辺りの育ちの子どもなんだろうなあ、と当たりを付けてもいた。──両津は子ども二人に頷きかけた。
「なんかあったらワシんとこに来い! ここからならそう遠くないぞ。ワシはいつも亀有公園前派出所にいるからな!」



2016/10/02 23:31:03