きみとブチ撒ける臓腑だとか、 (2)


 気づけば、神崎にもたれるようにして姫川は肩を組んで歩いていた。蓮井の連絡先も知らないし、昔のようにケータイは好きにいじれない。そもそも、他人のケータイを扱って連絡しましょうなどという考えなどしないような、そういうプライベートなところはやくざ者とは思えないほどにクソ真面目な男だ。あのままソファに移動だけさせられて姫川は眠っていたようだ。慌てて身を起こそうとすれば、クラリと眩暈がした。酔って寝てしまったのか、と気がつくまで数秒。あまりに情けない話だ。だが、変わらず隣には神崎がいて、ふらつく姫川に手さえ添えてくれる。
「あっ……おい、大丈夫か」
 この程度の酒の量で眠ってしまうなどと、疲れがたまっているのだろうと思ってカウンターに目をやった。この席は姫川が覚えている限り、客がいたはずの席だ。つまり、もう店は閉店を迎えているはずだ。店に迷惑をかけるのも嫌だったし、あ、そうだ、集金。今日きた理由について忘れていたことへの驚きと、思い出したからにはいただかなければならないという使命感。もはや眠っている場合などではなかったが、体は神崎に支えられてシンドいままだった。やはり、飲みすぎだろうか。神崎からゆっくりと体を離してソファに寄りかかり座り直す。
「…悪いな。寝ちまった、か……やれやれ、おれもヤキが回ったもんだな」
 多くを語るつもりなどなかった。この薄っぺらな言葉で充分。神崎はそんな姫川の顔を覗き込むように見て、さも当たり前のようにいう。
「送ってく」
 おまえのオンナじゃあるまいし。趣味の悪いジョークだけが姫川の脳内にぽっかりと浮かぶ。だが、それは意識で押しとどめた。体調もよくはない。甘んじて受けるのも悪くはないかと思った。黙ったまま頷いてテーブルに手をつく。立ち上がろうと手に力を入れて腰をあげると、眩暈が強くなり、姫川はテーブルから手を離して態勢を整えることにした。なぜかそんな姫川の視線のなかで神崎の顔が心配そうに歪む。おかしな態度だ、と思った。酔った姫川はもしかしたら病気のことを口走ったり、へたをすればべそをかいたりなどしたのだろうか。急に覚えのないことに不安を覚えるのと同時に、怖くてそれは聞くことなどできないと思った。無意識の自分のことなど、なによりも知りたいけれど知りたくない情報のひとつなのだ。だからせめて、目の前のやつを睨みつけてやる。強がるのは得意だ。
「…なんだよ」
「や。酒の強ぇおまえが寝ちまったら、びびんだろーがよ」
 神崎もまた姫川と変わらないほど、ほとんどなにも語らないのだった。これではなにが起こったとか怒らないとか、一切のことが分らない。ならば、とすでに頭は働き始めていた姫川が目をやったのは店のママの存在だ。ちらと見ると、カウンターには姫川たち以外の誰か客がいて、ママの顔は見えなかった。だからといって迷惑にはなっていないわけではない。姫川は自分の体力のなさを呪いながらまたテーブルに手をやる。力の入り具合などを押したり引いたりしながら調べる。いつもよりも集中力も、力自体も入りづらいなと感じる。寝起きのせいとアルコールのせいもあるだろう。
「あのヒツジに連絡、でんわ、しろよ」
 ヒツジというのが、イコール執事であることを瞬時に察知した姫川は冷たい視線を神崎に送りながらケータイをポケットから取り出す。
「ヒツジじゃねぇ、執事だ。そんならおまえの送ってくなんて話、いらねぇよ。それに、まだ───」
 クイとママに向けてアゴで指し示した。金のこと。神崎はちいさく頷いた。意味がわからない。顔を間近にして、姫川に耳打ちする。
「金ならおれが預かってる。ほかの客がいないときにあっちから渡してきた。だから店出て分けようぜ」
 そういうことか。姫川は納得して頷き返す。そういうことは思ったよりも長いこと寝ていたのだろうか。腕時計に目をやると、神崎がこの店に来た時間から一時間ほどしか経っていなかった。そう迷惑になっていなさそうだったのですこし胸をなでおろす。そういうことなら、ということで姫川は声を張る。
「会計、頼むわ」
 いつだって、会計というのは姫川の役目。なぜだか、今日はその役目もどこか居心地がいい。もちろん気楽なのはいつもとなんら変わりないけれど。

 いわれたとおり、蓮井を呼びつけてその日は迎えの車までかと思ったが、神崎は蓮井の転がす車のなかで離してくれなかった。「おまえの家まで送る」とガキのひとつ覚えみたいに繰り返す様がおかしかった。きっとなにかあったのだろう。それほどに自分がおかしかったということだ、と姫川は柔軟に理解するが、それでもストレートに聞くことができない。自分の知らない自分の姿など知るのはいつだって怖いものだ。そんな勝手な思いを破るためにおとなしく神崎に従った。肩を貸してくれる様がまるでこちらがお姫さまにでもなったようでバカバカしい。蓮井は神崎のことを見て、すぐにわかったようだがそれでも驚いたようだった。目を見開いて姫川に無言の問いかけをするが、姫川も慣れたもので流し目で示す。気にせずこいつに任せておいて問題ない、それくらいのことだ。
 蓮井の運転する車の揺れのなかで隣には神崎。おかしな感じだ。これでは高校の頃、一時的につるんでいたときよりも仲良しみたいじゃねぇか。その後何年も顔を合わせないことだってあったというのに。
「ふうん、ここに住んでんのか」
「ほとんど荷物置きみてえなもんだがな」
 土地なんて買おうと思えば金はあるのだ。車の揺れがおさまって体を動かそうとしたら、神崎が早くも支えようと前かがみになってスタンバイしていた。よく分からないが他人にそんなに手を焼きたいと思うものなのだろうか。理解はできなかったが体がだるいのは治っていなかったので甘んじて受けることにした。家のまえで蓮井と神崎が体を入れ替えて交替した。蓮井早くもその後に送るといったが、神崎はそれを頑なに断っている。面倒臭いやつ。姫川が軽く手を振る。部屋のソファに体を投げ出しながら蓮井と神崎のボソボソとしたやりとりだけがなんとなく聞こえる。もちろん内容など聞こえないほどのやりとりだ。戻ってきた蓮井の手のなかには受け取り損ねてすっかり忘れていた封筒に入った集金の現金があった。どうやら神崎には今日、借りをつくってしまったらしい。姫川は苦笑いするしかなかった。
「体調が悪いみたいだからゆっくり休めと仰ってました。いいご友人ですね」
 そんな間柄だった覚えもないのだが、大人になるということはガキの頃となにかが変わるということなのかもしれない。気づけば不安は今そこにはなかった。姫川は上着を投げ置きながら寝間着も着ずにベッドルームへ向かう。
「近々、再検査がある。そんときでいいさ」
 精密検査はまだだった。だが病状は進行しているとエコー写真といっしょにいわれたのだ。詳しい検査結果は予約した日から先のことになる。できるだけ早めに日程の調整をしてくれといわれながらも忙しさにかまけていた。だが、酒を飲めるのもそのうち止められるだろう。それまではこうしてゆるく溺れていたいと思うのが人というものなんじゃないか。いつだって姫川は満たされなさに甘えていることに気づかないふりをしている。



 次の朝はしっかり二日酔いだった。常々思うが、いつだって金持ちは日頃の行いが悪い。病魔に侵されるわけだと自虐ネタくらいカマしたくもなる。今日の仕事は楽なものだったのでとりあえず会社に顔を出しておく。集金の金は蓮井に預けてあるから朝イチで口座に入っているはずだ。ところで蓮井はいつ眠ってるんだろう? たまに不思議になるのでガキの頃から何度か聞いたことがあったような気がする。いつも微笑んで、彼は「私はいつだって休めますよ」と謎の言葉をいうのだ。たまに思うのはこいつはアンドロイドかなんかなんじゃないのかということ。あまりに人間味がない。たまに鼻を明かしたくもなる。いつだって姫川はいたずらっ子みたいな心を持っているところがあるのだ。
 昨夜の例に神崎のケータイを鳴らした。何度か鳴ってから低くて寝起きみたいなガサついた声が響く。あまり気分のいいもんじゃねぇな、と姫川はどうでもいい自分の気分を思う。
「昨日はドーーモ。やれやれ、手間かけさせた」
「あ、おう、姫川か。そんなことより、仕事忙しすぎるんじゃねーのか」
「なにをそんなに」
「…ショップやってる夏目だってこのまえ倒れたってんだから、資本は体なんだぜ。気ィつけろよ」
「……ああ、分かった」
 特におかしなことを話していたというわけではなかったようだが、他人のことにはナイーブになっているときだったようだ。神崎には軽く礼と、約束のない再会だけを告げて電話を切る。同級生でももう過労だかなんだかしらないが倒れたなどという話があったのか。夏目のことを気にしながらも姫川はその日の消化に頭を切り替えるのだった。



 その日から数日後、面倒だなと思いながら蓮井に精密検査を受けろといわれたからいってくるとだけ告げて、山ほどの検査を受けるために家を後にした。その日は検査のために待ち時間だけをひたすらに使うこととなってほとほと嫌になって夕方になってしまった帰路をため息とともに歩きだす。オフなんかじゃない、つまらないし面倒ばかりの日が過ぎ去って、最悪な気持ちで裏から出た。
 ビル街の裏の姿が、なぜかまぶしく見える。こんな世界を牛耳ってやろうなんてガキの頃、いろいろと考えたものだった。あの頃からすでに蓮井は姫川を坊ちゃんと呼び、お付きで今と同じように接してくれていて、ただ違うのは周りを取り囲む面々だ。そのなかで変わらないのは姫川自身の親と、久我山だった。どうしてここで久我山のことを思い出したのか。それは久我山のいるであろうビルが、ここから近いからだ。急にいったらきっと驚くだろうかと思った。
 髪をおろしていると姫川竜也であると認識されないのは幸いだった。だが、名乗ると受付嬢のオス二人さんが目の色を変えて久我山に連絡を取る様が滑稽だ。いじめちゃ悪かったかとも思ったが、自分の名前を出さなければフロアにすら通してもらえないセキュリティロックシステムのビルの面倒さを思えばこそだった。こうやって自分のにおいのついたところ以外のどこかへ出るのは愉快だ。受付嬢と内戦で話しているのはきっと久我山だろう。姫川竜也といえば分かるといわれても、みんなが認識している姫川竜也という人物ではないらしいので、こういうところは楽でも面倒でもある。受話器を置くと女が立ち上がって深々と頭を下げた。
「案内係がまいりますので、今しばらくお待ちいただけますでしょうか」
 社内教育はまぁまぁの出来のようだ。姫川は頷いてソファに腰を落ち着けた。最近疲れやすいような気がしてならない。ソファにいったん座ってしまうと、腰をあげるのがとても億劫なのだった。ジジイかよ。そんなことを思っていると、やがて見知った久我山の執事の女が現れた。
「姫川さま。おひさしぶりです。ほんとうに、姫川さまが来られたとは…」
「なあに近くに来ただけのことさ。さあ案内しろ」
 驚いた顔をしている執事になど構うものかと思った。執事の後をついてビルの最上階へ向かう。このビルのセキュリティは最新型の指紋認証だった。これならば認証されていない人物は入ることなどできないだろう。不正に認証システムに入れ込むことはハッキングによって不可能ではないが、それを持ち出してしまえばビル管理を完璧に機械化することに意を唱えることになってしまうだろうから、誰もかれもが口を閉ざすことになってしまうのだろう。すべてにおいてきっと完璧などというものは、ない。だからこそ人は躍起になるのだ。執事の後ろ姿に目をやりながら奥まった部屋に通されると、そこにはスーツ姿の久我山がいた。話は聞いていたはずなのに、ばかに驚いた顔をしているのがおかしい。
「なんだ、受付で名乗ったろうが」
「ど、どうしたんだ急に。会社にくるなんて…。仕事は、いったいどうしたんだ」
「そこまで動揺しなくてもいいんじゃねぇのか。近くに来たから寄っただけだろうがよ」
 今までこんなふうに気軽に、そして身軽に行動してこなかったのだと、ようやく気づく。久我山の動揺をよそに社長室のソファに腰を下ろす。こいつも姫川と同じ立場の人間なのだ。元より同じような仕事を好んでやっていた。一緒に証券会社を作って、そこは今でも共同で動かしている。忘れていたが、その辺りの話だってこれから詰めなければなるまい。執事は一度下がり、茶を持ってくると消えた。二人になったのを見計らって、姫川は久我山にいった。
「最近、仕事のほうはどうだ?」
「特に変わりない。あっちの会社も順調だ。前に姫川が連れてきてくれたあの人、よくやってくれてるよ」
「っていっても、他人なんだからちゃあんと見てなきゃなんねぇぞ」
 それは常々姫川がいっていることだった。経営者になるのは簡単だ。だが根っこを掴んでなきゃならない。そうしなければ、根こそぎ奪おうとするやつだっている。それは、できるやつならば余計にそうした野心を隠している。誰だってナンバーワンになりたいと思うのだ。特に、自分に能力があると認められれば認められるほど。そんな隠れた野心を読み切れずに乗っ取られて、だがうまくいかずに消えていった会社など山ほどあることを姫川、そして久我山も経営者として、他の誰かのこれまでの失敗談として何度も耳にしていることだった。それも踏まえて姫川は口を開く。
「久我山、まじな話がある。時間取れるときはないか? できれば何時間かほしい」
 このとき姫川は自分自身の思いつきにひたすらに突き動かされていた。本来ならば誰かに相談すべきなのだろう。だが、決めるのは最終判断は今の立場ならば姫川自身がやってもよいことだった。だからそう告げたのだ。その急に固くなった雰囲気で、いつものノリではさすがに甘いと察した久我山はその場で頷く。だが軽はずみなことをいわないあたり、やはり上に立つものだと姫川は内心感心した。自分のほうが、そういう意味ではいけないやつかもしれない。そのとき初めて思った。これまでは久我山と自分では、どこを比べても劣ったところなどないと楽観視していたというのに。
「……そうだな、わたしもそう安い身ではない。スケジュールを確認してからメールか電話で連絡して構わないだろうか」
「ああ、早めに頼むな」
「そういえば、近く、とは今日はどこに遠征していたんだい?」
「今日は────…、健診の、再検査でな」
「そういうの、ジジくさいな」
「オレも思う」
 不躾な言葉はどこか耳に心地よい。姫川も久我山も大袈裟なくらいひととおり笑って、やはりこいつとならツーカーでいける、などと思えてしまう。だからといって、まだ詳しいことがわからない以上は病気のことをいうのは憚られた。今できるのは、その病気が小さいと願いながら冗談の色に笑い飛ばすだけだ。それから数分、茶目っ気に彩られた他愛ない話ののち、姫川は久我山のところから退散した。そもそもアポなしで行くこと自体、他のやつならば許されることではないのだ。それが許される特権、それを行使しても胸のどこかにあいた穴はふさがるものでもないけれど。
 この気持ちに名前をつけるのならば、きっと寂しさとかそういう名前をつけるのだろう。姫川はそんなことを思いながら、自分の周りの深い人間関係について、考え始めた。もちろん病気のことも含めて。目を閉じると彼らの顔は浮かんでは消えてゆくが、必要以上の迷惑をかけるのはできるだけ少ないほうがいいと思った。その迷惑という言葉の意味は、きっとイコール、病気で親身になってくれる、ということ。ほんとうに、そいつが親身になってくれるのか、それとも薄情に逃げ出すのか。それはどこか愉快であり不愉快なことだ、と静かに思ったのだった。



 それから一週間はいつもどおり過ごした。病院をすっぽかしたら、ちゃあんと電話がかかってくるのだから笑える。もちろん医者からの小言つきだ。検査結果を知らせたいので来てほしいといわれれば、姫川が使う常套句はこれだ。
「オレを呼びつけるなんていい度胸だな」
 さすがに病名も病名だ。ケータイを持つ手が震えていた。そこまで強気なことはいえなかった。できれば、家族の方といっしょに聞いてほしいということを告げられた。急に家族を呼び寄せられるほど、姫川の家のものたちはヒマではない。家族じゃなくても構わないだろうかというと、医者は了承の意を示した。姫川竜也といって知らないほどニュースやテレビや新聞に疎いはずもない。仕事柄、話せるのはごく一部の人間に限られるだろうことは明白だった。それを選ぶのは姫川の役目だった。信頼の置ける仲間か、またはあまり気が進まないが、仕事に忙しく動いているであろう母親に連絡してみるかのどちらかに絞られる。姫川は医者との通話を終えて、両手を合わせた。がんであるということを自分以外の誰かに知られてしまう。いずれ暴露するにしても、その第一人者は自分自身で決めなければならない。しかも、早急にその相手を決める必要があるのだった。まずは誰にするかをケータイに並ぶ電話帳データをタップしながら考え出すのだった。


2015/12/11---22
2016/03/27 18:06:44