※ 唐突に姫川死にネタ(ごめんご)

※ 要素としては同性愛、異性愛ごった煮です。あんまり生々しい描写にはしない予定。


 愛とか恋とか、深く考えたことなどなかった。姫川にとってみれば恋愛と呼べるものはセックスと同意だったからだ。だが、セックスは見目麗しい女とただ性欲解消のためにするだけの、自分の欲の吐き目だっただけのこと。もちろん生まれた時から親のせいでびっくりするほどの金持ち。その金を羨んだり欲しがったりして、近寄るのは男女ともに数多くあった。だからこそ、他人を信じられなくなった。金だけが力だ、とどこまでも驕った考えに偏っていった。それは、高校であいつらに会うまでは────。



 その物語は、原作という魔王の子供と父親の話に任せるとして、彼らは例の石矢魔高校から卒業してから何年もの時間が経ったあとの話になる。

「…う、うそ、だろ…?」
 姫川の声がひどく震えていた。こんな情けない声を人前で発したのは、生まれて初めてかもしれない。少なくとも、彼の物心ついてリーゼントにポリシーを持ち始めてからの記憶のなかでは。
 今、姫川は親の後を継いでデカイ会社の社長という立場にいる。まだ二十代で結婚はしていないが、一応体を重ねる相手には不自由していない。だが、その女を大好きだとか、恋人だとかそういうものに分類はしていない。ただの性欲を吐き出すための穴だと思っている。その穴を使うために媚びたことなどもちろんない。欲しいものは何でも手にしてきた。あのリーゼント相応しい高校時代以外はずっと。何でも欲しいものが手に入ることというのはクソ面白くもないと思ってきた。生きているのも、死んでいるのも、そう変わらないのではないか。そう思っていた。そんななかでの、現在だ。
「いえ。嘘偽りではございません」
 姫川にいうのは医者だった。かしこまって、顔を見られないほどに深く頭を垂れた彼は、姫川の言葉だけをしずかに否定した。嘘でないのならば、本当なのだ。本当とは誠。真実のことをいう。それがなんであるか、姫川は胸に秘めた。よろめきながら、医務室から出た。頭がクラクラした。信じることなどできなかった。目には周りの光景が映っているというのに、それを見て理解するということができなくなっていた。だが、ずっと病院にいるわけにもいくまい。姫川はケータイを取り出してハイヤーを呼んだ。それに乗り込めば家まで辿り着く。執事らしかいない、寂しい家だがそれでも今は自分が大事にしてきたものたちにふれていたい、そんな気持ちだった。なにも考えたくはなかった。
 執事の蓮井が出てきた。慌てた様子だった。それはそうだろう、いつもならば姫川は蓮井を呼びつけるはずだった。だが、どうしてこのときばかりはそれをしなかったのだろう。みっともないほどに疲弊しているこの顔を見られたくなかったからだ、と気づいたのは蓮井が慌てて駆け寄ってきたそのときだった。こんなことは初めてだったけれど、蓮井はいつもどおりしずかに姫川にいう。
「帰るならば私に連絡してくださればよかったものを…。ご無事でなりよりです」
 執事は、執事でしかない。こいつに暴かれてはならない。だが、こうしたいつもと違う態度や行動から、悟られてしまうかもしれない。今まで姫川と蓮井の間には隠す薄皮一枚とてなかったというのに。だが、今は一人で考えたかった。これからのことを。そして、先に医者から告げられた現実について。そっけないフリを装い、きっとおかしいことはばれているだろうなと思いながらも姫川は必死に蓮井から目を逸らした。
「疲れた。今日はすぐシャワー浴びて寝る」
 ただし楽なのは、こいつの前では、我儘な子どものままでよいことだった。それをしたいと思いながら、知られたくないこともある。どこまでも姫川は我儘で自分勝手な子どものままだった。分かっていて、それでも不安に押しつぶされそうな自分を思いを持て余している。顔を見られないようにサッと移動して自室にこもった。鏡に映る自分の表情がひどいのは分かってきたけれど、思っていた以上だった。目が落ち窪んで、疲労の色に滲んでいる。これでは病人だ。
「…く、ははッ」
 吐き出すように笑った。わざとだ。楽しくなんてない。けれど、笑うしかない。これまで好き勝手やってきた自分につきつけられた事実。シャワールームのバスタブにはすでに湯が張られていた。召使いたちの気遣いは常に注意するスキがないほど行き届いている。今まで気にしたことなどなかった。それが当たり前の日々を送ってきたから。当たり前のことが身に沁みる。滲む心と向かい合いながら、シャワーの蛇口からの湯を浴びる。バスルームのなかの鏡は湯気ですぐに曇る。そうやって薄ぼんやりとモザイクをかけてくれる湯気がここまでやさしいものだとは思わなかった。隠すわけではなく、その存在だけはそのままそこにあるけれど、朧げにしてくれる。本当のことなんて見えないように。とてもやさしくてあたたかい隠し方だと思った。ボディーソープとシャンプーと、各々を洗い流してゆくうちに、そのあたたかさに脱力しそうだった。気をぬくと、不安で涙が出そうだった。からだを洗いながら思い出す。医者など嫌いだ。
「腫瘍……がんです。───精密検査をしたわけではないので、どこまでの病状かは分かりません。けれど、ごく小さなもの、というわけではありません。まず、検査をさせてください。もちろん姫川さんのご都合に合わせてスケジュールを組んで頂きたい」
 金がいくらあっても、きっと助からないだろうといわれた。ならば、この金の力とはなんなのだろう。目の前が真っ暗になる。生きられる期間はあとわずかだった。生きて金を作って、金を使う。そのために存在しているような人生しか歩んでこなかった、というのに。余命宣告はアテになるものではない。だが──と医者はいいよどんで、それでも続けた。
「…最悪の場合、姫川さんは半年、でしょう…」
 地獄はここだと、生まれて初めて思った。なにをすればいいのか、もう分からないのだった。今はただシャワーの湯の向こうで泣く子どもがいる。


きみとブチ撒ける臓腑だとか、



 夜は不安を掻き立てる。だから今日の仕事はキャンセルだ。蓮井は勘が鋭いから、あまり近寄りたくなかった。だが、そのことで勘づかれるのも嫌だと思った。そのせめぎ合いの末、姫川はしずかに蓮井を呼びつけた。そこで体調を崩したみたいだから病院に行ってきた。念のため安静をいわれたからなるべく急ぎじゃない仕事はキャンセルしたいからスケジュールを教えろと簡潔に述べた。ビジネス関係の相手に、どれだけ詳しい話をすべきか、それも徐々に考えていかなければならない問題だろう。姫川は必死で考えていた。蓮井はどこまでも冷静で感情の読めぬ様を装うのがうまい。執事というのはそういう感情的にならない訓練でも受けているみたいだ。そして今まで、それにずっと甘えてきたのだとこうして今になってよく分かる。
「今日は夜に外食があります。あとは、いつも竜也さまがいく店の集金もあります。本日は…それだけです。が、会食のキャンセルはむずかしいかと──」
「…ああ、いい。分かった、急だからな、こなす」
 休むことを諦めた。孤独も怖いと思ったのだ。姫川はすぐに頭を働かせることにした。会食はオヤジどもにちょっとだけ媚びて笑っていればいいお気楽仕事だった。一応いる大手の株主どもと世間話をしながら酒を飲むだけのことで、金の流れはすでに決まっているのだからあとはコンパニオンの女をひっかけてもいい。むろんそんな気分になれないのだったが。
「体調がすぐれないのでしたら、せめてぎりぎりまで休まれてはいかがですか。顔色も、すぐれませんよ」
 蓮井は勘付いた様子すら見せない。ただいつものように姫川を気遣うだけだ。ああ、と気のない返事をして姫川は部屋で仮眠をとることにした。ここで一人でいるよりは、誰かワアワア騒いでくれるジジイどもと下らない酒を飲んでいるほうが気は紛れるだろう。アルコールがこの病気に悪いのは分かっていたが、急に飲まなくなるほど不自然なことはない。今日はいつも通りやるべきだろうと思った。まだちゃんとした検査も受けてはいないのだ。姫川はベッドの上で丸まりながら目を閉じた。不思議なほど眠気は訪れない。気持ちが毛羽立って、はやっている。興奮しているのだ。こういうことはしずかになってみないと分からないことなのだ。気づくと倒れ込んだように眠りの渦に巻き込まれていった。それは、急激なしずけさのせいだったのだろう。眠れないと思っても、人は眠れるものだ。仕事をしたり病院に行ったり他人に気を遣ったりして、いつだって人は疲れているものなのだ。



 不本意ながらも姫川はいつものように平気な顔をして、いつもどおりの軽口を叩いて会食のさして重要でもない役割をこなしていた。お偉いさんの融資をしてくれる銀行だとか、それだって姫川財閥は何社にも分けて投資をしたり融資をしたり、また、してもらったりしてうまく金を生かし運用してここまで大きくなっている。特に、金の回し方は母親から受け継いだものだったが、竜也は実に上手いのだった。それを見込まれてこうして金持ちたちが姫川竜也という若造に近寄りたがる。それをいつも面白くない顔をして裏で文句をいうのは幼なじみで、フィアンセだった久我山だ。今回の会食にもやつは参加している。まだ顔を見ていないが、今日は会いたくないと思った。なぜなら、久我山と色恋の話があったという過去もあるからだ。結局、姫川はその話を断った。後悔はしていない。男だと嘘をついて親友ヅラされていたことも含めて、そのときは本当に頭にきたものだ。その後、話し合いなどもして、友人としてやり直そうといったのは久我山からだった。それならば構わないと姫川は女として生き始めた久我山を許したのだった。そして、仕事では互いに手広くやるもの同士、きっと関わることになるだろうからと断わったうえで握手をした。そのとき、ほっそりした手を握って、やわらかな肌を感じながらどうしてガキだったにしても、高校までこいつが女だと疑わなかったのか。自分自身を不思議に思ったものだった。
 そんなこともあり、久我山には会いたくないと思っているところ、間の悪いそいつは、ツカツカとヒールを音高らかに鳴らしながら近づいてきた。
「やあ姫川」
「おう、久しぶりだな」
「そんなに嫌そうな顔をすることないだろう」
「…してねぇよ」
 軽くグラスをあわせてひと口ずつ飲む。姫川のグラスが空になる。久我山はそこまで酒が飲めるわけではないのでまだグラスのなかでワインが揺れている。姫川はそのグラスを通して久我山のことを見る。こいつに自分のことをいったらどうなるのだろうか。きっと親身になって病院やらなにやらと手を焼いてくれるのかもしれなかった。だが、それが下手をすれば半年の命だと思えば重荷なのだった。前に本気で告白されたことを思い出す。だが、向き合うにはあまりに近くにいすぎた。嫌いになったわけじゃない。だからといって結婚なんてことを考えられるわけもない。男相手にどうのと考えたことがなかったのもあるし、女だからいいという問題ではない。本当に精神的な問題なのだ。色恋はセックスをするだけのなにかとは違う。ナイーブな問題なのだった。だが、とこんなことを思ったついでにふと思う。ならばセックスならできるのだろうか。それを、久我山相手に考えたことはなかった。見目はいいけれど、やはりそういう目で見たことはない。そう、やはりガキの頃から知る相手というのは、近すぎるのだ。あまりに。そんなあられもない考えを読んだように、久我山は首を傾けて姫川を覗き込む。
「どうした? 顔色が悪いんじゃないか」
「……う、いやべつに」
 これだから会いたくなかったのだ。姫川は他の場所へさっさと身を移し、うまくその場を逃れた。本当に久我山というやつはよく姫川のことを見ている。惚れているのだから当然だとやつはいう。けれど、そんな片思いがいつまで続くものなのか、姫川にはそれほど焦がれた相手などいなかったからよく理解できないのだった。そうだ、死を目前にして思う。今まで姫川は恋い焦がれたことなどなかったのだということを。それは、思い返してみればあまりに悲しいことではないか。だが、そのこころなど知らぬふりをして姫川は久我山に背を向けることしか今はできなかった。

 酒は次の仕事があるからということでさほど飲まずに、集金に向かうことにした。今回向かう先は、姫川がもう何年もいっている飲み屋である。用心棒代わりに彼はちょくちょく顔を出す。もちろん、用心棒のわけではない。ただ、この店を気に入ったから、集金を踏まえて遊びにいくのである。デートの場所にも最高だった。知ったママさんはもちろん口が堅いので安心だ。だが、そこで姫川とはべつに、とある集団が関わっていることを知った。用心棒代わりにうろつくゴロツキどもの存在だった。それ相手に店のものは、実は高い家賃などとべつにみかじめ料をも払っているのだということを。それを知ったのは通いだしてからしばらく経ってからのことだった。そして、それは姫川が知ったことによって、金額を含めた店へ関することを安く抑えることができている。なぜならば、そのみかじめ料を払っている相手というのが、高校時代の同級生、神崎組だったからだ。
「ママ、ウイスキーくれるか」
 もしかしたら最後の酒になるかもしれないなどと暗いことを思っていた。だから無理やりにでも押し込みたかった。否、こんな気持ちでかつての同級生と顔をあわせるのが嫌だったのだ。早めに会食から抜けて姫川は店のカウンター席で飲んでいた。どうせ神崎たちが来るのは閉店間際だ。金の話をするのだから当然である。カラン、と軽い氷の冷たく尖った音がした。有線から流れるナツメロだけが、わずかに姫川のこころを満たしていた。
 姫川は飲みながらママと他愛ない世間話をしつつ思っていたことは、がんだといわれてこれほど驚いたことにも驚いているという事実だった。死が近づくのはヨボヨボのじじいになってからだと思っていた。確かに褒められるようなことなどしていない。まあ社会的にみれば恨まれても尊敬されてもいいことは山ほどしているだろう。同じ20代のやつらとは笑えるほどに違う金の使い方と活かし方に、それは妬みも嫉みも買うことだろう。だからといって、そこまで不衛生な生活を送ってきたのだろうか。確かにここのところ、腹の調子はよくなかったけれど、それは会食やらというものがあるからだ。もちろん姫川はタバコも酒も人以上にやるのだから文句もいえないのだが、それでもこんなに早く天罰が下るなどとあまりにバカバカしい話ではないだろうか。そう思ってやまないのだ。あの検査結果について。
 ヘタな客のカラオケが耳につくが、それくらいのほうが気が紛れてちょうどいい。姫川はいつもならばしないけれども客のため、否、自分のためにメロディーにあわせて両手を叩いた。ヘタな歌だと分かりながらも。人がいるというだけで、自分以外の、そして自分のことなどよく知りもしない誰かがいるということは、とても姫川のことを癒すのが不思議だった。これまでまったくないことではなかったけれど。彼は何杯目かのウイスキーを飲みながらふと目をあげた。なぜなら、それは翳ったからだ。不意に影がさせばそれを見ないものなどいないだろう。どこかあたたかで懐かしい空気だ、と姫川は思った。思っていたとおり、そこには見知った取り立て屋、神崎がそこにいたのだった。姫川を見下ろして。
「…よう、来てたか」
 もう姫川も、神崎も、ガキじゃない。ここであったのはビジネスの世界。酒の香りが、姫川の意識をどこかトロリと連れ去ろうとしていた。
「まあ座れよ」
 そう姫川がいうのもわけはなかった。この店は半分以上自分のものなのだから。不動産的な意味も含めた、他の意味でも。そう、神崎の顔を見るといつも思い出す。みかじめ料を取ろうとしていた般若のような、高校時代とは違う神崎を見たときのことを。懐かしくも痛ましい───

 数人の体のでかい男どもが現れたのは、閉店してからのことだった。それも今日みたいに急に翳ったせいで姫川は顔を上げたのだった。どうでもいいことを思い出した。そこには強面の男たちがいた。堅気じゃない。それが最初の印象だった。やくざ者か。こうした夜の仕事のなかにはそんなものも出入りしていることは知っていた。ママからもそれとなく話は聞いていた。だが、この人は元は東京の盛り場でブイブイいわせてきた過去があることも知っていた。それなのにこの田舎に来たのは歳のせいだとも彼女はいう。だが、姫川は思う。なにかに駆ける女はいつまでもきれいだ。抱きたいと思うほど不足はしていないが、きっと損得なしの関係でなら彼女を抱けるとも思った。年齢差は親子ほどもある女だけれど。その棄て去った色香が一番色っぽいと感じるのは、金で壊れた人間たちを見てきたせいだろうか。その日、姫川は穢れた世界の話をして時間をつぶしていたのだ。みかじめ料をとろうとしているふてえやつの顔を見るために。そこに、さも当然みたいに神崎がいた。
「…ひ、めかわ?」
 そう低く呻いたのを、聞き逃さなかった。そこに映ったのは懐かしい同級生の少し老けた顔。夜の闇が意外にもよく似合うものだとそのとき姫川は思ったものだ。そうか、ここは神崎組のシマだったのか。こうして表社会を牛耳ったつもりになっていても、裏まで把握しきれないことがある。神崎はそのとき慌てて子分どもを下がらせた。その日にかわした約束は、今でも守られている。この店をほかのやくざ者から守ることと、その金のこと。金のことは姫川が話をつけた。やくざの世界も今は景気が悪く、一軒から多めにとるしか生きる道はないのだという。ほんとうに世知辛い世のなかだと思った。もちろん姫川のなかには不景気だなんて言葉は辞書の間違いでしかないのだけど。
 金の力は偉大だった。生きていくには金が要る。子分を持つのにも。神崎は必死で裏稼業にかじりついていた。そうやってかじりつく姿を見て、姫川は笑えてきて仕方がなかった。ばかにすんなと不服そうだったが、ガキの頃よりも随分とわきまえて、むやみに暴れたりすることはなかった。だから姫川は神崎に向けていったのだ。
「物分かりがいいのはやりやすい。だがな、おれはとがったおまえのが好きかもしんねえな」
 神崎はそのとき眉を寄せて未確認生物でも見るような目で姫川を見上げていたのをよく覚えている。ああいう視線を、「失礼なやつ」とか「ぶしつけな視線」とか呼ぶのだろう。立場的にジロジロと見られるのには慣れているが、やっぱりいい気分ではいられない。胸がむかつくのは事実だ。
 何年も前のことをありありと思い出すなんて、過去にすがるみたいなことをしてしまったのは本当に久しぶりのことだった。

「集金ならもう少しあとだからな」
「わーってるよ。おれだってもらうもんさえもらえば構いやしねえ」
 もちろんこの後に及んで神崎たちがなにか騒ぎ立てるようなことがあるだなんて酔っていたとしても、姫川はないと分かってはいた。つまりは、おちゃらけているのだ。これも同級生ならではのおふざけだった。よく考えてみればこんなふうに腹を割って話せる相手は他にいないのかもしれないと思った。タバコを灰皿のなかで揉み消しながらボンヤリと考えた。この病気のことを最初にいう相手は誰になるだろうかと。少なくとも、それは目の前にいるこのムサい男でないことは確かだ。姫川はそう思うと鼻で笑った。
「けっこー飲んでんのか」
 隣に神崎が座るとカウンターが軋む。この店も古いな、改装などという大それたことをママは考えてはいないのだろうか。神崎が「うわっ」と嫌そうな声を出した。それはどうやら、姫川がウイスキーをほとんど一本空けようとしているからだ。そのほとんど空の瓶を見て声をあげたのだ。思っていたよりも飲んでいたためだろう。神崎はさほど酒に強くはない。姫川は強いほうだがアルコール度数40度くらいのウイスキーをこれだけあければ酔わないほどではない。神崎が引くのも分かる。だからいってやった。まだ意識はしっかりしている。
「バァーカ。ボトル入れといたやつだ。今日ははんぶんぐらい」
「っても飲みすぎ……」
「酔うかな、と思って」
「荒れてんじゃねえか」
 さすがに鋭い。だが、久我山のように気遣う必要がないのはありがたかった。そういう意味でも同性のダチというのは必要なものなのかもしれない。生まれて初めて姫川はそんなことを思った。まだボックス席にはオヤジどもが数人パラパラと残っている。そんななかでひと際人相の悪い神崎が隣にいるのは、どこか愉快だった。いつもならばきれいどころが姫川の隣にいるはずだというのに。それで隣のムサい野郎が、心配そうな顔すらしてくれる。笑える光景だ。
「どうかしたのか」
「疲れただけだ」
 神崎にくだらないことをいうつもりなどなかった。だが、例えばの話をするのも悪だろうか。ふとそんなふうに魔がさす。姫川は聞いてみたくてたまらなくなった。まだ自分と同じ年の誰かが、もしかしたら半年で死ぬといわれたらどう判断するか、ということを。だが、それを聞くことによっておかしな感覚を相手に与えないだろうかとそればかりが気になって、堪らず姫川はいっていた。
「おまえも、付き合えよ」
 ウイスキーのボトルに残った液体に目配せしながらそういった。もちろんこの動作自体がわざとだ。だが、それに神崎はまったく不自然さを覚えることもなく頷く代わりにママにくれ、と頼む。こういうところがいちいち目につくのは、きっと姫川のほうが裏の世に近くて神崎はそこに近いところにいるはずなのに、それでも汚れた世界を見ていないせいなのだろうと、ふとそんな普通ならば不快になるだろうことを思った。そんな姫川の気持ちなど誰も汲むものなんてない。そのままときは流れていくだけ。神崎はママによって少し薄めに注がれたウイスキーの水割りのグラスを神崎の前に置いただけのその間。それを手にした神崎のしてやったりみたいなアホヅラが姫川の目の前には今あった。ほんとうにこいつはばかで、あまりにも同い年の自分よりも何倍も、何十倍も、へたをすれば何百倍も、この世というものを知らないのだなぁ、と思うばかりで、それは言葉にも行動にすらならないのだった。
 カチン、と形ばかりの乾杯と飲むひととき。それは楽しいだけじゃなくて、先に感じたもやもやとしたいろんな感情が渦巻くことだなんて、姫川はそれをも初めて知った。神崎はただごく普通に、存在しているというのに。くいと運ぶごく薄い飴色の飲み物が喉を焼く。この感覚にまだ慣れきれずに眉をしかめる神崎と、この感覚に身を任せて現実では羽根が生えない代わりに、感覚という手に掴めないもののなかだけでフワリと浮かぶことを望むみたいに酒を体に入れていく姫川と。どこが違ったのだろう。もちろん生まれたときからまったく違うのは理解できることだけれど。神崎と目があう。
「もうかりまっか」
「ボチボチでんな〜」
 商人か。どちらともなく笑った。酒の深さがすこしだけ姫川を陽気にさせた。これだけの小さなことでも、今日という日にでてきた意味があったのかもしれない。そんなことを頭のなかの隅っこのどこかで思うのだった。


2015.12.11---22
2016/03/27 18:04:22