深海にて37


※36からつながってます


 葵の手はいつだって男鹿のより小さくて華奢。握り込まれるとそこで試合終了、身動きなんて取れなくなってしまう。うまいことくるまれた手の中で、ただ呼吸の意味のみで葵の手が男鹿の手の中で動く。それはどこかしあわせであたたかなゆるい時間。葵の気持ちが沁み渡る。胸の奥で嬉しいと何度も高鳴る。それだけでいつもより心臓からきれいな血が、どんどん押し出されているかのような不思議な感覚。嬉しいけれども、まっすぐに目を合わせるのは怖かった。それは、お互いに同じ気持ちだ。互いの視線が交わらずにどこからフワフワと宙を舞う。おかしな空間だった。こんなに近いのに。目を合わせたのは、男鹿の前髪が葵の目にかかりそうになったからだった。キスされる、あ、と思ったのも束の間。視線が絡みつく。変わらない真剣な眼差し。男鹿の燃えるような目に最初、葵は胸を打たれたのだ。吐息がかかるのがくすぐったい。葵は目を細めた。いつもなら降ってくるであろうはずの唇のやわこさは降ってこない。だから葵は閉じていた目を開けた。
「何、待ってんだよ」
 笑いを堪えながら男鹿がそんなことをいう。今までの期待感とか、そういうドギマギした気持ちが一気に萎えそうだ。葵は頭にきた、瞬間的に。反射的に手を伸ばして男鹿の口をつまんだ。どこかマヌケな顔をした男鹿が情けない。だが、こんなことをさせてくれる彼の姿自体、なかなかないことを今さら思う。そして、それはとても尊いことだということについても。
「しねぇぞ。隣、ベル坊、とヒルダ、いんだからよ」
 プイと男鹿は隣の部屋の方へ目をやる。だがその手を離すことはしない。ずっとこうしていてベタベタしていたいのだ。それは葵も変わらないし、男鹿の気持ちが溶け込むみたいに入ってくる。それを体現するみたいに指と指を絡ませる。こんなにくっついていたいのは、これからがどうなるかわかっているから。だからつよく離れたくない、離れたくないと願ってしまうのだ。何もしねぇぞ、なんて公言したのはまだ数十秒前のほんの短い過去のことなのに、もう葵の瞼に男鹿のくちびるがそっと触れるように降ってくる。もっと、それが深くなればいいのに。もっとキスが欲しい。瞼だけじゃなくて、口にも欲しい。ねだりたい気持ちは顔に出ていた。それを分かって男鹿はわざと目をそらす。この焦らし方が思っていた以上に葵にハマっている感じが、さらに離れ難くしているのだ。なんだかんだで手の平の上で踊るのは、いつも葵の方。
「実はちょっと前に、ヒルダが」
 唐突にされたのは別な女性の話だった。葵は急に気を削がれたような気持ちになって男鹿から目をそらす。こんな時にヒルダさんのことを話題に出さなくてもいいのに。そうこれほど強く思ったことはない。もちろん嫉妬などではない。前の葵と話だった違うのだ。ただ、今のこの時を少しでも長く、共にありたかった。それだけのこと。男鹿はそんな葵の機嫌になどまったく気づかない。それが男鹿であるし、それでいいとは思うのだけれど。
「──今回の話があって。で、もし、行きたくねぇんなら、俺とベル坊が会わなかった過去にも行ける、って一度だけならそれを許すっていわれたんだよ」
 今の男鹿の言葉、瞬時に理解できるものなんていやしないだろう。葵はそれに生半可な返事などしないで、何度もなんども頭のなかでその言葉の意味を反芻することに時を費やす。何度目かの繰り返しの後、ようやくその意味をある程度理解して目をまん丸にした。理解した、といっても納得したわけではない。過去に行けるだなんて、それこそバックトゥーザフューチャーではないか。デロリアンではないか、とツッコミの何個かも入れたくもなる。魔界の常識など葵たちのいる人間たちの世界では鼻で笑われそうなことばかりなのだろう。
「そんなの……。おかしくなっちゃうじゃない」
 そして大抵のドラマたちは過去や未来をいじくろうとして、失敗する。そんなドラマばかりを見てきた。だから時間を越えて何かをしようというのは、人間にとってはあまりに恐ろしいことでしかない。男鹿が今からいおうとしていることはきっと、先の言葉について手を引くのか、背中を押してほしい、とそういうことなのだろうか。男鹿がどちらを望んでいるのか、それは葵には計れない。だから咄嗟に出たのはどちらかといえば否定の言葉だ。それでよかったのかは分からない。ただ、今の正直な葵の、魔界に侵されていない彼女自身の率直な気持ちだった。さっきは葵が目を逸らしたけれど、今度は見なければならないと感じてまっすぐに男鹿を見つめる。こんなふうに密着しながら向ける視線じゃないことは分かっていた。けれどそれでも離れたくはなかったのだ。気が少し削がれてしまったとはいうものの。男鹿のいつもの視線と、何の遜色もない彼の瞳にはどんな願いも映ってはいなかった。そして────
「んなこというから俺はいったぜ、ヒルダに。『今のままでいい』ってな。そりゃそーじゃねぇか、お前も思うだろ? 葵」
「えっ………」
 葵は耳を疑う。下の名前で呼ばれる。そのことに何か意味があるように思えて。同時に恥ずかしいようなむず痒いような、火照った気持ちになっているのも自覚している。
 むろん、初めて下の名前で呼ばれたわけではない。二人で触れ合ったり抱き合ったり、まあ今みたいな感じの、それよりももっと艶っぽくてちょっとエッチな感じに流れた時に、男鹿は意地悪くそう呼ぶことがあった。つまり、そういう行為の時だけ、男鹿は呼ぶ。それだって何回もあることだったから、男鹿が「葵」と呼ぶのはそこまで珍しいわけじゃないけれど、でも、今のような、会話らしい会話のなかでそんなふうに呼んだことは、きっと初めてのことだ。少なくとも、葵の覚えている限りでは。急に呼ばれてしまって、それに意味がないようには思えなかった。葵は軽いパニックに陥っていた。何の話をしてたんだっけ…、あ、そうだ、過去に行くとか行かないとか、そういうむちゃくちゃな話だった、はずだ。葵の頭のなかはグチャグチャだ。
 今のままでいい。
 男鹿はそうヒルダにいったのだ。もちろん、葵はそうだと思っている。けれど、男鹿も同じ気持ちだったのだ。それについては、葵は素直にうれしいと感じた。だが、男鹿と葵の、未来とか過去とかにまつわる考え方についてなんて、きっと驚くほど違うだろう。だから、うれしいと笑う前に男鹿へと向き直り尋ねた。とりあえず名前呼びについては置いておくことにする。照れがあって、しかたない。
「う、うん…。私も、そう思う、けど………。どうして、男鹿はこのまんまでいい、って思ったの?」
「……どうして?」
 男鹿はそんなことなど考えたこともなかったようだ。眉を寄せて少し難しい顔をしながら葵を見返す。絡みつく視線と視線は、もはや恋人というより仲間内といった気安いものとなっていた。うん、と葵はもう一度深めに頷く。聞きたい。どうして、男鹿は過去にかえりたいと願わなかったのか。それとも、単に何も考えていなかったというだけのことだろうか。男鹿であればありえないことではない。男鹿は答えずに、しばらく考えていた。やがて口を開く。
「過去になんて行きたくねーからだろうな。ベル坊に会わなきゃ、お前とも会ってねーだろ、多分」
 すき。
 どうしようもなく、男鹿への想いが強くなって、溢れて、それは涙とか鼻水になって、葵の外へと溢れ出た。どうしようもなかった。この感情の昂りを、葵は自分自身で止めようもなかった。男鹿がいいたかったことなんて、どれほどに尊いのか。ただ、言葉は違うけれど彼は簡単に「お前と、会いたかった。」そういったのだ。そのことが、痛いほどにうれしくて、気持ちが溢れておさまらない。葵は自分の涙とかそのほかのものできっと、どろどろになっている顔をしているだろうなと感じながら、それでも男鹿にしがみついた。これをいってもいいのだろうか。何度か頭のなかで迷ったけれど、やはり今のありのままの気持ちにそっぽは向けない。だって、これほどに男鹿を求めている。しがみつきながらいう。
「男鹿、お願い…。」声も涙に濡れていた。
「なんだよ」男鹿は、素っ気ない調子で。
「……キス、して。」男鹿は何もいわない。
「いま、したいの。」ねだる。
 やがて優しく触れられる頬を撫でる男鹿の指先と、触れ合うくちびる。これだけの、優しくてあたたかで、望んでやまない時間。すき。何度も、何度も触れるだけのくすぐったいようなキスをした。それが、とてもうれしくて、心地よかった。



 男鹿は、迷わずに魔界へと向かう。どう転ぶか分からない過去を棄て、今もう進んでいる不確かな未来へと。
 いつ戻るか分からない別れはつらいけれど、それでも「過去に行きたくない」といってくれた男鹿の気持ちを噛み締めて、彼の帰りを待てるという覚悟は余裕はあまりないけれど、それでも十分にできた。そんなこんな、今までのいろんなことを踏まえた上で葵は魔界に向かう男鹿、ヒルダ、ベル坊、鷹宮、藤などの面々を、笑顔で送り出すことができるのだった。


15.10.24

一応、追記↓↓↓↓↓よりおまけを書いてます。

今回の話、男鹿にいわせたかったことをいってもらえて、それだけのために書けてよかったです…!
もちろん「ベル坊に会わなきゃお前にも会ってねーだろ」ですね。ちょっと濁してる辺りがちゃぁんと男鹿もテレてくれてんだなって感じてもらえるかどうかで読み方が変わるのかなぁと。
言葉自体は簡単なものにわざと、したので理解はしてもらえるんじゃないかなぁと願いながらうってました。ここだけは、へんに歪んで解釈して欲しくないところだったのですよ…!


あとは男鹿が、ストレートな言葉をいつ葵ちゃんにかけてくれるのか、それはちょっとまだ考えまとまってませんw
ただエロしか書かなくなるのかもしれないですしおすしやすし。。

では、下記でおまけ。

つづきを読む 2015/10/25 11:25:14