深海にて36


別れないなんて誰が決めたんだろう。
別れないことなんてもしかしたら、夢物語なのかもしれない。
それは、夢を見られなくなった時に初めて分かるものなのだろう。


 魔界の瘴気と呼ばれるものの、要は簡単にいうと魔界と人間界が今までにないほどに近づいている。と、ヒルダと早乙女がいった。それはいわれるまでもなく葵もまた感じていた。
「当然だ。大魔王さまが呼んでいるのだ、欲しているのだ」
 なにを、と聞くのは野暮だ。だが、その意味を完全に理解できるほどに葵もまた魔界というものを理解しきれてはいなかった。魔力というものを借りながらもまた。その魔力の元になっている狛犬のコマちゃんがそこでいつになくギャグの落書き顔よろしく、葵の傍に立ってマジメな声を出す。似合わないけれど。
「ここは冷えますなぁ。これも瘴気のせいやろか」
 魔力のないもの、弱いものにとってはこれだけ魔界と人間界が近づくことは危険だ。今はまだ大した被害はないが、魔力を少しでも感じることのできるものにとって今は、人間界でいうところの低気圧みたいな、不調が続くような状態となっている。つまり、今は開いている魔界の扉を閉じて、前の位置関係に戻す必要があるのは、魔界ではなく人間界側の願い。
 話をかいつまんでいうと、大魔王は自分の後継者のような、人間界の父親である男鹿に来てほしいということだった。もちろん、ずっと魔界に住めとかそういうことまでは考えていないようだが。で、その思いが強いため人間界に害となるほどの瘴気となっているらしかった。その瘴気についても、魔力がより強いものが人間界にいることによって、散るのを抑えることもできるというのが早乙女の話だ。つまりはそういう目的で人間界と魔界を密かにつなぐパイプとして、より強い魔力を得るための修行の旅に、男鹿や藤、鷹宮などの契約者らについては行くよう今回話があったのだった。
「葵ちゃんが思ってんのは、分かんねんて。でも、しゃーないで」
 男鹿と離れるのは寂しい。つらい。戻ってこられる保証なんてないのだ。魔界のような修行というものがどんなものであるのか、葵には分からない。だが、それは今までの早乙女らから受けたものとはまた違うのだと、あれよりももっともっと厳しい内容なのだろうということだけは予想ができた。だからこそ、葵は男鹿のことを案じた。もちろんそれで戻って来ないだとか、命を落とすだとか、そんな野暮な心配は持ち合わせていないが。だからこそ、葵の、自分自身の勝手な我儘なのだということを彼女は分かっている。
「帰ってこられるのがいつか、などと分かるはずがあるまい。ドブ男には、より成長してもらわねばならんのだ。坊っちゃまのために」
「…ええ。分かってる」
 これが女の弱さ。感情に振り回されるのは女性の脳の構造のせいだと、科学者の誰かがいった。だが、その埋まらない寂しさとか、別れることの悲しさについて、男女の違いがあるなどと馬鹿馬鹿しい、と葵は思う。好きになることに意味を求めない私たちが、どうして別れることに意味を持とうとするのか、それこそ無意味。男鹿だって葵と同じように寂しく感じてくれているはずだ。だからこそ、男鹿からこの話が聞きたかった。そして、男鹿の口から聞きたくないとも思った。葵はあと少しの時間しかないことを胸に刻み、ヒルダにしばしの別れを告げた。男鹿と話がしたかったのだ。二人きりで。


「ヒルダさんから話、聞いてきた」
「……ふーん」
 男鹿はいつもにまして口数が少ない。男鹿なりに思うところもあるのだ。そして未だ考えはまとまらない。魔界に行くべきなのか。ベル坊はどうなるのか。行かなければどうなるのか。それは早乙女の話ではあまりいい未来ではなかったようで、男鹿は首を横に振るという選択肢がなかったように思う。けれど、葵が来て魔界についての話を聞いたといわれた時、男鹿の中でなにかが揺らぐ。そんな音が男鹿の頭の中だけで聞こえた。魔界に行くことだけしか選択肢がないのだろうか。それしかない、と早乙女とヒルダはいった。だが、他のものたちにそんな話をしたことはない。共に行く予定になっている石矢魔一年組のヤツらとも、つるむほど仲がいいわけじゃないので話もしていない。だから周りがどう感じているのかも男鹿は知りえなかった。当然、知りたいとも思っていなかったのだが。
「男鹿は、…いくんだよね?」
「……まあな」
 返答の一々が遅い。それは男鹿自身も感じていること。やはり男鹿の心を揺さぶるのは、彼女しかいない。付き合い始めて、一緒にいて、一緒に闘って。背中も合わせたけれど、心もあわせたし、身体も───勿論いやらしい意味で───合わせた。そんなこんなもあり、一緒にいることがさも当たり前に続くものだと信じて疑わなかった。離れ難いと思うほどに、いつでも離れたくないと願っていたのに。じゃあなと帰る後ろ姿が、なにより手を伸ばしたいと思うものだったのに。それは、葵もそうだったし、男鹿だってそうなのだ。口にすることはないし、それは恥ずかしいことだと感じてしまう。だが、本音はその奥にあることを知っている。それを知っているからこそ、その本音を時に暴きたいと願ってしまうのだ。だが、そんな気持ちは浅ましいと思われるのかもしれない。それが嫌だった。どこまでも純粋で柔和な関係と存在。そんなことが可能でないなんて分かりきっているというのに。そう、人は良いところしかない人なんていないのだから。どうすれば思い留まるのだろうか、と葵はつよく考えた。そして、男鹿は逆にどうすれば葵が止めてくれるのか、と考えた。それがきっと、以心伝心というやつなのだということに気づくのは、今よりもずっとずぅっと先のことになるのだろうけれど。それほどに人生経験とやらを積まなければ理解しえないことなのだろう。
 葵は、男鹿のその迷ったような受け答えの遅さについて考えていた。だが、それをどうしても言葉に変換するには勇気が要った。なぜなら、あの男鹿だから、だ。鈍感の代名詞、恋愛とこれほど遠いと思われるヤツがいるだろうか、と思われるほどのキャラであっただけに。もちろん、これまで付き合いがあってやれることはこれまでにやってきた、だから男鹿であっても普通の感覚があることも分かっているけれど、それでも鈍いと思うところが多い男鹿の存在が、葵には口にできずにいる理由だ。
 不安はある。けれど、信じたいとも思う。そして、今までの過去にあったいろんなことを含めて、信じるに値する男だとも思う。だがそれでも一つだけ───恋とか、そういう恋愛的な意味で。やはり男鹿はそんなものに疎いとしか、葵にとっても思えなかったから。だから信じきれないでいる、その気持ちが、自身で気持ち悪く、そして、自分自身の心の中で許せないなにかだった。やっぱり、好きな人のことを信じきれない自分というものが、とても居心地が悪いのだ。───認めることができないところもある。安心しきれないところもある。そういうことだ。
「邦枝」
 男鹿から口を開くだなんて、こんな張り詰めた空気の中で、大事なことを話さなければならないかのような、こんな空気感の中で男鹿が先に口火を切るだなんて。それはどこか珍しすぎておかしな感じがした。葵はゆっくりと──なぜならパッと見る勇気がなかったから。──男鹿の方へと視線を移した。男鹿の表情からは、今の葵ではなにも窺い知れない。男鹿の目には今、葵の姿しかないだろう、とそれしか分からないのだ。だから葵はそんな男鹿の目をまっすぐに見据えても、なにをいいたいのかはわからない。それだけに、言葉を待つしかできない。
 男鹿の心臓は、今までないほどに早鐘をうっていた。なぜなら、葵がどう思っているのか、これまでの会話で内容については理解しているのだろうと思ったけれど、それでも顔色も変えていない彼女の思うことがまったく理解できなかったからだ。いつも、彼女はなにかを大事な時は特に訴えてきていた。それは、あの藤に石にされかけていた時だって、今考えてみればあれほど気持ちを振り絞ったなんてことはそうそうないだろう。それだけに、彼女はつよく自分の思いを言葉にする人なのだと、男鹿は感じていた。だが、その葵から今はなにも感じられずにいる。男鹿自身、自分が鈍いということは周りの反応からも理解できていた。だが、それも理解の一部なのだろう、きっと。古市がさもない時に「やっぱ男鹿だよなぁ」みたいなことをいうことからも窺い知れる。もちろん男鹿は理解していないだけに、分からない。それでも、時に葵がどう思ったのか。それを深く知りたいと願うことが多々ある。付き合い始めてから、そう思うことが増えたように思う。それが気持ちのうえでなんというものであるのか、それを男鹿は知らないのだけれど。だから、その時に男鹿がいった言葉はもちろんいつものように飾らない言葉で。そして、感じたままの素直な気持ちに他ならない。
「邦枝。俺は魔界に行く。……けど、お前が止めてくれんなら、行かねえ。って、それも考える」
 それは、口を開くまで思ってもないことだったし、いった男鹿自身もその意味を理解するのに何十秒もの時間を要した。そして、理解した瞬間に、それを発した意味というか、そういうものについて男鹿は思ったのだ。
 今まで考えたことがなかったにしてもそれは意識下ではまた別問題で、きっと自分が願ってたんだろうなぁ、止めてほしい、って。その続きはまだ頭の中でゴチャゴチャしているのだけれど。
 つまり、二人の想いは不器用ながらも、驚くほどにこうして合致した。それがわかれば葵もいわないわけにはいかない。そして、それをいってくれたという男鹿についても愛おしさと離れたくないという思いがさらに増した。そんな気がする。泣きたいほどに。だが、それで男鹿を止めることでなにになるのだろうか。きっと、自己満足にしかならないだろう。そう思えば思うほどに、葵は悲しくて寂しかった。自分だけが、今だけが幸せであればいいのかという問い。それに対する答えは、時の流れしかきっと分からないだろう。それを思うだけで、男鹿には見せたくなかった、くだらない涙が胸を痛めながらムクムクと湧き出てくるのを感じる。いっても咎められないのならば、いってみたいこともある。それがどんな結末を生むのか。最低で最悪なものでないと神とかそういうものが約束してくれるのならば。
「男鹿…っ。できることなら、私思ってる。男鹿、行かないで…って」
 別れがつらいから。思わない未来だったから。あまりに分からない将来を、なにを信じて待てばいいのかわからないから。
 一言でいうと、不安だから。
 男鹿の目はその葵の一言で、驚いたように大きく見開かれた。そして、男鹿の両腕がのびてきて、そのまま葵は男鹿の腕に抱きしめられる。いつもよりも強い力のような気が、葵にはした。それも、気のせいかもしれないけれど。


15.10.18

思っていたよりも精神世界すぎて長くなりました、深海にてお別れ編です。

ぽちぽちやってていっつも思うのが、男鹿葵の話は自分の恋愛観みたいなもんがふんだんに入れこまれてて、実に後から見たら懐かしい&ちょーハズいものになるんだろうな、というのは常にありますね。
こんなもん書いてていいんだろうか…?

大丈夫かどうかだれかおしえてけれ……………
2015/10/18 23:15:25