深海にて28

 修行から帰った男鹿は真っ黒に日焼けしていた。もちろんベル坊も一緒に。そしてなぜだか早乙女も黒いベル坊を前のまんま背負っている。困った顔をして葵にいったのは、「お前に懐いてくれりゃよかったのによぉ」と。まったく適当な教師である。──…そこはそれ。もう夏祭りもお盆も終わっていた。2週間のはずの夏休みはなぜか3週間になって、盆が終わった頃にようやく帰宅したというわけだ。やってきたのはとある朝だった。なぜか早乙女と男鹿の二人と、さらにベル坊が各々の背に乗っている。
「うーっす」
 会わない間にとった連絡は一度だけ。葵の祖父が札を使って繋げてくれた電話と男鹿の声だけだった。しかも3分という短くて、永遠になればいいのにと願った時間。あれが祖父の、祖父なりのやさしさだったのだと思うと葵の胸はぼんやりと温まるのだ。あの日から変わらず男鹿のことを思い続けてきた。青い空のした、真っ黒に日焼けした青年が葵に向けて微笑みかけてくれる。片手を大きく振って。そして道の脇で箒を持ったまま立っている一刀斎に近寄った。白い歯を見せたまま男鹿は、その黒い拳と黒い脚を同時にぶぉんと空が音を立てるくらい素早くつよく振りかぶった。不意打ちだった。もちろん一刀斎という人だ。クリーンヒットはしなかった。僅かながら後ろに下がり直撃は避けたのだが、その風圧で体は飛んだ。男鹿はニヤリと笑っていった。
「っしゃ、ワンパン俺が入れたなジジイ」
 なんのことをいっているのか分からなかった。だがあっといって思い出す。これで葵との付き合いを認めてくれただろうと笑ったのだ。一刀斎は頭を抱えて溜息ついた。このための修行の旅だったのだろうか。早乙女の顔を思い出しながら舌打ちした。気を抜いた自分が悪いとも思う。葵は逆に嬉しくてしかたなかった。あんなくだらない祖父の言い出したことを守ろうとしてくれるというのは、やはり葵のことを思ってくれるということだ。男鹿はいつも明言しないけれど、それでも想ってくれていることが感じられる。とても幸せだと思った。そして、好きですきで仕方がないとも。
 男鹿が駆け足で葵に寄っていく。抱きつきたいと葵は思ったけれど、ここは外だし祖父の目もある。ことはそう簡単ではない。それを読んだかのように男鹿が葵の手に預けてきたのはベル坊のちいさな体だった。男鹿に抱きつく代わりに、葵はベル坊をギュウウっと抱きしめた。男鹿によく似た魔王の赤ちゃん。このぷにぷにした感触が魔王だなんだということを忘れさせてくれる。その隣に男鹿がいてくれる。それだけでとても幸せだ。胸いっぱい。
「散歩でもしねえ?」
「…うん。いってくるね、おじいちゃん」
「ふん、好きにせい。じゃが、暗くなる前に戻るんじゃぞ」
「ったく、ヤラレタな」

 煙草を吹かす早乙女の隣で、一刀斎は複雑な気持ちだったのを隠しきれない。男鹿を認める反面、それに孫娘をやるということに反発したいと思うのだった。それは娘の忍のこともあるのかもしれない。資質がありながら娘に生まれた不幸。そして、愛する旦那を追いかけていった儚さ。もちろんこの空のしたのどこかで生きていると信じている。強さを求め続ける男らしい男が、葵の父親の姿。その男のことを買っていた。しかし、葵がそれと同じような男を選んだと知ったとき、一刀斎はひどく驚いた。そんな話などしたことはなかったはずなのに。もしかしたら、かなり幼いときに忍がしていたのかもしれない。葵の父親の話を。それを聞いて、己でも武術をやるようになって、やはり強い男を求めるようになったのかもしれない。昔、かなり前のことだ。きっと葵は覚えていないだろう。一刀斎が葵と一緒にお風呂に入っていたことがある。忍も父親のいない娘を育てているのだ。お腹に光太がいた頃だったとしたら、体がうまくいかないことも多かったのだろう。なにはともあれ、葵とお風呂に入っているときにいわれた言葉はそう忘れられない。先と後の話なんて忘れてしまった。ただ、そのときの葵は満面の笑みで祖父に寄りかかっていて。
「わたし、おっきくなったらおじいちゃんのおよめさんになるね!」といったのだ。あれほど嬉しい言葉はない。
 そういう時代を知っているからこそ、男鹿のようなものが現れてしまうことに違和感しかないのだ。そうなることは娘の忍を見ても分かっていたにも関わらず。また同じように追いかけて、尽くしてどこかへ消えてしまうのかもしれない、と一刀斎は思うのだ。それはさびしいに他ならないのだった。

 そんな祖父の想いなどいざ知らず、孫娘と男鹿はベル坊を抱っこしながら石矢魔の田舎町を歩いた。初めて会った公園、不良の集まる海岸。行くところなんてアルバイトもしていない男鹿ではそんな自然の場所しかなかった。
「2週間って聞いてたんだけど」
 拗ねた顔をして葵は男鹿を見上げる。そんななかでもベル坊は変わらず葵の胸に顔をくっつけてキャッキャといって喜んでいる。久しぶりの感触に浸りたいのは男鹿も変わらない。海を正面に添えて二人は堤防の上に腰下ろした。ここには高校のメンバーも来るのでベタベタするにはあまり向かないが、話をするくらいなら丁度いい。すこし陽射しは強いけれど、暑くなったらテトラポットの陰に隠れればいい。
「あのヒゲと酔天サンが、俺をいびりたがって離してくれなかったんだよ」
「首切島に行ってたワケ?」
 男鹿は首をすくめてまぁな、といった。それにしてもいびられる男鹿の姿なんて想像もつかない。どちらかというといびる方なのだし、などと葵は瞬時に考えている自分にどこか可笑しくなってしまう。夏の陽射しは午前中でも暑くて、二人は言葉を交わすことなくてくてくとテトラポットの方へと向かった。じりじり焼けつく午後の時間はもう側まで迫っているのだし。
「しっかし焼けたわね〜」
「姉ちゃんにも言われたぞ、んな感じで。似てきたんじゃねぇの」
「レッドテイルつながりかしら」
 小麦色に近いベル坊のさらりとした肌を撫でて、そのまま顔を寄せると魔王の赤ん坊にも関わらず、太陽の匂いがした。魔王とか魔界とか悪魔とか魔力とか、そんなものは記憶から消えてしまいそうだ。ベル坊がキャッキャとまた喜んだ。
「昨日の夜中に帰ってきたからよ、朝起きてから来たワケ。遅れて悪りぃ」
「ヤダ」
「はあ? なにが」
「許さない」
 とはいっても許すも許さないも、修行の行き帰りは男鹿の意思じゃなかったことなどとっくに知っている。それでもわざとダダをこねるのだ。何も言わなかった男鹿に対して。行くときはバタバタだったかもしれない。でも、帰ってくるときに遅れるとかそういう連絡くらいくれてもよさそうなものなのに、と葵はワガママにも思うのだ。だって、そうじゃないと自分だけが会いたくて、好きで、離れたくなくて、一緒にいたくて。そんなことを思うのがまるで自分だけみたいな気がしてしまうから。それをいわない男鹿を許してやらないと、言葉にせずともそう思った。会えて嬉しくて、好きで、くっついてたくて、そうなったことを誰よりも喜んでいる、だからこそ。キッと強めに睨んでもう一度、葵はいう。
「許さない」
「ってもなあ………」
 困った顔で男鹿は考え込んでいる。不可抗力でもあることに対して、許さないと言われたところでどうしようもないのだ。もちろん男鹿はバカだが、言葉通りの意味と受け取るほど分からないわけでもない。葵がどれだけ乙女なのであるかも、ちょっとずつ分かってきた。それでも今日の、この今の状況はどうするのが一番正しいのだろうか。それだけはやってみないときっと答えなど見つからないのだろう。
「わーったよ、次になんかあったらいう。約束」
 指切りげんまんとばかりに小指を立てて葵の目に届くように拳を出す。子供みたいでなんだかおかしい。思わず怒った表情も葵の顔から緩んで、気合を込めた鼻息をゆるく吐き出した。脱力させるのが上手い人。「約束」といいながら指切りげんまんをした。その手を不思議そうにベル坊が見つめて、上から二人の手をがっと掴んで離さない。指切りげんまんのままでしばらく見つめあった。波の満ち引きの音しかしない。ざざん、ざざん、と。潮の香りがどこか懐かしい。海の近いこの石矢魔という町は不良だらけで、それでもこんなにきれいだ。降り注ぐ太陽からの眩しい日の光は、葵にも男鹿にもベル坊にも平等に反射して逆光になって互いの表情なんてものが見えない。だから葵は笑ってしまってもいいかなと思った。
 間を置かずに男鹿が僅かに屈んで顔を近づけてきたから、何がされるのか分かりながらそれを待つ。やさしく触れる唇が、しっとりと葵の唇を包み込んで会いたかったと言葉にせずとも伝う。ベル坊の真上でこんなことをしている。たぶん親としてはダメなんだろう。男鹿の腕にベル坊が掴まったら、ようやく口と口はゆっくりと離れた。
「そりゃそーか」
 男鹿が口にするのはいつも唐突すぎて意味の通じない言葉。焼けて手のひらは白っぽく見える男鹿の手は、以前に見た普通の色のときより何倍も頼もしく見える。
「俺も触りたかったんだからよ、邦枝もそうだよな」
 その手は、葵の頬にゆっくりと触れる。もう一度、そっと唇が互いに触れ合う。それが、求めたことだと思える。そうしたかった、男鹿がいったとおりに。ベル坊など関係ない。ただ単に触れたい。それは男鹿の想いだけじゃない、ほんとうは葵だって、ずっとそうだった。触れたい。あなたに触れることは、手へ幸せを与えること。あなたを想うことはこころへ栄養を与えること。それは離れる前から分かっていたけれど、離れてみればもっと強くなって二人の想いを結んだ。もっと触れていたい。
「ん……、お、が…」
 ちゅ、と軽く離れる寸前に男鹿の唇を吸ってから体は離さずに見上げた。顔は間近だ。もっとキスしててほしい。もっともっと。でも、ここはテトラポットの影だ。あまり心地よい場所でもない。誰に見られるかも分からない。男鹿の言葉には小さく頷くだけで返した。あいたかった。ふれたかった。一緒にいたかった。好きだと思った。もっと好きを味わいたいと思った。
「だから、しねえ?」
「…は、え?」
 男鹿の言葉にハッとした。邪な思いに、葵の想いが汚されたみたいな気持ちもした。でもそれと同時に、寝る前に悶々とする気持ちも思い出す。男鹿を好きと思うほどに、唇を捧げるほどに、葵は自分も同時に落ちてゆくような、そんな足元から崩れていく気持ちがした。男鹿が葵の身体を抱き寄せて首筋に、耳にキスするのはその数秒の間で、蕩けゆく想いにもうどうしようもなかった。
 ねえどうして、そこまで分かってるの。
 ねえどうして、こんなにほしいの。
 ねえどうして。
 わたしも、したいって思ってるの。ねえどうして。
 好きな人と、好きなだけ好きなことを。ねえどうして。
 それでも、この場所もシチュエーションもないだろって強い気持ちで、葵は何とかその場を逃げ切った。それはベル坊の力もあったのだろうけれど、本当はどろどろに蕩けちゃうくらいに抱いてほしいと心も身体も、じつは願っていた。男鹿は謝りながら語った。
「オナんのも禁止でよ、体力なくなるとかでさ。あんのクソヒゲヤローが」
 健全に健康すぎる高校生男子にとっての拷問に近い日々をゆったりと語ってくれた。嫌だと拒んだらやめてくれた男鹿を思いながら、葵は深く胸に刻んだ。一緒にいられる幸せについて。


14.12.01

季節外れもいいとこなんですが、27からまんまつながってます。帰ってきた男鹿。そして待ってた葵ちゃんと、男鹿対じーちゃん。
思ったより早めに決着つけちゃいました。まー甘い展開もってくの、じーちゃんいたらムズイしさw


ここで留まる辺りは男鹿に夢見てるかもしんないですw
でも、男って嫌がられると燃える人とそうでない人っていると思うんですよ。萎えちゃう人と、ってか。そんときの状況にもよるんでしょーけど。
理性と本能って話だけじゃ割り切れないなにかってあると思うんだよね。そういう意味ではじつは、男鹿はすごく理性的というか。盛ってると思いつつもちゃんとコントロールできてる人かな、と。


ちなみに、今回のオナ禁ネタは、スポーツ選手の生殖禁止令に則ってますw
現実に野球選手とかなんちゃらはシーズン中は禁止令があるみたいですね。現代にはあまり禁止令としては残ってないようなんですが…。
つまり、それだけ体力を使うってことなんでしょうね。もちろんそれを高校生男子に当てはめるつもりなんてないんだけどさwww
2014/12/01 22:04:28