深海にて27


 男鹿が早乙女に連れられて合宿とやらに行ってしまった。それは葵には語られなかった。電話が通じず、メールも返ってこない。しかも学校にも来ていないので早乙女に聞いてみたというわけだ。何も言っていかなかったのが面白くないのもあるけれど、苛々する。葵はまったく面白くなかった。顔は怒って、上辺で怒っていても、こころは寂しいとか会いたいとか嘆いている。男鹿に会いたい、あいたいと何度も。早乙女はそんな葵のことなど構わずにいった。
「まぁ2週間だ。あ、夏休みって結構いいタイミングだったからよ」
 そう、夏休みに入る直前のこと。男鹿は姿をくらませた。だが夏休みを絡める辺りはとても教師らしい。だが、長い休みは葵にとっても男鹿としょっちゅう──学校を通さずに──会えるウキウキ気分なときなのだ。ハッキリいうと邪魔だった。言葉にはしなかったけれど。いわないながらも早乙女はわかってニヤリとした。会いたくてしかたないと言わんばかりなのは丸わかりだったからだ。
 葵は面白くなかった。出鼻を挫かれた、とはこういうことをいうのだろう。やれるはずのことがやれない。せめて連絡だけでも取れるところなら心配ないのだけれど、もちろん男鹿なのだ、心配などするだけムダというものなのかもしれないが。それでもしてしまうのが心配というもので。葵は家に帰ってからもほとんど何も手につかないような状態だった。祖父の一刀斎はそんな孫の色ボケっぷりにため息をついたが、それにすら葵は気づかない。

 学校は夏休みに突入した。暑い夏もどんどん加熱していく。今が日本で一番暑い季節。だけどいるはずの男鹿がいない。葵は寂しくてしかたなかった。嫌いな勉強だってしなくていい。社の手伝い以外は自由な時間なのに、胸にはポッカリと穴が空いたみたいにどこか空虚。虚ろな時を刻む。こんなことでやっていけるのだろうか。無心になれるのは竹刀を構えて祖父と向き合っているときくらいのものだ。それでもふぅっと消えかけた幽霊みたいにチラつく男鹿への想いと記憶。どうしてこれだけ葵の胸のなかは男鹿ばかりになってしまったのだろう。気づけば男鹿のことばかりになってしまっていた。何をしていても、ほとんどすべてのことが男鹿への思慕へと変わっていく。不思議なものだった。男鹿への想いは離れても冷却しないだなんて。
 たまに仲間内からも──といって同い年の寧々くらいしか言わないだろうが──茶化すように「男鹿のどこが良かったんすか?」なんて聞かれることがあるほどに。気づいたら男鹿ばかりになっていた。
 その答えについては、葵だって考えなかったわけではない。考えてしまうだろう、男鹿のどこを好きになったかなんて、これまで何度考えたか分からない。そして、「どこ」だなんて簡単な答えが見つかるくらいの単純な想いなら、ここまで思えなかったんじゃないか。葵はそう思うのだ。短文で好きの答えを言えるなんて、見た目とか一点に騙されているような気がする。だから、葵が答えられないことはとても自然なことで、仕方のないことなんだって。勝手に、自分に言い聞かせていた。
「たるんどるようじゃな」
 祖父から声をかけられたのは夕暮れのなかで掃き掃除をしていたとき。急に怖い顔を近づけてきたものだから思わず一瞬、息をするのを忘れてしまったほどだ。ひ、とノドが鳴るのが情けない。それより、どうしていつもより表情が怖いのだ。このもとより子供が泣くような顔は、幼い頃から見ていたものだから葵だって弟の光太だって慣れっこだが、いつもとすこし違うから逆に気味の悪い怖さがあるのだ。たるんでません、とは軽く答えられなかった。たるんでいるのは自分でも納得のすることろだったからだ。きっと男鹿のことを考えていて、修行にも手伝いにも身が入っていないということを祖父は見抜いていたのだろう。葵は気を強く持て、と自分に言い聞かせながら頭を下げた。
「おじいちゃん、稽古つけてくれる?」
 こういうと祖父が喜ぶのもある。なんといっても父親代わりの祖父なのだから当然だ。けれど、言葉通りたるんでいるのを分かっているからというのもあるのだ。祖父はニヤリと笑って胴着に着替えるよう申しつけた。
 体を動かしているときでも、本気のときなら男鹿のことは頭から離れるのだ。きっと男鹿もそんな思いで今は早乙女が拵えた修行に励んでいるのだろう。同じ空の下、べつの場所で二人は同時に修行に明け暮れるなんて悪くない。あとから男鹿にいったら、男鹿は笑うだろうか。そんなくだらないことを思いながら葵は帯を下腹の辺りで強めにぎゅっと締めた。祖父はつよい。だから気を緩めたらすぐに負ける。それだけは避けたい。そういった武の想いが強まることで男鹿どうのという思いはすこしだけ薄れるのだ。
「準備はよいか?」
「もっちろん」
 小指の上に薬指を乗せるのは色々な武術ではさも当たり前の指のポジション。これはつき指、折れやすい小指を守るための構えでもある。武術やスポーツの基本の構え。ゆらり、と一刀斎の身体が煙のように揺れる。
 いざ、という吠えるような掛け声とともに一刀斎からの手刀がシュパシュパと空を切って繰り出される。葵はそれを受けるだけで精いっぱいだ。邦枝流古武術──竹刀を使うバージョンもあり、葵が得意なのは得物があるほうである。──は受けて「いなす」のが基本の型だ。基本をしっかり守って葵は祖父から受ける攻撃を流れ作業のようにいなす。受けてその攻撃の流れを変えて勢いを失わせてやるという戦法だ。つまり、絶対的な攻撃と防御に差があればかなわない。そうなれば得物での攻撃に転じる方が勝ち目はあるということになる。攻撃をいなしている間に、相手の隙ができるはずなので、基本はそれを狙って集中を高めていくのだ。しかし今日の相手はその師である葵の祖父・一刀斎だ。型通りにやっているだけでは地面に転がされるのが関の山だ。どこから仕掛けるか、いなしながらいつもこうして手合わせするときはそれに尽力する。しかし、受け切るにしてもスピードもパワーも一刀斎が上だ。時間としてはあまりもたない。葵はわざと肘打ちの要領でコツンと祖父の攻撃を横にそれさせ、その瞬間の隙をついてアゴへ一撃を狙った。勝負が決まるなんて一瞬のこと。(やった!)そう葵が思った瞬間、一刀斎が葵の足を踏んだ。それで勢いが削がれた。あとは軽く平手打ちで体が浮くのだから力の差は歴然だ。
「ま、参りました」
 葵は差しのべられた手を握り返し体を起こした。足が痛む。祖父はふんと鼻を鳴らした。
「まだまだじゃな」
「…ごめんなさい」
 祖父に届く日など永久にこない気もする。こんなザマを父、母、男鹿、誰が見てもきっと笑うだろう。葵は反省していた。祖父がいうように、まだまだ自分は甘いのだ。見上げた祖父が悪戯に笑う。こういう笑い方をするときはなにか企みがあるときだと葵は知っていた。そして、あまりいいことでないことが多い。夏休みの手伝いが、負けたせいで増やされるのかもしれないと瞬時に思った。しかたない。だが、思っていたよりツマラナイ夏休みになりそうなのでそれでも構わないとも思った。そう思えれば怖いものなんてないのだ。
「なぁに? おじいちゃん」
 なにもいわず笑みすらたたえたまま、一刀斎は懐に手をやりかさりと意味深そうに帳面の切れ端を取り出した。あと片手には家の電話の子機。ケータイを持ち出してからあまり使わなくなったそれは、祖父のような頭の固いむかしびとにはどこまでも必要なのだった。
「持て」
「えっ?」
 差し出された電話の子機を手にして、もちろん目をやるのは帳面の切れ端だ。この流れだと、そこに書いてある連絡先に電話をしろとでもいうのだろうが、いったいそれがどこなのか皆目分からない状態でかけろと言われるのはある意味でとても恐怖だ。電話から何か出てくるわけではないのだから、そこまで恐れることでもないのだろうけれど。そんなことを待っているところで一刀斎は帳面の切れ端を広げた。「あっ」葵がたまらず声をあげたのはそれが帳面の切れ端などではなくて、もちろん予測したように連絡番号が書いてあるわけでもなかった。その紙は、お札だった。葵には読めない謎の文字が書かれている。その札が何かと葵が聞こうとしたら、一刀斎はそれを二つに思いきり破ってしまった。ビリリという音が高らかに聞こえる。だが何もできず葵は電話を握ったまま。しかし破れた紙からは何やらオーラのような紫色っぽいものがモヤモヤと立ちのぼり、それが電話へとひしと伝った。わ、と小さい悲鳴をあげ葵は電話を見つめる。そして祖父を見た。その悪戯に笑う様子はそのままに歯を見せていう。
「話してみろ、小僧と話せるぞ。限られた時間じゃがな」
 どこまでも気障なジジイ。葵はすぐに信じた。稽古の内容云々じゃあない、最初からどっちに転んでも話させるつもりだったのだろう。気障でやさしいおじいちゃん。そして、孫娘に弱い普通のじいちゃん。どんな修行をして、どんなに強くったって。葵は限られた時間がどれだけの長さなのか分からず不安になりながら受話器に向かって話しかけた。
「…も、もしもし?」
 どちらからかけているのかとか、そういう細かいことはいい。あの紫のオーラみたいなものは魔力だったのだろう。つながるはずのない電話の受話器と受話器をつなぐための魔力。そして向こう側から聞こえたのは、
「───…邦枝?」
 低く、どこかこころに留まり続けていた声が耳に届く。聞きたくてしかたなかった、沁み渡る声。それだけでまだ数日顔を見ていないだけだったというのに涙が込み上げてきて、自分という存在はどこまで弱いんだろうかと思ってしまう。鼻をすすりながらいったのは彼の名前。
「男鹿…っ」
「は? 泣いてんの?」
 急にいなくなった彼は遠いどこかで無事だ。それだけでこんなにこころが満たされる。誰かをおもうということはとても不思議なことだと葵は感じる。あとは「ばか」といった。自分に何も言わず、勝手に修行の旅に出たのだからそれくらい言わせて欲しい。せめてものの女心だと思った。
 電話の時間はわずか3分。まるでウルトラマンみたいな短い時間だった。それでもこころが和らぐし、温まるし、でも寂しさも募った。早く帰って来ればいいのに。心待ちにする思いはさらに増えた。電話の子機を下げながら一刀斎に深く頭を垂れた。
「ありがとね…、おじいちゃん」
「葵、お前の修行は別の方にもあるようじゃの」
 祖父が呆れたようにいった言葉は無視した。明日からもまたがんばろう。


14.11.30

葵ちゃん編。
ある意味では一刀斎と葵ちゃんとの邂逅というか、まぁ(孫だけど)娘に勝てないってやつですよね。
ほんとうはもう少しやらしい感じで書くつもりだったんですが、最近そういう気分でもないというかね。まぁ前向きな感じになりましたよ。

次は男鹿も戻ってくるので安心してくださーい!
たまに男鹿ヒルとかも描くかなって思うけど、なかなか。好きキャラ葵ちゃんだからねえwww
2014/11/30 21:09:55