続・なにもかもそこに置いてきた



 これほどまでに胸が高鳴った瞬間があったろうか。竜也は何度も息を飲んで、人という字を手のひらに書くのを見られるのがあんまりかっこ悪いので、頭の中でもう100は超えてる。でも頭の中でだけれど、何度もなんども書いた。人。人、ひと、ヒト。人だらけになった頭の中は、トチ狂って「人が一匹、人が二匹…」と羊みたいに唱える始末。これじゃ人も浮かばれない。数えている意味すら不明。あああ、これから起こることを考えると、竜也は今までにない緊張感でガチガチになっていた。どうせガチガチになるんなら、性的な意味プリーズ。



 あのあと、蓮井が社長室に来て土下座した。二人きりの息の詰まるような空間のなかで。蓮井は苦しそうな顔をしていた。それならば余計なことをしなければよかったのではないか。竜也はそういったが、雇い主の義理の親ともあろう人を相手にして、親子関係を盾にとられて拒否権を使えるほどに法律には詳しくないのだと悲しげに、そして自嘲気味に笑った。盗聴は立派な犯罪になるが、親子関係を考えるのなら訴えるべきではないと、ただし断固戦うつもりならばそれも厭わないのではないか。それについては竜也の意に沿うよう動くとの意思を示したのだった。
「びびらせて済まねぇ。お前の決意は分かった」
 竜也が返したのはそれだけだ。

 潮の母親の件は、あまり竜也と潮の間では話をしていない。まだ途方にくれているような状態の潮を深い話をガッツリとできてしまうほど気持ちが分からないわけではない。どんなに歪んでいたとしても、潮なりに母親のことを愛していたのだろうと思う。親子の愛だなんだというものが簡単に理解できるほど愛情を受けて育った覚えもないが、なんとなくという感覚レベルならギリギリ納得もできる。自分以外の誰かと一緒にいるということは、こういった他人への譲歩なのだと最近知った。竜也もずっと子供のままじゃないし、子供のままでいられるわけでもない。
 このいづらいと思えるほどの潮のなかにある歪みはどうにもならないのだろうか。竜也なりに考えてみた。だが答えはない。よく似た恵まれた境遇で、まったく別の世界を生きてきた竜也と潮。時間はかかるのだろうが、お互いの歪みを直して行く作業は大事だ。これからの未来は分からないが、今のところ離婚の予定はない。気長にいこうというやつだ。今日はそのための一歩を踏み出そうと思っている。
 辺りの空気は暑く、活気に満ち溢れている。何百台と置かれたカメラを舞台袖から眺めてゲンナリした。これは自分で開けてしまったパンドラの箱。まだ誰にも何も語ってはいない。今日話すのはまだ竜也だけの秘め事だ。潮に話せる状況まで待つという手もあったが、決めたことは早めに動いておかないとやる気がなくなる。なので慌ててセッティングした。その際に使ったのはもちろん蓮井だ。人を使うことで信頼をより深くさせる。ビジネスにおいて重要で単純で難しいところだ。
「蓮井、人集めろ」
「…はっ、はい?」
「………記者会見だよ」
 竜也なりに考えた答えだ。びびった蓮井や、潮の親や、自分の仕事についてのことや、何もかもをうまくいかせられるだけの金はあるのに、どうしてうまくいかないのか。その理由は何なのか。考えてみた。ない頭をひねってひり出した答えはみんなに話すべきだ。何も知らない誰かへ向けて。カメラマンたちのくだらない質問責めが待っているのはもちろん分かっている。それは適当にあしらえばいい。あしらう術も、心得ている。だが、それをあえてしないで出て行く勇気。それだけは自分自身に対して褒めてやらなければならない。たぶん記者たちは新しい事業に手を出すとか、買収の話で呼ばれたと思っているだろう。明日の新聞記事が驚きの文字で踊るのが目に見えるようだ。
「姫川社長、会場セッティングできました」
「りょーかい」
 軽いノリでいかないと。何度もなんども緊張をほぐすためにあれやこれや脳みそのなかでこねくり回してみる。けれど、それがなんだというのか。まったくの無意味。人の前に出て話すことは慣れているけれど、今日の自分勝手な記者会見はわけが違うのだ。すべてをうまくいかせるために竜也がとったのは、自分の弱さを世界へ晒すことだった。弱味だなんて思うことを、心のなかでやめたのだ。
 竜也は心のなかで、高校時代に戻ったようにスタンガンを握る。あれとリーゼントが竜也にとっての御守りだったのだ。
「今回、こんなに集まると思ってなかったんで、ありがとうございます」
 ワイドショーを騒がせるためにだけ存在しているかのような気持ち。今この状態がお茶の間でLIVE中継されていると思うと、嫌な汗が流れてゆく。
「みんな、俺が呼んだのって企業買収とか、新規事業についてのお披露目だと思ってると思うんですけど、残念ながら違うんですね───…」
 周りの空気が、違うのか、というふうに冷え込んでゆく。だが、こいつらはすぐに手のひら返すだろう。
「実はもっと個人的な話になるんすけど、実は最近、親から子供作れって言われて。そこで、俺に問題がありましたぁーっていうのが発覚しまして…。そのお知らせっつー話だもんで」
 周りの記者たちが目を丸くして、矢継ぎ早に質問が飛び交う。だが竜也はそれには答えない。
「俺の場合は、タネが少ないらしくて。まだ詳しくは調べてないんすけどね。その医者に聞いたら男の不妊症は増えてるらしいんで、そういうのって知られてないから俺が出てこういう話をしようかなって思っただけっす」

 これで離婚しろなどと少なくとも表向きは久我山側は言えなくなったはずだ。少なくとも不妊が原因で別れることは潮は考えていない。ならば向き合うか諦めるかを考えていくべきだ。子供がいなきゃ夫婦じゃないだなんて誰がいった。結局は人間のエゴなのだから、十人十色でいいじゃないかと発信するつもりで、竜也は気乗りのしない記者会見を開いたのだった。自分からタネ無しですよとカミングアウトしてしまえば、それを理由に久我山は騒げなくなる。それだけのことだ。面が割れているとこういうことは大っぴらにするというのは武器も防具にもなるのだということを、忘れてはならない。きっとほとんどの人たちが応援してくれるだろうから。そんな夫婦の形があってもよいのだと。

14.11.09

これが久我山母との解決編になります。

周りを巻き込んでの大事にすることで、考えさせるっていうことも踏まえて姫川が踏み込んでみたという話です。派手なイメージしかないのにこんなことにも苦しんでいたりっていうのは、周りからは意外でしかないので、まあある意味では面白いかなって感じで。でも解決もしてないし、穏便なやり方を選んだのは、それだけ年取ったってことでしょうねたぶん。

蓮井は変わらず。潮は悩んでる親子関係などがあるけど、潮の親のことを咎めることもしないで終わらせました。意外にやさしいたっちゃん。。
あとは不妊治療するのかしないのかって話で、まずは調べるところから始まるんですけど、そこらへんは書くつもりはあんまりないです。科学は日進月歩なんでw



これを読んで「あそこの夫婦へんだよねー」がなくなってほしいとか思いつつ。。
2014/11/09 15:41:12