深海にて24


「邦枝。噂、聞いたんだけど」
 テスト期間が終わったある日、男鹿が葵に唐突にそんなことをいう。他人の噂なんて気にしないと思っていたが、いったいなんだというのか。葵は身構えた。男鹿の手がそろそろと伸びてきて葵の手を緩く指で握る。その握り方がやさしくて、胸に温かいものが溜まっていくのが分かる。それに応えるように葵はさらに指を絡ませた。こうすることで、離れないような気がするから。こんなことを口にしたらきっと男鹿は鼻で笑うんだろう。
「噂? どんな?」
「お前って、案外バカなんだって」
 ぐ、と言葉に詰まる。なんだ、その辛辣な言葉は。虐めでも受けた複雑な気分だ。葵は露骨に嫌な顔をした。テストの点数が悪いのは自分でも分かっている。だがまじめなだけにクラス委員だからバカに見えないとよく他人から言われるのだ。勉強など好きな人がいるわけがないだろうと葵は思う。葵の思いなど構わず、男鹿はテーブルに出されたクッキーを摘まんで咀嚼する。うまい、と呟いた。
「テスト勉強誘おうかとも思ったんだけど、やっぱやめとく」
「どーいう流れでそこまで話飛んじゃったワケよ……。だいたい、あんただってバカでしょーっ」
「む。俺は邦枝より点数高いけど」
 帰ってきたテスト解答欄に赤ペンで書かれたマルとペケの数。一目にみてもマルが多くペケは少なめ。大きく書かれた数字は74点。思っていたよりもずっと合格圏の点数である。葵は唖然とした。自分は同じ数学でも──もちろん学年が違うので問題も難易度も違うということは、強調しておく。──50点ほどの差があいている。つまり、葵は20何点という超ミットモナイ点数なのである。堪らず言葉を失ったし、恥ずかしくて泣きそうな気持ちになる。顔がカッカと火照る。目も熱い。そんな葵を見た男鹿はさすがにその展開についていけず慌てた。どうして泣きそうな顔をしているのか分からない。バカだということは薄々感づいていたのだし、そこまで気にしているとも思っていなかったのだ。地雷を踏んでしまったかと内心はハラハラである。
「バ、バカバカって……私は2年なんだから、男鹿とは違うわよっ…!」
「わかった分かった。からっ、あーもう、泣くな」
「泣いて、ないっ!」
 もはや鼻声である。どうやら目つきを見ると分かるが、男鹿を勉強できない意味での大バカだと思っていたために、ショックが大きくて戸惑っているようだ。そんなことを言われても、男鹿はどうしようもない。もとより男鹿は中の中程度の学力はあったのだ。古市はなかなかの優等生で、石矢魔高校ではナンバーワン。聖石矢魔とはカリキュラム自体が違うので、まったく上位に食い込めないでいるものの、程度の低めな大学ならば今からでも十分に備えられる勉学レベルはある。男鹿はそれよりはだいぶ劣るが、現役大学生の姉もいることだし、そこまでバカというわけではなく、勉強に興味がありませんといったところだ。何より石矢魔高校は中学時代の勉強をなぞっているだけのひどい内容なのだ。男鹿であっても授業すべてを眠っていてもついて行けるレベルだと男鹿も古市も思っている。葵の勝手な思い込みと勘違いで泣かれても困ってしまう。
「勉強ができねーからなんだ。他にも勉強なんかできねーヤツはいっぱいいる」
 顔を見られたくなさそうに逸らすので、むりに顔を見ようとはしないで横からすっぽりと包むように抱き締めた。勉強ができない。まじめ。髪が長い。細い。照れ屋。どれも悪くないじゃないか。
「で、よ。最近、古市ともたまに話してたんだけど…進路。どーするつもりなんかな、って思って」
 男鹿は付き合いを続けていくと、割と普通の男子高校生だということがわかってくる。古市とそんな普通の話もしているのだ。そこに混ざることができるのは少し嬉しい。だが、一度へそを曲げた葵の気持ちはちょっと面倒でもあった。素直に微笑むことは、バカ扱いされたせいでできない気持ちが生まれていた。
「まだ……。そろそろ、考えなきゃならないのよね…。ただ、おじいちゃんの、跡目、みたいな話はずっといわれてるの」
「邦枝のじーさん、かぁ…」
 一刀斎のいかつい顔を思い出すと、男鹿としては気が重い。進路の話になるとあのジジイが出るのか。男鹿は溜息混じりに肩を落とした。跡目ということは道場と神社だろうか。巫女の格好みたいな姿も見たことがあるし、なかなか面倒も多そうな感じがする。もしかしたらこの話の方が地雷だっただろうか…。男鹿は眉を寄せた。もちろん葵からは男鹿の表情は見えない。
「男鹿、は? どうするの?」
「俺は就職組。勉強したくねぇーし。でも具体的に考えてはねーぞ」
 高校生なんてそんなものだ。バイト、遊び、友達、恋愛、そんなものに躍起になって青い春を追う時期。春じゃなくても青春だ。
「あんま、考えたくねぇなー」
 話を振ったのは男鹿自身だったが、やはり地雷だったと感じる。抱く力を強めて甘えてくるベル坊ごとギューっとする。こういうだらだらと過ごす甘ったれた時間があまりに心地好くて、このままでずっといたいと、どちらともなく思うのだ。
「あれ、そーいや俺ら、じーさんとちゃんと話してなくね?」
 思ったことをつい口に出してしまうので、また墓穴かと言ってから感じた。そろそろと男鹿の腕の中で葵が遠慮がちに動くので、男鹿はベル坊を抱っこしながら体を離した。葵の顔はもう恥ずかしそうでも怒っているようでも泣きそうでもなかった。体を寄せ合うのは落ち着きを取り戻すことと同意だ。
「ちゃんと、ってどういう意味?」
 葵もずっと聞きたいと思っていた。男鹿は葵と付き合っているけれど、それをどう感じているのか。これからどうしていきたいと感じているのか。嫌いではないのだろうけど、好きと言われたこともない。やはり言葉にしてもらわないと分からないことはたくさんある。そんな葵の気持ちを理解できないほど男鹿もぼんくらではない。
「恋人としてよろしく、って意味」
 これからも続くのだと、男鹿は少し曲がった表現でそれをいう。
「いくか?」
 男鹿は続けてそれを聞く。最初、葵は何をいわれているのか理解できなかった。それで、何度も前後しながら男鹿の言葉を頭の中で何回も、何回も反芻して、それでやっと理解する。かなり頭の回転が鈍っている。こういう色恋には疎いのだ。
「お、おじいちゃんのとこ?!」
「他にねーべ」
「だって、おかしいでしょ!付き合うのに、おじいちゃんに許可?とか」
「俺はいいけど別に。ジーサンからチョップの一発ぐれぇ食らっても」
 緊迫した話の中、男鹿はサクサクと音立てながらクッキーを咀嚼している。どこまで緊張感のない男なのか。葵は慌てていた。ここは二階の葵の部屋で、会おうと思えば階下に向かえばいいのだ。だが、葵のほうが戸惑っていた。その前に聞いておきたいことはいくらでもある。そもそも付き合うということは、今なら小学生の男女でもしていること、らしい──テレビで見た──。そこまで構えてしまうのは、邦枝家が神社のせいだろうか。男鹿の家族のことは葵も分かっていた。普通の親だけど姉は確かに変わっている。元よりレッドテイル初代総長なのだし。それ以外はごく普通の中流家庭といえるだろう。葵の家のやり方に合わせてくれているのは分かっている。
「男鹿が、そういってくれるの嬉しい…。でも、どう思ってくれてるのか、私聞いてない。だから、怖いっていうか………不安、なの」
「……………」
 男鹿の表情が明らかに曇った。やはり強制されていうのは抵抗があるようだ。当然といえば当然だが。女性的で鼻で笑われても仕方のない願い。それでも好意の言葉はちゃんと口にしてほしいのだ。今時察しろなんて献身的な昔の世界のほうが古いだろう。
「ダラダラ話すの合わねえんで…」
 男鹿は言葉を選んでいる。男鹿ももしかしたら、葵と同じように考え続けていたのかもしれないな、とそんな狼狽えた様子を見た葵は初めてそんなことを思った。目が泳ぐ男鹿はあまり見たことがなかった。付き合うということはとても素敵なことだ。好きな人と一緒にいられること。好きな人のいろいろな部分を垣間見られること。触れられる距離にいられること。すべてが素敵で、輝かしいことになる。
「ああ、でもどういったら…いいかな」
 悩み悶える男鹿はただの高校生男子で、葵はその姿にすら心打たれた。自分のためにこんなに考え込んだ彼の姿は胸に刺さるものがある。ええと、と何かの言葉をつなげようと男鹿は必死に考えていて、葵と目が合う暇もない。うまい言葉をいってほしいわけじゃない。ただ、思ったことをまっすぐに飾りない男鹿の思いを聞きたいと葵は強く願った。それを視線で送り込むように男鹿のことをただ強く見つめた。


「好き、だから大事にする、やくそく。…と、お前は遠慮すんな。以上」


 これほどにまっすぐで心のど真ん中を撃ち抜く言葉があるだろうか。狂おしいほどに言葉足らずな彼の言葉すらいとおしくて、抱き締めたいと強く願ってしまう魔法のようだ。これを一刀斎の前で馬鹿正直にいってしまうのなら、きっと許してしまえるのではないかと思うほどに。葵にとっては泣けるほど嬉しくて、胸がじんわり熱くなってゆく思い。願わくばこれ以上好きにならせないで。目を逸らすことすら辛くなってしまうから。男鹿の胸に抱きつきながら、唇を寄せる。それに応えるのはやわらかであたたかな感触。


14.10.14

よっしゃーー!
CSハム勝ったぞー!ゴルァー
と、べるぜ無関係ですみませんw
(延長まで見てたので更新遅れたww
ついでに台風行ったぞー



今回のは思ったよりオチなくてダラダラなってしまいましたが、最後が悪くなかったからいいかな、みたいなw
男鹿の気持ちを言葉にするのが難しくて、なかなか書けなかったんです。
語りすぎては男鹿じゃなくなってしまうし、語らなさすぎるけど、ギリで葵とか古市には伝わるっていうさじ加減というか。そんなイメージで男鹿のセリフは書いてます。
その代わり、葵ちゃんには思っただろうなってことは好きなように語らせてます。気持ちも含め。

本当はもう少し攻めの姿勢を見せる予定でしたが、それは続きがあるってことで。うーん、つまりね、、長くなったから区切ったのでした。ヒルダ編が終わったので、くだらなくも平穏な日々が楽しいわけよ。あっしもw

根元を考えると、今回はどちらにとっても不安がある話なんです。ドキドキしてるんです。両思いだけど。たまにこんな回があってもいいかな、ってレベル


ちなみに、前回の古市との会話から微妙につながってますw
次は素直に続きを書くか、もしくは、ちょっと横道それようかな。と考え中だったり。25だしぃ。ま、関係ないけどさw
2014/10/14 23:05:45