深海にて23


揺らがないものはない。
変わらないものもない。
人間は目に見えるけれど、気持ちは目に見えないものだから。
揺らがないものはない。
変わらないものなどない。
だが、見返すことはできる。
捨てたものを拾うこともできる。


*****



「覗き見されてた、らしい」
「えっ……、そん、なっ」
 ごくごくふつうの反応。ひるだは恥ずかしそうに顔を赤くして、目には涙すら溜めていた。しかもあのキモ市に見られましたとなればあまりに心に突き刺さるものがあるというものだ。男鹿も気づかなかったのだ。言葉もない。震えるその細い肩を抱いて、揺れる金髪をやさしく撫でた。それ以外に慰めの言葉など見つからないし、かける何物でもない。
「もう、よそうぜ」
 ベル坊がいつものように男鹿の髪をもじゃもじゃと毟っている。髪を数本抜かれるくらいでは気にならなくなってしまった。父親の寂し過ぎる頭髪を目にすると、とても悪い予感というか、予兆というか、そういうものがするのだが、遠くて近い未来に目を背けて──逃げられないから。──毛の何本なんて気にしないでいる──たまにツッコミ入れてくるヤツは土下座させることもある──。ベル坊は分かっているといっても、まだ生まれたばかりの子供だ。赤子だ。ひるだと男鹿の間に流れる空気が重いのはきっと分かっている。だからこそ、和ませようと髪をいじることもあるということを、男鹿はすでに知っていた。
「続くわけないって分かってたんだ。心地好くて、失うことから逃げてた。でも俺は、邦枝を、とる」
 たぶん、そういう男鹿のことを葵は選んだのだろう。ひるだの恥ずかしさの涙の意味が、その言葉の途端に変わる。頬を伝うのは透明で哀しみだけをたたえた液体。選んだのは男鹿。今選んだわけじゃなく、最初から選んでいたことを、誰もが分かっている。欲に溺れてすこしだけ遠回りした。許されないこともきっとした。ついでに泣かせた。男鹿に抱きつく代わりに、ひるだは王子様を抱きしめ、そしてやさしく口付けた。



**********



「つまり、人間の、あるはずない間借りの魔力と、悪魔の魔力が高まるのは、人間って異質な存在があってのことってわけか」
 早乙女とヒルダがファミレスのドリンバーで粘りながら話をしていた。男鹿はいろんな意味で規格外の存在だが、そんなものを生み出したのは大魔王の適当さのお陰というか、いいのか悪いのかは分からないが。
「お陰で私の魔力も上がったようだ。こんなことがバレてしまえば、人間界に来たがる輩が増えるかもしれんな」
 大魔王から調べるように言われてもいたが、ありのままのことを伝えるのは考えものだった。それで魔界にも人間界にも聡い早乙女に相談するのが手っ取り早いと思ったのである。ヒルダは重苦しい溜息を吐き出した。
「王臣紋がある人間、または男鹿辰巳、あとは契約者」
 選ばれたものだけが魔力を高める、強めることができる条件は、位の高い魔族と交わること。それがヒルダが調べ上げたすべてだった。早乙女もまたここ数日の男鹿、葵、ヒルダの様子を見て大体のことは分かっていた。
「俺は、どうなんだろうな?」
 伝説のスペルマスター・早乙女禅十郎。彼は契約をした者でも王臣紋が浮かぶものでもない。だが紋章を操ることはできる。紋章は魔力とは違う。人間が生み出した魔力に近い何かだ。そして魔力の流れを感じることもできる。紋章使いはその枠組みには入らないのだろうか。純粋な探究心だった。早乙女は向き合っているヒルダの片手を握ってにじり寄る。
「試してみねぇか?」
 ファミレスの窓の外を見て顎をしゃくる。ボロいビルとか、寂れた町並みだがそう悪くない。都心から近い県の田舎町。居心地は抜群。夏が暑い以外は。早乙女が手を握る力を僅かに強めた。力のある視線がヒルダを射抜く。
「あそこのホテルで」
 撤回。ただの性欲。エロ教師は本日も元気。ズボッと余った手を握って振り抜いたストレート。きっちりはまって鼻血も口からの血もダラダラ。ヒルダはさすがにヒルダである。お手拭きで顔を拭きながら早乙女はぶつぶつとぶうたれていた。
「なんだよー、男鹿にはヤラせたクセによー。大体、お前らちゃあんと避妊してたのかぁ? 本当に子供ができてました、なんてことになったら、それこそコトだぜぇ」
 タバコを吹かしながら教師が、教師にあるまじきことを平気でいいのける。そこが早乙女のよさであり、悪さでもあるのだが。
「私は覚えておらんのだ! だが、そんなことは大魔王様も気にされそうで、どう報告すべきか…」
 こうして大魔王が自分の子供や部下を人間界に送り出すたびに懸念して来たことだった。魔界の者と人間界の者が近づきすぎてはならないと。それは禁忌が生まれる可能性につながるからだ。人間と魔族はよく似ている。姿かたち。生殖体系。魔力に代わるものを科学と呼ぶとか、それだけの違いで、それを人間たちは人工の力と呼んできた。しかし男鹿たちの存在でそれは融合されつつある。サタンもそうだが悪魔は人間の世界に馴染みつつある。そこで懸念されるのは悪魔と人間とのつながりにある。言葉を交わせる以上、人間たちと馴染むことはできるのだった。ベル坊の母親のアイリスならば喜びそうな話である。深く物を考えていないから。
「そんなことになれば、間違いなく大魔王様は人間界の女を見て回り、手を出しまくり子種を撒き散らすことだろう!」
「そりゃーまた元気な……」
「それは止めねばならん!坊っちゃまのためにも、奥方様のためにも」
 大魔王はとにかく最悪最低野郎ということで間違いなさそうである。
「報告しねえわけにもいかないんだろ。とりあえず一時的に魔力は上がるけど、特別な力の人間がいないとむりってことで、落ち着くんじゃねぇか?」
「む、そ、そうだな……」
 その後、早乙女がやらしい話と、やらしい誘いをヒルダにしていたようだがすべて鼻で笑われ一蹴されたという。記憶の戻ったヒルダにかなう者はいないのかもしれない。



**********



 何を言っても古市はすでに喋っていた。しかも葵に、ではなくレッドテイルの怖いお姉様方に。かなりの策士であり、最悪の展開の予感。
「なぬっ?!男鹿っち、元ヨメとヨリ戻ったっつーことスか?」
「ね、姐さん………」
 無言で銃を構える千秋がいたり。個々のオリジナリティ含め、パネエ。慌てて泣きそうなのがなぜか寧々。
「俺は本気で怒った。男鹿のやろう、浮気するだなんて許せなかったから」
「つーか、覗き?」
 あらぬ方向に話がねじ曲がった。これはもしかしたら、古市の暗黒時代、到来かも。レッドテイルのメンバーが犯罪者を見る目で古市をじと見て動きを止めた。葵がこの場にいないのは幸いだったのかそれとも。
「覗きじゃありまっせん!魔力っす!」
 どう言い逃れようとも、古市にとってはすべてが無駄なような気もする。智将が恥将となった瞬間。まぁ現実問題美味しく頂きましたが何か?
 古市の処遇がどうなろうとも、男鹿の浮気疑惑は一度浮上してしまった。これを葵に伝えるか伝えないかは、メンバーによるだろう。実際、彼女らはかなりまじで悩んだ。葵の男鹿へのメロメロっぷりは付き合う以前からの大事だったのだ。そんなことをもらして後が大変なのは目に見えていた。どんな凶行に出るかも見当がつかない。みんなが葵を大事に思い、葵に幸せになってほしいと願っているのだ。ついに、寧々が立ち上がった。握った拳は情けないほどプルプルと震えているのを古市はしかと見た。
「姐さんに言う前に、あの野郎にどんなつもりか聞きにいくよ…。場合によっちゃあ…」
 寧々の最強装備、チェーンがジャラリと冷たい金属音を響かせた。ならばと古市は立ち上がり、男鹿の家へ案内すると聞かない。寧々が顔を赤くしたのは古市のせいではない。もしかしたら男鹿美咲初代総長に会えるかもしれないというドキドキ&ワクワク。ダミ声モードに突入した。古市は別の意味でワクワクしていた。男鹿がもしかしたらシメられる様が見られるチャンス。むしろ、可能ならばチェーンで亀甲縛り。そして美咲姉のパンチ&キックでKO。土下座されたれやぁこのクソ浮気エッチすけべ変態クズ野郎があ!いつもの借りを返す意味でニヤリ。笑みは黒く零れていたらしく、後ろから何となく不穏な空気誘われ見つけた神崎組らが顔を出した。寧々の様子に訝しがりながら。

「男鹿の姉貴?…ああ、あのクソ暴力女か」
 いつぞやにもらった脳天への攻撃は痛かったなと神崎は苦い顔をしたものの、浮気話には興味あるようでその場から離れようとしない。
「全員はムリでしょ。普通の一軒家なんだから」
 どちらにせよ帰りは男鹿の家へ直行する予定。




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「おがーっ」
 家に入る前にすでに美咲と古市は打ち合わせ済み。男鹿を帰ったら家から出さないように。ラジャー。読んでみたが男鹿はまだ帰ってきていなかった。古市らよりも早く学校からサッサといなくなっていたはずなのに。文句を言いながら古市、寧々、千秋、花澤、神崎、夏目、城山は男鹿が帰るまで待つことにした。もはや勝手である。その前に美咲に話をしておいたほうが口裏も合わせやすい。なのでまずは美咲に最近変わったことはなかったかと話を伺うと、それはもちろんヒルダの記憶の話だけだった。葵の話は一切出てこない。それもそうか、恋人の話なんてふつう姉にする弟はいない。歳も近いから余計に恥ずかしいだろうし。ヒルダも都合良くいなかったので浮気の話もできる。ん、まてよ。ヒルダの話をしているときの美咲の様子を見ると、これは話してよいものかと今度は別の葛藤が生まれるのだった。古市は、寧々は焦った。とにかく冷や汗が背中を伝う。もしかしたら家の中をグチャグチャにしてしまうのではないか。そこまでのことを考えずに突撃してきてしまったのだ。これは知られたら大事になってしまう予感…。古市と寧々の心配をよそに神崎があっさりと美咲に聞いてしまう。
「結局、男鹿の野郎はここの家でエッチしてたんだろ?」
「わわあああああああ!」
 言葉にならない言葉と、美咲の闇夜に照らされたような不穏な表情が一緒になって、古市の目の前で、間近で笑った。どういう意味か、と笑って聞く美咲の笑顔はホラー。ごまかせない。申し訳ない、男鹿、まじごめん。でも悪いのはお前なのだぜ。と古市は後になって展開が悪い方向にいっていることについて、考えるのをやめた(ジョジョ2部カーズより)。もう、なるようにしかならない。



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 ヒルダが何食わぬ顔で帰ってきた。その途端、男鹿家の──念のためいうが、男鹿辰巳不在である──状態などお構いなしに、まったく関係ないという顔で、関係あるヒルダが帰宅した。さすがのヒルダも驚いた顔をして、並んだ面々に止まる。それは浮気とかセックスとかそういうことではなくて、単にみても驚くような雰囲気をまとっていたからである。
「おかえり。ヒルダちゃん」
 美咲の笑顔は凍ってはいない。
 先に述べておく。ヒルダの記憶はなかった。ヒルダは記憶がなかったときのことを記憶していない。答えも何もあったものではない。すべては男鹿辰巳に委ねられる。ヒルダが浮気とか肉体関係とかそんなことを言われても飄々としていられたのは、覚えていないからだ。それが古市ら石矢魔メンバーの共通認識だった。古市と美咲の胸には一抹の引っ掛かりはあったものの、これ以上言及できないのも、また事実だ。分からないというものはこれ以上どうなるものでもない。
 今確かなことは、男鹿が帰ってきたら血の雨が降る可能性が高いということだ。なぜなら、美咲の気が高まっているからである。神崎が構えつつちょっと引いているのがどこか可笑しい。



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「ただいま」
 不穏な空気は家に入る前から垂れ流しになっていたはずだ。だが男鹿は臆することなくベル坊を背負って家に入ってきて、面々を見てすぐ固まった。なんでいるんですかー。あんたらなんなんですかー。つまり、空気なんて一切読めてませんでしたが何か? 男鹿はやはり男鹿である。
「おわっ?!な、なんだお前ら」
 ふつうにビックリする男鹿の姿はどこか微笑ましい。これから降る血の雨と比較して。美咲の手が男鹿の胸ぐらをむんずと掴んで、ニッコリと笑いながら姉は答えた。
「お帰りぃ、辰巳。話あんだけどォ?」
「お、お、俺はねーけど別に」
「ア、タ、シ、があるっつってんの。あんたとヒルダちゃんと葵ちゃんのことについて。洗いざらい話してもらうけどォ? 答えによっちゃァ…」
 ギリギリと少し長めの女性らしい爪が肌に容赦無く食い込んで、男鹿の息の根を止めようとしているようだ。この場から逃げられる者なんてこの世にいるはずがない。男鹿美咲最強伝説はここからさらに加速することになる。神崎は美咲と辰巳の姉弟ゲンカ(?)の最中、冷静に男鹿について分析していた。男鹿が割とフェミニストであるが所以、そして姉の存在。言い過ぎると美咲の拳、もしくは足が飛んできたのでしばしばそのくだらぬ論議は中断されたが。

「逃げようと思ったわけじゃねーよ。ただ、怒らないあいつがなんつーかな………。全面的に俺が悪ィ。けど、今じゃなくったっていいだろ。謝んのは」

 平手打ちが何度も迸って、顔を腫らした男鹿の勇ましい姿はある意味見ものだった。土下座は美咲の趣味ではないのでさせるつもりはないらしいが。そして浮気疑惑が本当だったことと、ヒルダが何とも言えない顔をしているのもまた見もの。堪らず神崎と花澤が結託したように「きたかいあった」と言ったのに男鹿もヒルダも、あえて反応しなかった。
「怒らないって、いう前から分かるわけないでしょーが」
 もっともな美咲の言葉に、さも当然の様子で男鹿は目を逸らさないで答える。
「分かるんだよ。俺はわかる。邦枝は怒らない」
 古市は思い出す。前から男鹿にはこういうことがあった。どうしてか確固たるものを持っているというべきか。信じている。それだけのことなのだが、だが現実に行動しなけれは分からないことばかりだ。古市のことを強いと称したのもそれだ。人間らしい信じる力。きっと悪魔には理解できないだろうが、人間の自分たちだってよく分からない。信じたい気持ちは分かる。気持ちは理解できる。だが、現実と願いは違うのだということに、男鹿のことを動かすべきかどうかは美咲に委ねることになった。美咲が弟を見下ろす目はとても冷たく、凍えんばかりである。
「いっとくけど、俺はべつにヒルダに惚れてるわけじゃねーぞ」
 ヒルダの目の光が、変わったような気がした。気のせいかもしれないが。美咲の目は妖しく輝く。
「じゃあ、葵ちゃんはどーなのさ?」
「え、あ……」
 男鹿辰巳は自分のいったことについて、墓穴を掘ったと気づいたのだった。口ごもった様子にくつくつと笑う石矢魔メンバーたち。ほとんど恥と照らいの拷問に近い。
「それに好きでもない人とやっちゃうわけ?あんたは?母さん泣くよ?父さんなんて土下座するわよ」
 男鹿父の土下座はいつものことであるのでともかく、美咲の聞いたことは気持ちの上では実にごもっとも。責められても納得のいく部分。後ろでゴニョゴニョと古市やらが記憶喪失バージョンのヒルダは絶対男鹿に惚れてたんだとか話しているのも聞こえてきて、男鹿としてはとてもやりづらい空間と化している。男鹿家(ホーム)なのに完璧アウェーな空気。
「1000%もうしねぇ!マジで答えると上半身と下半身が別の生き物だもんで!自分!」
「うっせえ。サカリのついたエテ公が」
 ズボッ。キッチリ股間に蹴りを食らって、男鹿辰巳はKO負け。一撃も返すことも不可能。ゴングは脳内だけ。気の失うのも許されない痛みの中、しばらく美咲の辰巳イビリは続いた。どうしてだろうか、男たちはなぜか涙が止まらなかった──痛みが分かるからだろうか──。


***


「男鹿。大丈夫か」
 みんなが帰ってしばらく部屋で休んでいたら、夜の遅めな時間に古市が再び男鹿の部屋に顔を出した。男鹿の顔色は実に悪い。青い顔をしていて、調子が悪そうだ。
「大丈夫のわけねーだろ。てめーまじ明日からたかちんぽって呼ぶぞ」
「こんなんなると思わなかったんだって」
「俺、まだ怖くて便所行ってねーかんな。いや、吐きに行ったけど」
「潰れてたらこうして話してねーよ。それより……お前って結構、邦枝先輩のこと、ちゃんと考えてんじゃん。なんかよかった、安心した」
「しばらく使えね〜」
「シッコ出せればいいべ」
「…まあよ」
「なんつーか……邦枝先輩、安心させてやれよな。早く」
 古市の言葉にはまともに最初から最後まで答えなかった。痛みでそれどころではないこともあるのだろうが、男鹿なりに思うこともある。今はとりあえず体力と気力の回復が最優先だった。ベル坊でさえあまりの恐ろしさに内股になったままだ。そんな夜もある。葵の知らないイザコザたち。


14.10.13

ヒルダ編終了です。
若干あったのも、削ってしまいましたので番外やるかなー?って感じです。
まさかの美咲姉さん出張りすぎ?

次から葵ちゃんカムバックでござる。みなさまお待たせしてすみません。

銀魂のせいか金玉ネタになったわけじゃないと信じたい。だが浮気野郎への天罰はやっぱり金蹴りかなぁとか。実にギャグマンガな展開で古市が出るとヤバイです。同人的な意味で。動かしやすくていいなw


なんとなく告白もあり(ないか……。でもまぁ一応最初はそんな感じだから)、浮気騒ぎもあり、家族ネタもあり、イチャイチャもあり、やりたいことはほとんどやれたような気がします。
ある程度めどつけたら深海にてのシリーズ終わっちゃうんだろうか……それとも自分でも読めない展開に飛ばすんだろうか。むしろ男鹿と葵ちゃん関連の単発置場と化すのか。これからのことはまだあまり考えてません。

なんかあったら声かけてくださいなり。よろ〜
2014/10/13 15:16:09