姫川夫妻のケンカ別れの話


 結婚してるし。もう八年も経っているし。べつにいいのだけれど。
「アラサーになんのかな?」
「なるだろうな、アラサー」
 竜也と潮は28歳。仕事ではうまくいっている。離婚もせず、ケンカらしいケンカもなく、30歳手前という年齢になって、はたと気づく。ちなみにまだ子どもはなし。過去に何度か子どもの話はしたが、具体的には進んでいない。子育ては時間も手間もかかり、竜也にしろ潮にしろ、ビジネスマンとしてその時間を割くことが難しいのもまたそうした現実の中にあった。目を背けて来たわけではないが、無視できないというところでもある。何より竜也が思うに、自分たちが浮世離れしているのは分かっている。そんな浮世離れしたやつらが子育てなどあり得ないだろう、と思うのだ。意外に現実を見ている冷静な判断である。
「時間、経つの早ぇ〜〜」
 溜息まじりに竜也はいう。このまま仕事で終わるのはどうなのか、と彼も思う。企画書を閉じて仕事用バッグにぶち込む。家ではあまり仕事をしたくないタイプだ。意外と潮は家に仕事を持ち込むタイプである。合わないような気もするが、どちらも互いに干渉しないので、それすらあまり関係ない。今日だってこうして一緒にいられるタイミングは時間にして30分程度しかない。ここまで夫婦であって接点がないとなると、あまり一緒にいる意味がないのではないか、と思うことはある。そういう考えが互いに芽生え始めて、しばらく経っていた。言葉にしなくても分かる。夫婦以前に一緒にいる期間は長いのだ。
「明日は時間空けてくれてるか?」
「は?明日?」
 潮の唐突な言葉に、竜也はまったく覚えがなかった。ポカンとした顔をしたまま止まる。それを見て潮はサッと表情を変えた。急になんだ。竜也は内心混乱していた。座ったまま後退りもできないで、掴みかかる勢いで潮が間近に寄り睨みつけて来た。
「ど、ど、どうしたんだよ…?」
「空けとけって言った!」
 潮が感情を露わにするのはほとんどない。そういうタイプではないところも竜也は気に入っていたし、男として若い頃は暮らしていた辺りもあるのだろう。だからこうして剣幕になることはひどく珍しい。さすがの竜也もタジタジである。
「だって、…べつに、明日、普通の日だろ」
 平日で、とくに何という日でもない。ただの平日にどうしてそこまでこだわるのか、竜也にとってはまったく理解ができない。チラとカレンダーも見た。明日は会議が入っている。外せない、というほどのものでもないが、それなりの理由がなければもう決まった話をキャンセルするのは骨が折れる作業だ。それをしたくないと竜也は思って潮の顔を見た。怒りで顔色すら変わっている。こんなになるなんて珍しい。
「どうして…っ」
 声を詰まらせて潮は、乱暴に竜也の服をつかんだ。あまりのことに動揺しているようだが理由がわからない竜也はポカンとしたままで、まるでべつの国の生き物かのようだ。だがそのままでいるわけにもいかず、竜也はいつものように鼻を鳴らし笑った。意味の分からぬことに付き合う必要だってない。なぜなら、意味がないからだ。
「おいおい、明日は会議が入ってんだ。それも一月前から決まってる。今さらキャンセルなんてできねぇよ」
 言葉が終わるか終わらないかと同時くらいにばちん!という乾いた音と、頬をぶたれた衝撃がほぼ同時にあって、竜也は言葉を失った。頬を押さえて潮を見る。どうしてこいつはこんなことをする? まったく理解できなかった。潮は怒った顔のまままっすぐに竜也を見つめていて、今にも泣きそうなくらいに目を潤ませていた。俺の方が泣きてぇわ。竜也は心の中で、特に泣きたいとも思っていないがそう呟いた。女はいちいち面倒くせぇと同時に思ってもいた。
「言わなきゃわかんねぇよ。以心伝心? ハァ? んなもんエスパーじゃねんだ、俺は知らねえよ」
 苛々しながらそう吐き捨てるように潮へ言葉をぶつける。
「言ってたろ……。前から、何度か言ってたじゃないか! お前が心を汲むだなんて思ってない。だから私はいつも言葉にしてるじゃないか!」
「……何が」
「明日、結婚…記念日じゃないか……。私と、竜也との…」
 最後は消え入りそうな声で、潮はつぶやくようにいった。そういえば、とふと思い出す。毎年何かしら食事をしたりはしている。どうしても外せないときは今までなかった。なぜなら、潮が先にオンラインなり顔を見たときなりにちょくちょく結婚記念日という言葉をちらつかせるからだ。今年だって、意識はしていなかったからすっかり忘れていたが、きっとそうだったのだろう。竜也は悪いと思いながらも、うんざりした気持ちにもなっていた。どうして女はこうやって、くだらない記念日とかそういうものにこだわるのか。面倒で面倒で仕方なかった。掴んだ潮の手を掴んで、半ば強引に自分から引き剥がした。
「めんどくせぇよ、そういうの」
 言葉はどこまでもシンプル。だからこそどこまでも潮の胸にやすやすと突き刺さる。竜也はすぐに彼女から目を逸らして、溜め息を一つ。そんなに嫌なのか、と潮は哀しくて仕方なくなった。結婚した日はとてもいい日だったはずなのに。祝うべき日のはずで、周りのみんなからも祝福された日のはずだというのに。それでも潮の夫は嬉しくないようだ。子供のときから一緒だった。それは男女としてではなく、友達として一緒だった。初めてゲームを作った。初めて株をやった。すべてうまくいった。友人の姫川竜也と一緒であれば楽しかったし、何も怖くはなかった。どこまでも幸せでいられるものだと思っていた。そして、竜也も目を逸らさないでいてくれていた。だが、今は違う。目を逸らす。目を逸らしてしまう。
「前にも言ったろ。記念日とか、そういうの興味ねぇから覚えてらんねぇんだ、って」
 潮が竜也と恋人になりたいと願ったときにも似たような話をしていた気がする。だが、それを前面に出されるのはとても苛々する。面倒なのは分からないでもない。だが、いつでも祝いたいし、それを何度もLINEで、電話でも伝えて来たはずだった。それは竜也には伝わっていなかった。落ち込んだ気持ちで、潮はフラリと立ち上がった。
「思っても、伝えてもムダなのか。八年も夫婦でいたというのに」
 言葉にしてみれば何ということはない。ただそれだけのこと。伝わらないものは必ずあるということ。夫婦とは他人だということ。すべて認めてしまわなければならないのだということ。大事なのは一緒にいる期間じゃない。好きだ、あいしてる、そんな言葉ではきっとないのだ。だが、それ以外の何で示せばよいのか。それは何年経っても潮には分からない。それが、寂しいような哀しいような虚しいような、そんな不思議な気持ちだ。
「私たちはずっと距離があった。互いの仕事のこともあったからな。だから、これ以上距離が必要なら、別れるしかないだろう」
 潮は竜也の顔を一瞥してから、溜まった涙をひと拭いしてから背を向けた。黙って部屋に戻ってゴソゴソしていたが、着替えて出てきた潮の顔色は冴えなかった。竜也は変わらずソファでケータイをいじっていたが、横目に潮を見ると念のため聞いた。
「よう、どっかいくのか」
「ああ。明日はオフだからな、家にいてもふさぎ込む。それなら前の日から出掛けてくる。今日は帰らない」
「どこ?」
「知らん」
 強引に出て行った。どこにいくか聞いて答えなかった潮などこれまでなかったことだ。ドアが閉まった音の後に、竜也の胸はザワついた。手の中にあるケータイを見た。だが、それには潮からの着信も連絡もなくて、時間だけがのろのろと過ぎていく。先の言い争いについて、嫌でも考えてしまう。何がいけなかったのか。そもそも、そんなに連絡などよこしていたのだろうか。竜也は過去のLINEチェックをし始めた。電話もLINEも、仕事に関係ないところは読み飛ばして、適当に流していたということを認識するのはそれから数十分後のことだ。



「ち、くそ…。ほとんど寝れねぇし……」
 目をこすり擦り竜也がベッドから起き上がったのが朝の五時などという時刻。仕事にも早いが外はもう明るくなっている。気づけば知らないうちに舌打ちを何度もしている。夜中じゅう、窓の外の夜景を見て、そのどこかに潮がいるのだろうかと考えていた。結局、潮からの連絡は一度もなかった。あんな一方的な言い方でいなくなるのはフェアじゃない、竜也はそう思ってやまない。相手がどんな状態とか関係ない。勢いだけで潮の電話をコールした。12コールもしたらようやく出た。眠そうな淀んだ声色。昔の彼女を思い出せてどこか懐かしい。
「出んの遅ぇよ。どこにいた?」
「…横浜プリンス」
「あぁ?!!」
 そこそこ高級なホテルに、しかも横浜まで行っているし。竜也は自分が何もせずただ、ケータイをいじってるだけだったことにイラついた。思わず怒気を含んだ声になるが、それに怯む潮ではない。
「…一人か?」
「ああ」
「そうか……。今日、会議出たらすぐ帰る。お前はこっち戻ってこい。あんなふうに勝手に決めんじゃねぇ。ワケわかんねぇだろうが」
「お前こそ、反省してるのならこっちに来るといい。なかなかのホテルだ」
「けっ、ナメんじゃねえ」
 竜也は一方的に電話を切って帰り道のことを考えた。どうやら今日は8度目の結婚記念日で、横浜経由になりそうだ。いざという時、敵わないと思うのは男の弱さだろうか。潮が策士だということに打ちひしがれながらクローゼットを開け、整髪料片手に今日のコーディネートを考え出すのだった。


距離にしておよそ20cmの孤独



14.09.27

28歳の姫川夫妻。
結婚記念日がいつっていうのを一切考慮せずに書いてからハッとしましたので季節感は一切取っ払いましたw

なんだかんだで結構ラブラブなお二人さんで…。

駆け引きを持ち出すのは、かならず久我山だったりします。惚れたのも久我山からなんだけど、ちゃんと手のひらで遊ばれてる(悪い意味じゃなく)姫川が珍しい感じでいいかなぁと。
まぁ言ってしまえば今回は「くだらない夫婦げんか」の話なんで(笑)


これを後になって話してたらただの「ノロケ話」ですごちそうさま。

夫婦げんかってほんとうに犬も食わないほどくらだんというか。こんなことでケンカすんなよっていうのが多いですよね?(と私は思う)なのでこれだけくだらない話にしてみました。これだけ普通じゃないやつらの中にある生活と、普通。みたいな
あとは男女の違いもありますね。
こういう衝突ってありがち。


title : is
2014/09/27 11:22:20