深海にて19


 目を開けたらそこにはヒルダの冷たい人形のような顔があった。咄嗟に昨夜のことを思い出す。男鹿は何もいわない。否、いえないのだ。昨日のヒルダはとても官能的で、動物的で、魅惑的だった。


世界の海は一つではなくて。
溺れるタイミングなんて無数にある。
そこで溺れずに泳ぎ切れば、海を制することなどわけないのかもしれない。
そもそも、海賊でもないのだからそんなことを考える自体が、バカバカしいのかもしれない。けれど、どうせなら、流されるよりコントロールしたいと思うのが狩猟者というものだ。
そうだ、狩るものになりたい。
流されずに、潜りたい。


 押されそうになったのは事実だ。昨日の激しくて脳髄まで痺れるようなキスがあったのも本当。だが、何とか押しとどまった。これは事故だと男鹿は己の心に何度も言い聞かせて、ひるだの行為を遮った。
 これは事故。
 これはなにかの間違い。
 勘違いかもしれない。
 男鹿は必死に横を向いて、目を逸らした。本当にマカオのヒルダガルデとやらなら、挨拶でチュッとやるのかもしれないが、マカオは魔界で、ヒルダは侍女悪魔とかいうやつなのだ。それに舌が絡み合うようなねっとりとした甘いキスは、友達のそれでないし、ここは日本で人間界だから。
 だが、男鹿は懐かしくも愛おしいと思うほどの、ひりつく気持ちよさを感じていた。これは初めてじゃない。そう、葵に触れたときにも感じた、不安さえも覚えるようなそれだ。そんな感覚は身を任せたいと思うけれど、それを押しとどめるのは理性。それがあったからこそ、今の葵との関係がある。だが、この感覚に抗い続けることなど、ただの人間にできるだろうか。男鹿はさらに首を横に振った。触れたあった唇から透明の糸が伸びて、やがて、名残惜しそうに途切れる。
「ひるだ……あのよ」
「たつみさん」
 たつみさんと、ひるだは呼ぶ。その響きはあまりに甘く、けれど儚く揺らめいているようで、気のせいなのだろうけれど、それを手放したくないと思うほどのなにかがそこにはあった。だから呼んでほしいと乞いながら、呼んでほしくないと願う。心と身体はどこかちぐはぐでバラバラだ。
「俺は裏切らねえ」
 脳裏に葵のスラリとした姿を見て、
「俺は守る」
 ひるだの動きを封じるために、両手をつないだままで、ひるだを見ながら彼女以外のヒトを思う。
「ベル坊の、人間界での母親はオメーだよ。けど、それ以上でも以下でもねえ」
 そっとひるだが身を寄せてきて、男鹿の胸に顔を寄せた。人間の鼓動が、悪魔の鼓動と重なった。人間も悪魔も、そう変わらない。魔力があるかないか。それ以外の違いはあまりない。利己的で、自分勝手で、支配者である。手と手が触れ合っていて、身体と身体が触れ合う。だが、それ以上に動かない。触れてはいけない。だが、ひるだにはそんなことなど届かない。熱い目をして、男鹿の足とひるだの足が絡む。ふと思う。肉感は違う。葵と知らずのうちに比べている。比較しているわけじゃない、どちらがいいとか悪いとか、そういうことではない。単に思ってしまう。ひるだのほうが大人な感じだ。肉質感はぷくりとしている。女性らしい身体。足と足が絡まる。
「たつみさんは、あの人が大事なんですね」
「ああ。だから、俺は一晩中だってお前に何にもしねえ」
 ひるだの足が男鹿の足の付け根をぐりぐりと押し付けるように動いて、そこを刺激する。男鹿は逃げようと僅か身をそらす。だが手は握り合ったままで胸と胸もひたとくっついている。鼻で笑うひるだが恨めしい。身体が反応してしまうのはしかたがないだろう。まだ男鹿は高校生、しかも性的なことに興味を持ち始めたばかりの健康な男子だ。一日じゅう精子が袋の中にせっせせっせと作られてる。そんな身体が反応しないはずもない。だが、これは葵に対する裏切りなんかじゃない。そう思いながら目を閉じた。ひるだが好きに動けないよう、強めに抱き締めた。




「おはようございます、たつみさん」
 朝は唐突に訪れた。目を開けるとそこで優しく微笑む女神。ああ、これは悪魔。本当に昨日、何もなかったのか心配になった。抱き合ったままでよくも寝ていたものだ。男鹿は布団の中から覗く自分とひるだの姿を見た。白くてはだけた肌はひるだ。男鹿は普通にシャツの姿で眠っていた。それで安心して、握ったままの手を離した。気を張って寝ていたのだろう。手が痺れていた。それとも気持ちよさのせいだろうか。手を離すととても物足りなく思えるほどに。
「おう、……って、ええ?!」
 身体を起こしたらひるだは下着姿だった。白くてほっそりした身体だが出るところは出ている。胸の谷間がひどく眩しい。ひるだが身体を起こしたときに露わになった太ももがさらに眩しくて、下半身を覆う布地の小ささに声すら失う。朝から刺激的すぎる。古市が頭の中で泣きながら喚いた。そう、こうして脳内古市が邪魔してくれるお陰で、男鹿は葵のことを思っていられる。慌てて後ろを向いて「さっさと着替えろよ」と苦しいながら平静を装った。衣擦れの音を後ろに聴きながら、これからこんな調子でどうすればいいのかと考える。誰にも相談はできない。というか何を相談すればいいのか、それすら分からない状態だ。
「たつみさん、顔を洗いにいきましょう」
 振り向いたら男鹿の大きめなシャツを羽織ったひるだがそこにいた。彼シャツ状態である。狼狽えながらも男鹿は頷いて、ベル坊を抱き上げる。ベル坊は言葉が話せないだけで、きっと親である男鹿の不安とか、ひるだの気持ちとか、そういったものは分かっているだろう。向かうべき道を示してくれるのはベル坊なのかもしれない。漠然とそんなことを思った。
 彼シャツ状態のひるだと男鹿の姿を見て、姉の美咲はわざとらしいほどに表情をひくつかせ、弟の胸倉を引っつかんだ。殴りそうな勢いである。あらぬ二股疑惑というか。姉こわい。そのときの男鹿の表情もまた別の意味でひきつりまくりであった。母の目も怖く、父はスライディング土下座でひるだに詫びた。朝から騒がしすぎる。葵のことがあるから、男鹿一家の気持ちとしては複雑なのだ。
「私の方こそ、たつみさんには、いつも良くしてもらってるんです」
「よ、…よく?!!」
「違ぇ!断じてそぉいう意味じゃねえわ!!」
 男鹿は逃げるため、──土曜の朝ということで学校は休みである。こんなときに限って──古市のケータイを鳴らしまくった。まだ寝てる。そんなこと知ってる。葵の顔も見たい。何か家以外のどこかへ飛んでいきたい。あらぬ勘違いが非常に厄介で、ひるだとも距離を置きたかった。ある意味ではいつものヒルダより扱いづらくて参る。20コールくらいするともはや寝起きMAXのどよんとした声の古市が「もしも〜し」と出る。彼女もいないこいつは夜中まで何をしているのか。ゲームだって男鹿のほうが熱心なのだが。
「今からいく」
 半ば強引に電話を切った。男相手なら平気で電話を即切りするのを知っているので、男鹿は強引に自分の言いたいことだけを言って切るようになった。もちろん古市限定であるが。美咲の目が光ったのは分かったが、男鹿はすぐさまベル坊を胸に抱いたまま朝食も摂らずに古市の家へ向かった。こんな状態の家にいることは身の危険しか感じなかったからである。


「古市〜。やっと着いた…」
 と思ったらアランドロンと一緒に古市が寝ていた。見てはいけないものを見たような気もするが、そんな気もしていたのであまり気にしないことにした。一緒に寝ていることについてはスルー。
「き、き、急に入ってくんな!あとおっさん、何でいるんだっ!」
「なあ古市…、またヒルダが記憶バンしちゃったんだが」
「つーかお前この状況になじむな!あと、おっさんマジどっか行け!」
「ふむ、辰巳殿、本日もよい魔力でございます。ヒルダ様のお陰でしょうかな…?」
 古市を置いて会話は勝手に流れる。男鹿としてはアランドロンと古市がどうなろうと、実は知ったこっちゃなかった。自分とヒルダとのほうが問題だとしか言いようがないのだ。だが、その話をするのは躊躇われる。彼女のいない──彼氏ならいるかもしれないが、それもどうでもいい。しつこうようだが。──古市に言えば百を超える文句と話がでかくなりそうだからである。妬みがこれほど面倒だと感じたことはない。そもそも男だの女だのという話はくだらないと思っていたからだ。だが、いざ陥れば困るのは自分なのだ。道を指し示す友人もいない。古市はただのすけべ心でしかない。そういう意味を含めちょっぴり残念な幼なじみである。だが、
「昨夜はヒルダ様と一緒におられたでしょう?」
「は…あ、え、え?!」
 まだ何も言っていない。まだ何も言っていないというのに。アランドロンはまるで不思議な様子もなく「分かるのです」と何も感じていないといった様子で軽く答える。顔色を変えた男鹿の様子と、ヒルダと一緒にいたという言葉。古市は瞬時に深読みした。まるでカサカサと歩くゴキブリのように素早く布団を被ったままのナゾな姿で男鹿の元へ寄る。顔も間近だ。
「ど、ど、ど、どういう、意味だ…?」
 いつもなら警戒する必要のない言葉に反応したのは、男鹿の様子がおかしいからだ。ヒルダと同じ屋根の下に暮らしているのは知っている。だから当然なのにこの態度はおかしい。男鹿には狼狽える理由がある。どうしてなのか。それは、ヒルダと何かあったからだろう。そう深読みするのは容易い。と、男鹿が困ったような怒ったような顔をしているところ、古市のケータイが鳴った。流行りのPOP。男鹿には興味のない着うた。
「ハイ、…あ。美咲さん?!」
 男鹿が話すまでもなく、家族ぐるみで付き合いのある男鹿の姉から自動的に伝わってしまう因果な運命。絶対歪んで伝わっている。みるみる古市の顔色が悪くなって、やがて電話を切った。鋭い視線を男鹿にぶつける古市の様子はそう珍しいものでもないが、空気すら凍りつくようで、男鹿は居心地の悪さを感じた。避難場所ではなくなってしまったようだ。退散を考えたほうがいい。葵にまで面倒な話がいく前に。男鹿は自分の口下手を恨めしく思う。
「違う!」
 男鹿が発したこれでは、何にもなりはしない。むしろ怪しいだけのような気もする。そして古市の目は鋭く光っている。
「ハーレムか…ハーレムなのか、てめぇ……」
 声が怒りで震えている。女に飢えている狼が、ひどくウザい。男鹿は否定した。だがそれを否定する古市はある意味最強だ。人の言葉などほぼ聞こえない。理解することを拒否している。
「邦枝先輩とは、ヤったんだよな? そういうのは、ないと俺は思う」
 何故か理詰め。男鹿の苦手分野をよく知っているやり口だ。ヤったとかヤらないとか、そういう話は苦手だ。そして古市はまだ経験がないから興味津々で、かわすのはしんどい。
「邦枝は、…関係ないだろ。それに、ヒルダは──」
「おーおー、いいよな。モテる男はよ。ただのケンカバカだと思ってた俺が甘かった。まさかお前に先越されるなんて…」
 何故か古市は涙声になった。待て。話がブレている上にほとんど意味不明だ。男鹿の頭もついていけず困るばかり。古市が俯いて肩を震わせている。ワナワナととても辛そうに。古市には何も関係ないのだが、勝手に悔しがって泣いている。というか、泣くなよ。
「俺はお前を許さん!」
「いや、意味がわからんし」
「ダー、ダブ?」
「月に代わってお仕置きだぁ!」
 何かそれ違うだろ…。と言う間もなく古市は立ち上がって男鹿の胸倉を掴んでいた。そのときにはじめて感じた冷たい魔力。ゾクリと背中から立ち上る独特の寒気。契約者の証だろうか、古市の背後からはオーラが立ち上っている。誰の姿かは男鹿は見えないが、きっと古市は分かっているだろう。といいより、どうしてこの状況になっているかのほうが問題だ。
「おい、そりゃどーいう意味だ。ケンカでもしようってのか? ざけんなよ」
 やる理由もない。そういう意味を含めて、強引に掴まれた手をほどく。少し離れた古市と男鹿は睨み合うような格好になる。
「俺はべつにヒルダとどうにかなったわけじゃねぇって。ただ、昨日もめたんだよ、記憶喪失バージョンのひるだになっちまって。ホラ、前、勝手に夫婦とか言ってたろ」
「問答無用。」
「……マジか」
「男鹿。俺に隠しているというか、嘘をついていることがあるよな?」
「言ってる意味が分かりません」
「目が泳いでる。何かあったんだろ。例えば、オッパイ揉んだ、とか」
「揉んでねえよ!向こうがくっついてきたんだ」
 今、何か失言があったかも。男鹿は盛大に咳込んだ。胸のやわらかさも、大きさも今朝、ついさっきの感触として思い出せる。しかも下着姿…。
「それは浮気です」
 無表情の古市がいった。
「それは邦枝先輩を裏切った行為です」
 ずい、と顔を間近に近づけて男鹿に詰め寄る。男鹿はこういう精神攻撃は苦手だ。思わず嫌な顔をした。
「浮気を聞いたら先輩悲しむって」
 言われなくても分かっている。これが浮気だと男鹿は思っていないけれど、そう思われても仕方ないという感じも分かる。男鹿は思わず息を飲む。
「だから、お仕置きで顔ぐらい腫らす」
「いやまて、それは勝手な、個人的な恨みじゃね?」
「浮気は許さない」
 古市の殺気のようなものは収まらず、だが、彼が言う気持ちもわかるし、葵がもし知ったらどう思うかも分からなくて、殴られる覚悟で着いていく。引っ張られる感じで、外へ出る。だが古市はパジャマ姿ではあったが、そんなことは構わないらしい。何より言い切る古市の言葉はどこか今まで感じたことのない迫力と気迫があった。古市と男鹿の家の近くにある空き地に辿り着いた。手を離した古市の前に、男鹿はふらついた足取りで立った。その古市の姿はいつもよりも強そうで、男らしい。目つきだけならもはや戦士だ。
「古市。俺は浮気はしてない」
「なら、言えるのか」
「なにを」
「ありの〜ままで〜?」
 アナ雪かよ。とりあえずギャグっぽく言ってくれたことに感謝。男鹿は考えた。浮気じゃないのに言えない。それは理由としてはいっぱいあるけれど、でも、まるで逃げてるみたいだと。言える。そう簡単に答えられなかった。それが悔しいし、キツい。精神的に。だから、首を横に振ることができない。
「この、っ、浮気野郎が!」
 腕を思い切り振って、風を切る音がヒュウ、と鳴る。と同時に思い切りのいい衝撃。頭から吹き飛ぶ。もちろん踏ん張って飛ばないようにして耐えたが、ガードはしていなかった。ノーガードで一撃をまともに食らい、後ろに倒れた。地面が向かってくる直前で、男鹿は踏ん張って耐えた。ぐ、と腹と足に力を入れて。こうして今まで背をつけずにきたのだ。ゆらりと体制だけを整えて、男鹿は古市と目を合わせた。俺は浮気なんてしていない。けれど、聞いて欲しいと思えば思うほどに、古市は遠ざかるみたいで。構えている古市の姿は契約者とは思えないほど華奢。次におとずれた衝撃はどこか弱い。否、全体的に弱いのだ。そう、まるで悪魔なんてないみたいに。だからこそ効いた。男鹿のちっぽけな心にじいんも染み渡るみたいに、よく効いた。攻撃とは物理的なことだけとは限らないだなんて分かっていたのに、それでもとてもショックを受ける。それがなぜなのか理由は分からないけれど。どうしてか古市のヘボい拳がとても痛い。きっと、男鹿が思う浮気じゃない昨夜の出来事を知ってしまった葵の気持ちにみたいに。


14.09.21

今回は深海にてのノリじゃない感じはしています。
でも!
古市に出張ってほしくなって!勝手な理由でスマソ。元々はここまで出張る予定はありませんでした。まぁ契約者とかの設定も最後らへんだったし、深海にて最初のあたりはだいぶ前なんで…www


古市はただのアホだけど、それから踏まえる大事なことって、人の振りみて我が振り直せ。ってやつでね。
そういうのが男鹿に伝われば話は早いし大人だし、いいかなって感じもありました。

そろそろ葵ちゃんだそう。

その前に番外っぽいの入ったらすみません。。ではね。
2014/09/21 23:21:07