深海にて18


深く潜ると、浮かび上がるまでこんなに長い時間がかかるんだっていうことに、あとから気づく。だけど、その時になって海の中でもがかないようにするのは、とても難しい。
だからって、幸せに慣れてないと、幸せを満喫できない。どうすればいいのか。それにみんなが足掻くんだ。きっと。


*****


「またいちゃつきやがって」
 すいませんバレてました。男鹿は脳内で静かに謝ったが、口に出すと怒られるのでそうはしない。古市はすっかり呆れた様子だ。
「お前は本当にサカリのついた猿だな」
「…おめーにいわれたかねえ」
 キャラ的な話だけど、現実、男鹿の頭の中はエッチのことばかりだ。元々身の入らない勉強と、いつもは好きで頑張っているゲーム。どちらも気持ちいいほどに気が入らなくなってしまった。いつでも邦枝のことを考えている。帰りのこととか、休み時間とか。キスしたり、服を脱がしたりとか。本当は一日中くっついてたい。一緒にいたい。セックスだってほとんどできてないし、もっと何度もヤりたい。それを思うと湧くのは性欲だけで、学校のいつもの様子を見てはガッカリした。まさかこんなふうになるだなんて、男鹿自身としてもショックだった。だが、欲は意思の力じゃ消せないからどうしようもないのだ。こんなことを口にしてしまったら邦枝に呆れられるだろうな。そう思えばこそ、男鹿は自分の思いを胸の奥にしまった。あ〜ヤりてぇ。これでは古市に文句の一つも言えやしない。まだ学校に来たばかりだというのに、帰り道どこでいちゃつこうかと考えている。ケンカの代わりに華が咲いたのは性だ。どうすればこの衝動を抑えられるのか、授業中にボヤ〜っとしながらも賢明に考えた。しかし、どうやら答えはない。



 待ちに待った帰り道、ベル坊を背中に背負いながら男鹿、ベル坊、葵の三人で通い慣れた道を帰る。触れたくて堪らない気持ちを抑えながら、男鹿は必死で平静を装って耐える。朝から晩まで悶々とした気持ちで、崩壊しかけた理性がつらい。葵はいつものとおりで変わらない。男の性と女の性の違いだろうか。こういう気持ちは理解されないのだろうか。男鹿はさまざまな気持ちを込めて、後ろを振り向いて急に葵のことを抱きしめてみた。
「……っ?!」
 急なことだったので、葵もまた言葉を失っている。そしてハッとしては身じろぎして男鹿の腕から逃げようともがく。だんだん力は強くなって、仕方なしに男鹿は両腕を葵の体から離した。今まで見えなかった顔は真っ赤だ。でも男鹿はいつも葵の顔を赤くするようなことばかりしているから、見慣れたものだった。いつまで経ってもウブなのだ。男鹿は両腕を広げたまま鼻で笑った。
「何ビビってんだ」
「ちょっと…! 男鹿、いつも、言ってるじゃない…。こういうの、や、だって…」
 だんだん弱まって小さくなっていく声には、真実味がない。ただの照れ隠しだ。分かり切っている。葵は俯いたままその場に立ちつくす。
「そりゃ悪かった」
 男鹿は気にした様子もなくツカツカと近寄って、葵の頭を撫でた。髪をグシャグシャにすると怒られるので、垂れた手を握る。それは温かで、どこか気持ちいい。葵は動こうとしないので、軽くその手を引いた。
「行かねえのか」
 葵は拗ねたみたいに顔を上げない。渋々といった調子で足をゆっくり踏み出す。その足取りは行きたくないと言っているみたいに思えたので、男鹿はその手を少し強めに握り直した。いつの間にか邪な気持ちは消えていた。こんな時間がずっと続けばいいのにと思った。ちゃんと葵は手を握り返してくる。
「俺も、行きたくねえな」
 二人で一緒にいたいから。けれどずっとこの道にいるわけにもいかないし、人通りが少ないとはいえ、ないわけでもないこの道ではゆったりもできやしない。その手を再び引いて、
「ちょっと海でも見にいかねえ?」
 葵は顔を上げ、小さくだが、確かに頷いた。石矢魔は海の近くの小さな田舎町だ。関東の外れ。海はあまりキレイじゃないけれど、潮と磯の香りは確かにするから。ただの先延ばしでしかないけれど、少しでも二人でいたいと願うのは、高校生には過ぎた思いなのだろうか。磯の香りが近づくたびに二人の胸の内は踊った。波の音が、ここでケンカをしていたと思い出させる。石の防波堤の上に二人で腰を下ろした。そこでベル坊は葵のほうへ行きたがり、両手を延ばした。なので男鹿は葵にベル坊を手渡してやる。そのベル坊を胸に抱きながら葵は微笑む。
「ほんっとにオメーは邦枝好きな」
「まだまだ甘えん坊だもんね」
「アー、ダー」
 忘れかけてた触れたいという思いが、またムズムズと生まれてきて男鹿の気持ちをくすぐる。今度は葵とベル坊もろとも一緒に後ろから抱き締める。今度は葵も文句はいわなかった。こんなだからみんなから目撃されまくっているのだ。今の所、彼らの目に入る場所に人影はないけれど。こうして触れ合ったり、抱き合ったりしてるだけで心はほんわかと満たされていくのが分かる。だから、いたずら心みたいなこのやらしい気持ちは許してほしいと思う。
「…っ、だ、め…。男鹿」
 葵の耳朶をやわく食みながら首筋に吐息をわざと吹きかけると、体全体でヒクリと応える。制服の上からだが胸を揉む。もう乳首は固くしこっているだろう。それを裏付けるみたいにすでに葵の体温は上昇している。男鹿から逃げようと、腰が浮いているがまるでそれが誘っているみたいにしか見えない。足の付け根に手を伸ばそうとすると、そこに手が届く前にはっしと腕を掴まれた。結構な力。男鹿は葵の顔を見た。もう葵の目は濡れていた。気持ちよくて堪らなくなって、葵はすぐに目まで真っ赤にさせる。
「今日、…アレなの」
「……………」
 って言われても。この俺の行き場のない悶々としたこの思いはどこにやればいいのか。男鹿は頷いたけれど、納得はまったくできなかった。だからとりあえず離れようとはしない。あそこには触らないけど、足を撫でるまでで止めておく。なんとか気持ちを落ち着かせようと、たまにベル坊にもわざと触る。
「これってベル坊の教育に悪ぃん?」
「……今さら、そんなこと言わないでよ」
「魔王だから、普通に教育に悪ぃことがいんじゃねぇのかなって思って」
「都合いいことばっかりいって…」
 正当化してなければこうしていることも、下手をすれば犯罪みたいにいわれてしまうのだ。今日もイチャイチャしながら、二人と魔王の赤ん坊とで黄昏を眺めてから名残惜しくも帰宅した。



 帰って楽なところは、ヒルダがベル坊の面倒を見てくれるところだ。ヒルダがまた文句を言う。ヒルダはベル坊と一緒にいたくてしようがないので、帰りが遅いと小言をいう。
「俺の好きにしたっていいだろ」
「私が坊っちゃまと一緒におれないのが寂しいのだ。まったく、貴様の魔力はここのところあまり容体がよくないようであるし…」
「はあ? 意味わかんね〜し」
「私に分かるからそれでいい」
 ヒルダはベル坊を愛おしそうに見つめて、抱いたり撫でたりしてその体を、体全体を使って確かめる。いつもの帰宅後の儀式のようなものだ。実質母親役なのだから当たり前なのだろうが。ヒルダがベル坊を抱きながらチュッとやった。部屋の中の空気が変わる。張り詰めたような冷気にも似た空気が、徐々に光が差し晴れるように。淀んだ魔力が抜き出されるようなこの感覚。
「あ…れ……? もしかして」
 ヒルダが顔を上げた時、悟った。あ、これヒルダじゃなくてひるだじゃね? 記憶喪失バージョンのヒルダを、勝手に男鹿は頭の中で「ひるだ」とひらがな読みで呼んでいた。そしてひるだは、
「あ、たつみさん?」
 邪気のないひるだの笑みは、まるで天使のようだ。あくまで悪魔だけど。



 まさかの展開になった。
 男鹿は言葉を失うしかなかった。ひるだはまだ自分は「たつみさんの妻」だと思っていて、それはまったくの勘違いであったことを、どうたしなめても覇気のない金髪の天使な悪魔は、涙でしか答えてくれなかった。一気に男鹿家の空気が冷え込んだ。こんなことになるだなんて思ってもみなかった。ヒルダと正反対の性格のひるだ。彼女を泣かせることはどうして心が痛む。男鹿辰巳は姉の美咲と母親から超強力なビンタとキックを頂戴した。そのあとで二人で話をしようということになり、ベル坊を寝かしつけてから男鹿は、ひるだと再び向かい合うことになった。
 とはいっても、先に説明したとおりのことを繰り返すしかない。夫婦という話は、家族が勝手に勘違いしたもので、それを記憶がなくなったひるだは鵜呑みにした。そしてベル坊とのキスで元のヒルダに戻ることも離した。
「たつみさんは、迷惑だったん…ですね」
「…迷惑っつーか、や、でも。俺としては、料理も美味いし、暴力ふるわねぇし……」
 ハッキリ言うといつものヒルダよりもひるだの存在は有難かった。可愛いし。優しいし、いい子だし、悪魔じゃないし。ただ、夫婦なんちゃらとなるのが困るだけで。それ以外はひるだがいい。ヒルダはムカつくし、暴力女だし、クソニートだのドブ男だのと罵るし、魔界から余計なオモチャ持ってくるし、何かあればすぐ坊っちゃまどうのというし…。そういう意味では本当にひるだでいてほしいと思うのだが、ここで納得さえしてもらえばいいのだと気づく。
「ひるだのことは、迷惑じゃねえ。ただ、俺たちが夫婦だってのが、違うってだけで」
「じゃあ、私はここにいても、いいんでしょうか…?」
「そりゃそーだろ。ベル坊もいんだからよ」
 ベル坊の人間界での母親はやっぱりヒルダで、だから葵はどちらかといえば姉のような存在になるのだろうか。母親も姉も、子供にとっては絶対的な何かだ。男鹿は息子であり弟という立場だから心から理解できる。どちらもベル坊にとっては大事なものなのだ。ベル坊にとっては男鹿は父親で、ヒルダが母親代わり。きっと葵は姉で、その姉である葵と父親の男鹿が結ばれたから人間界的に見れば「あれっ?」となるところだけど、本当の父母ではない以上、仕方のないことだとしか言いようがない。ベル坊が魔王であるからには、どんな関係であっても離れるわけにはいかないのだ。
「たつみさん。私……」
 涙を拭いてまだ赤い目をしたままのひるだが男鹿に近寄ってきて、そのまま抱きつくみたいに寄り添った。男鹿の両手を奪うみたいに握って、ひたりと体を寄せ合う。男鹿の体に身を寄せたまま彼の鼓動を、耳を寄せて聴く。男鹿辰巳は今生きていて、ひるだと共に身を寄せ合っている。男鹿の鼓動と呼吸がひるだの胸に染み入る。それをもっと感じたくてひるだは目を閉じた。夫と信じて疑わない、若くても父親らしくて芯の強い人。
「たつみさんのこと、お慕いし続けていても、よいのでしょうか……?」
 視線を上げた先にある男鹿の表情は、驚きのもの。どう答えていいのか分からずに言葉を失っている。それとも、言葉の意味自体を理解し切れていないのかもしれない。言いづらいことを言わせた詫びは、これでよいのかも分からずにひるだは男鹿を見上げてまた、
「私は、たつみさんが、好きです」
 潤む瞳と紅潮した頬が艶っぽく、男鹿の名を呼ぶ。これは悪魔の呪詛だ。恋の病に浮かされた目はここまで、相手を映しながらも揺らめくんだろうか。その揺らぎはあなたが好きと何度もいうみたいな、包み込むような波紋。触れ合った部分がビリビリとひりつくみたいに存在感を伴って、この一瞬を先延ばしにしたいと、狂った信号を送ってくる。男鹿はひるだのことは嫌いじゃない。それは仲間としての意味であって、恋愛感情なんてない。だが、このひるだの目は違う。言葉としての好きにはたくさんの意味があって、だから、それだけにややこしい。面倒だ。分かりづらい。でも、ひるだの好きは──、
「…んっ」
 体全体でのしかかってくるような、ひるだからの抱擁。触れ合った唇どうしがこの時を待っていたとばかりに深く触れ合う。一人と一人じゃなくて、ただの一人になりたいとばかりに。そして、一度触れてしまえば分かる。この時を永遠にしたいと思うほどに甘い痺れを伴って、離れたくないと思わせる。そう、最初に葵と初めてキスした時のような、うねるような快感。
 この女は天使じゃない。真っ白で真っ直ぐな悪魔だ。


14.09.17

ようやく展開が進みました。
男鹿×葵だと言ってたじゃねーか!と仰る方もいらっしゃるかもしれません。
いやまぁそうなんだけどね!でも最初からヒルダは絡むと思ってましたし。遅れただけで。
まぁ男鹿の男心をしばらく見てもらう感じになると思います。女心はみなさま方がお分かりになられる方が多いかと思いますので、そこまで語らないかも、ですw

そういばひるだは初書きである。
え?あれ、なんてエロ天使?w

これで男鹿は嫌いだとみなさんが言わなきゃいいんだけど、下半身の生き物であることは認めてあげようぜw



関係ないのだが、このシリーズも長いもんで前に書いた内容忘れて8くらいから斜め読みしました。…初エッチ終わってたのも覚えてないとかさぁw どんだけ書くときしか考えないんだよって感じだww 書いてる奴はこんなもんなんですよねー……

では、ひるだ編ですー。
まだよろー。深海にては終わりを考えてないので気長ですよん。。
2014/09/17 11:46:39