ぜろなな


 怖い。いつもは思わない、忘れられた想いに、ふと朝目覚める時にとらわれる。蜘蛛の糸に絡め取られるみたいに昔の記憶が思い出される。びくり、身体が震えた。バカみたいだと自分自身で思うのだけれど、どうにもならないし、どうしようもない。急に怖くなって、そして震えるのだ。
 寧々の記憶はいつも闇の中にあるような気がする。本当のところは時間などは問題ではなかった。心の暗さが闇と映ったのだろうが。その中で浮かぶ男の姿、熱い吐息、その後に続く甘い感触からの、身を震わせるような痛み。そして、傷み。暴力はそこまでじゃない。だが、拒否ができないことが怖かった。そう、拒否ができないことが怖かったのだ。好きだから、拒否できないなどと、説明して分かってもらえることではないと、今でも寧々は思っている。
 怖いと思う行為に、どうしてか懐かしさと甘い疼きも感じる、女の性がただ恨めしい。嫌だと感じながらも、時にこのまま誰かが…と思ってしまうこともある。だが、最終的に寧々の心身を支配するのは恐怖だ。彼の手が、胸を撫でる時、舐め回す時、確かに感じている。気持ちいいものだと快楽を感じている。けれど、怖さがそれを失わせる。すべてを忘れる日がくるのだろうか。恐怖を、安心が塗り替える日などくるのだろうか。見えない不安が募って、時に痛みを伴い涙を流す。人知れず、どうして良い思い出に縋れないのかと、自己嫌悪に陥る。どうして悪い思い出に、縋らなくてはならないのだろうか。悪いことは過去にしまい込みたいのに。身体が、心がそれを忘れさせてくれない。
 こんな思いではきっと、これからも幸せになれないのではないかと、寧々は感じてしまう。だが、神崎の好意は甘えたくなるくらい寧々のことを理解してくれていたことで。別れを告げるにはあまりに悲しいから、キツイ言葉を吐きながらも、寧々はデートの約束を楽しみにしてしまうんだろう。
 恐怖を少しずつ忘れさせてくれるのは、間違いなく神崎の存在だった。悪夢の中から寧々が起床して、やわやわと身体中を這い回る手の懐かしさを振り払ってくれるのは、いつも神崎の不器用な呼び声だったり、頭に浮かんだ仏頂面だったりするからだ。それを思い出すと、少しずつ過去の自分から、進んでいけるような気がする。もちろん気休めかもしれないけれど、それでもよかった。
 近いうちに、寧々は神崎と結ばれるだろう。付き合い出してからしばらく経っている。お泊まりまでしてまだ肉体関係がハンパだなんて聞いたら、仲間たちはたまげるだろう。事情を知るものたちは複雑な顔をして困ってしまうだろうけれど。すぐには無理だといったけれど、そろそろ気持ちを解きほぐしてやらないと、お互いがつらい時期にさしかかっているかもしれない。そもそも、寧々は結婚までバージンを守れなどという考え自体が、とても古いものだとしか思えない。身体の相性は大事な要素だと思うし、裸の付き合いは言葉の少ないコミュニケーションだと思っているからだ。何より、寧々自身少なくとも手を握ったり、肩を抱いたり、キスをしたりすることは好きだ。包み込んでほしいと願うし、包んでやりたいとも思う。
 どうすればあの怖いと思ってしまう気持ちと決別できるんだろうか。自分の気持ちのはずなのに、自分でないみたいだ。心と身体がばらばらになったような、そんな気分。冷えた自分の身体を撫でながら、寧々はゆっくりと身体を起こした。怖いのに、あの触れられる感触に身悶えてるだなんて、きっとこの身体はおかしいのだ。こんな気持ちをどこかに置いて去りたい。無性に神崎に会いたくてたまらなくなった。寧々は枕元のケータイを引っ掴んで、すぐにコールした。もちろん相手は神崎だ。まだ時間は朝の6時半、こんな早朝に起きているとは思わないが、たまにはこんなワガママも聞いてもらおう。
 コール時間は30秒近く。いかにも寝起きみたいな声で神崎が、「何だよ…朝っぱらから」と避難めいたことを言ってくるので、寧々はカチンときた。はっきり言うと、ただの八つ当たりに近い。「バカ。」と短く文句をいう。顔を見ればバカだのアホだのと言い合っている仲なので効き目はないだろうけど。神崎はまだ脳みそが覚醒しない。
「はぁ?」どうにも間の抜けた声を出している。それはそうだろう、急に電話してきたと思えば朝は早いしバカと言われるしで。何もしていないのは明白なのに、だ。
「会いたくなったから電話したのに。バカ」
 ストレートな言葉が一番突き刺さるのは分かっている。なぜなら、どちらも学がないからだ。回りくどい駆け引きは理解できなくてイライラする。好きなら好きといえばいい。それは、付き合う前にさんざん学んだ。もちろん態度で示すのもロマンチックでいい。だが電話やメールではストレートさがないと伝わらない。
「来てよ」
「……っあ、今日、日曜だっけ。わかった、…いく」
 神崎がもそもそと動いている衣擦れみたいな音が受話器を通して聞こえる。最近のケータイは不気味なくらい音がクリアだ。ちなみに、今日は祝日であって日曜ではないけど、神崎のようなヤクザ屋の若頭には同じことだ。とりあえず、想いが伝わったからよかった。一緒にいたいときにいれる人がいて、心細い日にもとてもありがたいし助かるし救われる。闇を照らす光みたいに、ヤクザなのに、でも寧々の心はきっと。
「早めに来なよ」
「おう、メシは?」
「用意しとく」
 ようするに早くこいということだ。神崎は電話を耳と頬に挟みながらも服を脱ぎ始めていた。顔洗って歯を磨いてからすぐ向かおうと思いながら、通話を切った。想う人がいるということは不思議なことだ。電話がこんなにも嬉しくて、そしてとても名残惜しい。休みくらいは一緒にいたい。どんな関係の恋人たちもきっと同じなのだろう。冷たい水で顔を洗うと目がシャキッと覚める。さあ、もうすぐ楽しい休日の一幕の幕開けだ。



 二人きりになることは、身の危険もあることだと分かっていた。けれど、時によっては恐怖なんて感じなかった。きっと時間をかけていればこんな気持ちは薄れてうすれて、いずれは消えてなくなるのだろう。ただ、それがどのくらいかかるか分からないから「闇」と呼んでしまうのだ。
 寧々もこれからそう時を置かずして現れる神崎を迎えるために立ち上がった。身支度と食事の準備をしなければならない。伸びた髪を適当に結わえて洗顔、すぐトーストとスープ、あとはサラダでもあればいいだろう。パンをトースターに入れて温めるだけにしておく。野菜を水で湿らせ、それを手でちぎる。刃物を入れるよりはちぎったほうが美味いのだ。刃物は野菜の成分を壊し、味を損なわせるのだ。料理番組の受け売りだが現実らしいので、寧々はサラダ程度なら包丁は使わないようにしている。どうせなら美味しく食べたいからだ。あとはベーコンエッグとワカメスープにしようか、辺りにある材料からそう当たりをつけ準備をする。ちなみに、寧々は料理が下手だ。だが、神崎はそれでも美味しそうに食べてくれる。それが嬉しくて、最近は自炊の回数も増えた。自分と、自分の家族以外の誰かから必要とされることが、単に嬉しい。間違いなく浮かれている、と分かってはいる。だが、こんな気持ちになるのは久し振りなのだ。少しくらい浮かれてしまっても許されるだろう。
 それから数十分ほど経った頃に、寧々のアパートの安っぽいチャイムが鳴った。神崎が到着したのだ。一応、女の一人暮らしなので鍵は二重にかけている。神崎なら面倒なので開けてこいと言いたかったが、トースターのタイマーを回しながら玄関にいった。念のため覗き穴から覗くと、あくびをしているまぬけ面の神崎の姿が映る。
「おはよ」
 寧々は開けながら、わざと気のない振りをした。そんなことは神崎も慣れている。おう、と短く返事しながら勝手知ったる様子で上がる。さすがに玄関先でオドオドしなくなったな、と寧々は懐かしく思う。ほとんど女と付き合ったのは初めてに近いらしい神崎は、最初は寧々の家に入るだけでだいぶまごついていた。どれだけウブなんだよとからかったものだ。
「ご飯、もう少しでできるからまってて」
「悪ぃな。腹減ったぁ〜」
 すぐに香ってくるトーストの匂いに笑みを浮かべる。寧々の家で食べることはそんなに多くはないが、やはり心踊るものだ。まだ来ない主食の前に神崎の前のテーブルにはスープ、サラダ、ベーコンエッグが並べられて。付き合い始めの頃よりもずいぶん美味そうになった料理たちに賞賛を送った。それに素直に寧々は頷く。もちろん寧々の料理の先生は城山だったりするのだが。あのむさい男に料理を教わるのがキツ目の美女という図式には笑ってしまう。出てきたパンを齧りながら二人で食事をした。まだ朝の8時前だ。とても健康的な日を過ごせそうだ。腹が満たされたので腹をさすりながら神崎はソファに寄り掛かる。洗い物はしないで流しに置いてくるだけの片付けは後回し方式。なので気になっていたことを神崎はようやく聞いた。
「どうしたよ?今日」
 急に呼び出されたのだ。訝しがるのが人というものだろう。だが、寧々の様子はいつもより優しいくらいで、朝食の様子で忙しそうでもあったのでなかなか聞けずにいた。何かを聞くには満腹になってからが好ましいだろうと思ったのだ。寧々はいつもの調子で、見下すみたいな目を神崎へとまっすぐに向けた。悪夢の流れで呼んでしまったなどとはなかなか言えないし、伝わりにくいものだ。
「なんていうのかな…」
 寧々は言葉にするのが躊躇われた。夢を見て、怖くなって、寂しくなって、不安になって。楽しくなりたかった。不安を消し去りたかった。それだけのために呼んだ。あまりに子供染みていて言葉にできない。だから、
「会いたいからこいって、いったじゃん」
「…何かあったのかと思った。ヨカッタ」
 飾ることない神崎の言葉が水と地表みたいに染み込んで行く。だから寧々もそのうちに素直になっていける。勉強ができないという意味でバカだけれど、生きにくいほどに素直で、それが伝染していく様はとても気持ちいい。寧々もいつもよりももっとバカになっていける。それがどうしてだかここちよかった。神崎は、願わずともそれをくれる人。
「実はね、ヤな夢見たの」
 でも、神崎を思い出して、安心が広がって。会えば大丈夫って思えたから。


 その日は暑くなるまで、抱き合いながら朝早かったから本当に眠くて昼近くまで一緒に眠りこけた。無理に入り込んでこない神崎に、そのうちお返しをしてやりたいと思うのだが、なかなかうまくいかずにいるが、神崎と寧々とのデコボコ具合がうまくいく秘訣なのかもしれない。その日は、悪夢なんて見なかった。隣で眠る男のヒゲのザラザラを触ってぼんやりする休みなんて、最高だと思うのだった。鼻を摘まんでイビキをかかせながら、その壊れたムードの中で触れるだけのキスをした。
 少しずつ忘れるから、もうすこしまっていて。そんなメッセージを込めながら。


14.07.28

久々にこっちも更新してみました
ただ、読み直してないし長いシリーズなので…ね(笑)
ただの寧々の想いみたいなやつです。意外と寧々の気持ちは語ってなかったなぁと思ったのと、最近私が…悪い夢をみたり、とかいうのがあったんですよ。
嫌な思い出だけじゃないはずで、むしろいい話じゃないか。と思ってはいるんだけど、体が冷たくなったり強張ったりして、踏み込めない気持ちというのがありまして…
その辺を小説に絡めてみた次第です


またボチボチネタがあるときに書いていきます。
プロローグに向かって書いてるので、最終的にはつながる(順番はバラバラということで、深海にての感じかと)ようになるはず、なんですけどねぇ(笑)まぁ書いてる人がテキトーなんで、どこまで行けるかなって感じですね。
いい加減長いもんねこの寧々と大学生だった?神崎のシリーズは。神崎が大学にいくなんてのを書いてるのはさすがに見たことがないですね。今時のヤクザをバカにしちゃいかんw
2014/07/28 14:01:33