■前述

 桃のように美しい女がこの世にはいる。
 彼女の絹糸の如き黒い髪は俺なぞ触れるのも烏滸がましく、そこから覗く小さく白い耳などまるで赤ん坊のように汚れを知らない。綺麗な並びの歯の中にちらりと覗く赤い舌は幼くも愛おしく狂おしい。出会った瞬間心臓を握って絞って絡め取るようなそんな女に、俺は生涯先にも後にも彼女を除いて会わなかった。
 俺は彼女とのことをいかにも物語めかせたいので出逢いの経緯は省くこととする。だが俺と彼女が出逢えたこの世界には、感謝と敬礼をば。
 それまで、この世界で争いを起こすのはこれまで金か土地か見栄と相場が決まっていたものだが、彼女に関して言えば、その美貌故に国の存亡を揺るがすことが可能ではないかと思われる。そうなる前に争いの種、詰まるところの彼女を引き取った俺はといえばただの凡人なのだから、世界などというものはわからない。
 彼女が歩いた後には牡丹が咲き乱れ、吐息は新緑を悩ましく揺らし、ゆるりと余裕を孕んだ目元は世界のすべてを柔らかく穏やかにし、その奥でぎらつく炎のような瞳は目が合うものを一瞬にして焼き尽くす。実際に心のすべてを焼き尽くされた俺が言うのだから間違いはない。いいや俺だけではないだろう、俺の父から母兄弟親族に至るまで、彼女の息吹が掛かっていないものはいないのである。彼女の存在は我が家一つどころか末代に至るまであっと華やぐ影響を残していった。
 そんな彼女を生涯ひとり抱え込んだ俺であるが、せめてこの拙い俺の文から精々努力して彼女のかぐわしき美しさを汲み取っていただければ世界は少し美しくなるであろうと筆を執った次第である。彼女本人を差し出してやることは出来ない俺の、世界へのせめてもの報いだ。
 そんなことをつらつらと語るべき前述として、やはり俺は彼女の麗しさを述べた。


 ■答え

 俺の麗しい彼女はある日、薄く形のいい唇で、こう言った。
「女というものにとって、恋愛は必ずしもしなければならないものではありませんが、婚姻は必ずしもしなければならないものでございます。故に私は貴方様と結ばれるのです」
 それを聞いた時、俺はこの上なく歓喜したものである。
 なぜなら、恋愛などという技術や思考を共にするものを元として、俺は彼女を引きつけることなどできないだろうという自信が胸一杯にあったためだ。駆け引き上手であるとか魅力に溢れているだとかそんなことは塵ほどもなく、寧ろ俺は莫迦野郎に分類されるべき男であった。
 ありがとうありがとうと彼女の両手を握りしめた時、俺は彼女の白くつるりとした頬が引きつるのを見たが、知らぬふりをした。
 ともかく、彼女は世論を見下すでも追いかけるでもなく、そっと離れたところからその大きな瞳で見つめ、己がどうすべきかをきちんと理解するとてつもなく聡い女であった。自分の意思など無関係に、家のためになることをするのが自分の役割だと知っている彼女を俺はとてつもなく愛しく思い、そしてまた、哀れんだものである。


 ■問い

 彼女は多くの思念や疑問を持つ女だった。これはこういうものであるのだから、という言い逃れが彼女には通用しないのである。
 例えば「女は我の言う事を只口を噤んで聞いていろ」と男が言えば、その時は微笑んで頭を垂れるのだが、その場を離れ俺と二人きりになると、途端顔をさっと冷たくして「どうしてですか」などと言う。
「女は男に黙って従うものであるから」
 等、俺がしどろもどろになって答えると、彼女はますます、
「どうしてですか」
 と続ける。俺はすっかり困ってしまうのが常だった。
「戦国の世で、男は強かった」と言えば「今は戦国ではございません」と返ってくるし、「力に置いて男の方が上であるから」と言えば「だからなんだって言うんですか」と言われ、「世の役に立つ」と続ければ「力だけで渡っていける世の中などありません」と切り捨てられる。
 いよいよ詰まってしまった俺が、
「そういうふうであるように誰かが定めたんだ。その誰かが誰であるかは俺にはわからない」
 と言うと、彼女はなんだかすっきりしたように頷いて「その誰か様は、貴方様ですね」等と言うのだ。すっかり彼女にへりくだっている俺のどこが、と心中で反論をすれば、彼女は美しい顔をにっこり歪ませ、
「こういうものであるから、と言ってそこで思考を停止している貴方様の兄弟方がこの世にはたくさんいらっしゃって、そんな方々が作るこの世そのものが、こういうもの、になってしまったんですね」
 と言うのである。
 彼女についての記憶は思い出せないほどに多く残っているが、このことだけはなにより強く覚えている。それほどまでに彼女の内側は綺麗だったのだと解釈していただきたい。
 その時俺は雷に打たれたようにしばらく放心した。疑念を抱くことすら罪とされる中で、彼女は疑問を抱き、過程と答えをしっかりと見出し、その過程を書いた紙切れをそっと引き出しに仕舞っていたのだ。教えられた質問と答えがどうしてそう結びつくのかを学んだ上で、求められた答えだけをきちんと書くような女だった。
「女というものにとって」という考えも、いつか昔に彼女は自問と自答を繰り返し、過程を知った上で、そういうふうにした方がいいのだろうと飲み込んだ結果であるのだろう。


 ■結論

 彼女の相貌の素晴らしさを比喩すべきものは無数にあるのだが、内面を表すとすれば、きっと雲に例えられるべきであろう。空をふよんふよんと漂いながら風に乗ってあちらこちら、求められるべきところへ流れる。商人には疎まれると理解していながらも、農民のためには雨を降らす。彼女はそんな女であった。
「なら貴方様も雲でしょうに」
 そんなことを戯れに話してみると、彼女はそう笑ったものである。
 父の示す方向へ向けてただただ流れていくだけの俺は、雲というよりかは犬のようであると思ったが、それを口に出そうものなら彼女がいやそうな顔をすることはわかっていたので、そっと口を噤んだ。きっと俺がもしそんなことを口走ろうものなら、彼女は普段柔らかな眦をきっと鋭くして怒ったのであろう。
「それが今この世界が求めていることなら仕方がないのでしょう」
 こういうものなのであるから、と彼女は叱る。
 雲は風に逆らえないように、俺も彼女には逆らえない。彼女がその甘き声で発した言葉はすべて正解となる気がするのだ。なので彼女は、生涯俺に愛の言葉を囁くことなどはなかった。


 ■悩ましき乙女の

 とある夜、眠り際になって彼女はそっと俺に囁いたことがある。
「私のせいで貴方様が疑念を抱くようになったのなら、それはとても悲しいことです。うっかりとそれをお外に出してしまわれたら、貴方様は家長様にお裁きを頂きます」
 彼女はいつでも先を見通す賢い女であったが故に、こうして苦しむ夜が時たまあった。俺はそんな彼女を柔らかく抱いてやりたいものだったが、それこそ彼女の信頼を失うものであるような気がしていた。
「君の子は美しく育つさ」
 俺が一言そう言えば、彼女はさらりとした長い髪の中に芸術品のように美しい曲線の顎を埋め、なにも言わず下がっていく。
 俺も彼女も、この家の一員であり、過程であった。
 彼女が美しい子を産み、その美しい子が子を産み、やがて彼女が死にゆき、俺も父もいなくなっても、同じような人間たちがこの家系を潤していく。それまで俺と彼女は求められるがままの結果を出すことしか有り得なかった。そういうものであった。


 ■息を吐いて吸い

 やがて彼女は俺との子を授かった。まさか彼女の絶世の麗しさに俺なぞの血が混じったことによって不利益をもたらしたらどう彼女に謝罪すべきかと悩んだが、この世に産み落とされたのはそれはそれは桃のように愛らしい子であった。
「よかった」
 彼女はその時、始めて見る涙を流して喜んだ。俺は胸が詰まってなにも言えなくなったが、彼女が天使のような微笑みを向けてくれて、許されたような気になったものである。
 素晴らしい嫁に素晴らしい娘だと褒め称えられ、彼女は泣き喚いた。

 ■平行線上

 娘はそれはもう美しくふくよかに育ち、彼女は同じように美しい娘を何人と生んでいった。まるで新しく土地を見つけた開拓者のように、家々は喜んだものである。
 その中で静かに年を重ねていく彼女はといえば、段々とあの秘めたる毒舌も減り、にっこり笑むこともなくなっていき、やがてはいつかにこの家へ訪れた美しい娘などいなくなってしまったかのように、彼女は老いていった。「繁栄にお力添え出来てなによりでございます」と言う傍ら、そっと「女とはそういう存在でありますから」と俺に口添えをする彼女は、いつまでも美しく見えていた。


 ■溢れ出す

 子を産めない年となると、彼女は家の中でいないものとして扱われた。彼女がそれほど老いているということは俺も同様であり、扱いもまた、彼女と同じだった。俺は彼女と添い遂げられることを誇りに思ったものだし、そうなってようやく、はじめて彼女と二人きりで話をしたものだった。
「女とはなんでありましょうか」
 やがて彼女はぽつりぽつりとそのようなことを言い、俺はその頃にはもう彼女の思考する癖にも慣れきっていたもので、とんとんとやりとりをすることが嬉しくすらあった。
「子を産めること」
 俺がそう答えると、彼女は楽しそうに「それだけですか」と訊く。「家系を繁栄させていく」と俺が言い「それで?」と彼女が問う。何度か繰り返すうちにわかったことであったが、このような彼女の疑問にもとより答えなどないのだった。自由など許されない中で、思考することのみが彼女にとっての思考であったし、嗜好であったのだ。
「俺のそばにいてくれる」
 切り返しがやみ「なんですかそれは」と彼女が戸惑いの声を出すと、俺は満ち足りた気分になったものだった。
「俺にとっての女は君でしかなかったから」
 確か俺はそんなことを言った気がするのだ。そうしたら彼女は「変な人」と笑い、俺は「君ほどじゃあない」と返したように思う。そういうふうに記憶をしているが、齟齬が生じていたならば申し訳ないと言いたいところであるが、実際俺には訂正箇所があったとしてもなんの問題もないのだ。なので、俺が幸せな気分で筆を置くため、この項のどこからどこまでが真実であるかなど、俺は敢えて述べずに終了したいと思う。


 ■後述

 以上が、俺と彼女の短き生涯のすべてである。子を作るために産まれた母や祖母がおり、その子である俺が子を作るための子を作っていったくだらない余興話にもならぬ戯れ言であった。それでも俺の人生は、良い一生であったと思いたい次第だ。
 彼女の産んだ子たちはいつかの彼女のように非常に美しく育ち、みずみずしい娘となってまた嫁いでいった。枝から広がって生い茂る葉の如くこの先どこまで広がっていくのか見届けたいところであるが、人である以上終いがあるのは仕方のないことだった。彼女だって自分が消費されてまで繁栄させた家のこの先は見たかったことであろう。
 さて、ここで一つ俺は自分のついた嘘を暴こうと思う。
 冒頭、俺は「桃のように美しい女がこの世にはいる」と述べたが、これは嘘である。「桃のように美しい女がこの世にはいた」のだ。
 過去の女がそうであったように、彼女もまた子を作るという使命を終え、死んでいった。
 彼女の産んだ娘もそれはとても美しかったが、妻贔屓と言われても良し、俺にとって桃のように美しい女は彼女でしかない。
 どうせ俺も過程の一人、終わりゆくせめてもの間に彼女が引き出しに詰めていた紙切れを貼り合わせる程度の働きは残してみたかったというわけだった。ここに残るのは俺の思考でなく、彼女の思考である。いずれに彼女と同じ疑念を持った者がいて、その者が俺の筆の上からその思考を読み取って共感してくれたら彼女はぱっと花開くような笑顔を見せてくれるであろう。
 以上、彼女の思考と、俺の惚気であった。
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