仕事から帰ってきたとき、俺のからだはとてつもなく汚いように思う。他人のにおいが、染みついてしまっているから。
 だから、家へ帰るとまず、真っ先にシャワーを浴びる。数時間前にふたりが入ったばかりの浴室にはふたりの匂いと温度が漂っていて、夜話の趣味で統一された洗面具すらも愛おしい。
 外のにおいを流し終えて脱衣所へ出ると、脱ぎ捨てたスーツの代わりに、スウェットが用意されていた。
「おかえり」
 ダイニングの寒々しい電球の下で雑誌を広げているのは季佐。その背後ではしっかりと俺のスーツがハンガーにかけられていた。
「いつもサンキュ」
「そっちこそ。僕たちのために毎日お疲れ」
 ひらりとページの舞う音。季佐と俺の呼吸に混じって、閉じたカーテンの隙間から、しとしとと静かな音が聞こえていた。
「やっぱ降ってきたか。俺、ギリギリ」
「濡れなくてよかったね。傘持ってかなかったでしょ。夜話怒ってたよ。雨降るかもしれないから折りたたみ持っていけって言ったのに持っていかなかった、って」
「夜話は?」
「とっくにぐっすり。僕もそろそろ寝る」
 ぱたり、と季佐が雑誌を閉じる。その表紙を見て、苦笑してしまった。
 ファッション誌などを季佐が読むわけはないと思っていたが、まさか、子育て本とまでは予想していなかった。せめて料理本くらいであってほしかったのだけれど。
 季佐に続いて寝室へ入る。
 今日の香りは、オレンジだった。
 仄かな橙色の薄明かりと、小さく小さく流れるインストゥルメンタル。焚かれたアロマは日替わり。それもこれも、キングサイズのベッドで眠るひとりの少女のためだけに。
 ひとりで寝るには広すぎるベッドの、真ん中に眠る、夜話。俺や季佐と同じシャンプーの匂いを腰にまで伸びる髪から漂わせている。その髪先に指を絡めて鼻に押しつける。と、季佐にその手を叩き落とされた。
「きもいことしないでよ。夜話が汚れる」
「お前らふたりを養うために身を粉にして働いてきた俺に対して、なんつー……」
「それ言うなら僕だって学生の合間に家事と子育てしてるんだけど?」
 季佐とはたった一つしか変わらない歳だというのに、子育てという言葉がしっくり当てはまってしまうのが夜話という女だ。
「……ん?」
 からだを丸めて眠る夜話の手中に、輝くなにかを見つけて目を凝らす。
「なんだこれ。フォーク……?」
「ああ。寝る前にケーキ食べててさ、なんとか歯磨きまではやったんだけど。僕が。どうしてもそれ離さなくて。最後の一口は残しておいてあんたにあげたかったんだって」
「で、問題の一口は?」
「僕が食べた」
 だろうなあ、と思う。薄暗い部屋の中ですらわかるほど、季佐は不機嫌面をしていた。
 夜話を挟んで、季佐と俺がベッドに潜り込む。夜話の腰にはしっかりと季佐の腕が回されてしまったので、俺は子供のように小さなその頭部を抱え込んだ。
 鼻先を漂う香りは、生活を共にしている俺となにも変わらないはずなのだけれど。
 匂いも、温度も、愛おしくてたまらない。
「ロリコン」
 季佐が低くそう言った。俺は夜話を起こさないほどくぐもった声で、少しだけ笑った。
 なにをいまさら。 
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