4月10日

 あいがひなせの前に現れて、四日が経った。未だ出て行く気配はない。
 その日、ひなせはバイト終わりにスーパーへ立ち寄っていて、ふらふらと菓子コーナーを見ていた。あいのためだ。
 今までにした会話からして、あいは決して菓子類が嫌いじゃない。それなのに今の今まで自分のためのものは飴玉一つとして買ってきたことがなかった。
 それに、あいは断固としてひなせから金を受け取ろうとしない。
 何度も割り勘分を渡そうとしているが、押しつけるたび、数時間後にはひなせの財布に金が戻ってきているのだ。今のところ、割り勘分は一度もきちんと渡せていない。
 それならばひなせが買ってやろうと、無意味にスーパーをうろついている時。
「ひなせ?」
 声をかけてきたのは、ひなただった。仕事終わりなのか、気持ち、顔が薄汚れている。
 ひなせは大きく溜息をつき、眉間に皺を寄せた。ひなたの横には、秋野砂耶がいた。いかにも大学生然とした女だ。
 そしてひなせは、砂耶の顔を見ると否が応でも幼馴染みを連想する。
 しばらく、忘れられていたというのに。
「久しぶり、ひなせくん」
「ご無沙汰してます、砂耶さん」
「ひなせくん、おっきくなったね。ますますひなたに似てきた」
 ならどうして、あの女はひなせでなくひなたなのだろう。言いかけて、飲み込む。
 砂耶に罪はない。もちろんひなたにも、月乃にさえだ。ひなせが一人で過去に捕らわれて、雁字搦めになっているだけ。抜け出せないのは、ひなせ一人きり。
「そういえばさ、お前、なにしてんの?」
 ひなたが言う。
「見てわかんねえの。買い物」
「そうじゃなくてさ」
 ひなたの声は淡々としている。引け目を感じ、月乃のことで勝手に恨んでいるのはひなせだけだ。ひなたはひなせのことなどなんとも思っていない。
「最近お前、なんかあっただろ」
「ねえよ」
 素早く差し入れる。疑う隙など作らない。
「月乃が、お前の様子が変だっつってたけど」
「あいつからしたら、ひなた以外の男全員変なんだろ」
 後々考えれば、子供じみていたと思う。わざわざ砂耶の前でそんなことを言ったのだ。
「お前がそう思うなら、それでいいけど」
 だがひなたは、冷静にそう切り返すだけだった。
 会話が続く気配もなかったので、ひなせはその場を立ち去る。あいへの土産は、レジ付近にあった特売の板チョコにした。
 ひなせだけ、なのだろうか。
 過去のまま立ち止まって、勝手な劣等感を抱いて生きているのは。
 一人、そんな考えに耽りながら夜道を歩く。アパートへ帰ると、調節の利かない蛍光灯の過剰な光量がひなせの目を潰した。少し前まではなかった光だ。
「おかえり。バイトお疲れさま」
 そうしてそこに、あいがいる。ひなせが縋った存在。正体もわからない相手に、ひなせは幸せを求めたのだ。おかしいことだとはわかっている。
 あいはキッチンから玄関まで出てきて、ひなせが手にしていたレジ袋に目を止める。
「なにそれ。なんか買い足すものあった? 言ってくれればわたしが買いに行ったのに」
「……いや、お前への土産」
 小さな胸へ袋を押しつけ、部屋へ上がった。キッチンを覗く。ひなせがバイトから帰ってくる時間を計算してくれたのだろう、出来たての皿うどんが湯気を上げていた。
 ひなせの後ろで、袋の中身を見たあいが笑い声を漏らす。
「あっは、板チョコ。スーパーのだし」
「しかも特売。八十八円」
「皿うどん作ってやって見返りが八十八円! 割に合わねー」
 爆笑しながら、チョコを冷蔵庫に入れるあい。
「んだよ、文句あっか」
「ないない。八十八円で十分。ありがと、ひなせ」
「礼、そんだけか」
 口をついて出た本音に、ひなせ自身驚いた。あいは怪訝そうに首を傾ぐ。
「そんだけって……むしろそれ、わたしの台詞だけど。なに、ご不満?」
「ド不満。明治なめんなよ、お前」
「いや、明治じゃなくてひなせをなめてるだけ。どしたの、なんか変だよ、ひなせ」
 自分がおかしいことなど、ひなせが一番わかっている。
 ひなせはもっと大人だったはずだ。冷静で、無気力で、嘘つきで。どれだけ取り乱そうと、絶対に表には出さない自信があった。
 砂耶とひなたのせいだ、と思った。
「悪い、なんでもない。飯食おうぜ」
 逃げるように部屋着を取りに向かったひなせの手が、後ろから掴まれた。小さなあいの手はほんのりあたたかかく、きつく掴んだら折れそうなほど細かった。
「大丈夫だから。ここには今、わたししかいないから。なんでも言っていいんだよ。わたしには隠さないでいいの、ひなせ」
「……なんで」
「言ったでしょ、わたしはひなせを幸せにするためにいるんだよ。ひなせのためならなんでもしてあげる。なんでも、言って」
「じゃあ、あい」
「うん」
「そばにいてくれ」
「わかった」
 一切の迷いもなくあいは頷いた。繋いだ手の力を強くして、その小さな体で、ひなせの腕を包むようにして抱きしめる。
「大丈夫、ひなせ。わたしはいなくなったりしないよ。ひなせが願ってくれる限り、ずっと」
 そうか、と思った。
 今まで、ひなせからは人が離れていくばかりだった。父も母もひなたも月乃も。自分勝手にいなくなって、ひなたと月乃など、自分勝手に幸せになっているのだ。
 一人取り残されるのが怖い、なんて、あまりに子供じみていて。
 あの家に、父と母が消えたあの家に一人で残るのが怖かった。月乃がひなたを好いているという現実を、近くで見ているのが辛かった。ひなたと砂耶の幸せが、羨ましかった。
 誰かがそばにいてくれる幸せを、ひなせは望んだのだ。
 余ったほうの腕で、あいの頭を撫でた。こんなにも小さく脆いのに、ひなせの下らない我儘を必死に叶えようとしてくれている。
「ありがとな、あい」
「ううん」
「飯、食おうぜ。せっかくあったかいのが冷めちまう」
「うん」
 ひなせの中で、なにかが確実に変わってきている。変化を感じるなど、何年ぶりだろうか。
 でも、だからこそ――そろそろ、限界なのだ。
 あいに対して、無関心でいられるのには。

 4月11日

 その日は珍しくバイトがなく、学校から直接帰宅した。家に帰ると、なぜか、制服姿のあいがベッドの上に転がっていた。
「う、えっ? ひなせ!?」
 ひなせを見るなり、あいは慌てて起き上がる。
「おお、ただいま……お前、なんで制服着てんの? 今日も学校いなかったろ」
「ひなせこそ、なんでこんな早いの!? バイトは!」
「珍しくコンビニも居酒屋も休み。言わなかったか?」
「聞いてない!」
 制服を脱ぎ始める気配がしたので、気を遣って脱衣所に引っ込んでてやる。いいよ、と声がかかって、リビングへ戻った。
「俺も着替えるけど」
「どうぞ」
 慣れてきたことなので、あいの前で堂々と着替えるひなせ。さすがに下着まで脱ぐときは脱衣所でだが、シャツやズボン程度ならこの場で脱いでしまう。
「ていうか、お前が俺のシャツ着てっから最近俺の部屋着がねえんだよ……」
「洗濯物あんま溜まんないから、これ以上のローテは難しいよ」
「俺のを着んなっつんだよ」
 脱いだ制服をあいの顔に投げつける。文句を垂れつつも、ハンガーに掛けてくれた。
「お前、部屋着ねえの?」
「借りるつもりでいたから。外出着しか持ってきてないんだよね」
「今日暇だし、買いに行くなら付き合ってやるけど。自転車でちっと走ればユニクロあるぜ。そのまま外で飯食うなり買うなりしてもいいし」
「うーん……どうしよ」
「なに、外食やなの」
「そっちじゃなくて」
 自分の制服をボストンに詰め込むあい。
「部屋着、今買うのもなあって」
「まあ、季節的には微妙ではあるけど」
「いやいや、そうでもなくて。やっぱ夜は家で食べよ。わたしが作ったげる」
 今までとは違う、曖昧な誤魔化し方だった。冷蔵庫を覗き込むあいの肩を掴む。
「なあ、お前さ」
「……訊かないでよ」
「それだって本来、お前がお願いすることだよな。なんで優位みたいに言ってんだよ」
「じゃあ、お願いするから」
「ふざけんな。俺だってそろそろ、我慢の限界っつーのがあんだよ」
 あいを信用していないとは言わない。だが、積もりに積もるあいへの疑問と不信感が、あまりに多すぎるのだ。むしろ、信じたいのに、あいの頑なな態度がそれを許さない。
「ずっと訊いてるよな、俺。お前は誰だ、なにをしにきた、って」
「ねえ、ひなせ」
「なあ」
 顔を向けようとしないあいに焦れて、強引に振り向かせる。
 あいは泣きそうな顔をしていた。
「まだ……だめなの。お願い、訊かないで」
「……なんなんだよ……なんでだよ!」
「だって! ……だって、ひなせは」
 そっと目を逸らすあい。俯いたその表情は読み取れない。
「ひなせは、わたしのこと、好き?」
「……は」
「……やっぱり、まだだめだよ。本当に、本当に……お願いだから、今はまだ、やめて」
 開きっぱなしの冷蔵庫が鳴き喚く。冷蔵庫へと向き直ってしまったあいに、ひなせは額を押さえた。まったくもって、わけがわからなかった。
「そのうち、ちゃんと話すから……でも今は、まだだめ。もう少しだから。今ここで駄目になったら、今までのすべてが駄目になる。もう少しで、全部終わるから……その時までは、もう少しだけ、頑張らせて」
 あいの言うその時が、ひなせには、とてつもない未来に思えた。
 実際は、本当にすぐだったのだが。

 4月12日

 あいが来てから六日目。昨日の気まずさを引きずったまま、朝は訪れた。
「今日は、何時に帰ってくる?」
 そう問いかけるあいの声も、いくらか覇気がない。夜、とひなせは雑に答えた。見送りに玄関まで出てくれたあいを、振り返ることすらしなかった。
 ひなせの心中と反比例するかのように、空は晴れ渡っていた。
 授業は受けたり受けなかったりだった。サボる時は、朋と抜け出す。
 学校を終えると、直接バイトへ向かう。下らないミスを何度もするのが、ひなせには珍しかった。自分が私生活とバイトを割り切れる人間だと思っていただけに、ショックも大きい。
 バイトを終えると、時刻はすでに十時過ぎ。当たり前に、真っ暗だ。
 だから気付かなかった。
「ひなせ」
 バイト先である居酒屋から、少しだけ離れたところに月乃が立っていた。
「な……に、してんだ、お前……俺、ひなたじゃねえぞ」
「知ってるわよ。ひなせって言ったでしょ」
 制服のまま、月乃がひなせを待っていた。
 感動の再会は訪れなかった。約二年ぶりに聞いたひなせ宛の声は、想像していたより褪せて聞こえた。その感覚に、ひなせも眉を寄せる。
「バイト終わったの?」
「ああ、まあ」
「じゃあちょっと付き合ってちょうだい。話があるの」
 垂れ下がってくる髪を掻き上げる月乃の指から、男物のリングが消えていることに、ひなせは気付かない。
「話って……どこで」
「あんたんち」
「俺ん、ちは、ちょっと」
 見られてはならない女がいる。
「なに、なんか不都合でもあるの?」
「や、ちっと、汚すぎるっつーか」
「元々期待してないわよ、そんなの。ぐだぐだ言ってないで早くしなさい」
 これほど家に電話を引かなかったことを後悔した日はない。家に電話があったならば、あいに電話をして家から出てもらうこともできただろうに。
 連れだって歩いている間は、互いに無言だった。ひなせは解決策を必死に練っていたのだが、バイト先とひなせのアパートは目と鼻の距離。代案も思いつかぬまま、到着してしまった。
「はい、早く鍵出して、開けて、入れて」
 この傲慢さ。二年前からなにも変わっちゃいなかった。
「……いいけど。なに見ても大声だけは上げんなよ。近所迷惑んなるから」
「見たこともない生物が発生してない限りはきっと平気よ」
 もうどうにでもなれ、と扉を開く。目を閉じて、すべての判断を月乃に委ねる。
「言うほど汚くないじゃない。逆にびっくりよ」
「……あ?」
 目を開くと、部屋の中は暗闇だった。あいがいないのだ。
 慌てて電気をつけ、渡してある合鍵とボストンを確認する。幸いというべきか、鍵はきちんと持ち出されて、ボストンは部屋の隅に置いてあった。少し外出しているだけらしい。
 ほっとしている自分を、慌てて打ち消した。
 部屋を物色する月乃の目を盗み、紙に「迎えに行くからコンビニで待ってろ」と走り書きをしてドアの郵便受けに挟んだ。ボストンはベッドの下に蹴り込む。
 ようよう一段落して、ひなせも床に腰を降ろした。
「お茶も出ないのかしら、この部屋は」
「ゴキブリくらいしか出ねえよ。いいから座れ」
 直よりはマシだろうと、気休め程度のクッションを放る。月乃はそれを尻に敷いて、
「これ、ちゃんと洗ってあるの?」
「お前はほんと文句多いな……話ってのはそれか?」
「そうだって言ったら?」
「叩き出す」
 こんなやりとりはあいだけで十分だ、と言いかけた口を塞ぐ。
「まあ冗談よ。二年ぶりの再会で説教なんてしないわ、さすがの私も」
 はあ、と疲れた相槌しか打てない。もうしているようなものだろうが。
「じゃあ二年ぶりのお話ってなんすか」
「超ビッグニュース」
「へえ。なに」
 二年ぶりの疲労感に、つい言動もだれる。
「私、失恋したわ」
 耳を疑った。藤宮月乃に、失恋なんて言葉はまったくと言っていいほど似合わなかった。
「ひなたを振ったの」
 月乃は淡々と言ってみせる。そこには涙も怒りもない。
「彼女といるところを見てしまったのよ。でも振ったのは私」
 月乃の性格ならば、砂耶に嫌がらせをしてでもひなたを奪おうとするはずだった。どうして、という疑問がひなせの顔に表れていたのかもしれない。月乃は続けた。
「好きな人ができたの。ひなたよりずっと馬鹿で、性格悪くて、素行も悪くて、やる気がなくて、駄目人間で、どうしようもない出来損ない」
 胸がざわつく。
 まさか――。
 月乃の指が真っ直ぐに、ひなせを指した。
「ひなせのことが、好きなの」
「好き、って、お前」
「きっとずっと前から、私はあんたが好きだった。自分勝手に優しいひなたを振り回したいって思うのは、恋じゃなかったんだって、ようやく気付いたのよ」
「待て。いきなり、言うな。馬鹿なんだ、俺」
「知ってるわよ。ほんと、なんで、こんな馬鹿を」
 二年間の絶交が解けた直後の告白だ。とっくにひなせの要領はオーバーしている。
「自惚れたことを言うわよ。……ひなせ、私のこと、好きでしょう?」
 追い詰められている気分だった。あと数歩で、崖から落ちる。
「知ってるのよ。ずっとずーっと前から、私のことが好きだって。ずっと私を好きだった。そうでしょう? 好きじゃないなんて言わせない」
「待て、ほんとに、待ってくれ! 時間がほしい!」
「待ったわ。もう待てない」
「俺は何年待ったと思ってんだよ!」
 失言に気付いたときには、もう遅かった。
「やっぱり好きだったのね、私のこと。何年も、ずーっと」
 膝ですり寄ってくる月乃に、後ずさる。すぐにベッドにぶつかった。ベッドに這い上がる。
 スプリングが全く弾まないベッドから、あいの香り。
 ふっと、冷静になった。
 ひなせが今こうしている間も、あいは外で待っているのだ。朝あれだけ酷い別れ方をして、きっとあいは少なからず暗い気持ちになっている。そこに追い打ちをかけるように家からも閉め出されて、どんな気持ちでひなせを待っているのか。
「……ごめん、月乃。お前、ちょっと、遅かった」
「なにがよ」
「あと一週間早けりゃ、俺は月乃大好きなままの俺だったのに」
 出会ってしまった。縋ってしまった。
 幸せにすると豪語した、偽天使に。
「忘れたなんて言わせないわよ」
 歯噛みをした月乃が、叫んだ。
「しっかりしなさい、この出来損ない! 思い出せ、私の正しさを!」
 噎せるくらい強い香り、刺し殺すような視線、眩むほどの熱。
 藤宮月乃。正しくなんかない、立派な出来損ないだ。自分が歪んでいることにすら気付かないまっすぐさ。間違っていることにも気付かない正しさ。その矛盾こそが、藤宮月乃。
 そしてひなせは、あの日から、そんな月乃が好きで――好き、だった、のだ。
 あの、夏の日から。

 3年前 8月17日

『あなたたちは、私が守るからね』
 ひなせとひなたの母、榊原幸(みゆき)はいつも、そう言って笑っていた。
 度重なる父の暴力を、抵抗もせず受け入れるだけの幸。いつだって痣だらけで、傷まみれの体で、それでもひなせたちを背に庇ってくれていた。
 そんな幸に、どうして別れないんだよ、と訊いたことがある。
『あの人と別れるっていうのは、あなたたちを見捨てることと同じだから。私は離婚したらそこであの人との縁は切れるけれど、あなたたちはどうしようもなく、血を受け継いだ親子なの。私だけが逃げるなんて、そんなの、お母さん失格だもの』
 その時も、幸は困ったように笑うだけだった。
 今思えば、他にも色々と問題はあったのだと思う。幸は今までに社員として働いてきたこともないようなお嬢様で、ひなせたち二人を抱えて家を出るのは不安だったのだ。
 世界が変わったのは、ひなせが中学二年生のときの夏休みだった。
 毎年、長期休暇は苦痛であり、安心でもあった。自宅仕事の父とずっと一緒にいなければならないという恐怖の中に、幸と父二人を家に残して学校へ行くことがなくなるという安心感。学校にいる間、ひなせは毎日いてもたってもいられなかったからだ。
 ひなせが暢気に友達と喋っている間、幸がまた殴られているかもしれないと考えると、自然とひなせは誰とも関わらなくなり、孤立していった。
 ただ唯一の救いは、いじめ被害には一度も合わなかったこと。件の事情により、いつも体や顔のどこかしらに絆創膏なりを貼っていたからだろう、気付けばひなせには『喧嘩ばかりしている怖い奴』というイメージが定着していたからだ。それが今のひなせを形成する一端となっているだろうことは言うまでもない。
 きっとひなたも、同じような学生生活を過ごしていたのだろう。
 幸とひなたとひなせが三人並んで昼飯を作っていた時、その事件は起こった。
 主に調理をするのは幸とひなたで、ひなせはぼうっとその手順を眺めているだけ。
 その時、空気を劈くように、父が叫んだ。意味不明な言葉の羅列、理不尽な怒鳴り声。そこまでは、なにもかもがいつも通りだった。
『ひなせ!』
 幸の叫び声が響く。
 暑い夏の日、ひなせたちの異様な日常が終わった。

 幸の針金めいた悲鳴に、ふっと顔を上げる。父が、ひなせの首を掴んでいた。
 気まぐれな父の、今日の標的は、ひなせだったのだ。
『駄目、お願い、やめて!』
 父に触れられることに鳥肌が立って、それから息苦しさを覚えた。躊躇など微塵もなく、父の指が喉に食い込む。
 叫び散らしながら幸が必死に父に縋り、ひなたがその指を剥がそうとしてくれていた。
『は……あ、ぐ』
 空気の供給が滞る。破裂を予測したかのように、頭が膨張していく。世界が眩む。自分が今、どこにいるのかが理解出来なくなった。死の淵に、追い詰められる。
 骨も肉も血液もなにもかもが、自分の支配下から消えて。
 苦しいだとか死にたくないだとか助けてくれだとか、そういう気持ちは、今考えても一切なかった。
 ただ、ただ、幸を散々傷つけた手で、
『俺に、さわんなよ』
 自動操縦に、ひなせが動く。眼球は世界を通り越したどこかを見たまま、右手が真横に伸びる。感覚が半分途絶えた指先で、冷たく鋭いものに触れて、金属を素手で掴み取った。振り上げて降ろすところまで、オートパイロット。
 ひなせの中にも引き継がれてしまっている男の血が、撒き散らされた。
『っう、ぐ、げほっ』
 父の手から解放されて、加減がわからず空気を吸い込みすぎてしまう。噎せ返るひなせの顔に、生ぬるい液体がかかる。
 ぼんやりと見上げた父の手に、包丁が深々と突き刺さっていた。
 てめえ、と金属を擦り合わせたような声で父が呻いて、血走った目でひなせを睨む。咆吼と共に手から包丁を引き抜いて、余ったもう片方の手で包丁を握り直す。
 ひなせの死と対価に、幸が助かるならそれでよかった。
 強かすぎる幸がこの父から逃げられるなら、ひなせなど殺されてよかった。
 ぼたぼたと血を垂らす包丁を汚らしいとこそは思ったが、それが向けられることへの恐怖はなかった。生きることに縋りつかなければならないほど、ひなせは出来た人間じゃないのだ。
 鈍色がなぎ払われ、赤が飛ぶ。
 響いたのは、ひなたの悲痛な声だった。
『母さん!』
 硝子の破片が、散らばる錯覚を見た。
 ひなせの前に立ちはだかった幸の脇腹から、どっと血が溢れた。
 幸がひなせを庇ってくれたのだ。包丁はべっとりと血液をつけて、床に落ちる。
 初めて聞くほどの大声で、ひなたが悲鳴を上げた。その時ひなたの中でなにかが切れて、包丁を拾い上げ、父に飛びかかった。父は自宅に引き籠もっていたせいで虚弱としか言いようのない体だったため、簡単にひなたに押し切られる。後頭部を床に打ち付けて、動きも鈍る。
 父に跨ったひなたは、その首に迷いなくもう一本の包丁を添えた。高校生という力の有り余る年齢のひなたに勝てるわけがないと悟った父が、情けなく命を乞うのが醜悪だった。
 ひなせはただ、呆然と、幸に寄り添った。
『母、さん?』
『ひなせ……怪我、ない?』
 食器棚にもたれ掛かりながら、幸は、それでもなお、笑ってみせた。血液の溢れる脇腹を気にする素振りすらなく、ぬるりとした手でひなせの頬を撫でる。
『なんで』
『……あなたたちを、愛しているから。どうしても、守りたかったの。優しいだけじゃ、駄目なのよ。あなたたちを、守れない・だから、痛みを、受け入れる。ほんとは、もっと、守れる強さが欲しかった……お母さん、強くなりたかった、な』
 今まで受けた父の暴力よりもなによりも、幸の笑顔が、痛かった。
 ひなせは、その場から箸って逃げた。
 父もひなたも投げ捨てて、幸の笑顔から、幸の強さから、幸の愛から、逃げ出していた。
『ひなせ、てめえ!』
 ひなせの背後で、ひなたが怒声を上げた。初めてひなたがひなせを怒鳴った。それまでそこそこ良好には進んでいた兄弟仲が、ぶっつりと途切れる音をひなせは聞いた。
 血生臭い部屋を飛び出すと、絡みつくような熱気がひなせの足に纏わり付く。まるで溶けるような日差しにくらりと目眩を覚える。まるでこれまでの騒ぎが嘘のように、世界は平和に廻っていた。現実味のない自分自身が、消えてしまう感覚。
 自分が、とてつもなく、汚く感じた。
『ひなせ?』
 振り向いた先に、回覧板を持った月乃がいた。月乃とはこの頃から仲が良く、そしてまた、このときすでに月乃はひなたに恋をしていた。
 月乃は年相応な悲鳴を上げることすらなく、顔をしかめて血みどろのひなせを見ている。
『……ひなたは?』
『……え?』
『ひなたは、無事なの?』
 月乃はひなせが飛び出してきた扉を睨む。ひなたがまだ残っているだろうことぐらい月乃ならばすぐに思い当たるはずだ。目の前にいる血だらけのひなせよりやっぱりひなただった。
 どうせ返り血なのだ。ひなせはなに一つ傷つかず、周りの血だけを浴びている。
 周りを犠牲に、生きている。
『待ってろ、月乃。今、ひなたの代わりに、俺が』
 部屋へ戻ろうと、踵を返した。父を殺して、そのまま自分も死ねばいいのだ。そうしたらきっと、幸とひなたは、生きていける。
 幸が自分の命を削ってまで守ったものを、ひなせは、捨てようとしている。
 もうひなせの生で救えるものはないと思った。自分は、どこまでも最低に終わる。
 がなり立てるような蝉の声が歪む。陽炎に眩む視界が傾く。
 無理矢理に振り返らされたひなせの前に、月乃がいる。抱きしめられている。
 酔いそうなほどの強い血液の匂いが、月乃の香りと混ざり合って噎せ返りそうになった。
『しっかりしなさい、この出来損ない!』
 抱きしめられた体が熱い。触れ合ったところから融解していきそうになる。月乃が耳元で怒鳴る。鼓膜が悲鳴を上げていた。
『なにがあったか知らないけど、一人だけ逃げて諦めて、それで許されるとでも思っているならあんたは人間失格だわ。いい、あんたは出来損ないよ。でもあんたが死んだらひなたが悲しむかもしれない。ひなたを悲しませるものは、誰だろうと許さないわ』
 最低の女だと思った。
 でも、強くて、正しい女だった。
『生きる意味がないなら私があげるわ。誰かを守れるようになりなさい。出来損ないの自分に意味がないなら、そうすればいい。自分が大事に出来ない人間に他人を大事に出来ないなんて綺麗事よ。だって、私があんたを守って、あんたが私を守れば、お互い守ってあげられる。そういうふうに生きればいいわ。だから、大事な人を守れる人間になりなさい』
 出来損ない出来損ないと。昔から気にしていたことをよくもそう簡単に言ってくれる。
 笑ったら、唇が切れた。どうやら自分は泣いていたらしい。顔についた返り血が涙と一緒に口へと入り込んできて、不味かった。
『願いを言いなさい。出来損ないなあんたの代わりに、私が正義を貫いてあげるわ』
 ひなせを離した月乃は、血で汚れてしまっていた。決壊したように涙を流し続ける目では、月乃をきちんと捉えられない。それでもその時、月乃はなにより綺麗だった。
『幸と、ひなたを、守りたい』
 引き攣る喉を動かす。
『警察、呼んで』
『任せなさい』
 月乃は、とても綺麗に、笑った。

 すぐさま家へ引き返した月乃が通報して、ひなせたちの両親は、陽炎のように消えた。
 ひなせは首を少し圧迫されて痕がついたことと包丁を掴んだ際の掌の切り傷、ひなたは父ともみ合った際にほんの少し切った頬と頭部の打撲。どちらも軽傷だった。
 父は、警察が来る前に姿を眩ませた。ひなせが部屋を出たあと、父が突き飛ばしてひなたが頭を打ち、その気を失った一瞬で裏の窓から逃亡したのだ。
 そして、幸は、死んだ。
 即死というわけではなく、一度病院に搬送されはしたのだが、到着したときにはもう出血多量で息がなかった。
 最期は、救急車の中だった。
『ごめんね。頼りない、駄目なお母さんで、ごめんね……ちゃんとあなたたちを守りたかったのに、できなかった。あなたたちはこれから、お父さんもお母さんもいない子になっちゃうのね。私のせいで、本当に、ごめんね。弱くて、ごめんね』
 幸は何度も謝った。それでも一粒たりとも、涙を流すことはなかった。
『出来損ないのお母さんだね、私、お母さん失格だね。もう、あなたたちにお母さんなんて呼ばれる資格、ないの。……ねえ、約束よ。きっと、この先も、私のことをお母さんなんて呼んだらいけない。ごめんね。こんな母親で、ごめんなさい』

 その後、少しの間だけひなせとひなたは親戚の家へ預けられた。だがひなたがもう高三だったということもあって、親戚の家はものの一ヶ月ほどで出た。
 ひなたはすぐにバイトを始め、受験対策に宛てていた時間を、就職活動へと完璧に切り替えた。幸の保険金で大学に行けたのに、ひなたはそうしなかった。そうするとひなせが高校に行くだけの余裕がなくなるからだった。ひなたは、迷うことなく大学を諦めた。
 二人で実家のアパートに戻り、事件があった部屋ということで格安かつ空室となった元榊原家の部屋をもう一度借りた。
 そしてその一年後に、ひなせは家を出たのだ。
 逃げたという事実が、いつまでも重くひなせにのしかかっていた。もし、ひなせが父を見張っていれば、もし、ひなせが幸のそばにいて手当てをしていれば。もし、ひなたと一緒になって父を止めていれば。もし、が溢れていた。
 ひなたが大学進学を諦めてまで作ってくれていたこれからの金を、一人暮らし代に宛てた。
 一人暮らしを告げたとき、ひなたはほとんどなにも言わなかった。ただ黙って、引っ越し費用には十分すぎる金をひなせに渡した。
 これが、すべての終わりで、始まりだったのだ。

 4月12日

 月乃がアパートから遠ざかる音がする。返事は後日、ということになったのだ。
 ひなせはすぐさま立ち上がって、部屋を出た。月乃の返事より、過去の余韻に浸るより、今はあいを迎えに行かなければならない。
 幸が死んで、父が失踪して、ひなたが犠牲になって。
 ひなせは、今、なにをすべきなのか。
 月乃に恋をしていた。その気持ちはまやかしではない。
 けれどあの日と違って、もう、月乃に守られなければならないほどひなせは弱くない。ひなせは、ずっと昔から、ただ、
「幸せにしてくれんだろ」
 幸せに、なりたかった。
 コンビニまでも行かず、あいはアパートからほど近い路地で待っていた。相も変わらず上はひなせのシャツで、さすがに下には自分のデニムを穿いているが。
 あいは出会ったときと同じ、温度のない顔でひなせを見上げた。
「……幸せになってくれる?」
「お前がするんだろ」
「なってよ、ひなせ」
 噛み合わない。
「なにが言いたい」
「お母さんが、迎えに来た」
 春の夜は、あまりに静かだった。
 現実味のない言葉を、浮かび上がらせてしまうほどに。
「時間切れ。その時、だよ」

 家へ帰ると、あいは今までの精算をするかのような勢いで話し始めた。
「わたしの名前は時雨あい。ひなせと同じ神森高校二年の十六歳。誕生日は10月13日で、血液型はAB型。家族はお母さんとお父さんとわたし。でもお父さんはわたしがまだ小さい頃に家を出ていったから、今は母子家庭。お母さんの名前は無月(なつき)」
 終わっていくのを、ひなせは黙って聞いていた。
「すべての始まりは、十七年前。わたしのお母さんと、ひなせのお母さんである幸さんは同じ高校、神森の先輩と後輩だった。二人はすごく仲が良くて、でもある時、とある男が幸さんに恋をして、その男にわたしのお母さん――無月が恋をしてしまった。幸さんはその男を好きじゃなかったから、友達である無月にその男を譲った。その代わり、将来なにかが起こったら、無月もなにかをちょうだいね、なんて言って。それが始まり」
 黒曜石の瞳を輝かせ、あいはどこか楽しそうに話し続ける。
「無月はその男との子供を作ってしまった。予想外の妊娠だったから男の方は嫌がったけど、無月は幸さんから男を譲ってもらったって義理と、男を離したくないって意地で、無理矢理その子を産んだ。でも、その数年前幸さんは――言い方は悪いけど――ひなせのお父さんに孕まされて、ひなせのお兄さんを産んでいた。確かひなせのお兄さんを産んだのは中学の頃とかだと思う。だから無月のことがなくても、もう幸さんは普通の恋愛なんかできなかったの。そうして幸さんが高校生の時、ひなせが生まれた」
 ひなせたちは、幸の年齢を知らなかった。小さい頃から、何度訊いても、幸は笑って誤魔化してきたのだ。その理由を、ようやく知った。
「高校を卒業して、無月とその男は結婚したけれど、すぐに離婚した。無月は子供を産むことで男を引き留められると思っていただけで、最初からわたしに愛なんてなかった。この子がいればあの人はどこにも行かない、自分と一緒にいてくれる。そんな夢を見てたの。だから男がいなくなったあとも律儀にわたしを育てたし、こうしてわたしが突然家を出たら体面上とはいえ探してくれる。いつか男が戻ってくることを信じて、何年も、ずっと」
 説明書を読み上げるような声音。揶揄らしくもあった。
「それで今日、ひなせがバイトに行ってる間にお母さんが来た。そろそろ帰りましょう、なんて言って。だからわたしは、約束を果たすときだよ、って言った。幸さんはもういないけど、なにかをあげる約束をしていたなら、今がそのときだから、って。お母さんは渋ったけど、わたしが『お父さんはもう別の人と結婚してるよ』って言ったら、あっさり引いてくれた。お母さんはわたしを好きでもなんでもなく、お父さんを取り戻す道具としか思ってなかったから、ちょうど約束も果たせるし、いいこと以外のなんでもなかったと思う。これからお母さんは相手の家族のところに乗り込むかもしれないけど、それはわたしの知ったことじゃないし」
「お前は」
 ようやく声が出た。
「お前は……それで、いいのか」
「いいよ。だってわたしも、お母さんは自分を育ててくれるだけの存在って思ってたから。ごめんね、ひなせ。わたしたち親子の間に榊原みたいな愛はなかったの。親子で利用し合ってたんだよ、わたしたち」
 そこであいは、一度目を閉じた。
 次の言葉は、今までと違って、とても短く。
「わたしは、ひなせに愛してもらうためにここに来た」
 狭い部屋の中では、誤魔化しようもない、一言。
「……嘘つけよ」
「ねえ、覚えてる? わたし、出会った時に『月が綺麗ですね』って言ったでしょ。あれね、夏目漱石が『I love you』を訳した言葉なの。ひなせは知らなかったみたいだけど」
 まだ出てねえよ――いつかは、出てくるかな――まあ、いつかは――よかった。
「名前訊かれたときもそう。わたしはあなたを愛しています。愛しています。あいしてます。あい、してます。ほらね、自己紹介」
「わかるわけねえだろ、そんなの」
 あいはひなせの言葉に対してはなにも言わず、少しだけ笑って、続けた。
「わたしがひなせを初めて見たのは、三年前。あの夏、幸さんのお葬式でひなせを見たの。並んだひなせとお兄さんはそっくりだったけど、わたしはひなせに惹きつけられた。だってひなせは、とっても、傷ついていたから。ああ、なんて可哀想な人なんだろうって。お母さんを亡くして、お父さんに復讐もできなくて、好きな人はお兄さんに取られて。ぼろぼろで、なにもなくて。わたしとおんなじ、最初からなにもない人なんだって。わたしとおんなじ、出来損ないなんだって思った。だから幸せにしてあげたかった。榊原幸でも榊原ひなたでも、藤宮月乃でもない、わたしが。あの時わたしがどれほど恋い焦がれたか、どれほど抱きしめてあげたかったか。きっと、ひなせには、わからない。わたし以外、ほかの誰にも」
 そんなことを、あいは、風音よりも静かに告げた。
 なによりも残酷で、享楽のように甘美。致死量の毒が入っていることを知りながら、ひなせはその菓子を随の最奥まで吸い込んでいる。
「調べたよ、ひなせのこと。中学転校はさすがに無理だったけど、高校はわざわざ電車で二時間かかる神森にした。ひなせが行くって知ったからだよ。榊原ひなたみたいに血が繋がってれば、藤宮月乃みたいに片想いされてれば、有村朋みたいに親友になれたら、岡倉泉みたいに可愛くなれたらって、何度も思った。でもどれもわたしには無理だから、わたしはこの数年間で必死に家事を覚えて、ひなせのことをたくさん調べて、いつが一番いいだろうって考えてた。時雨あいとして出逢うのは、どれが最善なのか。お金も貯めたし、ひなせのバイトのことも調べた。だからほんとは、なんのバイトしてるかとかわかってたけど、シフトとかはさすがにわからないから、毎日ひなせにも訊いてたの。昨日はうっかり忘れちゃってたけど」
 時雨あいという女の、異常性。月乃の比ではなかった。
「昨日は、ちょっとお父さんに会いに行ってたの。平日の昼間に私服で彷徨くと目立つから制服着てただけ。嘘じゃないよ」
「……このへんにいんのか、父親」
「仕事場がね、近いの。ちょっとだったけど、会えたよ」
 あいはそのままの調子で、なんでもないかのように、ひなせに抱きついた。
 不意に感じる小さな体の重みに、動くことを忘れる。
「ねえ、ひなせ。好き。本当に好きなの。でも、ひなせが愛してくれないなら、わたしはここにはいられない。だってわたしはひなせを幸せにするためにここに来たから」
「……なんで。母親は、帰ったんだろ。だったら」
「だめだよ。だってわたし、聞いてたんだもん。さっき藤宮月乃がここに来て、ひなせに告白したの。もしひなせがあの場で返事をしてれば、このまま消えるつもりだった。わたしがここに持ってきたのは、捨てても困らないような衣服とひなせに迷惑をかけないためのお金と、あとは、ひなせへの愛だけ」
 ひなせの背に回る、あまりに頼りなく細い腕。弱々しくかかる圧力。
「でももう、お母さんのところへは戻れない。お父さんのところにも。わたしにはもう、ひなせしかいないの。ひなせに見捨てられるのは、世界に見捨てられるのと同じ。世界に見捨てられたら、わたしはもう、どこへも行けない」
 黒髪が揺れ、ひなせの首を撫でる。あいの顎が持ち上がる。泣いてこそいないが、その瞳は複雑な色を讃えていた。
「選んで、ひなせ。わたしか、藤宮月乃か」
 幸が死ななければ、恋をしなかった月乃。幸が死ななければ、出会わなかったあい。そのどちらかを、選ばなければならない。
 今すぐには無理だった。
「少しだけでいい、時間をくれ」
「わかった。明日の朝まで、待つよ」

 ひなせと入れ替わりに、あいが風呂へ入っていく。
 頭にタオルを引っかけたまま、ひなせは電話をかけた。
『もしもし?』
「俺」
『わかってる。なに?』
 ひなたはひなせとよく似た声だった。電話など何年ぶりだろう。
「月乃に振られたって、マジ?」
『大マジ』
「うわ、ださ」
『切るぞ』
「どうぞ」
『……なんの用だよ』
 呆れた溜息。ひなせなんかより、よっぽど大人びている。
「月乃に告られた」
『へえ』
「お前の差し金?」
『まさか。あいつが自分で気付いたことだよ』
「余計なことしやがって」
『お前、月乃のこと好きだろ。むしろ感謝しろよ、お兄様に』
「ありがとう、お兄様」
『お前十六にもなってなに馬鹿なこと言ってんだ』
「やめろよそういう真面目なの」
 開け放った出窓に座ると、風呂で火照った体がちょうどよく冷める。
『そんで、返事どうしたの』
「まだしてない」
『なんで。好きじゃねえの』
「あのさ」
『あ?』
「今までごめん。苦労かけた」
 電話の向こうでひなたが噎せた。
『お前こそやめろよそういうの!』
「いや、本気だって」
『だからやめろっつってんだよ!』
 しばらく黙っていると、やがて、落ち着いたひなたが切り出した。
『お前がそういうこと言い始めたら、キリないだろうが。俺たちって、客観的に見ればかなり不幸だろ。だから客観的になるなよ。人と比べた日にゃ自殺したくなるぞ』
「だから、ごめんって」
『言うなよ、そういうこと。なんか自分の不幸を自覚しそうになる。高卒で働けてて彼女までいる俺は幸せなんだ、って、自分を騙し騙し生きてんだからよ。そうでもしなきゃ、幸の死に泣き喚いて、あの男をこの手で殺したくなる』
 そこでひなたは、一度呼吸を挟んだ。
『そんなこと、する意味も、ねえけど』
「……俺は?」
『アパート引き払って生活費の振り込み止めてやりてえ。でも、そうしたら、自分が苦しい生活してるって認めることになるだろ。高校生で一人暮らしくらい、今時いないわけじゃない。こんなんでも普通に暮らせんだぜって、誇ってやりたいんだよ、俺は』
 出来損ないでも、幸せになれることを、証明するために。
 出窓から身を乗り出す。先ほどまで雲で隠れていた月が、姿を見せていた。欠けた、綺麗な月だった。
『それにお前がいなきゃいないで割と楽だしな』
「……大人って汚えな」
『お前もいずれなるんだよ』
 きっとこれからの人生、ゆっくりとひなせたちは常識に飲まれていく。憤慨したり奔走したり、小説のような青春物語は巻き起こらない。ある種、更正というべきですらあるだろう。
 出来損ないに、特別な物語は生まれない。
 友情も努力も勝利もない、取り上げることすらない日常。
 ただ、それらがどれほど貴重であることなのか。普通に暮らすことすらままならない出来損ないの人間たちにとって、普通であることが、どれほど。
 ハッピーエンドでなくとも。
 報われないままの恋でも。
 綺麗に終われなくても。
『大人になるってのは、人を愛するってことだ』
 出来損ないたちの恋愛は、それだけで、幸せなのだ。
「なあ、ひなた」
『なに?』
「恋愛に、時間は関係あるか?」
『ない』
 返事は一秒もなかった。
「わかった。サンキュ。今度そっちにも顔出す」
『おお。んじゃな』
 ひなせから通話を断った。携帯を放り投げ、出窓の柵に寄りかかる。
 あいは、そばにいてくれると言った。ひなせのためだけに三年もの月日を費やして、ひなせに愛されるためだけにこの一週間を過ごした。あいがいる時間は確かに穏やかで、楽しいと思えた。幸せだったのだ。
 答えは、出ていた。
「また髪濡れっぱなし」
「お前も相変わらず早えな、風呂」
 ひなせのシャツを着たあいが、脱衣所から出てくる。髪から雫が滴っているのを見て、自分の頭にかけてあったタオルを取った。
「来い。拭いてやる」
「ひなせのタオルで?」
「馬鹿かお前。惚れた奴のタオルくらい嗅いでみせろよ」
「いいよ。嗅ぐから貸して」
 伸ばしてきた手を叩き落とす。乱暴に頭を引っ掴み、ひなせと同じく出窓に座らせた。
「いい加減どうにかしてくれ、その性格」
「リクエストくれれば変えてあげるよ」
「じゃあ純粋で素直な妹風」
「お兄ちゃん、一体わたしに、なにするの?」
「髪拭くんだよ、マイシスター」
 片手で掴めそうなほど小さな頭部を、タオルで覆う。ほんのり伝う体温が心地良い。
 いつだってあいはその見目で油断をさせて、人の柔い部分へと傲慢に踏み込む。どれだけ不利な状態にいようと、自分が間違ったことをしていようと、まるでこちらが正しくないかのように飄々とした態度で笑うのだ。そうして気付けば、取り込まれている。
 あと数時間で、あいが来てから一週間となる。それだけ長い間あいを近くに置いてしまっていたのだ。月乃のことも忘れて。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なんだい、我が妹よ」
「この一週間、幸せだった?」
「おお」
「そ。ならよかった」
「でさ、あい」
「ん?」
「俺、お前がいなきゃ幸せになれないんだけど」
 ひなせは、あいの無防備な背を包むように抱きしめた。
 初日に感じていた、甘く苦い香りは消え失せて、そこから香るのはひなせと同じ香りだ。ひなせのシャンプー、ひなせのシャツ。ひなせがあいに取り込まれているように、あいもひなせに取り込まれているのだ。
 そばに、いてほしかった。
「お前が好きだ」
 腕の中で、あいの体が強ばるのがわかった。
「わたし、ここにいていいの……?」
 囁く声は、震えている。
「いろよ。いなくなんな」
「だめだめだよ、わたし。出来損ないだもん」
「俺だって同じだ」
 愛なんて大それた感情は、未だ理解できないけれど。あいがいなくなるという未来が、想像できなかった。あいがいなくなって、幸せになれるとは思えなかったのだ。
「お前が、俺を幸せにするって言ったんだ。今更逃げんなよ」
 救いの手は、もう出してしまったのだから。
「ひなせ、好き。大好き。わたしが、ひなせを幸せにする」
 幸せになる未来は、あいによって。
 どうしようもない愛しさが溢れ出す。湿った髪に指を通し、大きすぎるシャツの襟から晒された白い首筋に顔を埋める。あいが小さく震えるのがわかった。
「好きだ、あい」
「わたしも、好き……愛してる、ひなせ」
 出来損ないの上にも、月は浮かんでいた。
 欠けた月が、美しく。
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