しとしとと降り始めた雨に気づいた途端、剥き出しの腕に鳥肌が立った。雨を自覚してしまったぶんだけ、先ほどから感じていた肌寒さをごまかせない。
 苛立つようにカーテンを閉めて、ホテルからの夜景を視界から切り離した。
「降ってきたね」
 後ろで、今日の男が当たり前のことを言った。そんなことは言われなくたってわかるのに、なにを言っているのだろう。私だって同じ景色を見ているのだ。
「そうね」
 おざなりに答える私に、男が調子に乗る。
「送ろうか?」
「いらない」
「どうして」
 事が終わったあとまで一緒にいるなんて、冗談じゃない。終わったあとの無為かつ甘ったるい時間は、本番よりも疲れる。
「だって、早く帰らないとあなたの奥さんが可哀想じゃない」
 振り向いて微笑むと、すでにネクタイを締めていた男が目を丸くした。
 いい加減下着だけでは寒い。ベッド脇に投げられていた服を取りに窓辺から離れると、男に腕を掴まれた。そのままベッドへもつれ込む。
「きみが俺と一緒に茨の道を進むと言ってくれるのならば、俺はいつでもきみを選ぶよ」
 寒さとは別に、鳥肌が立った。いちいちこの男の言うことは薄ら寒い。もう三十になるというのに、この男の頭はいつまで中学生なのだろう。
 男の腹を蹴り上げて、ベッドから起き上がった。咳き込んだ男が私を不思議そうに見る。
「二回目からは有料。勝手に触らないで」
 女子高生のスカートに勝るとも劣らない短さのワンピースを着直して、黒バッグのチェーンを掴む。男の制止の声が聞こえた気がしたけれど、私はそのまま部屋を出た。
 柔らかい絨毯をヒールで踏み潰しながら、ホテルを出る。
 連絡先も知らなければ、向こうの名前も知らない。知っているのはそこそこの会社に就いているということと、家庭があるということだけ。
 顔は悪くなかったし、身長もそこそこだった。だから今日、行きつけのダーツバーで彼を見たとき、男を今日の相手にしようと決めたのだ。
 けれど、下手だった。自分勝手で、痛かった。だからもう二度と会わない。
 私が求めているのは、その場での優しさと熱さ、そして頭を空っぽにできる愛のないセックス。罪悪感や虚無感を感じる暇もないほど、激しいものだ。
 愛していなくても、愛するふりはできる。
 私との結婚を前にして逃げた、詐欺師の彼と同じように。
 愛するふりをしていれば、愛してもらえる。彼のように。愛していなくとも、口ではいくらでも愛を囁ける。彼のように。
 毎日のように変わる相手のぬくもりで、彼のぬくもりを消すのだ。私を抱きしめるあの腕の感触も、ふとしたときに触れるあの指の長さも、私を見つめるあの瞳の柔らかさも、頭を撫でる手のあたたかさも、もう戻ってはこないのだから。
 きらびやかなホテルのロビーを出て自動ドアをくぐる。雨音の響く春の夜は存外寒くて、男を惹きつけるためだけに露出を高めている私は、一人からだを震わせた。
「さむ……」
 空虚に響く一人きりの声。男に与えられた熱さを奪うように、雨は降り続ける。
 これからどうして帰ろう。電車はとっくにないし、タクシーに乗れるほど裕福な暮らしはしていない。だからといって家までは決して歩いて帰れる距離ではない。
 適当な女友達のところに泊めてもらおうと携帯を出そうとしたとき、私の肩にあたたかななにかがかけられた。振り向くと、息を切らしたスーツの男。名前も知らぬ、今日の男。
「間に合ってよかった」
 私の肩には男のジャケットがかけられている。決して安物ではない、きちんとしたスーツのジャケットだ。それが持ち主のではない肩で、雨を吸い込んでいる。
「……なんのつもり?」
 今までに追いかけてきた男などいなかった。後日改めてという形で私に縋ってくる年増はいたとしても、こんなふうに、雨の中飛び出してくる男など、ただの一人も。
 そんなことは、消えた彼すらもしてくれなかったのに。
 てっきり歯の浮くような台詞が帰ってくるかと思いきや、男は少し驚いたようにして、
「そういやそうだな、俺なんで追いかけてきたんだろ。よく考えりゃ俺もきみも呑んでるんだから、どちらにせよ送ってやるなんてできないのに」
 ……もしかしたら、私が思っている以上にこの男は馬鹿かもしれない。
 ジャケットを脱ごうとした私に、男が慌ててその手を制す。
「いい、いいよ。ジャケット貸しに来たってことにしといて」
「いらない。こんな高そうなもの、借りられないし」
 それに第一、もう会うつもりはない。
 さすがにその一言は喉の奥に引っ込めたが。
「そんなわけにはいかないだろ。なんならあげるから、それ」
「は? あなた、自分がなにを言っているかわかってる? ていうより、なんでそんなにむきになっているの?」
「だってきみ、そんなに寒そうで」
「平気よ」
「平気じゃない」
「どうしてあなたが断言するのよ」
 苛ついてきた。ジャケットを放り捨てて逃げてしまおうか。
「……きみが」
「私が?」
「俺には、きみがすごく、傷ついているように見えたから」
 一瞬、呼吸が止まった。
 答えに詰まってしまった私をどう思ったか、そこで男は柔く笑んだ。後押しするようにジャケットを私の肩にかけ直して、――頭を、撫でた。
「ごめん、俺、すごい下手だったと思う。嫁にも言われてるんだ、痛いって」
 指輪が嵌る手で、私を撫でないで。行為以外では与えられないぬくもりを、与えないで。
 罪となる優しさで、私を愛さないで。
「だから、俺からは今後を要求しないから。もしそれでもきみが、どうしても俺にジャケットを返したくなったら、連絡して」
 会社の取引で使うような名刺を私の手に握らせる。ちらりと見た会社名は、やはり私でも知ってるほどの大企業で、しかも彼はその年齢からは想像もできないほど上の役職だった。
「これ、タクシー代。もし足りなければ会社にでも請求して」
 握らされたのは、五万円だった。足りないわけがなかった。
「……それじゃあ」
 名残惜しそうに、男が再びホテルへ戻っていく。鞄も持たず、私にかけるジャケットだけを持って部屋を飛び出したのだ。
 男に撫でられた頭が、その手の感覚を染みこませていた。
 茨の道。そう言ったのは、紛れもなくあの男だ。実際地位も名誉もある彼には相応の奥さんがいるのだろうし、もしかすれば子供までいるかもしれない。踏み込むにはあまりにも壮絶で、消えた彼と比べればあまりに馬鹿で下手だ。
 そんなことはわかっている。わかっているのだけれど――、
「……こんな高そうなもの、もらうわけにはいかないものね」
 言い訳めいた独り言を漏らして、ジャケットから香る高級そうな香水の匂いと男のぬくもりを感じながら、私は、手の中にある名刺をそっと鞄の中へと移し替えたのだった。   
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