3『月見里千歳』


 4月6日

 肩を揺すられて、目覚めた。
「千歳、起きてー。始業式だよー」
 今日も自分より早く起きている日和に、月見里千歳は眉を寄せた。
 今日は始業式。千歳は二回目、日和は四回目となる。日和が開けたらしい窓から差し込む陽光も春風も爽やかで、文句のつけようがない幸せな朝。
 だが千歳は、不機嫌も剥き出しに日和を叩く。
「いた、痛い。なに、起きて早々なに怒ってんの?」
「日和の馬鹿。なんでそんないい奥さんなの」
「はい?」
「私だってたまには、『日和起きて』って奥さんみたいなことしたい! やり直してよ!」
 自分のために言っておくが、千歳は決して寝起きが悪いわけでも、寝坊してるわけでもない。千歳がセットした目覚ましより早く起きる日和が悪いのだ。
 それにもっと言えば、できれば日和にはいつも可愛い自分だけを見ててほしい。こんな髪ぐちゃぐちゃの寝呆けた顔は見せたくない。だから早く起きて、ちゃんと準備を整えて、朝ご飯の香りを漂わせたりしながら、エプロン姿で『おはよう』と言いたいのだ。
 そんな乙女心のわからない日和は困ったみたいに笑って、千歳の腕を受け止めるだけ。
「やり直すって……どうやってやり直すの? 俺もう起きてるのに」
「もっかい寝て! 私と交代するの!」
 腕を引っ張って、千歳が寝ていた布団に日和を押し込む。今気付いたが、日和は自分の布団をもう片付けていた。それがますます不満を募らせる。
「ちょっと千歳、明日じゃだめな」
「の! 今なの! 一年の計は始まりにあり、だよ。始業式の今日やらなきゃ、今年一年ずっと私ねぼすけだもん!」
「それを言うなら、一年の計は元旦にありね。ちなみに元旦も千歳ぴよぴよ寝てたよ」
「いいから待ってて! ちゃんと寝ててよ!?」
 洗面所まで走り、洗顔を済ませる。ドライヤーを髪に当てて寝癖を直し、鏡を見て前髪を整えて。冷蔵庫に吸盤フックで引っかけてあるエプロンをつけようかと思ったが、パジャマにエプロンはちょっとださい、と思い直した。
「日和ー……」
 寝室に戻って、おそるおそる布団に近づく。
 日和はきちんと、布団で寝たふりをしていた。狸寝入りとはいえ、日和の寝顔を朝に見るのなんて、何ヶ月ぶりだろうと、ちょっと感動してしまう。
 千歳が羨むくらいさらさらな黒髪が朝の日差しに光って、あんまり日焼けのない顔を綺麗に照らす。少し女顔ではあるが、十分すぎるくらい美形だった。
 日和は贔屓目抜きにしたって格好いい。どうして十人並みな千歳を選んでくれたのか、たまに不安になるくらいだ。だから、いつも完璧な日和がこうして気を緩めて寝ているのを見ると凄く安心する。千歳のそばでも、くつろいでくれているということに。
 何だか、起こす気が失せてきた。学校に行って、格好いい日和を他の女子に見せたくないという独占欲まで出てくる。今は格好よくて自慢の日和より、千歳だけの可愛い日和がいい。
 自分に素直に、日和を起こすのをやめた。素直なとこがいいと、日和も褒めてくれたことがある。何ら問題はないだろう。
 ぺらぺらの布団を捲り、布団に入る。
 千歳と日和、二人で温めた布団だ。日和にくっつくと、胸が締め付けられた。
 これが千歳の、愛しい旦那。
「……こら、千歳」
「んー? なあにー」
「君まで寝てどうするの。本当に遅刻するでしょ」
 呆れた表情の日和に頬をつままれる。
「らってー、日和が可愛いんらもん」
「理由になってません。千歳がこんな調子だから、俺、早起きの癖ついちゃったんだよね」
「え、私のせい?」
「他に誰がいるのさ」
 この家には、千歳と日和の二人以外誰もいない。二人だけで暮らしている。
 二人暮らしという響きに、つい頬が緩んだ。だらしなく笑っている千歳に、
「なんで喜んでるの……」
 日和は苦笑いで千歳の髪を撫でた。
「髪、整えたんじゃなかったの? また寝たらぐちゃぐちゃじゃん」
「いーの! 日和はそんなこと気にしないで!」
「なんで?」
「だって、日和より大切なものなんてないもん。日和が見てくれるから、私は髪とか服を気にするだけ。髪が乱れるから日和と寝られないなんて、なんの意味もないよ。私はただ、日和が好きで、日和に好きでいてほしいだけ。だから日和のためにお洒落もするし、ケアもする。大好きな日和には、いつも可愛い私を見ててほしいもん」
 日和に抱きついて肩に頬をすり寄せる千歳。
「……本当、勘弁して」
「わー。日和真っ赤っかー」
 千歳が顔を赤くするのはしょっちゅうだが、日和が照れるのは珍しかった。その表情も、赤面を隠そうと手で押さえるその仕草も、どうしようもなく愛しい。こんな日和が見られるのは千歳だけと思うと、なおさらに。
 日和に抱きしめられる。同じシャンプーと洗剤の香りが異様に嬉しくて、千歳も負けじとくっついた。
「千歳、超好き。ほんっとに好き。他の奴に取られる前に貰い受けて、ほんとよかった……多分俺、一生後悔しない」
 日和の言葉が、じんわりと千歳の心に染み渡る。耳から入って体を駆け巡って、ゆっくりと千歳のすべてが日和に浸食されていく。千歳の半分くらいはもう、日和でできてると思うのだ。
 今の千歳たちを見て、間違ってるっていう人もいるかもしれない。多分千歳たちが正解なわけではないし、自分の生き方が正解だって自信を持つ人たちからすれば、もしかしたら千歳たちはおかしいのかもしれない。
 でも千歳は、完璧な恋愛がしたいわけじゃない。出来損ないでも、おかしくても、日和がいればそれでいい。出来損なってない人なんて、いない。
 今が幸せなら、それでいい。
「私も大好き。後悔なんてしてないよ。ずーっと一緒がいいな、日和」
「そういう時は、ずっと一緒にいろよって言っていいんだよ」
「そうなの? じゃあ、ずっと私のそばにいてね。私も、ずーっと日和が好き!」
 出来損ないを埋めるために、愛の言葉は存在するのだと思う。

 視界いっぱいに桜が舞って、なにも見えなくなった。
「きゃー! 危ないー! 馬鹿、日和の馬鹿!」
「ごめんごめんごめん痛いごめん! ていうか叩かないで! ますます危ない!」
 ぐらついた車体を立て直し、加速を再開する日和。そのスピードに若干の恐怖を抱き、日和にきつく腕を巻き付ける。自転車の荷台の乗り心地は最悪だが、この温もりは悪くない。
「日和、急いで急いで! もっと早くー!」
「超必死に漕いでるって!」
「始業式から遅刻しちゃうよー!?」
「もうしてるよとっくに!」
 腕時計を確認すると、指定された登校時間は既に十五分ほど過ぎていた。
 ついに日和がサドルから尻を浮かせて、力強くペダルを踏み込む。そのせいで腰に腕を巻き付けていた千歳までもが若干不安定になってしまう。
「ていうか、千歳のせいだからね!?」
「なんで私ー!?」
「じゃあ誰のせいだと思う!?」
「私です!」
「よーし賢いいい子だ!」
「でもあのまま、また寝ちゃった日和にも責任はあると思うのですがどうでしょう!」
「俺が二度寝たのを目撃していながら一緒にごろついてたのは誰でしょうか!」
「私です!」
「時間を気にしないスローライフ満喫してますねこの野郎!」
「だって!」
「だってもなにもなーい!」
 少しだけ沈黙が降った。日和の乱れた息と自転車の駆動音が響く中、今度はトーンを変えて、千歳は切り出した。
「だって、日和と一緒に寝るの、久々で嬉しかったんだもん。そりゃ、時計なんか見てる暇ないよ……あったかいし、日和だし。日和見てるので精一杯」
「……千歳」
「はい」
「好き」
「私も好き!」
「ああもう、どうしようやばい抱きしめたい。学校ついたら抱きしめていい?」
「それはやだ!」
「なんで!?」
 予想外の拒否だったのか、日和が動揺する素振りを見せた。
「十六歳にして初めての反抗期なの千歳!」
「違うよ! だって、遅刻してるのに、そんなことしてる場合じゃないじゃん!」
「正論言うなよ!」
 日和にきつく抱きつきながら――それにもし、あの子に会ってしまったらどうするのだ、と千歳は少しだけ真面目に考える。
 そこまで無神経には、まだなれそうになかった。

 教室へ到着すると、もう校内はもぬけの空だった。生徒は全員、始業式のために体育館へ行ってしまったらしい。
 そこに姿を見せたのが、初対面の男子生徒二人。
 銀髪にピアスだらけの体、申し訳程度にしか原型を留めていない制服を着た男子と、茶色い髪と素材はいいのに活発さがない、銀髪の男よりか気怠げな雰囲気の男子。
 明らかに道を踏み外した雰囲気の二人だったが、千歳はその二人に寄っていく。
 自ら敬遠してしまえば、出会いは遠ざかる。自ら嫌ってしまえば、相手も自分を嫌う。千歳は基本、物事をそういうふうに考えるようにしていた。
「きみたちも遅刻仲間? 私たちもそうなの、寝坊しちゃって。よかった、私たちだけ遅れて始業式行くのすっごい怖かったんだ。よかったら一緒に行かない?」
 笑顔を浮かべ、二人の手を握りしめる。その二人組は千歳に圧倒されるように目を丸くしていた。「つーか」と茶髪が呟く。怒られるだろうか。少しだけそんな不安が首をもたげるが、
「……でけえ」
 茶髪が言ったのは、そんなことだった。おそらく指しているのは千歳の174ある身長のことだろう。遺伝でもないのに、家族の中で一人だけ大きく育ってしまったのだ。
 だが初対面では便利な特徴だ。今回も、おっきいでしょ、と笑いかけた。
「私、月見里千歳。月を見る里って書いて月見里。つきみざとさんってよく言われるけど、やまなしだから。きみたちは?」
「あー、俺、榊原ひなせ」
 最初に答えたのは茶髪のほう。続いて銀髪が、渋々といった感じに「有村朋」と低く投げた。
 すると、鞄の片付けをしていた日和も千歳たちのもとにやってくる。ここまで必死に自転車を漕いできたせいで、上気した頬に汗を伝わせていた。千歳のように手こそ握ったりはしないものの、日和も二人に怯むことなく大人びた笑みを向ける。
「俺は月見里日和。有村と榊原……でいいよね。よろしく」
「……え? 月見里?」
 朋と名乗った男子が反射的に訊き返す。
「そう、月見里。千歳と同じ苗字」
「兄妹かなんか? それにしてはあんま似てないけど」
 当然の疑問に、日和は薄く笑う。何事かを言おうとする日和を遮り、声を大きくした。
「私たち、夫婦なの! 私、日和の奥さん!」
 朋とひなせが呆気にとられる。でもそれが事実だった。
 隠せることではないし、隠してしまえば、自分たちの間違いを認めることになる。
「ということなんだよね。比喩とかでなく、本当に俺たちもう籍も入れた正真正銘の夫婦だから。ないとは思うけど、俺の嫁さんに手出さないでね」
 日和が苦笑で千歳の頭を撫でる。ひなせが苦しげに手を振った。
「……いや。いやいや、ちょっと待て。だってお前」
「あ、俺の歳のこと?」
 ひなせの疑問を先回りする日和。
「俺、一年の時に二回ダブってるから。そんでもって千歳の二個上だから今俺、十八。今頃俺の正常な仲間たちはキャンパスライフを謳歌してるよ。あ、千歳はダブりも浪人もなしに普通の十六歳ね」
「日和、日和。二回ダブってるとは言わないんじゃない? 頭痛が痛いみたい」
「あ、そりゃそうか。じゃ、トリプってる?」
「多分それ」
 待て、と再び制止が入る。今度は朋だった。
「二回も留年って、お前そんなに頭悪ぃの?」
「いや、むしろいいよ。学年で十位以内くらいには入るし。でも俺、わざと出席日数足らなくしてたから」
「……はあ?」
「俺、自分の奥さんと一緒に学校行くの夢だったんだよね。素直に進学したら一年しか同じ学校通えないから、わざとダブった。そのおかげでこうして俺たち、これから一年は一緒の教室で勉強出来るわけだし」
「私も嬉しいよ、私の大好きな日和と一緒に学校行けて。もし日和が留年してくれてなかったら、今頃日和は私の知らないとこで知らない女の子たちと大学にいるんだもん。そんなのやだしー! 去年、結婚するって言った時は先生たちも凄い慌ててたけど、それ頑張って押し切ってよかった! ずーっと日和のそばにいれるもん」
 恋愛に距離は関係ないなど、千歳には到底言えそうにない。離れればそれなりに不安だし、気持ちもいずれ離れてしまう。そうでなければ、結婚などという制度は存在しない。
 なにかで繋ぎ止めていなければ、人間なんてすぐにいなくなってしまう。
「じゃ、俺たちは始業式行こっか。榊原たちはどうする?」
「行かね」
「そ。そんじゃね」
 日和に手を引かれ、体育館へ向かう。二人は遅刻でなくサボりだと、ようやく気付いた。

 4月9日

 授業を終え、日和と共に教室を出る。すると誰かと正面からぶつかった。
 千歳は普通の女子なんかより高い位置に目があるからか、人とぶつかることが多々あったので、今回も自分の不注意だろうと真っ先に謝罪した。そこで、抱えていた荷物で顔が隠れていたその女子の顔が、明らかとなる。
「いえ、こちらこ、……そ」
「……あ」
 見慣れた美人顔。千歳と似たウエーブへアに、柔和な表情。それらが一瞬にして固まる。
 矢坂依子は千歳を視認するなりきっと眦をきつくした。「ちゃんと前見て」と一方的にしかりつけたのち、落ちた教材を拾い始める。手伝おうとした千歳を目一杯に拒絶する。それでもそのまま立ち去ることはできず、依子が教材を拾い終えるのを待った。
 日和は千歳の後ろ、無言でそれを眺めていた。
「足下掬われても知らないから」
 教材を拾い終えた依子は、千歳を視線で射ってから、取り繕うようににっこりと笑う。
 もう、生徒会長の顔だった。
「それじゃあ、私はこれで失礼しますね。さようなら、月見里さん」
 千歳は何も言えず、迷いなく歩き去る依子を見送る。その後ろ姿に、思わず鼻の奥が痛んだ。日和に頭を撫でられて、何とか溢れ出るものは抑える。
「お? なにしてんだ、お前ら」
 後ろからぺたぺたと間の抜けた音がして、振り返ると担任の吉野理がいた。名簿の角で肩をとんとんと叩いている。
「月見里も矢坂も、用ないならさっさと帰――」
 言いかけたまま、吉野が固まる。
「……わり、素で間違えた」
 吉野は、名簿で自分の頭を叩く。千歳は大きく息を吸って、涙の余韻を振り払った。
「まだ私が月見里になって半年ちょっとですし、仕方ないですよー!」
「だよなあ……去年の担任の癖が抜けねえなー。ずっと矢坂って呼んでたしよ」
 吉野の言う通り、9月の日和の誕生日かつ結婚記念日まで、当たり前に私は月見里千歳じゃなかった。旧姓は、矢坂千歳。
 半年前まで、千歳は、矢坂依子の双子の姉だった。
 でも、今はもう、矢坂千歳でも、依子の姉でもない。
 家を捨てて日和を選んだ千歳を、依子はもう、姉と認めてはいないのだ。
 子依存の節がある千歳たちの母が、どれだけのプレッシャーを依子に与えているのか。そんなものは想像に難くない。
 千歳は、依子と日和を天秤にかけて、日和を選んだ。
 最低な姉だと思うし、最悪の人間だと思う。
 千歳が千歳の物語の中で生きているように、依子には依子の物語がある。依子の物語の登場人物に、千歳がなることはもうないのだろう。
 だから千歳は、出来損ないの物語で、出来損ないな主人公をするしかない。
 この世界に、完璧などは存在しない。
 この世界をすべてを物語とするならば。全員が主人公で、全員が出来損ないだ。

 4月10日

 林檎は、どういうものがいいんだったか。
「妹さんに会うの、久々だったんじゃない?」
「うーん……そうかもー」
 見た目の綺麗さだけで選んではいけないらしい。
「どうだった?」
「どうって?」
 そこで林檎から目を離して、じゃがいもを持った日和に向く。スーパーのチープな蛍光灯に照らされて、日和の顔色が少しだけ不健康に見えた。
「仲直りの兆しは?」
「全然」
 言い切る自分に嫌気が差す。もし相手が依子でなければ、もっと積極的になれるのに。
 きちんと姉妹をしていた頃、自分がどう依子に接していたのか、千歳はもう思い出せなくなっていた。もっと強引だっただろうか。それとも、優しかっただろうか。
 探るにしても、依子に触れるのはあまりに怖すぎる。
 どこに触れれば壊れてしまうのか、どこならば触れても大丈夫なのか。それがわからない。千歳にとって依子は、繊細で不便な壊れ物のようだった。
「そろそろレジ行くよー」
「あ、待って待って! 林檎ってどういうのがいいんだっけ?」
「確かお尻が黄色いのじゃない? 千歳が持ってんの緑だよ」
「なるほどー」
 素直に感心してしまってから、これも自分の役割だったじゃないかと後悔する。結婚してもう半年以上経つが、今のところ日和の方がよっぽど妻らしかった。
 尻が黄色い林檎を二つ選び、日和の持つ籠に入れる。二人でレジに並んで、会計。
 そのとき日和がふと菓子売り場のほうに目をやる。そこで何かに気がついたように「あ」と声を上げた。
「どしたの?」
「……いや」
 苦笑いを浮かべたまま、レジの値段表示へと目を戻した。知り合いでもいたのだろうか。
 レジ袋に買ったものを詰めて、日和が二つ、千歳が一つを持ってスーパーを出る。スーパーに入った時はまだ明るかった外も暗くなってしまっていた。
「今日の晩ご飯はーはカレーですー」
「公道で歌わないように」
 いつもなら額をぺしりとやられるところだが、今は両手が塞がってるおかげで叩かれなかった。もしかしなくても、これはチャンス。
「えいっ」
「あ、こら!」
 日和の頬にキスをした。案の定日和は抗えない。
 楽しくなって、千歳は子供のように跳ねる。通行人の中年女性に笑われている気がしたが、格好つける必要もない。そのまま馬鹿みたいに回って踊る。
「危ないって、転ぶよ千歳ー!」
「なめるなー!」
 言った瞬間、段差に突っかかった。
「千歳!」
 転んで、世界が回る。月と目が合った。
 千歳の持ってたレジ袋の中に、落としたらやばいものは入ってなかったかと一番にそれを心配したが、日和が千歳の持つものの中にそういうものを入れるわけないと思い直す。
 予想していた衝撃は来ず、その代わり、月の真横に日和がいた。
 千歳を抱きかかえた日和は、大きく溜息をつく。千歳の背中の下でレジ袋が騒ぐ。持ったまま千歳を助けてくれたらしい。
「あんまこういうこと言いたくないけどさあ……千歳、ほんっと、馬鹿」
「でも、そんな私がー?」
「……好きです」
 想像していた通りの返事に、千歳は目を細める。
「ね、日和」
「はい?」
 疲れたふうに日和が千歳を起こす。千歳は夜空に手を浸しながら、
「お月様、綺麗だよ」
 満月と同じ形を、日和の目が描く。だが月をよくよく見たところ、少しだけ欠けていた。でもそれは、見て見ぬふりをすればわからないほどの小さな欠け。
 好きなふうに目を向けられるなら、千歳は、自分が好きな方に目を向けたい。
 先ほどよりももっと大きく嘆息した日和は、困ったみたいに笑った。
「千歳、夏目漱石って知ってる?」
「全然知らない」
「だよね。……俺、死ぬかも」

 4月11日

「あっ」
 大袈裟に立ち上がった千歳が、手の指をうねらせる。細くて長くて綺麗な指、と日和が褒めてくれたことがある。まあ、家事をしない女性は指が綺麗だとか言うのだけれど。
「どしたの?」
「ポット持ってくるの忘れた!」
「また?」
 またとは心外だ。確かに千歳は忘れ物が多いが、最近は減っていたのに。
「ていうか気付くの遅いな。もう昼休みも半分近く過ぎてるよ……」
 膝に手をついて立ち上がる日和。
「さすがに家に忘れたとかじゃないよね?」
「うん、教室」
「じゃあまあ、取りに行こっか」
「私一人でいいよ?」
「いやむしろそっちのが後々大変そうだから」
 反論できないところが辛い。昨日の昼など、まず階段でこけて膝を打ち、保健室へ行って、何をしに行ったのか忘れて帰ってきたのだ。日和の心からの溜息が忘れられない。
 日和と一緒に校舎へ入り、教室へと戻る。千歳が転んだり階段から落ちた時のために、日和は基本千歳の一歩後ろを歩くようにしている。「そこまでドジじゃないよ!」と憤慨するが、聞き入れてもらえない。
 まったくもう、などと前に顔を戻した途端、
「わぁっ」
「ほら見ろ!」
 真正面から誰かと衝突した。これでまた日和に逆らえなくなるのだ。
 幸いぶつかった相手は千歳より小さな女子だったため、千歳が弾き飛ばされることはなかった。というか、女子で千歳より大きい子なんてまあまず見かけないが。
 よろめいた千歳の肩を支えつつ、倒れかけた女子の腕まで掴む日和。
「日和すごーい」
「誰のせいでこんな技が身についたと……」
 ぶつぶつ言いながらも、千歳と女子を立て直す日和。謝るのを忘れていたと顔を前に戻す。
 そこに、動く人形のような女子がいた。長い黒髪と同じ色の瞳が、じっと千歳を見上げる。まるで、大きく真っ黒いビー玉がすっぽりと埋められているようだった。
「か……っわいい!」
 反射的にその女子を抱きしめにかかるが、軽やかに躱される。千歳よりか何十センチも低い位置にある小さな頭部が、本当に人形のようだった。
「あ。月見里千歳?」
 その女子が、ようやく千歳に気付いたかのような声を上げる。
「よかった。ちょうど今、月見里さんのところに行こうと思ってたところ」
「え? 私?」
「うん。正確には、月見里日和と、その妻である月見里千歳のところ、かな」
 少女の顔に浮かんだ笑顔。外見だけではなく、内面も少し人形めいているのかもしれない、とその温度のない笑い顔を見て、思った。

 いつもと違う帰り道、いつもと違う帰宅場所。
 純和風の家屋の中、千歳は慣れた手つきで朱色の着物を着付けていく。
 お決まりの装飾具を使って、千歳の脳内を現しているような淡色の髪を纏め上げる。前髪を手で撫でつけ、唇に赤い赤い紅を引く。
「姐さん、若がお待ちです。準備いいですか」
「いいよ。開けて」
 冷たく作った声で野太い男に答え、襖を引かせた。黒い着物姿の日和がそこにはいる。
「下がっていいよ」
 日和はいつも通り、柔和な笑顔で横に控えていた男を下がらせる。千歳は日和を見て、すぐさま普段の笑みを取り戻した。
「当主様は?」
「親父なら今準備してる。もうちょい待ってて」
 畳に膝を落とし、無言で目を閉じる。思い出すのは、小さな少女がした話。
 この月見里という――所謂極道組の中に、あの少女の知り合いがいるらしい。少女の知り合いである男は、昔、堅気の人間だった。だが元より家庭内暴力のあった男はある日、自分の家族を殺した。そこで出頭をしていればいいものを、家を逃げ出し、その後、ここに入った。こちらでは偽名を使っているため、今も表世界では消息不明の状態だという。
 もちろんこの組の中で自分の家族を殺したなどという話をその男から聞いたことはなかったし、第一、月見里は実際の血族であれ杯を交わした兄弟であれ、身内殺しを重罪としている。身内殺しをした人間が月見里の門をくぐるなど、本来あってはならないのだ。
 身内殺しに加え、それの隠蔽。これを当主である日和の父に明かせば、おそらくその男は相応の落とし前をつけさせられるだろう。
「千歳は、正しい裏世界の使い方を知ってるよね」
 跡継ぎとは思えぬ柔らかさで日和が言う。千歳は口角を上げた。
「だって、日和のお嫁さんだもん」
「さすが千歳。俺の親父ねじ伏せただけある」
 普通ならば堅気の娘など娶らない月見里を、千歳はその身一つで説得してみせたのだ。その代償として、母と妹を失ったが。
「本当なら、依子とお母さんもこっちの分家あたりに入れたいんだけどなー……」
「依子ちゃんたち嫌がるでしょ」
「うん。それ提案したら、すっごい拒否られちゃった」
 そのとき、襖の向こうから声がかかる。当主の準備ができたらしい。
 気持ちを切り替え、緩んだ顔を締め直す。いくら若頭の妻といえど、半端な気持ちで当主の前になど出られない。密告一つするのにも、すでに三十分近くがかかっている。
 だが、そのときだ。
「ち……千歳っ!」
 気張った叫び声に振り向くと、綺麗に整えられた石庭に、制服姿の依子が立っていた。あまりにも不釣り合いな組み合わせに、現実と夢の境がわからなくなる。
「依子……? なんで、依子がいるの……?」
 しかも相当に酷い格好だった。なぜか靴は履いていないし、いつも丁寧に手入れされているメイクや髪もぐちゃぐちゃ、制服だって皺だらけだ。
 依子は後ろから止めにかかる若衆を振り散らす。一応は「お嬢」と呼称した上で、力尽くで放り出したりはしないが、今まで千歳や月見里を忌み嫌い、関係も薄い依子だ。そのうち若衆たちもかなり強引になってくる。
「やめなよ」
 そこに、冷たい声をねじ込んだのは日和だった。
「俺の奥さんの妹なんだ。手荒に扱うな」
 笑みを消した日和に、若衆たちがすぐさま手を引いた。この家のナンバーツーに逆らえる者など、この場には千歳くらいしかいない。
 素早く用意された突っかけに足を通し、千歳は石庭に降りた。
「依子……? なんでこんなところにいるの? こんな、ぼろぼろの格好で」
「……悪い子に、なろうと思ったの」
「……え?」
「子供のくせに大人ぶるのは、もう、やめる」
 千歳を見上げた依子は、赤い目をしていた。今まで泣いていたのかと思う。
「一方的に無視したりするのも、やめる。ちゃんと千歳と話す」
 昔の呼び方ではなくなっていた。何かがあって、何かと決別したのかもしれなかった。
「私は、あんたが嫌い。私とお母さんを捨てて家を出たあんたを、にもかかわらず能天気にへらへら笑って幸せそうにしてるあんたを、私はこれからも一生、姉と思うことはできない」
「……うん」
 少し胸が痛む。だが、妹が受けた痛みに比べれば、こんなもの。
「でも、そんな千歳を、羨ましいとは思う。……私は……私も、ただ、幸せになりたいだけなの。好きな人と結婚して、普通に、幸せになりたい」
 いつの間に、妹はこんなにも成長していたんだろう。いつから、欲しいものを欲しいといえる、素直な大人になったんだろう。
「だから、私は……あなたを、もう一度、好きになる。……なりたい。姉じゃなくても、もう一度、最初から。全部なしにして、やり直したい」
 泣いたらいけない。今から当主に会いにいくのだ。次期当主の妻ともあろう自分が、これしきのことで泣いてはいけない。
「頑張るから。好きになるから。姉ではないあなたを、もう一度愛せるようにするから。だから、千歳も、私のこと……もう一度、愛してくれる?」
 依子が嫌った、脳天気な笑顔を必死で浮かべた。もう一度愛されるように。
 将来、この子の結婚式に、胸を張って行けるように。
「ありがとう、依子。愛してるよ」
 この子が、幸せになれますように。
 そう願って、数年ぶりに依子を抱きしめた。
 まるで、子供をあやすように。
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