急いで会室へ戻る。またも最後に入ったのは俺だった。
「よし。とりあえず全員無事だな」
 俺の帰還を見た一番合戦先輩が、安堵したように頷く。見槻先輩はもちろん、双子や物集女も特に怪我はないようだった。
「人間は無事でも、校舎は無事じゃないですけどねー」
 五分間ひたすら戦っていたとは思えぬほど、双子はぴんぴんしていた。思えば実際に戦闘らしい戦闘をしていたのはこいつらだけなのだ。
 先ほどきのみさんが起こした火事には、おそらく執行部――委員会のことを、生徒会の駒として動くという意で一番合戦先輩が名付けた――が消化活動に当たっていた。
「一般生徒を巻き込まない限り問題ない。第一、火種を仕掛けたのも燃料を差し入れたのも、二千六百年だ。私だって好きで将来の母校を燃やしてるわけじゃない。誰が予想できる、こんな時のために毎朝酸素を空き教室で発生させて、火炎瓶まで持ち歩いてる――なんて。用意周到にも程がある。度胸があるんだかないんだか、二千六百年だけはどうにも理解できない」
「まあ、防げはしないけど構えはできるでしょ。あんだけ間近にいた亜麻が怪我してなかっただけで、とりあえずはよしとしよう」
 スマートフォンを仕舞いながら、見槻先輩が苦笑する。
「そんなことより、報告と今後の対策が先だ。残り五分しかないしさくさくとね。あ、俺は作戦通り動かず見つからず、ひたすらスマフォ弄ってたよ。まあ一応のために目潰しの香水だけはポケット入れといたけど」
「あ、わたしも……鼎さんに言われた通り、眼鏡かけたまま校舎をずっと走り回ってました。途中で一尺八寸さんに会いそうになって逃げてんけど、追っかけてこなくて。結局今回はなんにも……」
 不安げに伝えた物集女。一番合戦先輩は頷く。
「それで正解だよ。一尺八寸もできる限りは女子を相手取りたくないだろうからな、白や二千六百年は基本的に戦闘らしい戦闘はできないし、和双子は京双子にかかりきり。物集女は仕掛けない限りあまり交えることはなかろう」
「でも、これでわたし、役に立つんですか? 逃げ回ってるだけとしか」
「そうじゃない。逆だよ、物集女」
 突き立てた二本の指をくるりと回す一番合戦先輩。
「逃げ回ってたのはあいつらだ。何もしていないと思うのは物集女の視点だからであって、体制の整っていない相手から見れば物集女は敵を探索していると思うだろう。それにさっきも言った通り、基本的に生徒会は迎え撃つスタイルでしかない。まあこれは作戦どうこうでなく、この戦闘の基本ルール的にそうならざるを得ないのだが」
 上手く噛み砕けないらしく、首を傾げる物集女に一番合戦先輩は笑みを向けた。
「だから、今回の初戦で物集女と誰かを戦わせる気は最初からなかったよ。校舎内を徘徊させることで、誰でも相手取れるというのをアピールしたかったに過ぎない。もしも、唯一攻めるタイプの一尺八寸に会ったとしても、最悪亜麻さえ呼び出せば一尺八寸は物集女に手出しはしないだろう」
 物集女はほっと息をつく。が、まあ、とトーンの落ちた声によって再び空気を引き締めさせたのは一番合戦先輩。
「迎え撃つスタイルだからこそ、今後の展開が厳しくなるんだがな」
「ど……どういうことですか?」
「この十分間を向こうは準備に使うだろうからな。白は音楽室からでもアンプやマイクを借りてくるだろうし、二千六百年は薬品をたっぷりと仕込んでくるだろうし、和双子は倉庫を破壊してでもボールを出すだろう。つまり今と違って、しっかりと防御して攻める準備が整うわけだ。この五分で決着がつくなどとは当然考えていないが、なんだこんなもんか、なんて今くらいの気持ちで行けばあっさりと敗北するぞ。この勝負は、不意をつけたもんが勝ちなんだよ」
 黙りこくったのはほんの一瞬、そんな暇はないとばかりにすぐさま一番合戦先輩の指示が飛び始める。休み時間が残り二分となって、それぞれ配置場所へと向かう。
「一番合戦先輩、訊きたいことがあるんですけど」
「……またお前と最後に二人か。なんだ、さっさと言え」
「なんで俺と役員を親しくさせたんですか?」
 最初はスパイかとも思った。だが俺が集める情報なんてものはすでに一番合戦先輩が掴んでいたし、仲良くなったから戦わないなんて甘っちょろい考えはお互いに持っていないはずだ。
「理由は二つ。一つは、お前と鈴珠を少しでも接触させないためだ。まあ結局家で寝食を共にしているわけだし、京双子から聞けば昼も一緒に食ってるそうだがな。メインであるもう一つは、お前のそれによって心中穏やかでない奴らを増やすためだ」
「……誰ですか?」
「鈴珠と物集女と一尺八寸」
 鈴珠はわかる。女子多めの役員たちのもとを渡り歩く俺にヒステリーを起こしたいが、それが私事でないことをわかっているから無闇には騒げないというジレンマだ。
 物集女も、まあ、わかるということにしておく。
「……一尺八寸?」
「鈴珠の爆発を恐れて神経すり減らしてただろうな、奴も。その鬱憤を今日すべてお前にんぶつけるやもしれん。まあ頑張れ」
「敵を強化させてどうすんですか!」
「その程度も倒せずして、罪を祝福に変えられると思うな」
 過ぎる正論に、俺は返す言葉もなくなった。
 綺麗に整い、ネイルの施された自分の爪を見つめる一番合戦先輩。
「それとも私が一尺八寸をぶちのめしてやろうか。なんならお前の母親の口を塞いで、婚約も結婚も全部破談にしてやってもいいよ。お前はただそこで見てるだけでいい。絶対に安全な場所で、なにもせずに待っていろ。放っておいたって私たちがお前と鈴珠をバージンロードまで導いてってやる。お前は全部他人任せにして、自分の手は一切汚さずにいたらいい。そんでそのお綺麗な手で、鈴珠に結婚指輪嵌めてやれよ。血まみれよか鈴珠だって喜ぶだろ」
 それでいいなら、と言外に付け足された気がした。俺の後を託した一尺八寸すら倒さずに、俺と鈴珠の未来を全部他人任せにして、それで幸せだというなら。
「でも、そうじゃないんだろ。信用できる他の奴に鈴珠を任せるんじゃなく、お前自身が鈴珠を幸せにするんだろ。だったらやれよ。汚れても、傷ついても」
 一番合戦先輩は、まるで出来の悪い息子を見るような目で、俺に笑いかけた。
「早く行け、鳴るぞ」
 一番合戦先輩は、わざわざ俺のために手回しをしてくれていたのだ。きちんと然るべき相手を倒して、然るべき壁を越えて、然るべき態度で鈴珠を手にできるように。
「ごめんなさい、ありがとうございます」
「もういい、礼は聞き飽きた。あと愛してますもお前は禁止だ。私は鈴珠に刺されたくない」
 興味なさげに手を振った一番合戦先輩が、窓を飛び越えていく。見えなくなった背中に数秒頭を下げてから、俺も走り出す。チャイムが、鳴り響いた。

 この出会いは、果たして運命だったのだろうか。
「必然だよ」
 ボールを抱えた弟が、そう呟いた。その隣にはラケットとテニスボールを持った姉が控えている、と思いきや、弟は一人きり。
「……双子は」
「俺らもお前らも双子だが、それがどうした」
「違う。学ランとジャージの二人は、どうしたんですか」
 いくら先輩たち相手とはいえ、あの双子がものの三分で伏すとも思えない。
「どうもこうも、俺らに対策を取ってるだろう京たちんところにわざわざ出向いてやる必要ないだろ。だったらまあ、お前か物集女あたりが狙い目かもな、と」
「じゃあ、お姉さんは……」
「物集女んとこ。つーか白はなにしてんだ」
 まだ機材が整っていないのか、白先輩の演奏が始まる気配はない。この間に姉と物集女が出会ってくれていることを祈るばかりだ。
「つか、お前は自分の心配しろって。なんかお前っていつも女子のこと考えてるよな」
「誤解を招く言い方はよしてください」
「実際そうだろ。自分のことよりまず妹、そんで双子、今度は物集女。なんなのお前、よっぽど女好きなん? フェミニスト?」
「鈴珠以外は基本的に『人類』としか見てませんけど」
「じゃあなに、自分可愛くねーの。最近流行りの無気力系男子って奴?」
「それはどっちかっつーと先輩のが」
「生憎こっちは女子なんでね」
「見えませんよ」
「判断に困るとこだが、まあ、喜んどいてやるよ」
 声に抑揚すらつけぬまま、弟はボールを蹴り飛ばした。会話の合間合間でタイミングを図っていたこと自体は見抜いて、俺も構えていたからそれは難なく避ける。が。
「いって!」
 弟の足からボールが離れたことで完全に油断していた俺の後頭部に、壁で跳ね返ったボールがぶち当たった。今日初めて喰らう肉体攻撃。
「お前、なんつーか……可哀想になるくらい馬鹿だな」
「ありがとうございます!」
「褒めてねーよ。罵倒耐性つきすぎだろ、お前」
 弟の足がボールを捉える。嫌な捻れ方をした首を調整している俺のボディへと叩き込まれ、肺から空気が押し出た。呆れたように溜息をつく弟。
「なあ、お前ってさぁ……」
「馬鹿で変態でドシスコンです!」
「訊いてねーよ。……そうじゃなくてさ。ずっと思ってたんだけど、お前ってなんでここにいんの? 俺は部活でサッカーだし、物集女は剣道。みんなそれとない特技持ってんのに、そういうふうなスキルないだろ、出雲郷って。なのになんで肉体派に回ってんの。素直に美人局と同じ側にいりゃよかったのに」
 リフティングを数回こなしてから攻撃に出たのは、弟の情けだったんだろう。そのおかげで顔面を狙ってきたボールをヘディングで撃ち返せる。無軌道に放たれた俺のボールをも、弟はいとも簡単に足元へ戻す。
「まあ、これといったスキルとかはないんですけどね……中学の頃優秀な教師がいたんです」
「……だったらなおさら頭脳戦だろ?」
「教師っていうのは、そういうことじゃなくて、」
 再度顔面を狙って飛んでくるボール。どうして弟はこうもイエローカードなボールばかりを寄越すのが得意なのか。くそ、破門されろ。
 俺はその場で足に力を込め、前に跳ねた。薄汚れた床が目の前に迫る。手をつき、勘のみで右足を力強く折り曲げ、ふくらはぎに捉えた感触。オーバーヘッドの逆立ちバージョン。やったことなどもちろんなく、というよりサッカーなど俺は授業でやった程度だ。
 だがボールを蹴り返した瞬間、込めていた腕の力がふっと抜けてしまう。危機感を覚えた時にはもう、床と俺自身の体重が鼻を押し潰していた。
「おい出雲郷! おま……できねえんならやるなよ!」
 慌てた弟がボールも放って手を貸してくれるが、俺は一人で立ち上がった。骨こそ折れてはないだろうが、血が伝っている。その顔を見て、弟が怯んだ。
「……やれもしないことを、やらざるを得なくさせてくれたのがその教師ですよ」
 鼻を乱暴に擦ると、荒療治でなんとか流れ出る血は止まった。そして、弟が気を抜いて手放したボールを廊下の奥まで蹴り飛ばす。
 姉のテニスボールとは違って、幾つも持ち歩ける代物ではない。弟が顔を歪めた。
「性格最悪だな、お前」
「校則違反じゃないからいいかなって」
 言いながら、片手で真横にあった窓を割る。鍵を開ける手間も今は惜しかったのだ。
 グラウンドを歩いていた右京が、その音に反応して顔を上げる。左京が周りに見あたらないところをみると、物集女のところにはもう左京が行っているんだろう。
「なーにしてんの亜麻ー」
「お前こそなにしてんだ、ここはお前の担当だろ!」
「弟先輩いるのー?」
 なんだその名称は、とつっこみかけたが、それどころでもない。
「いる! だから早く来い!」
 はーい、と間の抜けた返事をしながらも、右京は玄関口へ向か――わず、窓の真下にある用具倉庫の屋根へよじ登った。逃走を試みていた弟もその光景に目を見張る。
「おい……学ラン、お前なにしてんだ」
「亜麻が早く来いって言ったんじゃん。はい、亜麻そこどいてー。あぶいよー」
 がん、と硬い音がして、右京が飛び上がる。次の瞬間には窓枠を掴んだ右京がくるりと身を回転させて廊下に舞い込んできていた。
「お待たせしましたー。左京がいなくてちょっとパワー不足な右京ちゃんの登場でーす」
「お前らは幼児向け美少女戦隊かなにかか」
「隊ではないから、美少女戦組かなー」
「美少女認めんのかよ……」
 うん、とふてぶてしく頷く右京だった。心も綺麗でなければ美少女戦隊にはなれまい。
「さてまあ、弟先輩。たった今からこのわたくし、右京が亜麻に変わってお仕置きよ」
「だからそれは戦隊だっつの。あと古い」
 鈴珠ですらもう見ねえぞ、美少女戦隊。
 まあおふざけはここまでとしても、右京が来たならばもう俺はお役御免だ。「その顔、笑える」と呟いた右京の額を叩いて、戦闘から降りた。
 本来、俺と弟は戦ってはいけないのだ。一尺八寸が貫く信念の端くれくらいは俺の心にあって、いくら男に扮しているとはいえ女子と真っ向から戦いたくはない。姉の方は左京と物集女で戦力的にもちょうどだろう。
 後ろで右京と弟が間合いを取り始めたので、俺は逃げるように一つ上のフロアへ上がってトイレへ。清潔とはいえない洗面台で血の滴る顔を洗う。怯えさせるためとこのままにしておいてもいいかもしれないと考えたが、もし物集女に会ったら泣かれそうだと撤回した。それに今回はさっきと違い、五十分間ぶっ通しの勝負だ。さすがの俺でも五十分間顔面血まみれで徘徊するのは憚られた。
 顔についた水滴をパーカの袖で拭いながらトイレを出る。なんとはなしに現代人の習慣でスマートフォンを取り出して見てみると、何回も見槻先輩から着信があった。メールは今までもあったが、電話は初めてだ。驚いてかけ直してみるが出ない。
 憶測ではあるが、見槻先輩の居場所はだいたい検討がついている。電話を諦めて屋上へ直接向かうと、やはり見槻先輩がいた。ただし一人ではなく、
「きのみさん!」
「亜麻! 助けて亜麻!」
 わけのわからない薬品を手に、見槻先輩がきのみさんに迫られている。すでにいくつか薬品をぶちまけられているのか、コンクリートが濡れていた。
 一つ上の先輩が死にそうな顔で助けを求めてきたとあっては、俺もきのみさんの前に立たざるをえない。薄ら笑いを浮かべるきのみさんと対峙しつつ、見槻先輩を怒鳴りつける。
「武器はどうしたんですか、武器は!」
「香水なんて振りかけたらどの薬品と反応起こすかわかんないとか言うから! もろとも爆死とかしたら怖いだろ!」
 甘いマスクもムスクも形無しだった。思えば生徒会の中でそれが通用しそうな人物なんていないんじゃなかろうか。かろうじて裏生徒会の物集女だけだ。
「……今考えれば、初期メンバーとは思えないほど役立たずっすね見槻先輩。一番合戦先輩に振り回されてばっかであんま女子と遊んでるとこも見ませんし」
「今それを言うなよ! 後輩に縋る俺の情けなさ考えろよ!」
「とまあ、あまりに見槻先輩が哀れなんで……ここは引いてくれませんか、きのみさん」
 試験管をそれぞれの指の間に何本も挟んだきのみさんが、えー、と不満げな声を上げる。少し考えるふりをして、
「じゃあ、この薬品がなにか当てられたら解放してあげよっかな。小分けにしてるだけで、この試験管の中身は全部一緒だから安心していいよ」
「……ヒントは?」
「なしだよん。ついでに制限時間もつけちゃおっかな、残りじゅうびょーう」
 うわ、亜麻、と引き攣った声が背後から漏れる。刻々とカウントされていく秒数の中で、なんとか一つだけ疑問を見つけ出した。
「見槻先輩、あれって本当に劇薬なんですか?」
「コンクリート溶けてんだぞ、劇薬だろ」
 言われて見下ろすと、濡れた地面が若干ながら溶けている。それを確認して頭を回したとき、きのみさんのカウントがゼロになった。
「時間切れ」
 それだけを口にして、試験管の蓋を親指で押し開けるきのみさん。最後の確認の頭で為してから、ぶちまけられた薬品を俺は手で受け止めた。しっかりと薬品のかかった手を見下ろしてみるが、やはり溶けも焼けもしてはいない。
「……大丈夫ですよ、見槻先輩。これはただの強酸性水です」
「きょうさん……なんだって?」
「強酸性水。普通にうがい薬なんかにも使われますし、人体に害もありません。殺菌作用の強い水って考えてくれればいいです」
 手についた水滴を振り払うと、コンクリートにはやはり少しの変化がある。
 きのみさんは残りの試験管をカーディガンのポケットにしまいながら、少しだけ呆然とした表情を浮かべた。
「確かに強酸性水は塩酸を水で薄めれば簡単にできちゃうような代物で名前の物騒さに反して実際は高い殺菌作用を誇る薬品で日常ではスキンケアや消毒に使われるくらい便利で安心な薬品だけど……どうしてわかったの?」
「最初は、小分けにしてるから劇薬じゃないのかと思って。劇薬なら大量に使ったほうが多分効果は強いですよね。現に今まで塩酸やそれらの薬品をきのみさんはボトルごと持ち歩いていたのに、今回はなんで試験管なんだろうって。それ考えた時、もしかしたら日常できのみさん自身よく使うような薬品なんじゃないかって考えました。それで、コンクリートは確か炭酸カルシウムでできていますから……それを溶かすとなったら、強酸でしょう」
「……すごい。出雲郷くん、凄い。わたしの薬品見て逃げなかった人、出雲郷くんだけ」
 煙のように、という表現が駆使されるべき喋り方を、俺は初めて見た。
「やっばい……出雲郷くんのこと好きになっちゃいそう」
「ええ!? 困ります! それだけは本当に!」
「な、なんで!? ちょっと今傷ついたよわたし! 無花果ちゃんいるから!?」
「それもですけど……俺この前白先輩に聞いたんですもん! きのみさん、飲み物に甘み足りないってなったら何入れるんでしたっけ!?」
「目薬が甘い原因、抗炎症効果もある甘草が主成分のグリチルリチン酸二カリウム!」
「確かに醤油の甘みを引き出すのなんかに使われたりはするけど! 砂糖を使え砂糖を!」
 コーヒーに砂糖やガムシロでなく、グリチルリチン酸二カリウムを入れる女子は誰だって嫌だ。もし鈴珠がいなかったとしても嫌だ。
「ああもうなんで薬品にそんな詳しいの出雲郷くん! 本当に好きになっちゃうじゃん!」
「きのみさん対策に決まってるでしょう! この一週間で叩き込んだんですよ、っていうか本当に、それだけは、勘弁してください!」
「わたしのために!? ああもうだめ今好きになったなっちゃった!」
「やめてくださいって! きのみさん、鍵を忘れて家に入れなかった時は!?」
「たまたま持ってた塩酸で鍵穴溶かした!」
「たまたま塩酸を持ってる十九歳の女子高生なんて俺の手には負えない! 鍵屋のおっさんが泣いてますよ!」
「歳がネック!? 年上嫌なの、亜麻くん!」
「そこだけ都合良く聞き取らないでください俺が器の小さい人間みたいでしょう! あとさりげなく彼女みたいな呼び方にシフトチェンジしないでください!」

 ようやく我に返ったのは、そっと立ち去った見槻先輩から『白の演奏が始まった』と裏生徒会宛てに一斉送信メールが来た頃だった。耳を澄ませればバンドの音が聞こえる。
 果たして、二十分以上が屋上に来てから経過していた。残り時間は二十分弱。
「マジかよ……」
 なんとかきのみさんから逃れ、二階まで降りる。さすがにもう右京と弟の姿も廊下にはなく、だがしかし、代わりにいた人物がこれまた予想外であった。
 一番合戦先輩と、姉。異質な組み合わせだ。
「今ここで私がガセちゃんを倒せば、こっちの勝ちだよね」
「それが?」
 姉が挑発のように言うが、一番合戦先輩はしれっとあしらう。
「あーくんいるから言うけど、今回の事情はなんとなくこっちにも伝わってる。勝てばいいのか負ければいいのか揉めたよ、正直。でもやっぱり私たちはイッチーを守るための役員なわけだから。今も派閥は少しあるけど、私は完全にイッチー派。だから手加減してくれるなんて思わないでね」
「手加減……? 私がするんじゃなくてか?」
 芝居じみた一番合戦先輩の言動と表情は、こういう場面に置いては一級品だ。ほんわかした姉の挑発とは比べものにならないくらい、人を苛つかせる。
「二対一だからって、そんな、」
「あ、先輩。前髪ぐっちゃぐちゃ。やばいっすよ、バーコード状態」
「うっそ、マジで!?」
 悲しき習性で、握りしめたラケットごと前髪に触れてしまう姉。綺麗にピンで纏められた前髪に乱れなどありはしない。
「前髪は女子の命っすもんね……同情します」
 その隙に懐へ潜り込み、罪悪感すら感じる細い足を払う。だがさすがの姉、飛んできた一番合戦先輩のシャーペンこそラケットのグリップで弾いたが、
「赤と白のマリンボーダー……」
 見たままを呟いてしまった俺に気を向けて、体勢は立て直せなかった。尻餅をついた姉が真っ赤な顔でスカートを押さえる。姉はまるで被害者のようなツラをしている、が。
「み、見た!?」
「ええ、見ました。しっかり、……証を」
 一生もののトラウマを負わされたこちらに比べて、姉の傷がなんと軽いことか。好きな女の下着を毎日畳まされている俺に、今更女子のパンツなどさした興味もない。
「女子の下着見といてその態度……!」
「つーか、女子ですらねえ。……っで!」
「マジで同情する気失せた! もー私絶対なにがあっても勝つから!」
 ラケットが全力で飛んできた。武器を手放すなど、通常の姉ならばしなかっただろう。
「もういい、お前はどっか行ってろ。いても逆効果だ」
 一番合戦先輩に追い払われ、二人から離れた。一番合戦先輩の飛ばす文具と姉のラケットがぶつかり合い、音だけはそれらしく物騒に鳴る。
 一階まで降りたところで、見覚えのあるちんまりした存在を捕まえた。
「あ、やっ、なんっ……あ、亜麻!」
「うす。なにしてんの?」
 物集女は俺であったことに安心したのか、ほっと胸を撫で下ろす。
 下の階に降りれば降りるほど中庭で行われているバンド演奏は大きくなるが、眼鏡をかけた今の物集女ならば特に問題はなかろう。
「ええと、さっき弟さんに会って……まだ演奏始まる前やったから、眼鏡外して……」
「なに使ったの」
「え?」
「棒。今回はなに使った?」
 純粋な疑問だったのだが、物集女は黙りこくった。
「なんだよ?」
「笑うかな、思て……」
 物集女の武器は場所と場合によりけり。長物である故に、近くにあるものを使うしかない。
「いいから言ってみ」
「消化器の上に忘れられとった差し棒」
 爆笑した。物集女が差し棒でサッカーボールと戦う図を想像したら、なんというか、相当アレだった。それにそれは、剣道というよりフェンシングの図だった。
「やっぱ笑うやんか!」
「笑わねえとは、言って、な……ふは、はっ」
「な……なにがそんなにおかしいん!?」
「いや、相当びよびよしたろ」
 揺れ惑う差し棒を想像して、余波。笑いまくる俺の背中をばしんばしんと愛嬌たっぷりな強さで叩き、
「そ、そんなことより! 一時間目の残り、あと十分ちょっと!」
「ん、あー……そうだな、このまま休戦待ってもいいけど……」
 顔には笑いの余韻を残しつつも、何度か咳払いをしてなんとか波は引っ込める。想像がぽっと出しないよう封印し、思い出し笑いも避けた。
「一時間目の間、物集女は弟以外誰とも会ってない?」
「鼎さんとは会うた。鈴珠を探してたらしいんやけど、今どうなっとるか知っとる?」
「姉に捕まってる。鈴珠なあ……どこに隠れてんだ、あいつは」
 一番合戦先輩が予測できず、見槻先輩が察知できないところが俺にわかるとも思えないので、鈴珠に関する推測は早めに打ち切った。
「それより気になっとることがあるんやけど……」
「ん?」
「亜麻、一尺八寸くん見んかった?」
「そういや見てねえな。いないのか?」
「うん。亜麻が一人で戦ってるかも思て探してたんやけど、おらんくて」
 確かにそれは妙だ。一番合戦先輩と渡り合えるほどの積極性を持ちうるのは一尺八寸一人だというのに、その一尺八寸が未だに姿を見せていない。
 体育によって教室を空けているクラスに移動したという見槻先輩に連絡を取ってみるが、こちらも未だ一尺八寸の動向を掴めていないという。鈴珠に加えて一尺八寸までもが行方不明らしい。見槻先輩が把握する限り、俺以外もまだ一尺八寸と鈴珠には出会えてないという。ついでに双子が今きのみさんを相手取っていることを聞いて、通話を断つ。
 そこまで終えたところで、チャイムが鳴り響いた。白先輩たちの演奏も止む。
 物集女とともに会室に戻りつつ、行き交う生徒の中で一尺八寸の姿を探してみたが、結局見つかることはなかった。

 どれだけ長引いても二時間目程度までだろうと見積もっていた俺の計算はあまりに甘く、四時間目が半分過ぎてもまだ決着が着くことはなかった。
 ここに来て、作戦どころではなくなったのだ。一尺八寸の失踪という予想外の出来事によってまず向こうのパワーバランスが崩れ、見槻先輩一人を欠いても何ら変わりのないこちらが圧倒的に勝る状況となった。そこまではいい、むしろ優勢だ。
 だが問題は、鈴珠が未だに見つかっていないということ。
 三時間目の終盤などは生徒会役員全員を一度はねじ伏せたのだが、裏生徒会全員で鈴珠を探しているうち、休戦状態に入って役員たちも完全復活を果たしてしまったのだ。
 どれだけ戦力差があろうと、こちらがボス剥き出しなのに対して向こうはまだ一度も表舞台に鈴珠を立たせていない。最後の目撃情報は、俺が最後に廊下で会った時。
 勝っているのに、追い詰められるという状況だった。
 そしてまた、俺のハンデも徐々に目立ち始めてきている。
「先輩方……いっこ、訊いてもいいすか」
 さんざボールを喰らい、ハンデを抱えた体はすでに疲弊を隠しきれない。よろめく体を壁で支えつつ、四時間目はずっと対峙している和先輩たちになんとか笑みを向ける。
「今日、鈴珠に会いましたか?」
 和先輩たちは顔を見合わせたが、教えてもさして不利にならないと判断したらしい。
「いや、俺らも会ってない」
「ていうか、役員もイッチーの居場所教えてもらってないしね」
 だから無駄、とでも言いたげにスマッシュを打つ姉。一時間目のことがまだ尾を引いているのか、姉の攻撃には容赦というものが存在しなかった。
 だがそのとき、戦闘中は音を出すようにしたスマートフォンが鳴く。見槻先輩からのメールだった。サッカーボールを肘で防ぎながらなんとか目を通すと、一尺八寸の居場所がわかったという旨のものだった。
 添えられた居場所を確認して、スマートフォンを仕舞う。どうしたもんかと思っていると、双子が窓からずるりと入り込んできた。どうやら一つ上の階の窓から下がってきたらしい。
「スパイダーマンか、お前らは……今度からスパイダーツインズって呼んでやろう」
「突っ込んでる場合じゃないでしょー。ぼろぼろじゃーん」
「ここはあたしらが受け持つから、早く行きなよー」
 聡い奴らだった。鈴珠を倒さない限り終わらない戦いでも、一尺八寸を相手にする理由がなくても、一尺八寸が鈴珠の居場所を知らなくても、俺が行くと知っている。
 悪い、と一言謝って、廊下を走る。渡り廊下を走り抜けようとして、足を止めた。走っても飛び降りても俺の体にかかるダメージはもうさして変わらない。だったら時間短縮を優先させた方がマシだろうと、渡り廊下から中庭へ飛び降りた。
 そこからさらに走り、たどり着いたのは朝とまったく同じ校舎裏。じめじめとして虫も這うようなその場所に、四時間以上も一尺八寸はいたのだ。
「なにしてんだよ、お前」
 朝と同じに座ったまま、一尺八寸は苦笑いで俺を見上げた。煙草の吸い殻が排水溝に山積みとなり、吸い終えた煙草の箱が落ちている。
「鈴珠に嫌われたくないんじゃないのかよ。絶対ばれんぞ、これ」
「やっぱ俺みたいなのが、こんなお綺麗な私立来たんが間違いなんすかね。煙草吸う奴もっといるかと思ったら、俺だけすもん。おかげでお嬢にもすぐばれっし……」
「んなこと訊いてねえよ。なにが起こってるか知らねえわけじゃねえだろ。なのになんでこんなとこに引き籠もってんだっつってんだよ」
 鈴珠の指示で隠れるんなら、もっと上手いところにするだろう。朝俺に見られた以上もうここが使えないということがわからないほど鈴珠は馬鹿じゃない。となれば、これは一尺八寸の判断だ。それもまた、見つかっても見つからなくても構わない、なんて隠れ方で。
「ずっと考えてたんすよ、朝兄貴が話してくれたこと。なんか違うんじゃねえかって。なんでお嬢と兄貴が幸せんなるのに、俺が兄貴とバトんなきゃなんねえんだって」
「……で? それでなんでお前はこんなとこいんだよ」
「俺、今回は兄貴を勝たせます」
 耳鳴りがした。
「……今、なんて」
「兄貴と戦うの、馬鹿らしいすもん。兄貴が勝ってお嬢娶ってくれりゃ、それが誰にとっても一番幸せじゃないすか。なんのために戦うんすか」
 体は死ぬほど痛んだ。ハンデもだんだんと熱を増している。
 こんなへたれた野郎放って、鈴珠を探しに行けば何一つ俺に損はない。一尺八寸の言う通り、すべて素通りしてしまえば、俺はなにもしなくていい。
 一尺八寸のジャージの襟を掴み、強制的に立ち上がらせる。自分より長身でガタイもいい男を操るのは、それだけでも重労働だ。鈴珠はこんな荷物を顎だけで動かしているのか。
「なんのためにやってるかって、そんなのもわかんねえのか」
「……意地張るのやめましょうや、兄貴。もう兄貴は然るべきダメージ負ってるじゃないすか。お嬢も納得しますって、その状態の兄貴見りゃ」
「お前、俺が自分や鈴珠のためにやってると思ってんのか」
 不審そうに眉を寄せた一尺八寸を、全力で殴った。姉のテニスボールが命中して痙攣する右手で。以前、一尺八寸が物集女の一発を受けた時と同じように。
 素通りするのは簡単だ。一尺八寸を避けて、鈴珠を探しに行けばいいだけの話なのだから。戦うのをやめるだなんてことを言う奴は、相手にしなきゃいい。他人とすれ違うように、道端の石ころのように。嫌悪の先にある無関心にたどり着けばいいのだ。
 でも一尺八寸には、殴るだけの価値がある。俺には一尺八寸を殴る権利も理由もあるし、一尺八寸は殴られる理由も義務も、そして価値もある。
「俺は、てめえのためにやってんだよ! てめえが俺と真っ向からやりあって、真っ向から負けて、真っ向から鈴珠を諦めきれるように! 曲がりなりにも今まで鈴珠を好いて守ってくれたてめえが報われるように! それともなんだ、てめえの気持ちはそんなもんか!? 今までお嬢お嬢言ってたのは所詮口だけかよ!」
「……あ?」
 地の底から這い上がってくるような、低音。
 蜃気楼のようにゆらりと立ち上がった一尺八寸は、黒いジャージを脱ぎ捨てた。
「なんでてめえが優位なんだよ……なんで上から目線で喋ってんだよ。なんで、てめえが勝つこと前提の話なんだよ……?」
 ぞわりと総毛だった。中一以来の迫力を真ん前で感じて、すべてが劣る俺は立っていることすら困難になる。
「んなに言うなら、相手してやらあ!」
 一尺八寸が繰り出したジャブは、避けずに受けた。
「……これで、さっきのはチャラだかんな」
「だから、上から目線で喋んなって言ってんだろうが」
 俺が見るのは久々であろうと、一尺八寸はまだまだ現役だ。俺なんかとは違う、硬く研ぎ澄まされた人を殴る用の拳が真っ直ぐに飛んでくる。今度は避けた。同時に俺も拳を繰り出すが、それくらいは一尺八寸にとって攻撃ですらない。首だけで躱してみせる。
「なあ、一尺八寸。こうやんのも久々だよなあ」
「お前ら兄妹は、昔から俺を都合よく使ってくれたよ」
 間合いを図りながら、お互いに牽制の攻撃を仕掛ける。
「普段こそ俺が兄貴って呼んでるけどよ、本来お前は舎弟だよな。ある程度まで戦えるようにしてやったのは俺なんだから」
「ああ、ばれてた?」
「たりめーだ。なにかといえば鈴珠がどうのと理由つけて俺に喧嘩売ってきてたの、あれ、俺を手合わせとして使ってたろ」
「まあ。感謝してるぜ、教師様」
 俺の出した蹴りは腕で弾かれ、逆に強烈なのを一発もらう。ただでさえふらつく体が、さらに不安定となった。
「空手なんかの道場通うことも考えたけど、それだと完全実践向きとは言えなくなっちまうし。鈴珠を守るための暴力となったら、やっぱ超実践型のお前が一番いいかと思って」
「妹守るため、なんて理由で俺に喧嘩しかけんのはお前くらいなもんだよ」
 一尺八寸が苦笑する。今度は足を大きく上げてのボディ狙いを放つ。幸いそれは防御されずにヒットしたが、同時に一尺八寸が足払いを仕掛けてきていた。片足立ちの俺は避けることもできず、見事にすっ転ぶ。
 だが立ち上がるまで手を出さないのが一尺八寸流だ。俺が立ち上がると、すぐさま拳が飛んでくる。それを避けながら、自分よりか高い位置にある一尺八寸の顔を殴ろうと腕を伸ばす。その手と肘を両手で掴まれ、再び地面に叩きつけられる。
 叩きつけるとすぐさま手を離そうとする一尺八寸の襟を掴み取り、同じく地面へとひっくり返した。掴んだ手を離さぬまま馬乗りになり、振りかぶる。
「っんの……クソ野郎!」
「てめえの流儀なんか知ったこっちゃねえんだよ」
 一発殴る度、骨同士のぶつかる嫌な音が鳴り響く。三発目を放とうとした時、殴打と構えの一瞬の間をついて一尺八寸が上体を起こし、ヘッドバンキングをかます。後ろに転がる俺の胸ぐらを掴んで、半ば宙づりのように立たせ、その腹に膝蹴りを。
 しばらくそんなふうに殴り合って、四時間目ももうすぐ終わるという時だ。
 俺の首をホールドして拳を振り上げていた一尺八寸が、なにかを考え込むような表情をした。喧嘩中に躊躇うなど一尺八寸らしくもない。
 二秒ほど目を閉じた一尺八寸は、そのまま俺の首を解放してしまう。明らかに戦闘意欲をなくした一尺八寸に殴りかかることもできず、俺も眉をひそめるばかりだ。すると一尺八寸はストックがあったらしい煙草の新箱を取り出し、火をつけてから、
「やっぱ、俺の負けっすよ兄貴」
「は……?」
 明らかに戦況は一尺八寸が優位だった。喰らった数も一尺八寸は俺の半分にもいってないはずであり、今までのダメージもある俺はあと一発で倒れるんじゃないかというほどなのに。
「ちょっと考えちゃったんすよね、今。もしここで俺が兄貴に勝って……そしたらお嬢は、喜んでくれんのかなって。誰が相手でも、兄貴が負けりゃお嬢は泣くんじゃねえのかなって考えたら、もう殴れなくなっちまって」
「……そんなん、」
「最初からわかってただろって言わないでください。んなこと言ったら、最初っからお嬢は兄貴しか必要としてなかったんすから。お嬢に惚れた俺はなんだったんだって話っすよ。……お嬢に惚れたこと、後悔したくないんですよ。だから、これでいいです」
 一尺八寸が俺に煙草を差し出す。今度は受け取って、座り込んだ。百円ライターで火をつけてもらいながら、嫌われたくねえなあ、などとぼやく。
 疲れる座り方で、吸いたくもない煙草を吹かして、一尺八寸と肩を並べる。
「なんつーか、俺ら鈴珠に振り回されてばっかだよなあ……」
「惚れた弱みってやつっすかね」
「だろうな。俺なんか結婚する前から尻に敷かれてる」
 掠れた声で一尺八寸が笑った。煙草の吸いすぎだ。
「でも俺、兄貴にも振り回されてんすよ」
「そうか? 悪いな」
「まあ、こっちも惚れた弱みなんすけど」
「うわ、俺に惚れてんのか、お前。趣味悪」
「もしかしたらお嬢以上に惚れてますよ」
「いらん、やめろ。きしょいわ」
 二人して枯れた笑い声を上げると、ちょうどチャイムが重なった。

 昼休み。さすがにいつものメンバーで、というわけにもいかず、生徒会は生徒会の会室、裏生徒会は裏生徒会の会室で会議も兼ねた昼食時間となった。
 俺との勝負は負けという扱いになったが、生徒会となればそうもいかない。一尺八寸も五時間目からは参戦するという旨を、本人からの言伝として裏生徒会メンバーに伝えた。
 これでパワーバランスは均等になったが、そうすると大将の扱いが面倒である。
「鈴珠はまだ見つかってないんやろ? そしたら、鼎さんは五時間目から隠れてた方が……」
 片手に収まるほど小さな弁当をつつきながら物集女が提案する。一番合戦先輩は難しい顔で甘ったるそうな菓子パンをかじった。
「だがそうすると、一尺八寸の戻ったいま、私抜きでの太刀打ちはきついぞ。それにもし向こうをねじ伏せたにしても、鈴珠がいないんじゃまた振り出しだ。互いのボスが雲隠れしてたんじゃいつまで経っても決着が着かん」
「俺も一応は校舎内ほぼ全部歩いてみたんだけど……無花果はどこにもいなかった。こうなると隠れてるってレベルじゃなく、いないって可能性も」
 栄養補給食の見槻先輩。だがそれはありえないのだ。授業中に許可なく学校外へ出ることは校則で禁止をされているし、どちらか片方でも会長が学校内に存在していなければこの戦争は無効となるという校則もある。鈴珠が学校外にいるというのは、二重でありえない。
「まあ、仕方ないな。五時間目はできる限りの戦闘を避けて、全員で鈴珠の捜索といこう。それでなんとか見つかればいいが……どうなるかは私にもわからん」
 そう一番合戦先輩が締めて、昼休みの会議は終わった。

「亜麻、もしかして調子悪いん?」
 すでに走る必要もなくなった五時間目、物集女が心配そうな顔でそう訊ねてきた。内心どきりとしつつも、平静を装って放送室の扉を開く。
「そりゃこんだけ肉体攻撃喰らえばな。鈴珠も見つかってねえし」
「それはそうやけど……なんか、なんやろ。なにかがおかしいんよ」
「顔か」
「ちゃうよ!」
 ようやく慣れてきたのか、突っ込みが早めかつ的確に入る。物集女の団子を毬のように弾ませることを返事として、次の扉を開けた。するとそこには、
「うぅわ! ……って、なんだお前らかよ」
「先公かと思った。びびらせないでよねー」
 いつかに見た、髪ぐるぐる睫毛ばさばさ女たち。さすがに物集女はそっと俺の後ろに隠れるが、でかい鏡を覗き込んでいた茶髪がげらげらと笑う。
「んなびびらんでももういじめねーって。なんかよくわからんけど、第二の生徒会みたいなの入ってんだろ、お前。そんなんに逆らいたくねーし」
 どうやらサボりらしく、極限まで緩んだ制服をさらにだらしなくして床に座り込む二人。
「むしろ仲良く行きたいくらいだね。そんで校則変えてよ、もちっと緩めにさー。あ、あたし伊藤絵里。で、こっちが中村由美。なんかあったらよろしく。バトったよしみでさ」
 気怠げに携帯をかちかち打ち込みながら、金髪の中村が軽く笑う。
「てゆうかさー、なんていうか、兄妹で生徒会って凄くない? あんたの妹、生徒会長になっちゃったんでしょ? 超ぽかったもんねー」
「あ、でもさ、なんか今日おかしくね?」
 鏡を見て前髪を弄りながら、伊藤が思い出したように言う。同じく携帯に目を落としたままの中村が、んー、と話半分丸出しに相槌を打った。
「いっつも真面目にがりがりノート取ってんのにさ、今日はなんかずっとぼーっとしてたじゃん。窓の外見たりさー」
「あー、してたしてた。国語の時なんか石沢に怒られてたし」
 どうでもよさそうに交わされる、その話。後ろで物集女が息を呑んだ。
「……なあ」
「あー?」
「それ、誰の話だ?」
「は?」
 鏡を見ていた伊藤が、面倒そうに歪めた顔を上げる。口は悪いが、中村よりかは口数が多いだけこちらのほうが接しやすい。
「誰って……無花果に決まってんじゃん。あんたの妹だよ」
「鈴珠が、授業にいたのか!?」
「なに興奮してんの? いたよ、ずっといた。一時間目からずーっと。……それが?」
 そうか、そこか。思わぬ人物から漏らされた思わぬ情報に、心臓が高鳴る。その高鳴りは物集女も感じているのか、俺のパーカがぎゅっと掴まれた。
「相変わらず意味わかんね。つーか生徒会なら授業出ろっつの」
「伊藤! と、中村!」
「んっどはなんだよ!」
「なにそのあたしのついで感……」
「お前らすげえよ! マジすげえ!」
「はあ……? マジで意味わかんないんだけど……なんでアガってんの?」
「この恩に免じて例の写真は消しといてやるよ!」
「恩て……つか、はあ!? まだ消してなかったのかよふざけんな!」
 激昂する伊藤と中村を残し、鈴珠の教室まで一直線に向かう。後ろでは物集女がこのことを電話で見槻先輩に回していた。
「見槻さんが鼎さんと右京たちに言ってくれるって!」
「サンキュ! 見槻先輩にも礼言っといて!」
 鈴珠の教室までたどり着くと、迷わず扉を開けた。室内にいた授業中の生徒や教師は当然驚いて振り返るが、一つだけ振り返らない影があった。
「……最後まで見つからないと思ってたのに」
 窓の方を向いたまま低くそう呟き、溜息ながらに立ち上がる、平均を遙かに下回る小さな体躯と、三年間伸ばし続けたおかげで綺麗に伸びた黒髪。
 満を持しての、鈴珠である。
「残念だったな。まあ、五時間目まで見つからなかっただけ奇跡だろ」
 ここに鈴珠は一人きり。それに対してこちらは俺と物集女。もう逃げ場もなかった。
 あとはもう、俺が手を伸ばすだけ。それで鈴珠は手に入る。だが鈴珠が浮かべたのは嫌悪の表情でも、痛恨の表情でもなく――勝ち誇った笑みだった。
「私市!」
 鈴珠が呼びつけたのは、誰より従順で強靱な男。俺が殴ろうと蹴ろうと大したダメージを受けなかった男が、少女のたった一声で。
「ご用は?」
 座っていた席を立ち、すぐさま鈴珠に寄り添う。この時間からは近衛としていたらしい。
「授業の邪魔。追っ払って」
「うす」
 鈴珠は何事もなかったかのように席につき、一尺八寸が俺らに向かう。物集女は苦し紛れに片付け損なわれていた箒を掴んで教室を出たが、だがしかし。
 廊下に出た俺たちの耳には、白先輩の多少枯れてはいるが未だ力強い歌声が響いている。
「……物集女」
「大丈夫やから……心配せんといて」
「物集女、いい。俺がやる」
 肩を掴んで、物集女を下がらせようとする。
「いいから!」
 そこに、力強い声がねじ込まれた。初めて聞く、物集女の怒鳴り声だった。
「……本当に、大丈夫やから。この一週間、わたしだってなんもしてんかったわけちゃうよ」
 俺は嘆息する。俺の周囲には頑固な女が多い。
「わあった。とりあえず眼鏡貸せ。ケースないけど、持っててやる」
「ううん、ええ」
「割れんぞ」
「割れへんよ」
 箒のブラシ部分を足で踏んだ物集女は、折るようにしてブラシと柄を分解した。ブラシを廊下の隅に蹴り転がしながら、柄だけをきつく握りしめる。
「眼鏡、取らんもん。このままやる」
 そう言う物集女の手は、微かにだが震えている。当たり前だ、俺でさえ先ほど背筋が凍った一尺八寸相手なのだから。
「できんのか」
 訊ねたのは一尺八寸だ。やはり物集女が仕掛けてくるまで手出しをする気はないらしい。
「やる」
「やるやらないじゃねえ、できるかできないか訊いてんだよ」
「……できるから、やる」
「ま、そりゃそうだわな」
 物集女が一歩、踏み込んだ。心なしか音楽が肥大して聞こえる。勢いで振り上げた柄はまったく的外れな場所へ落ちるが、物集女はすぐさま次を構えた。
 一尺八寸は呆れたように息をつき、物集女の柄を片手で掴んだ。
「なんでそこまですんだよ。いくら兄貴がぼろぼろでも、今のお前よか戦えんぜ。俺だって兄貴殺しゃしねえよ。女は女らしく退いとけ」
「……だって、亜麻は……わたしを守るって、言ってくれた」
「そりゃ言うだろうよ。俺が惚れた兄貴だ。女の一人や二人守るわ」
 一尺八寸が正論だった。だが物集女は退かず、むしろ声を荒げた。
「そんなに、あかんの? ……わたしが亜麻を守りたいと思うのは……わたしを助けてくれた亜麻を、わたしが助けたいと思うのは、そんなにあかんの!? 亜麻の周りにはいろんな人がいて、亜麻はきっと、そんな人たちを全員助けようとするやろ!? そんなとき、わたしまでぬくぬく亜麻の後ろに隠れてられんやろ……! それが、好きってことちゃうの!?」
 物集女は完全に心を掻き乱されていた。一尺八寸でも俺でもなく、一番合戦先輩に。
 最初からこれだけが目的だったんじゃないかと今なら思える。鈴珠や一尺八寸なんてのはおまけに過ぎず、結局はすべて、物集女のために俺は一週間動き回ってたわけだ。
「たくさんを守る亜麻を、わたしが守りたいって思うのは、そんなにあかんの……!?」
 次の一振りに、迷いはなかった。胴を狙った柄は見事に脇腹へ命中し、さすがの一尺八寸も肋骨直撃の刺激によろめく。
「くそ、やっぱいい女なんだよな、お前……」
 物集女はすぐさま剣を引き戻し、次撃に備える。さすがに面狙いだけはできないだろうが、胴や小手くらいならいくらでも繰り出せるだろう。
 薄いレンズ越しにしっかりと世界を捉えて、それでも物集女は動けていた。
 だがそのとき、柄を撃ち返そうと握った一尺八寸の拳が外れるのを見た。柄を捉えきれなかった拳は真っ直ぐ物集女へと向かい、そして、
「……亜麻……っ?」
 気付いた時には、頬とハンデが死ぬほど痛んでいた。ついに自分の体重を足で支えきれず、痛みから逃れるように廊下へ倒れ込む。
 庇って死ぬのは、鈴珠だと思っていたのに。
「亜麻、大丈夫……!?」
 一尺八寸のことも忘れて叫ぶ物集女に、大丈夫、と答えた。答えたのだ。だが、そのまま立ち上がることができない。気持ちがいくら立ち上がろうとしても、体が動かない。
 正確には、立ち上がるための部位が機能していない。
「……悪い、物集女……」
「なに、亜麻……なに? どうしたん? なんで、謝るん……?」
 泣きそうな物集女に、願いを託す。
「……一番合戦先輩呼んで……」

 手当てをすべて終えて、一番合戦先輩は激怒した。
「お前運ぶのになんで私なんだよ! 見槻を呼べ、見槻を!」
「いや、一番合戦先輩のが力ありそうだなって……実際運べたじゃないすか」
「つーか第一! なんだこの怪我!」
 俺を立てなくした最たる原因――足裏に刻まれた無数の切り傷である。
 あの日鈴珠のもとへ駆け寄る際にガラスを踏んだ傷が、実は完治せずに今日を迎えてしまったのだが、朝はそれほどでもなかった。だが時間が経つにつれ傷口はどんどん開き、むしろ悪化し、最終的には足裏全体が腫れ上がるほどにまでなった。
 とりあえず鈴珠が見つかったということで、その前に立ちはだかる一尺八寸のところへは引き続き物集女と双子が行っている。が、時計を見れば五時間目が終わるまであと五分強、このまま六時間目の最終決戦へのもつれ込みは確定だろう。
 それをわかっているからこそ、一番合戦先輩は俺を引き取りに来てくれたし、会室で手当てまでしてくれた。
「物集女が異常に泣き喚くから、腕の一本も取れたのかと思えば……意識はあるし足以外はぴんぴんしてるし、その原因の足すらお前が原因だし! なんなんだお前は!」
「すんません……でも、次ラストっすよね? 六時間目からは復帰しますよ」
「駄目だ馬鹿」
 ぴしゃりと言い放つ一番合戦先輩。
「心配してくれてるんですか?」
「生憎シスコンの心配するほど私は暇じゃない。物集女に言いつけられてるんだよ、後は自分たちがなんとかするから出雲郷を会室から出すなと」
 そこでチャイムが鳴り響く。溜息をつきつつ、一番合戦先輩が昼の残りであるいちご牛乳をパックから吸い上げた。
「まあ、鈴珠が見つかった以上こっちの勝ちはほぼ確定と言っていい。一尺八寸とて私と双子と物集女でかかればなんとかなるだろう。和双子はかなり疲弊しているし、二千六百年は二時間目の時点で完全に飽きているらしい」
「……でも」
「でももこうもない。なにがあっても動くなよ、出雲郷。お前はもう然るべき手順は踏んだ。最後くらい私らに任せておとなしくしてろ」
 念を押すだけ押して、休み時間だというのに一番合戦先輩が出て行く。すると入れ替わりのように、歪んだギターケースを抱えた白先輩が入ってきた。
「よっすわんこ。可哀想なことになってんじゃん」
「……や、多分生徒会出禁っすよ、ここ」
「一番合戦から頼まれて来てんのに?」
 差し入れ、とスポーツドリンクの缶を机に置く白先輩。頭を下げる。
「最後くらい全力で戦って出雲郷の願い叶えてやりたいから代わってくれって、一番合戦本人から頼まれたんだよ。物集女が弱点克服しちゃったからあたしは用なしみたいでさ、生徒会側もあっさり許可出してくれた。出雲郷が動かなきゃちょっとは楽になるとでも考えてるんかね」
 白先輩は自分の缶を開けながら失笑を浮かべる。極彩色をした見たこともないような缶だが、よく見れば中身はただのオレンジジュースらしかった。
「もうあたしらの負けは確定してんのによくやるよ。いくら虚勢張ったところで、一二人全員が出雲郷を勝たすって方に気持ちが傾いてんのに。かくいうあたしも最初からこっちが勝つとは思ってなかったし。よくて引き分け。授業サボって歌えんならラッキー、くらい」
「……鈴珠もですかね」
「あったりまえじゃん。つーか筆頭でしょ、出雲郷肯定派の。もしかしたら出雲郷以上に出雲郷の勝利を望んでるよ。ていうかほんと、正直馬鹿らしいよ。ちっちゃい頃は『これ好き』『これがいい』『こうしたい』だけで動いてたのに、いつから『本当はこうしたいけど仕方がないからこうする』なんてことをするようになったんだろうね、あたしたちは。成長するにつれて退化するってどうよこれ」
 言ってることが至極もっともすぎて、苦笑する。ずけずけ物を言う白先輩は見ていて清々しいし、それが有り難い。本音を言うことすら勇気がいるこの世の中で、白先輩のような人は社会に出ても重宝されるだろうなと思った。
 しばらくは雑談レベルの会話を交わし、休み時間をやり過ごす。チャイムが鳴るとさすがに一旦会話が止まるが、すぐに息をついた。
「……今頃、戦ってますかね」
「じゃん? あたしの予想では五分でカタつくよ。だって一尺八寸も本心では出雲郷に勝ってほしいって思ってるもん。自分の心にゃ嘘つけまい」
 でさあ、と何気なく切り出されたので、うっかり流してしまいそうだった。
「あんたの本心はどうなのよ」
「……え?」
「さっきから冷静ぶってるけど、本当は今すぐ無花果んとこ駆けつけたいんじゃないの? 足ズタズタにしてまで妹に駆け寄った奴が、こんなことくらいで自分たちの最後を一任するわけないじゃん。さっきからどうやってここ抜けだそうか考えてたんじゃないの?」
 極彩色を飲み終えた白先輩が、手つかずだった俺の缶まで開けた。強制的に握らされた缶を煽り、喉を潤す。
「あたしは、あんたのそういう馬鹿正直なとこ好きだよ。後先考えず妹のことで突っ走って、今度はまた妹のことで頭悩ませてる。いいんじゃないの、今時珍しくて。だからゆってみ、あんたのやりたいこと。遠慮すんな、後輩は後輩らしく我儘垂れてりゃいんだよ」
「いいんですか」
「うん。自分の好きにしなよ、最後くらい」
「鈴珠んとこ、連れてってください」
 結局妹かよ、と白先輩が苦笑した。俺が一口だけ飲んだ缶をなんの躊躇いもなく一気に煽ると、俺の背中をばしんと叩く。
「よっしゃ! いっちょお姉さんがその願い叶えたろ!」
 白先輩は俺の脇にその細い肩をねじ込ませ、椅子からゆっくりと立ち上がらせてくれた。
 きついだろうに、俺が地面に足をつかないよう半ば浮かせるくらいに持ち上げ、ゆったりと部屋を出る白先輩。
「……本当はさ、あたしが一番合戦に申し出たんだ。出雲郷の世話してあげようか、って。どうせあんたがこんなこと言うのわかってたし、一番合戦は多分絶対に出してくんないだろ」
「……なんで、ここまでよくしてくれるんですか?」
「だってあんた、毎朝あたしの演奏聞きにきてくれたじゃん」
 階段を慎重に昇りつつ、白先輩の横顔を盗み見る。だがそれも見通されていて、爽やかな笑顔が俺の方を向いていた。
「例えそれが裏生徒会の仕事だったとしても、毎朝毎朝、あんなしょぼい弾き語り真面目に聞いてくれるあんたの存在、結構でかかったよ。それだけじゃない、あんたが、みんなの願いを叶えようとしてくれたから、みんなあんたの願いを叶えようとしてくれてんだ」
「………………」
「泣くんじゃねーぞ、小僧。愛する女がいんなら、他の女の貧相な胸なんか借りんな。……あとちょっとだよ。泣くな、頑張れ」
 はい、と頷くその声すら濡れていた気がする。ようやく一年生のフロアにたどり着き、廊下の人混みを見つける。一番に俺と白先輩を見つけたのは一番合戦先輩だった。
「白、お前……っ」
「ごめん、一番合戦。今まで年上趣味っつってたけど、どうやらあたし年下趣味っぽくて。あっさり誑かされちった」
「亜麻くん!」
 二時間目ぶりに見たきのみさんが駆け寄ってきて、白先輩と反対側を支えてくれる。というか、その呼び名はもう定着してしまったのか。
「傷大丈夫? 消毒してない? 切創は消毒したらだめだよ。水洗いした? 傷口に滲出した線維芽細胞、血管内皮細胞なんかには傷口を元気にする成分が入ってるからね、湿らせてラップ巻くのが一番いいよ。それともわたしが縫合する?」
「……なんか、キャラ変わりましたねきのみさん」
 笑いつつ、二人となって幾分楽になった歩みで教室前へ向かう。
「おそいー」
「ださいー」
「うっせ」
 好き勝手に俺をどつき回す双子に頭突きをかましていると、後頭部を結構な力で叩かれた。振り向くと、不機嫌顔の姉。
「……明日までに忘れてね」
「もう忘れました」
「それはそれでむかつく!」
 横にいた弟が、凝り固まっていた顔を少しだけ融解させた。
「性格最悪だけど、俺たちのこと誰にも言わないでいてくれたことは評価してる。ありがと」
 微かな笑顔の弟に頭を下げ、ようやく表に姿を見せた見槻先輩とは苦笑を交わし合う。
「最後までまったく役に立ちませんでしたね」
「お前はそろそろ俺が先輩ってことを思い出せ。……ほら、物集女も。亜麻来たよ」
 後ろに隠れていた物集女を押し出す見槻先輩。
 物集女は泣きはらしたような目で俺をじっと見上げ、少し眉をつり上げた。
「ほ……ほんとに、心配してんから、なっ」
「どうせなら一番合戦先輩に言ってやって、それ。あの人全然労ってくんねーの」
「鼎さんの言いつけ破ったの亜麻やんか!」
 返事はやはり、団子を握るだけ。次に向かうは一番の功労者。
「……ありがとな、一尺八寸」
 壁に叩きつけられる形で座り込んだ一尺八寸は、散々にやられていた。これこそ権利も価値もない、白先輩の言う『退化』したせいでできた傷だ。理由があるとすれば、一つ。
「惚れた弱みっすから」
 どちらに、とは訊かなかった。口端が切れているのを見たからだ。喋るだけでも痛いだろう。
 そして、鈴珠。
 鈴珠は教室から出て、みんなから少し離れたところに立っていた。何をするでもなく、ただ、俺を泣きそうな目で見つめていた。
「鈴珠」
「……なんで。そんな怪我してるのに、なんでくるの……? ほっといたって、どうせわたしは負けるのに。わけ、わかんない……」
「鈴珠」
 そっと、白先輩ときのみさんの支えを解いた。しっかりと自重を支えた足の裏は尋常じゃないほどに痛み、今にも倒れそうになる。
 それでも、歩み寄る。一歩一歩、確実に、ゆっくりと。
 ようやく鈴珠のもとへ。倒れ込むように、鈴珠を抱きしめる。
「それは、お前が俺の妹だからだよ。約束も結婚も関係なく、俺とお前は同じ日に生まれた双子の兄妹なんだよ。俺の大事な、妹だから。大事な大事な、この世にたった一人の妹だ。それに鈴珠、お前の兄ちゃんもこの世でたった一人なんだよ」
 泣く鈴珠を受け止めるつもりで、俺はここまで歩いてきたはずだった。でも実際は、俺の頬を雫が伝っていた。
 泣くんなら、愛する女の胸の中で。
 白先輩の言葉のせいかもしれない。今こうして俺の腕の中に鈴珠がいるということが、とてつもない幸せに思えたのだ。
 鈴珠は俺の頭をそっと、躊躇うように撫でた。
「もう、参った。わたしの負け。だから泣かないでよ、……お兄ちゃん」
 頭上で鈴珠が微笑む気配。その言葉と温度に、余計涙が溢れた。ああもう、と鈴珠が溜息混じりに俺の頬を包む。そっと顔を持ち上げられ、微笑んだ鈴珠と至近距離で見つめ合う。
 そして、息が止められた。
 感触やその瞬間を味わう暇もなく、鈴珠の唇が離れていく。止まった息は未だ再開されず、ただ、鈴珠の優しげな笑みに魅了されるだけ。
「ねえ、亜麻。わたしのこと好き?」
「……すき」
「じゃあ、お願い、聞いてくれる?」
 やめろ、聞くな、と誰かの叫ぶ声が聞こえたけれど、もう遅い。
 俺は、静かに頷いた。


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