五章


 一番合戦鼎は、朝飯であるパンと飲み物をコンビニから買って帰ってきて、見槻と別れた。今から向かう場所に、あの同級生はふさわしくない。
 無人の廊下を歩きながら、レジ袋の中からパックのコーヒー牛乳を取りだす。ストローを通して吸い上げると、甘ったるい味が鼎の口内を満たした。若干ながら寝惚けていた脳が、その甘味によって覚醒する。
 目的地であった部屋に到着し、ノックもせずに扉を開ける。部屋の主も驚いた様子はなく、自分とよく似た笑顔を浮かべるだけだった。
「いい加減に常識を覚えろ、クソガキ」
「なら、いい加減私に常識を教えてくれ、クソババア」
 学長室と定義されている部屋にも、鼎は何ら臆すことなく入室する。レジ袋をやかましく鳴かせながら、後ろ手ならぬ後ろ足で扉を閉めた。
 その部屋の中央にあるソファに座っている女性、田舎館(いなかだて)悠(ゆう)学園長。すっきりと纏めた黒髪と、早朝にもかかわらず綺麗に施されたメイクで年齢が曖昧となっているが、実際はすでに人生の折り返し地点を過ぎた年齢である。
 悠の対面に座った鼎は、レジ袋からパンを出して頬張り始めた。悠は口内で舌を打つ。
「……私の部屋で堂々と飯食ってんじゃねえよ、このクソガキ」
「いけなかったか? 入口に飲食禁止と書いてなかったぞ」
 揚げ足取りにも程があるが、悠も鼎が言うことを素直に聞くわけがないとわかっているので、すぐに諦めた。鼎は満足げにパック牛乳を吸い上げる。
「ところでどうだよ、一人暮らしの調子は」
 悠の問いに鼎は、コンビニ袋を揺らして皮肉で返す。
「見ての通りだ。不摂生かつ高経費な生活を送っているよ」
「知ったこっちゃない。どうせ私への当てつけだろ」
「ガキが親の金を任意で使って、なにか問題でもあるのか?」
「いいや。どうぞ存分に使ってくれ」
 悠――鼎の実母は、片方だけ肩を持ち上げた。鼎と同じ、演劇くさい仕草である。
 現在、鼎と悠、それから悠の旦那であり鼎の父親である男はそれぞれ三人が別々に暮らしている。鼎の親権自体は父親にあるが、生活費を賄っているのは悠である。
 初めに家を出たのも、元々愛のなかった両親の離婚を促したのも、悠に生活費を催促したのも、すべては鼎で、すべては悠への嫌悪感から来ているものだった。自らが忌み嫌う悠と同じ名字を共有することが我慢ならずに離婚を促し、負担をかけるために生活費を払わせる。
 そしてまた、そんな娘を愛す母親も存在はしないのだった。
「随分荒れてるらしいじゃねえか。私の学校で好き放題やりやがって、クソガキ」
 昔から教師という職業についていた悠にとって、自分の職場が荒れることが最も苦痛だと鼎は知っている。だからこそ鼎は、自分の母親が学長という立場にあるこの高校に入ったのだ。
 焼きそばパンの最後一口を嚥下してから、鼎は悠そっくりに笑ってみせる。
「荒れてるとは心外だな。私は規則通りに動いているだけだぞ。誇ったっていい。私は一度たりとも校則を破ったことなどないのだから。お前が言っていたんだろうが、『どこまでも正しくあれ』と。私を裏生徒会なんぞに放り込みやがって」
「その裏生徒会だって、最初はただ単に、生徒の総意を生徒会に伝えるだけの団体だったんだ。実力行使で勝てば校則改変なんて、てめえが作ったルールだろうが」
「変えて何が悪い。ルールを破るなというなら、こっちから変えるしかないだろうが。それとも改変は正しくないのか。日和っていることが平和だってんなら、お前は今すぐ教職をやめろ」
 二つめのパンをレジ袋から取り出す鼎。悠は表情こそ笑っているが、その目がつり上がっていることに鼎は気付いていた。だから追い込む。
「お前は自分の学校の教育理念を忘れたのか。『正しさを自分で見つけ、自分の手によって正しさを掴み取る』だぞ。私はこの理念をこれ以上なく素晴らしいと思ってやっているのに」
 屁理屈、皮肉、挑発。鼎の最も得意とする口上だ。ねじ曲がったことをいかに正しく説するか。それに対して、悠のなんと素直なことか。
「……私は、てめえのやってることを認めたりはしねえ。だが、否定もしない。だから規則内であればと好きにさせているんだ。校舎を壊そうと、事故が起きようと。じゃなきゃとっくにてめえなんか退学処分だよ」
「お前にしちゃ素直だな。なにがなんでも自分が正しいと思ってるんじゃなかったか?」
「私は正しくなんかない。自分が正しくいて、他人を正してやりたいだけだよ。てめえのやってることは私にとっては酷く不快だが、ちゃんと正しい。だから私は正さない」
 ――これだから、嫌いなのだ。皮肉めいた笑顔の裏で、鼎は憎悪の念を抱いた。
 自分の本能と欲望でもって行動している鼎とは対照的に、悠は自分の感情よりも正しさを優先させる。どれだけ自分にとって納得のいかないことであろうと、世論が正しいと認めたのなら自分の意見は飲み込んでしまう。
 そんな自分自身が一番正しくないのだと、どうしてわからないのだろうか。
 鼎ら裏生徒会が出した被害総額は、きっと百万は下らない。それでもまだ、悠は静止の言葉をかけない。今回など、きのみが暴走すれば最悪殺人まで起こりかねないのにだ。
 だから鼎は、正しさ自体を変えてみせたのだ。間違ったことをするのが正しくないというのなら、間違ったことを常識にしてしまえばいい。ルールに変えてしまえばいい。自分が正しいとことを、ルールを盾に主張してしまえばいい。
 そうして鼎は自分の手でもって、非常識を常識に、間違いを正しさに変えてみせた。
「それで? 今回はなんの用だ。お前らの会室ならもう直してあるぞ」
「今日は、お前に頼みがあって来た」
「頼み? てめえが私にか。珍しい」
「いや。頼みというよりかは、命令だ」
「厚かましいクソガキだな。んなの、いつもの改変でやればよかっただろ」
「それじゃあ通用しそうにもないからな」
 まだ半分ほどだったパンを置き、コーヒー牛乳を一気にすすり上げる。人工的な甘みで喉と脳を蕩けさせた。そうでもしないと、こんなことは言えそうにない。
「法律を、変えてくれ」
「……おい」
「無茶苦茶は承知だよ。こんな馬鹿みたいなことを大嫌いなお前に言ってるんだ。ふざけてるんじゃないことくらいお前でもわかるだろ?」
 もう常識や校則なんて範囲で収まるものではない。国のルールに鼎一人で立ち向かえるはずがないし、鼎一人が動かせるほど、この国は軽くないのだ。
「……話してみろ」
 鼎の真摯な表情に、悠も呆れの溜息をついた。
「今、裏生徒会の中に所謂近親相姦を所望してる奴がいる。告白したい、触りたいなんてもんじゃない。正式に籍を入れたいらしい。なにも今手を出してるわけじゃなければ、感情的になって国会議事堂に乗り込もうとしてるわけでもない。つまり、あいつの言い分は正当性を伴ってる。だから私はこれを無視できない。それはお前もなはずだ」
 屁理屈だ。自分でもわかっている。
 それでも悠は真面目に話を聞いた上で、誠意を持って答える。
「……微妙なラインだな。てめえの言い分も、そいつの言い分も確かに正しい。だが実力行使によってルールを改変するなんてルール自体が、この高校でしか通用しないんだ。つまり、国にとっては何ら正当性を持たない。……まあ、当たり前っちゃ当たり前だがな」
「要するに、私たちも国も正しくはあるが、正当性の高さは国のが上だと?」
「ああ。そして勿論、本気で戦えば私たちが負ける。てめえは生意気なクソガキだが、生憎馬鹿じゃない。そのくらいわかるだろ」
 重々しく告げる悠に、鼎がどうこうなどと個人的な感情などは一切見受けられない。正当に、本当に、心からそう思っているのだ。悠はそういう人間だ。それはわかっている。
 それでも鼎は、悠を睨んだ。自らの感情だけに任せて、悠の理論を壊す。
「馬鹿か、お前は。お前の理論武器は『正しさ』だけだろうが。そのお前が勝つとか負けるとか、通用するとかしないとか……誰がお前に勝ってくれと頼んだ? 私は、変えろと命じたんだ。無理だとか負けるだとか、そんな返事は最初から選択肢にないんだよ」
 珍しく、本気で頭に来ていた。元からの反感を抜きにしたところで、今の悠は到底正しいと思えない。口ごもった悠を、一気に畳みかけた。
「お前は、国と生徒、どっちが大事なんだよ!」
 今度は、すぐさま返事が来た。
「そんなもん、生徒に決まってるだろうが。私にとっての王国はこの学校だ」
「なら、やれ。次無理だなんて抜かしたら、私はお前の国を全力でぶっ壊してやる」
 何しろ、鼎にとっての国は裏生徒会なのだ。自国を裏切るような真似をできないのは、鼎も悠も同じことだろう。
「……わかった。どんな手を使ってでも、なんとかしてやるよ」
「そうか。なら、話はそれだけだ」
 残ったパンとを袋へと放り込み、さっさとソファを立つ鼎。用がないのならばわざわざ唾棄する母親と一緒にいる必要もない。
 部屋を出る直前、ふと思い立って振り返る。
「なあ、クソババア」
「なんだ、さっさと出てけクソガキ」
「義務でもないのに、真面目に話聞いてくれてありがとう。愛してるよ」
 顔を見ずに部屋を出てから、見槻を探して廊下を歩く。レジ袋からパンを引っ張り出してくわえたところで、親に礼を言うのはこれが初めてだったと、ようやく気付いた。

 作戦の決行は、それから三日後に決定した。
 その間に鈴珠も感情のコントロールを取り戻して、昨日から学校にも復活している。案外掌の傷も心の傷も浅かったようで、昨夜には俺を罵倒しながら叩けるほどにまでなっていた。鈴珠はヒステリーで一気に爆発させるぶん、後にはあまり残らないタイプなのだ。
 裏生徒会に関しても、突如取り下げられた腹の探り合いに意見する人間はいなかった。特にすることもなかったと自称すらしている見槻先輩はともかくとしても、課題のあった双子や物集女すら、事情を聞いたらあっさりと頷いてくれた。
「ただまあ、私のハードルは上がったわけだな」
 前日の最終確認を終えた時、一番合戦先輩が苦笑でそう言った。
 もう時刻は午後五時を過ぎていて、部活のない生徒はとっくに帰路だ。先ほど双子が確認したところによると、生徒会も通常業務を終えて帰宅しているらしい。
「……あの、そろそろ聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「一番合戦先輩の課題って、結局なんだったんですか?」
「正しくあること。誰も傷つけないこと」
 即答だった。夕陽を背に、一番合戦先輩は微笑む。
「お前らや自分はもちろん、鈴珠を含む敵も、誰も傷つけない。どれだけ負けそうであろうが、こちらが怪我を負おうが、私は自分が決めたルールを絶対に犯さない。それが私の課題だ」
「……意外ですね、一番合戦先輩が正しさを求めるなんて」
「母からの教えだからな」
 どこか屈折した笑みを浮かべて、一番合戦先輩が立ち上がった。
 それが解散の合図となって、俺たちも鞄を手にする。
「出雲郷、鈴珠に言っておけよ。手加減は絶対にしないけど、間違いも起こしはしないと」
「ま、適当に頑張れよ亜麻。もし負けたら俺が無花果娶ってあげるし」
 いつも通り真っ先に出て行った二人が、そんな捨て台詞を残す。見槻先輩のそれは、冗談なのか本気なのかわかりゃしない。
「ねー亜麻ー」
 次に話しかけてきたのは双子だ。
「なんだよ」
「あたしたちが一番大切にしてるもの、何かわかる?」
 ステレオな問いに、少し考えてから、
「シンクロ率」
「ぶっぶー」
「正解は友情でしたー」
「嘘つけ!」
「本当だもーん」
 双子が揃って口を尖らせる。だがやがて、その表情も真面目なものに変わった。いつもの能面とはまた違う、真剣みを帯びたもの。
「ちょっと会長と被るけどさー。あたしたちも、この一週間で粉や生徒会の人と仲良くなったの。もちろん鈴珠とも。だから、絶対に傷つけないで」
「誇りとか勝敗は、ぶっちゃけどうでもいい。でも、あたしたちの友達を傷つけるようなことだけはしないで。そん時はいくら亜麻でも、怒るよ」
「……ばーか」
 真面目くさった双子に、俺はデコピンを浴びせた。二人の真顔が消え失せる。
「俺が鈴珠傷つけるような真似すっかよ。どんな結果になったって、鈴珠が泣くような未来は絶対作らない。んなこと心配してんじゃねーよ」
「……そっか」
「そりゃそうだよねー」
 ばし、ばし、と一発ずつ俺を殴った双子が、微かながらに笑みをみせた。
「じゃあ、あたしたちの大事な大事な粉も傷つけないでねー」
「は? なんでここで物集女……」
「ばいばいきーん。明日寝坊すんなよー、歯磨けよー」
 小学生のような挨拶を寄越して、双子が走り去る。残された俺と物集女の間には微妙な気まずさが漂った。
「……じゃ、ま、俺たちも帰るか」
「あ、うん……」
 もう一週間も経つのに、俺と物集女は未だ距離感を図りかねている。
「悪い、物集女。今日もだから」
 昇降口へさしかかろうというところで、俺は足を止めた。
 鈴珠が学校帰り母親に待ち伏せされたというあの日からは、必ず俺は鈴珠と登下校するようにしている。それまではそれぞれ生徒会と裏生徒会の活動があったため、下校はばらばらになることもあったのだが、この三日間は徹底させた。
 常識がなく、自分の利しか考えてないあの女のことだ。誘拐すらしかねない。
 だからといってただでさえ不安定な今の鈴珠を、ことさらヒステリックにしたくはない。早く終わった場合は必ず昇降口で待たせているため、物集女には先に帰ってもらっていた。
「……物集女?」
 だが今日の物集女は先んじようとせず、じっと自分の爪先を見つめている。もしかしたら手洗いにでも行きたいのかと考え、俺が追い越そうとした時、肘のあたりを掴まれた。
「あの……無花果さんを待たせてることはわかってるんやけど、ちょっとだけ話……いい?」

 連れだって訪れたのは教室だった。今の時間帯ならば変に踊り場なんかにいるよりかは、鈴珠にも他の生徒にも見つかりづらいだろうという判断だ。
 物集女が自席に座ったので、俺はその一つ前に腰掛けた。隣より話しやすいだろう。
「ごめんな、無理に付き合わせて……」
「あー、いいよ。遅くなってくれた方があの女とも会いづらいだろうし」
「嘘。本当は無花果さん待たせてるのが気になって仕方ないんやろ? 貧乏揺すりしてる」
 俺が押し黙ると、
「図星」
 悪戯っぽく笑った物集女が、ふと眉を下げた。
「……それでも、亜麻とこうして二人っきりで話せるのが嬉しいって思ってまうんは、どうしてやろなぁ。わたし、いつからこんな悪い子になってもうたんやろ」
「……久しぶりだから、か?」
「……うん。そうかも」
 思えば結構な間物集女とこんなふうに二人きりで話していない。朝は別行動を取っていたし、昼休みは生徒会も含む数人で弁当、放課後は裏生徒会だ。
「なあ、亜麻。よくドラマなんかで、好きな人が幸せになってくれればそれだけで幸せ、ってあるやん」
「おお」
「わたし、あれ、ようわからん。好きなら自分が一緒になりたいと思うのが当たり前やんか。あれって、言ってしまえば負け惜しみやろ?」
 物集女はあくまで真面目なようだが、俺にはいまいちわからない。引き留めてまでこんな話がしたかったとは思えないが。
「でもな、好きな人の願いを叶えたいって言うんなら、わかるんよ。わたしは、好きっていうのは大切にしたいと同じことだと思っとるから……好きだから喜んでほしい。好きだから願いを叶えてほしい。好きな人の大切なものが傷つくのは見たくない」
 西日に照らされた物集女の頬が、赤く染まる。
「わたしは、亜麻が好き。困った時に助けてくれて、行き場のないわたしに居場所を与えてくれて、いつでも一緒にいて守ってくれる。そんな亜麻が、わたしは好き」
「……おう、ありがとう」
「でもそれは、鈴珠も同じことやと思う。わたしなんかよりずっとずっと、亜麻のことを好きで、亜麻と同じくらい、亜麻を大切にしたいって思ってると思う」
 誰もが惚れそうな笑顔を浮かべて、真っ直ぐに俺の目を見つめる物集女。まるで祈るかのように、俺の手を掴んだ。
「だから、鈴珠を大切にしてあげて。わたしが勝手にこんなこと言うのもあれやけど……鈴珠には、亜麻しかおらんから。本当は、鈴珠って凄く凄く弱い子なんやと思う。それでも生徒会長なんかをして、あんなに強く生きられるのは、最後には亜麻がちゃんと守ってくれるってわかってるから。その期待を、裏切らんといて」
「……物集女」
「うん?」
「お前、やっぱりいい女だよ」
 物集女は一瞬きょとんとしてから、すぐに真っ赤な顔で笑った。その溶けるような笑顔に、俺もつい頬が緩む。
「ええと、つまりな、わたしは亜麻も鈴珠も大好きだから、どっちにも傷ついてほしくないんよ。だから、その……わたしのためにも、明日頑張って」
 空気が弛緩したことで羞恥も一気に溢れてきたのか、早口でそう述べて席を立つ物集女。「じゃあまた明日!」と慌てて踵を返す物集女に、
「なあ、物集女!」
「な、なに?」
「さっきからお前、鈴珠のことも呼び捨てにしてんぞー!」
「えっ! う、嘘やん! ああ明日までには直すから、鈴珠には言わんといてな!? あっまた言ってもうた! もういやや、わけわからん!」
 パニック状態で逃げていく物集女に、声を出して笑う。しばらくして笑いが収まってきた頃、物集女の鞄が机の横にかけられたまま放置されていることに気付いて、また爆笑した。
「亜麻、なに一人で笑ってんの……? すっごいきもい」
 すると、俺の笑い声に気付いたのか昇降口で待っていたはずの鈴珠が顔を出す。鈴珠を見て、再び笑いの波が押し寄せた。
「……なんかわかんないけど、むかつく。ていうか早くしてよ。帰りたい」
「は、ははっ……あ、鈴珠、物集女がお前のこと好きだって言ってたぞ」
「はあ?」
 本気でわけがわからないというふうに顔を歪め、「そういう趣味なの、粉って」と真剣になる鈴珠に、三回目の爆笑をした。もちろん殴られた。

 翌朝、金曜日。母親と出くわすことなくこの日を迎えられたことに、まずは一息つく。
 いつも通り七時半過ぎほどに登校し、鈴珠と別れる。念のために五分ほどだけ校舎を徘徊してから、裏生徒会の会室へ向かった。
 はよざいあーす、なんて砕けた挨拶をしながら入った中には、すでに全員が揃っていた。それぞれ俺と同レベルの緩い挨拶を返してくれるが、一人だけ挨拶をしない奴がいる。あからさまに俺から目が逸らし、動揺する素振りを見せた物集女だ。
「呼び方、ちゃんと直ったのか?」
 少しの悪戯心からからかってみるが、物集女は思いの外赤面しなかった。
「思ったんやけど! す、鈴珠がわたしのこと呼び捨てしてんねんから、わたしだってしてもえんちゃうんかって思った!」
「もっともだ。気付くの遅えな」
「き、気付いてたんねやったら言ってよ!」
 お前が遅いんだ。
「んー? なーんかー、ずーいぶーんと、仲いくなーいー?」
 俺の肩を軽くどついた物集女に、普段以上のねちっこさですり寄ったのは双子だ。女子同士ではありがちなノリではあるが、それに慣れていないんであろう物集女は「わ、う、えっ?」なんて困惑する。
「もしかして昨日、あの後なんかあっちゃったりー?」
「橙に染まる校舎の中、男女のときめきがあっちゃったりー?」
「あったよ」
 答えたのはなぜか見槻先輩だった。含みのある笑みを浮かべている。
「俺見てたもん。昨日みんなが帰った後、亜麻と物集女が二人で話してるとこ」
「ええっ! 美人局さん、ど、どこから見てたん!?」
「馬鹿、物集女!」
 押しとどめたが、もう遅い。へーえ、ふーん、ほーお、と双子と見槻先輩はまるで家族かのような結束力でもってにやにや笑い、
「本当にそうなんだーあ。いやー、びっくり。正直俺、亜麻にそんな度胸あるとは思ってなかったなー」
「鈴珠がいるのにねー」
「いやいやいや待て! 仮にも今から婚約しようって朝にその疑いは非常に嫌だ! 学校でクラスメイトと二人っきりで話すくらい、浮気でもなんでもない! ……よな……?」
「試しに無花果に言ってみたらどうだ? どうなるか見物だぞ」
 中立だと思っていた一番合戦先輩まで入ってきてしまう。物集女は耳まで赤くしながら、小学生のように手を振り回し、裏返った声を出す。
「も、もうっ……そんなこと言ってる場合ちゃうやろ!? 今日は大事な戦いやねんよ! もっと集中して! 一番合戦さんも、美人局さんも、京さんたちも!」
「えー。亜麻と鈴珠だけ呼び捨てで、あたしらは名字ー?」
「それじゃあちょっとなー。集中できないかもなー」
「……鼎さん見槻さん右京左京!」
 やけになって怒鳴る物集女など、初めて見た。双子はそれはもう嬉しそうに物集女へ飛びつき、見槻先輩は平然と、一番合戦先輩は苦笑を浮かべる。
「まあ実際、手筈は昨日までに整えているからな。初期体勢につく時間を考えたとて、正味一時間弱は時間が余っているよ。それまでは好きに過ごしてくれて構わん」
 一番合戦先輩がプランニングした今日の初戦は、八時半から開始される。こんなにも早く集まったのは、常に七時半登校の鈴珠に怪しまれないためだ。
 好きに過ごせという一番合戦先輩の許しを経て、俺は席を立つ。物集女が目で行き先を尋ねてきたが、それは見て見ぬ振りをした。一番合戦先輩なんかはだいたい推測がついているのか、ニヒルな笑みをたたえたまま無言だった。
 ある人物を捜して、校舎裏を訪れる。見事に正解だった。
「やっぱりここか」
 そこには中学の頃と何ら変わらず、ジャージ姿で一人、煙草を吹かしている一尺八寸がいた。一尺八寸は俺を見て苦笑すると、煙を逆方向に吹いた。
「お嬢には言わないでくださいね」
「鈴珠だけか。教師にはいいのかよ」
「兄貴がそうしたいんなら、別にいいすよ。でもお嬢だけは困ります」
「なんでだよ」
 つい笑ってしまった。中学時代は校内最強とまで言われていた一尺八寸が、自分より四十センチ近くも小さな少女を恐れているのだ。
 差し出された煙草を断りつつ、一人ぶんほど空けた隣に座る。十秒ほど無言が続いた後に、冗談かと思うほどの弱々しさで一尺八寸は呟いた。
「……嫌われたくないんすよ、お嬢に」
「叱られたくない、じゃなくてか」
「キレてくれんならまだいいです。怒るってのは、親しいからこそ起こる感情すから。でも嫌うっていうのは、もう完全に見放されるってことじゃないすか」
 ふと、三年前の雪の日のことを思い出した。あの時もし鈴珠が怒らず泣かず、ただただ、俺を嫌っていたらどうなっていたんだろう。俺と鈴珠は、今頃。
「ならやめろよ、煙草。早死にすっぞ」
「小学校ん時からの付き合いっすよ、今更離れられるわけないじゃないすか。一緒に死ねんなら本望です。兄貴だって、そんなもんでしょう。お嬢とは」
「俺の鈴珠をお前の嗜好品を一緒にすんじゃねえ」
 すんません、と笑いながら謝る一尺八寸。存外素直な奴なのだ。これだから、嫌うに嫌いきれない。
「なあ。もし俺と鈴珠が結婚したとしてさ、あ、本当にもしもな。もし、そうなって、でも俺が事故かなんかで死んで、鈴珠を一人にしたとして。そしたらお前、どうする?」
「本当のこと言っていいんすか?」
「どーぞ」
 もとより一尺八寸に誤魔化しなんか求めちゃいない。
「奪います。兄貴と結婚して幸せにしてるっつーんならともかく、兄貴を失ったことでお嬢が泣くってんなら、どんな手を使ってでも俺が幸せにします。あの人だけを想い続けたい、だなんつー繊細な女心とか言われても、俺わかりませんし」
「……俺がいなかったら、鈴珠は泣くんかねぇ」
「怒りながら泣きわめいて、最後には憔悴すると思いますよ。自殺とかしかねませんて」
 鈴珠のヒステリー癖を、一尺八寸は見抜いていた。俺は薄暗い校舎裏、決して清潔とはいえない空気を吸い込む。
「一尺八寸。話があるんだが、いいか」
「兄貴が話もなしに俺んとこなんて来ないでしょうに」
 二本目の煙草に火をつけながら、一尺八寸が静かに息を吐く。
「お嬢のことっすよね。なんすか。聞きますよ」
「あいつ、今、結婚するかもしれねえ」
 一尺八寸がげほっと煙を噎せ返した。それでも顔だけは冷静に保つ。
「……意味がわからないんすけど。兄貴とってことすか」
 当たりといえば当たりなのだが、そのまま真実を伝えるわけにはいかない。後半の問いかけには無視を決め込んだ。
「俺らの家の事情は知ってたよな?」
「ああ、まあ、はい」
「今、鈴珠に結婚の話が来てる。相手は母親の知り合いらしいんだが、あの女は鈴珠を玉の輿に乗せて、自分もその恩恵に肖ろうとしてるだけだ」
 途端、一尺八寸の表情が引き締まった。怒りともまた違う、どこか冷たさを孕んだ顔。一尺八寸は成績的にいえば馬鹿だが、頭の回転は速い奴である。理解できないはずがない。
「お嬢を引き取って、好きでもねえ相手と結婚させようってことすか」
「簡単に言えばな。で、だ」
 一呼吸置いて、
「もし俺が鈴珠を助けきれなかった時は、お前がどうにかしてくれ」
「どうにかって、これまた曖昧すね。どこまでって言ってくれなきゃ、俺もリミッター効きませんよ。何気に俺今、話聞いてるだけでも苛ついてんで」
「いいよ、好きにしろ。ただ、腐っても一応は鈴珠の実母だ。そこらへんは慮れよ。どんな結果にしろ、鈴珠が傷つくような事態にだけはするな」
 一尺八寸が頷いたのを見て、いわゆるヤンキー座りというものを解除する。慣れているのだろう一尺八寸はいいが、一般人がしてもこの座り方は下半身が疲れるだけだ。
 本当は、一尺八寸にすら預けたくはない。当たり前だ。好きな女を他の男にやるような真似をしたいはずがない。物集女が言っていた通り、俺だって『好きな人が幸せならそれだけでいい』なんて考えられるほど大人じゃないのだ。
 だが鈴珠が聞いたところによれば、少なくとも二週間後には顔合わせをさせられるという。そしてきっと、その場で結納が済んでしまう。
 俺がもし今日の戦闘で敗北した場合、再提出は一ヶ月後まで不可能だ。
 つまり今日で、鈴珠の結婚相手が俺かそいつ、どちらかに決まる。
 そしてまた、どちらを選ぶのかも、すべては鈴珠にかかっているのだった。

 八時二十五分。開戦まで残り五分となった時、再び集結していた俺らに、一番合戦先輩が最後の言葉を投げた。
「本当のことを言うと、私は最初、出雲郷に協力する気なんてなかった」
 唐突とも言える話に、全員が一番合戦先輩を向く。
「正直な、失敗だとすら思ったんだ。こんな本物のシスコンを引っ張り入れてしまって。だが三日前、こいつの話を聞いた瞬間、私は自分が間違っていなかったことを知った。こいつはただ妹を好き放題したいんじゃない、きちんと妹の幸せを考えてやってる。今無花果に降りかかっている火の粉は、紛れもなく間違ったものだ。無花果が自分で火を起こしたわけでも、火の元に近づいたわけでもない。第三者が意図的に、無花果へと振りかけた。払われて当然、かからないのが当然の火の粉だった。それを取り除く出雲郷は、どこまでも正しい。だから私は今回の件に尽力したし、本気を出しもする。それはお前らも同じだろ? 出雲郷も無花果も、どちらも正しいと思うからこそ、戦うんだろ。どちらも友人だから、戦うんだろ」
 こちり、と古びた時計が時を進めた。残り時間は、二分だ。
「妹のために、女子のために、友人のために、恋敵のために。そして私は、天敵のために。この中に、誰も自分らのことを考えている奴はいないんだ。みんながみんな、自分の仲間のために、そして敵の大将のために頑張っている。私はそんなお前らが仲間でよかったと思うし、そんなお前らだからこそ、戦おうと思えるよ」
 ありがとう、と囁いた一番合戦先輩の声は掠れて。
 俺は、鼻を啜った物集女の背をそっと押さえる。
 もう一度、分針が動く。少しだけ目を瞑った一番合戦先輩は、次に目を開いた時、絶対の笑顔を浮かべていた。
「お前らは正しい。だから、胸を張って戦ってこい。――行け!」
 一番合戦先輩の叫びと同時に、まずは双子がさすがの素早さで駆け出していく。次に見槻先輩が気怠そうに出て行き、更に物集女が続こうとして、一度だけ俺を振り向いた。薄いレンズの奥に消えようもない火を灯して、所定の場所へと走っていく。
 俺は全員がいなくなったのを見計らって、一番合戦先輩へと向き直った。半ば予想していたかのように、呆れの表情を浮かべる一番合戦先輩に、頭を下げる。
「本当に、本当に、ありがとうございます。……愛してます、一番合戦先輩」
「ああ。私も愛しているぞ。だから、死ぬ気でやってこい」
 チャイムが鳴り響く。俺の背を殴るみたいな強さで叩いた一番合戦先輩が窓から、――窓から飛び降りて、俺も全力で走り出した。
 八時三十分、一般生徒もすでに揃うこの時間に鳴るチャイム。
 それは、HR開始の合図だった。
 八時三十分から三十五分まで設けられている、五分間のHR時間。不意をつき、体裁を整える頃にはチャイムが鳴り終わる――そんな、短期決戦が、今回の幕開け。
 廊下を走りながら、窓の外を覗く。グラウンドに予定通りの人物たちを確認する。一番に駆け出ていった双子と、和先輩たちだ。見た目には前回同様、双子が逃げて和先輩たちが追うというふうだが、優勢は明らかに双子のはずだ。
 双子の手にはきっと、体育用具入れの鍵が握られている。八時三十分までは職員会議で締め切られている職員室から、チャイムが鳴った直後持ち出した鍵が。その鍵がない限り、和先輩たちはどうすることもできない。いくら球技好きの先輩たちとはいえ、テニスボールやサッカーボールを持ち歩きはしていないだろう。
 一階廊下にある窓から中庭に出ようとした時、ギターを背負った白先輩とすれ違う。白先輩は悔しそうな笑みを浮かべ、俺の足を軽く蹴った。
「やってくれんじゃん、一年わんころ。恩を仇で返しやがって」
「すんません。でも言っといたじゃないですか、ドシスコンです、って。犬は従順ですけど、それは主人にだけなんですよ。他は餌をくれるから体面上懐くふりしてるだけす」
「飼い犬に手を噛まれるならぬ、他人ちの犬に手を噛まれる、か。ちくしょう、こんなことなら野良犬とか拾う癖やめときゃよかった」
 白先輩もおそらく中庭へ出るのだろうが、下半身を纏っている衣類の違い故、俺のように窓から飛び出していくことはできないらしく、きちんと玄関方面に向かっていた。そうすると二階からスカートで飛び降りた一番合戦先輩はなんだという話になってしまうが。
 中庭に出て日の当たる方へ走っていく。が、サークルベンチにいると予想されたはずのきのみさんは姿が見えなかった。これもまあ予想の範疇といえば範疇、などと甘く考えて踵を返そうとした時、俺の真横を透明な何かが光を反射させつつ通り過ぎた。
 ガラスの割れる音が耳に届いたのは、目の前で花壇が燃え上がるのと同時だった。
「やーん、おっしーい。せっかく製造は上手くいったのに、コントロールミスっちゃった。もう、エジソン信用ならないなあ。99%の努力と1%のひらめきがあっても、投擲能力が0なら意味ない……ん? この場合、発明ではないのかな?」
「き、のみ……さん」
「やっほ、出雲郷くん。そこいると危ないよーん」
 哀れ園芸委員――手入れがしっかりなされていた花壇は、きのみさんが渡り廊下から投げつけた正体不明の何かによって一瞬で燃え滓となってしまった。未だぼやを起こし続けている花壇の中心には、何か、ガラスのようなものが見える。
「なに……したんですか」
「あ、火炎瓶の製造方法知りたいって? いいよん、今日は雲量が0の超晴天で気分がいいから教えてあげる。こんな高みからごめんねー。で、火炎瓶なんだけど、まー色々作り方はあるけど、今回わたしがやったのは塩素酸塩と硫酸の化学反応を使う方法! これなら片方を瓶の外に塗って、片方を中に入れとけば割れない限り発火しないしそこそこ安全! ね、簡単でしょ? そうそ、瓶は栄養ドリンクくらいのが携帯性にも富んでて便利だよん。今度出雲郷くんも一緒に作ろー」
 色素の薄い髪を風に棚引かせ、相変わらずの無意識でほんわか言ってのける。が、本来その火炎瓶は俺に向けて投擲されたはずであり、その行為が遊びや実験で済むレベルでないことくらい、目の前の現状が十分に示している。
「なんで……いつも、ここにいたじゃないですか! なんで!」
「んー? 出雲郷くん、もしかして怒ってる? そうだったらごめんね。でね、えーっとね、わたしがここにいる理由はね、白ちゃんが戦闘始まったみたいって教えてくれたから、火炎瓶投げるためにねー。あ、そうだ。出雲郷くん、怪我なーい?」
「怪我……? 怪我って……きのみさんが俺に向けて投げといて、それはないでしょう!」
「え? ……あー! あーわかった、うんうんうん。そっか、そうだよね。これじゃ勘違いされちゃうよね。違うよ出雲郷くん、わたし、出雲郷くんに投げるつもりなんてなかったよ」
 きのみさんは、薄い笑みを浮かべたまま手をぶんぶん振る。
「あのねー出雲郷くん、薬品とか気体とかっていうのは、ぶっちゃけ濃度がすべてなんだよね。どんな薬品でも、濃度次第ではなくてはならないものにも殺人兵器にも変わるの。ほら、初めて会った時の過酸化水素水もそうだったでしょ?」
 何の話だ、と口を挟もうとしたそのとき、俺の背後で先ほどとは比にもならない爆発が起きた。その爆風と熱に吹き飛ばされそうになる。
「でねでね、それを証明するのにうってつけなのが酸素だと思うの。空気中に21%もあるからむしろあった方がいいみたいに思われるけど、高濃度すぎると凄く危険なんだよ。たとえばこうやって、あらかじめ過酸化水素水に二酸化マンガン入れたでっかい入れ物を空き教室に大量に放置しといて酸素を高濃度にしとけば、あとは火炎瓶投げるだけでどかーん。まあ今回は外れちゃったんだけど、わたしが思った以上に高濃度だったみたい。花壇から散った火の粉だけで引火したね。まあ万が一を考えて火炎瓶はもう一個あったんだけどさ」
 一階の端、寂れた空き教室。そこが燃えさかっていた。反射的に覚えたばかりの学校図を思い出して、今の時間、ここ周辺には人が集まらないことを確認する。
 だが、果たしてそれをきのみさんは知っていたのだろうか。
「で、出雲郷くん。怪我ない?」
 無垢に微笑むきのみさんに、背筋が寒くなる。
 と、そこでようやく律儀にも靴を履き替えまでした白先輩が中庭に出てきて、ギターをケースから取り出す。だが白先輩が目をやった先、ちょうど今きのみさんが燃やしたところ。
 ようやく思い出す。確かに人気はないが、今も燃えているその場所には、軽音部の部室があったことを。そして、アンプもマイクもなにもかも、そこにあったのだろうということを。
「……ああ、もう……ああもう! まーたあたしが部員に怒られる! ちくしょー、ちっくしょう、なんなんだよ、なんだよ、もう、……もう! いいなぁ、二千六百年先輩は自由で!」
「白先ぱ……」
「いいよ! もういいよ! 同情してんじゃねえ、一年が! ウィリアムが無事だっただけでいいよあたしは! 他の奴らも自分の楽器くらい持ち歩いてんだろ! あーもー知らねー、あったし悪くねーもん二千六百年先輩が悪い仕掛けたお前らが悪い! 弘法筆を選ばずだ、やってやらー、歌ってやらぁ! マイクなんざいらねーし!」
 自暴自棄も丸出し、ギターケースを懇親の力で蹴り飛ばしてみせる。シールをべたべた貼ったそれが若干歪んだことに気付いているのかいないのか。
「じゃー聞いてくださーい、あたしの初ソロライブー!」
 ピックが折れるんじゃないかという勢いでギターを掻き鳴らし、素声を張り上げる白先輩。機材は燃えて、メンバーは授業で、あるのはギター一本と自分のみ。前回のようにサクラの野次馬もなく、白先輩はたった一人。
「出雲郷くん、行っていいよ。白ちゃんのライブはわたしが聞くから」
 渡り廊下から顔だけを出したきのみさんが、そんなふうに笑う。
「これでも、中学の先輩なんだ、わたし」
 声帯が潰れそうな歌い方をする白先輩を止めるべきか少しだけ迷ったが、すぐにその自問は取り下げた。そんなのは白先輩のプライドを傷つけるだけだ。
「……羨ましいぜ、物集女」
 こんな白先輩の全身全霊のソロライブはすべて、物集女のためだけに行われているのだ。白先輩の音が果たして物集女に届いているのかはわからないが、どうか届いていてくれと、場違いにも思ってしまった。
 校舎に貼り付けられた時計を確認する。残り時間はあと三分弱。
 きのみさんにすべてを任せ、校舎内に戻る。するとポケット内でスマートフォンが揺れて、見槻先輩からのメールを受信する。鈴珠の所在が不明なことと、それぞれ俺たちの動きを事細かに知らせてくれていた。
 どこへ行くとは最後まで明かさなかったが、おそらく見槻先輩は屋上にいる。そこで視界に入れられる限りは入れて、目の届かないところの情報は独自の女子ネットワークによって得ている。それができる限りのすべてであり、見槻先輩にしかできないこと。
 メール画面を滑らせながら次の標的を探しているうちに、残りは一分となっていた。
 決着がつかぬままチャイムが鳴ったらどうするか、ということはいつかに見槻先輩が説明してくれた。どちらも降参まで行かずに休み時間へ突入したら、そこは休戦となる。その間はお互いに手出しをできず、次のチャイムまで待つしかない。
 今回はここまでか、と駆ける足を弱めたところで、目の前に捉えてしまった。
 妹であり、敵であり、愛しい、鈴珠の姿。
 鈴珠は俺を見ても逃げはせず、だからといって戦おうとするでもなく、ただ複雑そうに顔を歪めて俺を見ていた。俺も、緩めた足を加速させる。
「……なんで? なんで、結婚なの? なんでお母さんも亜麻も、そうやって、わたしに結婚ばっかさせようとするの? わたしは、今のままがいいのに……ずっとこうやって、普通に過ごしていきたいだけなのに。……なんで、こんなことするの!?」
 悲痛の叫びだった。まるで泣く寸前のような表情で、子供のように喚いた。手にしたままのスマートフォンを確認する。残りは、十秒もない。加速する。
「亜麻は、やっぱり、わたしを手に入れられればそれでいいの……? わたしがどうしたいとか、そういうのは聞いてくれないの? 普通に結婚を止めてほしいって、あとは亜麻と二人で今まで通り暮らしたいって、なんで、わかってくれないの……」
 伸ばした俺の手が鈴珠に届くより早く、チャイムが鳴り響いた。それでも俺は全力で、誰より守りたいその存在へと、駆ける。
 ようやく鈴珠を抱きしめられたのは、チャイムが半分ほど鳴り終わった頃だった。
「なんでよ……なんで、わかってくれないの、亜麻……ちゃんとわたしの話聞いてよ。ちゃんと理由話してよ。なんでこんなことするの……?」
「……理由は、話さない」
 息切れの中で、なんとかそれだけをまずは絞り出す。鈴珠は受け入れも拒絶もせず、無気力に俺の抱擁を受け続けていた。息を整えて、俺は一気に吐き出した。
「理由を話したら、きっとお前は真っ向から俺を否定しなくなる。そんなふうに妥協された『好き』なら、俺はいらないんだよ。だったらむしろ全力で嫌がられたほうがいい。嫌そうにしてる鈴珠のほうが、よっぽどいい。でも鈴珠、これだけは信じろ。俺はお前を幸せにするためだけに存在してるんだよ。いつだってお前のことを考えてる」
 ――あの女は、俺が説得したくらいで鈴珠を解放しはしないだろう。
 母子家庭手当てなんてものにすら縋っていた人間が、下手をすれば数百万という金が手に入るこのチャンスを逃すわけがない。それこそ本当に監禁してでも、鈴珠を結婚させるはずだ。
 それに対抗する力を、『兄』である俺は持ち得ていない。
 兄妹は兄妹であり、それ以外の何ものでもない。妹の結婚を止める権利や義務こそあるにしろ、そのための正しさを持てないのだ。
 だから俺は、奪われる前に鈴珠を奪う。攫われてしまう前に、鈴珠を俺の物にする。
 自分の妻であれば、もう誰にどうこうされることもない。実質他人のような疑似母親なんかよりもっとずっと、鈴珠と繋がれる。
 ただ、それを伝えてしまえば、きっと鈴珠はわざと負けるようなことをする。そんなことは決してあってはならない。
 これまで鈴珠を信じてついてきてくれた生徒会の一尺八寸を初めとする役員たちも、俺と鈴珠のために自らの弱点をこんな短期間で克服しようとしてくれていた裏生徒会にも、鈴珠自身も、すべてを裏切ることになるのだ。
 全力で戦って、きちんと負けて。歪んでいようがおかしかろうが、その過程を踏まない限り俺は鈴珠と結婚するつもりもない。
 鈴珠に勝って、嫌がる鈴珠と無理やり結婚する。俺がそうした役につく必要があるのだ。
 亜麻が全部悪い。
 最後には、鈴珠がそうして言い訳をできるように。近親相姦を咎められた時、そうして鈴珠がすべての責任を俺に押しつけられるように。そういう未来でなければならない。
 そうしなければならない理由が、俺にはある。
「……好きだよ、鈴珠」
 三年前、その言葉で鈴珠を拘束したのは俺なのだから。本来あってはならない感情を押しつけて、鈴珠に俺以外の拠り所をなくしてしまった。お互いに、今更離れられはしない。
「わたしは、嫌い。大嫌い」
 俺の腕を振りほどいて、濡れた声の鈴珠が歩き出す。俺もHRと授業間に挟まれるこの十分休みを利用すべく、裏生徒会の会室に戻らなければならない。後ろ髪を引かれる思いで、鈴珠に背を向ける。
 だが十分な間が空いた頃、耳鳴りかと思うほど小さな声が、俺の耳に届いた。
「勝ったら、絶対、理由聞くから」
「……ああ」
 そのときはいくらだって話してやる。理由だろうが、鈴珠の好きなところだろうが、何時間でも、何日でも。一尺八寸が鈴珠を引き取ってくれるその日まで家に立てこもって、あの女にだけは会わせない。
 その上で、一尺八寸を倒す。
 俺は鈴珠を一時的に預けるだけであって、結局、誰にもやるつもりはないのだ。どんなふうになったって、どれだけ苦労をしたって、俺は嘘をつかない。
 ずっと一緒にいてやると、言ってしまったのだから。
 俺が鈴珠を拘束するとともに、鈴珠も俺を拘束しているのだ。
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