もうすぐ、冬がやってくる。
 窓に触れてみると、指がかじかむくらいに冷たかった。硝子越しに、雨粒が潤の手を叩く。窓の向こうは夜に包まれているため、目視は出来ない。
 無機質で孤独な空間に、村田潤はいた。
 潤一人には広すぎるマンションの一室は、相当に冷え込んでいた。寒気が凝縮され、この部屋にずっぽりと押し込められている。フローリングに乗る裸足がいよいよ感覚を失ってきた。それでも暖房はつけられない。
「早く帰ってこねえかな」
 フローリングから逃げるために腰を沈めたソファすら、ひんやりしている。足を縮めて、自分の膝に顎を埋める。目を閉じても、眠気などは訪れない。寒さのせいだ。
 惨めだな、と思った。
 幾つもの部屋があるだだっ広いマンションの隅、高級ソファで体育座りをしている。今の自分の姿を客観的に見たならば、きっと相当滑稽だ。
 窓を叩く雨の音と、時計の秒針が揺れる音。
 そこに、金属同士が擦れ合う硬質な音が響いた。
 慌ててソファから飛び上がり、開錠音のした玄関へと向かう。今度は、フローリングを冷たく感じなかった。
「おかえりなさい、奈子さん!」
 玄関でパンプスを脱いでいたその人――鬼無里(きなさ)奈子(なこ)が振り返る。
 黒いスーツとセミロングの髪が濡れてしまっている。そういえば、今日の雨は予報されていないものだった。どうやら雨に降られてしまったらしい。
「大丈夫? タオル持ってこようか?」
「潤ちゃん」
 しっとりとした声で潤の名を呼び、美しい笑みを浮かべる奈子。
 その笑顔のまま、手に掴んだパンプスで潤の頬を思い切り殴った。尖ったヒールが、潤の唇を削る。出血と痛みが遅れて届いた。奈子はなおも微笑んでいる。
「雨が降っていることはわかっていたのよね。わたしが濡れて帰ってくるのも予想出来たわよね。現在進行系でわたしが濡れているのを見ているわよね。それでいてまだタオルを準備していないのよね」
「ご、ごめん奈子さん」
「いいのよ、潤ちゃん。怒ってないから」
 やんわりと潤を抱きしめる。そっと、囁いた。
「潤ちゃんは役立たずね」
 意図的に体をすりつけられて、潤までびしょ濡れになってしまった。そんな潤の姿に笑みを深くして、リビングへと歩いていく奈子。ということは、もちろん廊下もずぶ濡れだ。あとで潤が拭くことになるんだろう。
 奈子が作った水たまりを避けて、リビングに戻る。奈子はソファに座っていた。
「奈子さん、ソファが濡れてる」
「そうね。濡れてるわ」
 脱いだジャケットを放る奈子は、ソファから立ち上がる気配を見せない。まぁ、革だからあとで拭けばいいのだけれど。潤が。
「それより潤ちゃん、この部屋寒いわ。ちゃんと暖房効いてる?」
「あ、いや。暖房入れてないんだ」
 頭を振って、髪の雫を辺り一面にまき散らしていた奈子が静止する。
 潤が洗面所からタオルを取って帰ってくるまで、奈子はそのままだった。
「どうして? 今日、10度ないのよ? 暖房ないと寒いじゃない」
 タオルを手渡そうとしても、奈子は動かない。じっと潤を見上げるのみ。放置すれば風邪を引きそうなので、「失礼します」と断りを入れてから、手にしたタオルで奈子の髪を丁寧に拭いた。遅れて、奈子の問いに答える。
「そりゃそうなんだけど。ここって、光熱費全部奈子さん持ちじゃん。だから俺が勝手につけるのは、常識的にどうかなって」
「それで、こんなに手が冷たいのね」
 奈子の頭を拭いていた潤の手に、奈子の手が重なる。かくいう奈子の手も相当に冷えていて、タオルを持って出迎えをしなかったことが改めて悔やまれた。
「ごめん。奈子さんがこんなに冷えてるんなら、暖房つけといたほうがよかったかも」
「わたしはどうだっていいのよ」
 潤の手を掴んで止めさせ、緩く握りしめる奈子。もう片手は潤の頬に添えられる。
「潤ちゃんがここで一人、寒さと孤独に耐えたところで、わたしはそれを見られないのよ。そんなの楽しくもなんともない。ねえ、潤ちゃん。わたしの前以外で、無様な姿にならないで。それが例え無人の部屋相手でも。可哀想な潤ちゃんを見るのは、わたしだけなんだから」
「奈子さん」
 言葉こそはいつも通りの嗜虐心に満ちているが、その目は本気そのものだ。本気で潤の体調を心配し、本気でこの部屋そのものに嫉妬している。
「潤ちゃんはわたしの大事な大事なペットなんだから。わたしの許可なしに風邪なんて引かないで。お金なんかより、潤ちゃんのがよっぽど大事よ」
 そう言って奈子が撫でる潤の唇に、ぬるついた血液。いかにも先ほど奈子が大事な潤につけた傷である。その存在は、二人の眼中にないようだが。
 さりげなく奈子が足の指で押したリモコンが作用し、暖房が部屋に行き渡り始める。
 フローリングに座らされているにもかかわらず、潤はすでに寒さを感じていなかった。触れる奈子の手も、先ほどから奈子の髪から滴り落ちてきている雫も、確かに冷たいのに。
 もうすぐ、冬だというのに。
 それなのに、あたたかい。
「奈子さん、好きだよ」
「わたしもよ、潤ちゃん」

 もうすぐ、冬がやってくる。
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