四章


「おー、亜麻ー。おっはー」
「うっす。早えな」
 翌朝、静まりかえった校舎内で偶然出会った双子と肩を叩き合う。時刻は午前七時半。今校舎内にいる生徒は、生徒会か裏生徒会の役員くらいなものだろう。
「亜麻、寝られなかったのー?」
「目の下、クマできてるよー」
「うっせ。下瞼摘むな!」
 目元どころか顔中をこねくり回し始めた双子の手を払ってから訊く。
「他には誰が来てる?」
「んーっとねー、とりあえず会長と副会長はいるよ。メールで粉も来るって言ってたから、今から来るよー」
「今亜麻が鈴珠連れてきたから、向こうも多分全員いるねー」
「要するに全員か」
 こちら側はともかく、生徒会まで全員が登校してきているというのは予想外だ。
「私市ときのみさんなんかは絶対来ないと思ってたのにー」と右京。
「ああ、それなんだけど。昨日なんとか鈴珠から聞き出した」
 まじで、と双子が身を乗り出してくる。俺は周りに自分たち以外の気配がないことを確かめてから、その成果を報告した。

 昨日のことである。細かく役員たちを分析した後に、一番合戦先輩はこう言い切った。
「しばらくは戦闘を行わず、情報収集をしたいと思う」
 一番合戦先輩は一瞬間を置いて、俺たちが明らかな不満を持っていないことを見てから、
「正直今のままでは生徒会に勝てるとは思えない。負け戦はしない主義、などとへたれたことを言うつもりはないが、わざわざ無闇な戦闘でこちらの手の内を開けっぴろげにする必要もない。せめて……そうだな、今からお前らに与える課題をそれぞれがクリアできた頃に再戦をこちらから挑むとしよう」
 挑む内容自体はどうでもいいような口ぶりだった。よほど今回の敗北が一番合戦先輩の自尊心に傷をつけたのか、今度の再戦では勝利しか許されないと思われる。
 異論がないことを見て取ると、一番合戦先輩は俺たちにそれぞれ役割を割り振った。
 俺へ与えられた課題は、こうだった。
「出雲郷、お前はまず自制が第一だ」
「自制?」
 問い返すと、一番合戦先輩は俺を睨みながら笑い、
「何が何でも鈴珠に情報を流すな。いくら鈴珠が可愛かろうが美しかろうがだ。次に色仕掛けなんざに引っかかったらお前を裏生徒会から蹴り出すぞ。むしろお前が鈴珠から情報を引き出すくらいの心構えでいろ。兄妹という立場を逆手に取れ」
 俺の返事など元より聞く気がないらしく、それから、と一番合戦先輩は続けた。
「情報を流した罰として、出雲郷にはもう一つ仕事を請け負ってもらう。鈴珠からできる限りの情報を引き出すのと同時進行で、他の生徒会役員とそこそこでいいから親しくなっておいてくれ。六人全員と好意的に接触できるのは、おそらくお前だけだからな」

 そして俺は、前者の課題を見事に昨夜クリアした。鈴珠から情報を引き出したのだ。
「それぞれに条件をつけたんだそうだ。和先輩たちには、今以上に男女間の敷居緩和を約束すること。きのみさんには無関係な一般生徒を巻き込まないのを前提に、薬品保管庫への出入りを自由にするということ。プラス、裏生徒会相手なら実験も不問にするってよ」
「実験っていうのはつまり、昨日みたいなってこと?」と左京。
 昨日みたいな、というのは、塩酸を何の躊躇いもなくぶちまけたことを言っているんだろう。もしかしたら、消毒液のことも確信犯だったのかもしれない。俺はゆったりと頷いた。
「まあ、きのみさんの場合は教師側からも、頼むから生徒会に、なんて言われてたそうだ。俺らとのバトルであれば、校則上は基本的にルール無用のなんでもあり勝負だからな。そこらで実験欲を満たして、後はのほほんと過ごしてほしいってのが学校側の本心だろ」
 だからといって、生徒会に入ったきのみさんのプラマイは結局ゼロなのだが。
 薬品の知識があれだけ保持できる頭があって、服装だってそこまで乱れているわけでもないきのみさんが幾度となく留年をしているのは、勝手に薬品を持ち出したり人にぶちまけたりが原因で間違いないだろう。生徒会に入ろうが入るまいが、きのみさんは勝手にやるのだ。
 結局は、言葉巧みに丸め込んだ鈴珠の手腕がさすがという話になってくる。
「私市は鈴珠に無償の愛を誓ってるからともかくとして、きのみさんなんかが忠実に鈴珠の言うことを聞いてるのはそういうわけだ」
「あれ? でもさあ亜麻、いっこ変なことがあるんだけどー」
「先輩たちが言うことを聞く理由はわかったけど、早朝に来る理由はないよねー?」
 もっともだ。だがその一見もっともな意見の先まで見通しているのが、俺の妹、鈴珠である。
「この改変戦争のルールを思い出してみろよ。戦っていいのは、チャイムが鳴り終わるまでだ。だが休み時間は考慮されない。だけど、朝は休み時間か?」
 休み時間を除くチャイムと考えると、ついつい思考は授業中のみになりかける。だが実際は、休み時間でさえなければ、そしてチャイムが終了を告げる時間でさえあれば朝だろうが放課後だろうが関係はないのだ。
 要約すれば、学校の門が開いたその瞬間から、戦闘は可能なのである。
「あ、わかった。つまり、チャイムが鳴り終わるっていうのを、『始業のチャイムが鳴るまで』って考えると、朝一番のチャイムは始まりじゃなくて終わりのチャイムになるのかぁ」
「で、一番最後は放課後の最終下校時刻のチャイムー。確か六時とかだっけ? よくよく考えれば、昨日も放課後で六時前だったもんねぇ」
「そう、つまりだ。学校が開いている以上、生徒会はもういつ襲撃されてもおかしくない。ましてや俺と鈴珠は毎日必ず早めに登校をしてくる。さすがの向こうだって、大将一人を敵がいる戦場にほっぽり出しちゃおけないんだろうな」
 もしも俺が校門をくぐった瞬間に鈴珠を捕獲してしまえば、その時点で生徒会側の負けになってしまうのだから。今日から俺たちが何かしらの動きを見せることはさすがに向こうだって予想できてるはずだ。
 だから俺は、一番合戦先輩から与えられた二つめの課題のために動くことができた。
 こちらからモーションをかけない限り、生徒会は基本的になすすべがないのだ。つまり、こちらが戦闘を吹っかけない以上、暇を持て余しているであろうこの朝の時間。授業中などにはなかなか会えないだろう生徒会の先輩たちと親しくなるのに、これ以上適した時間はない。
「まあ、さすがに全員いるとは思ってなかったけどな。俺たちが思っている以上に向こうも結束力が強いらしい」
 呆れ半分感心半分に言ってから、思い出す。双子に与えられた課題は『自身の強化』であったことと、この双子は低血圧で朝にとても弱いことを。
「お前ら、本当は早く来る必要ないよな。お前らも寝られなかったんだろ」
 指摘すると、珍しくも双子が照れ笑いのようなものを溢した。
 普段からそうしてれば可愛いものを。

 双子と別れた後、俺は見槻先輩に電話をかけた。裏生徒会内で最弱と言われるあの人が何をしているのか気になったのだ。
『おーす。どした?』
 2コールほどで繋がった通話口の向こうが、どこかざわめいて聞こえる。ほぼ無人の学校にしては、この喧噪はおかしい。
「見槻先輩、今どこにいます? 学校じゃないですよね」
『コンビニ。鼎が朝飯買い損ねたっていうからさ、一回学校抜け出して買いに来てんの。あ、京たちもう来てるみたいだぜ。会った? つか、亜麻今学校?』
「さっき会いましたよ。物集女ももうすぐ来るそうで」
『へー……あ、ちょい待ち』
 通話口から少しだけ離れて、見槻先輩と、ハスキーボイスの女子――一番合戦先輩が一言二言交わす。内容は至極どうでもいい、コーヒー牛乳にするかいちご牛乳にするか、なんてもの。
 これでいいのかと思う反面、これが最善なのだとも思う。
 見槻先輩に与えられた課題は、『強くならないこと』だ。見槻先輩がもし何らかの技や武器の扱いを所得してしまえば、その時点で対策が張られてしまい、最弱で無敗の美人局見槻という前提が崩れてしまう。だから見槻先輩は、何もしないことそのものが課題だ。
『亜麻?』
「ああ、はい」
『そんじゃ、そろそろ俺たちも戻るわ。物集女たちにそう言っといて。できれば、京たちか物集女から生徒会側にもそう伝えさせといてね。警戒させられるから』
 付け加えられた要望に了承して、見槻先輩との通話を断った。そのまま、今度は物集女にコールする。今度は6コールほどで出た。
『も、物集女です!』
「いや、知ってるけど」
 妙に意気込んだ返事に軽く吹き出しつつ、見槻先輩から承ったことを丸々物集女に伝える。今さっき登校してきたという物集女は快く頷いてくれた。
『でも、わたしでええの? 亜麻や京さんたちのが多分上手くやれると思う……』
「物集女がいいんだよ。いや、物集女じゃなきゃ駄目だ」
 今からこちらの会長が学校に戻ってくる、なんて忠告めいたことをあからさまに伝えれば当然怪しまれる。だが物集女なら、うっかり喋ってしまった、という体が演出できるのだ。
 双子はそんなミスをやらかしそうにないし、俺はこれから相手側の懐に入らなければいけないのだから、そんな挑発のようなことはできない。
『じゃあ、わたしは鈴珠にそれ伝えてくる。亜麻はこれからどうするん?』
「白先輩のとこ行く。あの人わかりやすいな、さっきからずっとギターの音してんだ」
 今度こそスマートフォンをポケットに仕舞う。どうやら防音室の中で弾いてはいるようだが、スタジオでもない限り多少の音漏れは防げないだろう。
 微かに聞こえるギターの音を辿っていくと、意外や意外、たどり着いたのは防音室でなく体育館だった。しっかりと閉じられた厚い鉄製の扉を開くと、舞台の上、素足で胡座を掻いた白先輩と目が合った。
「よっす。早いね、一年坊」
 気さくな笑顔で手を振られて、俺は遠慮がちに頭を下げる。ギターを抱えるようにして弾いていた白先輩は、ピックで俺を手招いた。
「突っ立ってないでこっち来なよ。てか、そこ閉めてくんないと防音になんないんだよね」
 白先輩は急かすかのようにギターを掻き鳴らす。扉をしっかりと閉めると、白先輩は気ままに弦を弾き始めた。照明もついていない、朝日だけが頼りの舞台のど真ん中でだ。
「いいんですか、こんな気軽に男を入れちゃって」
 舞台には座らず、舞台にほど近い床に座る。ギターに目を向けたまま、白先輩は軽く笑った。
「安心していーよ。あたし年上趣味だから。あんたは?」
「妹主義です」
 表情を変えない白先輩に代わって、ギターが凄まじい音を立てた。
「……そいや、シスコンだっけ」
「ドシスコンです」
「マジな方?」
「ドマジです」
 ふうん、と微妙にギターの音を外す白先輩。この人、本当にわかりやすいな。
「まー冗談は置いとくとしてもさ。あたし、出雲郷がこんなとこでいきなりあたしを襲ったりするような奴だとは思ってないよ。どんな意味でもね。仲間を裏切るようなことも、妹を裏切るようなことも、あたしの信頼を裏切るようなこともしないでしょ?」
「随分と過大評価されてますね」
「だって、あんたの妹がそうやって言うんだもん」
 足の指を蠢かしながら、白先輩が悪戯ぽく笑った。
「『うちの亜麻は馬鹿だし変態だしきもいけど、嘘は絶対につかない』ってさ。普通こんなこと言う? 無花果も大概ブラコンだね」
「……そのくらい、普通の兄妹でも言いません?」
「言わない言わない。あたしも兄貴いるけど、なんていうの、もう冷戦状態。喧嘩すらしないもん。ましてやあんなこと絶対言わない」
 黙り込んだ俺へ、白先輩は笑みを向けた。捲り上げた袖から覗く腕や、靴下を穿いていない足なんかが、朝日を浴びて白く輝いている。
 ギターを弾き流しながらもその口元を緩ませる白先輩に、なんだか気恥ずかしくなる。
 音楽しか取り柄がないなんて、過小評価もいいところだ。白先輩一番の武器は、きっとその裏表のない素直さだろう。うっかりこちらの情報を流す前に、慌てて話題を変えた。
「この学校って、音楽室とは別に防音室ありましたよね? 普通、軽音部はそこ使うんじゃないですか?」
「放課後はね。早く起きた朝なんかは、ここでこうして弾いてんの。広いほうが気持ちーし。うちの体育館って住宅街に面してないから、アンプ全開なんかにしない限りは苦情も来ないし」
 なんて言いながら、白先輩は全力でその弦を弾いた。まるで苦情が来そうなほどの大音量に肩をびくつかせる俺を見て、他人事のように吹き出す白先輩。
「面白いね、出雲郷って」
「生徒会が問題起こすような真似して人を面白がるな!」
「そういや聴かせてあげる約束してたっけ。今ここで歌ってあげよっか?」
「やめろ! いややめてください!」
「よっしゃ、あたし頑張っちゃおっかな」
 立ち上がってギターを構える白先輩。「巻き添えになりたくなきゃ早く逃げなよ」と微笑まれて、その意図にようやく気付いた。白先輩一人と親しくなるのが目的でないことを、もう見抜かれているのだ。
「しばらくは襲撃しないってこと、訊かれない限りは無花果に言わないでおいてあげる。あたし、あんたのことちょっと気に入った」
 掻き鳴らしたギターの隙間から、そう聞こえたような気がした。
 仲間を裏切るようなことも、なんてカマをかけられていたのだと気付いたのは、体育館を後にしてからだった。

 訊けば、この学校で二千六百年きのみの名前を知らない者はそうそういないのだという。
 元素記号と学校に置いてある薬品の名前や効果などすべてを記憶できるほどの頭を持ちながらにして、三度も一年生を繰り返している十九歳の少女。
 頭も身体能力も生活態度もそこそこ良い。それでも留年を幾度と喰らう理由。
 それは、『わかっていないから』だ。
 無断で薬品庫から劇薬を持ち出すことも、教師や生徒に向かってそれらをぶちまけることも、きのみさんにとっては何ら問題とすることではないらしい。俺たちが牛や豚の死肉を食べているのと同じくらい自然に、きのみさんは人を実験台にする。
 だから俺たちはきのみさんを一目では危険だと思えないし、きのみさんも自分のことを危険だと思っていない。白先輩の言う、わからないことと、わかってないことだ。迂闊に近づけば殺されかねない。どこまでも無垢に、純粋に。

 体育館を出ると、すぐにきのみさんが見つかった。中庭にいたのだ。
「やっほー、出雲郷くーん」
 きのみさんは俺を見つけるや、何の疑いもなく手を振ってみせる。
 きのみさんが座るのは、木を取り囲むようにして作られたサークル状のベンチ。九十度ぶん離れて、俺もそこに座った。
「無防備ですよ、きのみさん」
「だいじょぶ。常備の塩酸に加えて、今日は硝酸も持ってるから」
 無防備なのは俺の方か。
「そんなことより出雲郷くん。あれだけ言ったのに、まだ敬語にさん付けー」
「どんな経歴を踏もうが、年上で先輩ですから」
「それがわたしにはよくわかんないんだよねー」
「なにがですか?」
「どうして人は、教室のある階数や生まれた時間なんかで立場を判断するの?」
 きのみさんは至極真面目な口調で、当たり前のことを言った。
「南北問題とか男女平等とかの前にさ、そこらへんどうにかしてほしいよねー。しかも、そういうことを訴える人ほど、年齢を気にするんだよ。ねえ、おかしくない?」
「……はい」
「ほらねー」
 でも、と続けた俺に、きのみさんは意外そうな顔をした。
「それを聞けば、なおさら俺はきのみさんに敬語を使いますよ。年齢とかを一切なしにしたって、俺はきのみさんを尊敬してますから。それは俺の心持ちの問題だから、きのみさんは口出しできない。そうでしょう?」
「……うわあ、出雲郷くんってそういう人だったんだー。ずるい。言い返せない。絶対そんなこと思ってないでしょー」
「思ってますよ」
 尊敬している部分から、恐怖する部分をさっ引いたらマイナスになるというだけで。最初から何もないゼロより、マイナスの方がいいに決まってる。
「なんか、無花果ちゃんの気持ちがわかっちゃった。うざいしきもいしシスコンだし性格悪いのに嫌いになれない、ってさー」
「……きのみさん、俺のことうざいしきもいしシスコンだし性格悪いって思ってたんすか」
「さてはて」
 首をゆらゆらさせながら、曖昧に笑うきのみさんだった。
「てゆーかさ。出雲郷くんは、なんでそんなに無花果ちゃんが好きなの?」
「だって、鈴珠可愛くないですか?」
「うん、可愛い。可愛いから好き?」
「誰でも可愛いものに嫌悪感は示さないでしょう」
 そだね、と肯定して話題を打ち切るきのみさん。
 一番合戦先輩のように切り捨てるのでなく、見槻先輩のように聞かないふりをするのでなく、双子のように引くのでなく、物集女のように苦笑いを浮かべるでもなく。ただ、頷く。
 聡い人だった。煙に巻く俺の罪悪感を駆り立ててくる。悪意も作為も微塵も見せずに、天然を装った計算ずくで。わかっていてなお、俺はそれに負けた。
「……ごめんなさい」
「うん」
 笑顔で首肯するあたり、本当に、とてつもなく賢いと思う。
「可愛いだけで好きになるなら、今頃出雲郷くんは少なくとも七人を好きになってるはずだもんね。一番合戦ちゃん、京ちゃん双子、物集女ちゃん、無花果ちゃん、白ちゃん、和ちゃん。どっちの和ちゃんかは出雲郷くんに任せるけどさ。まあ多分、しーちゃんの方かな?」
 女装男子と男装女子。確かに俺は、きっと弟を選ぶ。
「正確には、八人ですけどね」
「ん? なっちゃんもってこと?」
「きのみさんですよ。可愛いです、きのみさん」
 口角を上げたまま、きのみさんが凝固した。その反応からするに、本気で自分を勘定に入れてなかったんだろう。きのみさんは、自分の外見偏差値が六十五を越えていることに気付いていないらしかった。鈴珠を七十とすると、の話だが。
「……無花果ちゃんにチクっちゃうよ」
「それは困りますけど、本音ですよ。それでもどうしてもって言うならいいです、鈴珠に報告してください。小一時間ほど土下座すれば許してもらえる程度でしょうし」
「……もー! 本当に性格悪いな、出雲郷くん!」
 手に取った髪の束で叩かれた。ロングヘアを有効活用する人である。
「わーかった、言わない言わない。だから出雲郷くんも教えてよ。なんで好きなのかって」
「そんな大層な理由じゃないですけどね。……なんていうか、最初は母性だったんです。鈴珠ってああ見えて結構一人じゃなにも出来ないんで。しっかりしてそう、とかよく言われますけど。実際は、家に丸一日放置しといたら死にかけるレベルです」
「ふんふん、なるなる」と真面目と適当の狭間で頷くきのみさん。
「うちは親が親だったんで、自然と俺が鈴珠の面倒を見るハメになるんですよ。妹とはいえ同い年なのに、なんで俺がって正直思ってたと思います。今ではこれっぽっちも鈴珠の世話に苦痛を感じませんけど。だからその頃は、鈴珠しか目に入らないっていうよりかは、入れられなかったんです。自分と鈴珠の世話に精一杯で」
 きのみさんは、丸いベンチの上で器用に体をカーブさせながら寝転がっていた。俺がそれを見ていると、「あ、いいよ続けて」と気怠げに指先を舞わせてみせる。
「……まあ、それで自然と鈴珠につきっきりになる時間が増えて。元々可愛い顔してましたからね、いつしか鈴珠が学校なんかで他の男と喋ってるの見たらなんだかんだ理由つけて引きはがすようになってましたよ。友情発展型の恋愛と似てますかね」
「ふーん。でさ、それ、どこまで本当の話?」
 返答に詰まった。きのみさんは寝やすい位置を探しているのか、もぞもぞと身じろぐ。
「まあ、全部本当って線もあるかもだけどねー。でも、求婚するほど無花果ちゃんを好きになったのは、それが理由じゃないでしょ? これはわたしの個人的意見だけど、実妹に対する『好き』を認めて打ち明けるのって、結構大変なことだよね?」
 チャイムが鳴り響いた。終了の合図。
 きのみさんはそれが鳴り終わるのを待ってから、瞼を降ろした。
「タイムオーバー。わたしの負けでいいや」
「負けどうこうより、授業ですよ」
「もう二回も同じ授業受けたからいいんだもーん。というわけで、ぐんない出雲郷くん!」
 また留年しますよ、という一言は、何とか飲み下して教室へ向かう。
 きのみさんは、賢すぎてやりにくい。

 昼休み、弁当箱を鞄から取り出している俺の元へやってきたのは、意外な人物たちだった。
「あーま」
「ご飯食べよー」
 学ランとジャージの異彩双子が、揃いの弁当箱片手にやってきたのである。
 驚く間もなく、次の人物が駆け寄ってきた。物集女だ。
「じゃ、じゃあ、わたしも一緒に、ええ?」
「いや、いいって言うか……なんだお前ら、いきなり」
 入学してしばらく経つが、昼休みに双子や物集女から誘ってくることなど初めてである。
 双子は俺の腕を組み、強制的に教室から出させた。その後ろを物集女がついてくる。
「まーまー、かーいい女の子が誘ってあげてんだからさー」
「乗らなきゃ男が廃るよ亜麻ー」
「待て待て! いやマジで待ってくれ!」
 右京に引っ張られる腕で、何とかポケットからスマートフォンを取り出す。とある人物をアドレス帳から発掘した。
『一尺八寸っす。ご用すか、兄貴』
「来い! 今すぐ来い! 二秒で来い! 二秒で来たら鈴珠との結婚認めてやる!」
 通話を断った俺の背中を、悪寒が走り抜ける。ほぼ本能で振り向いた俺の視界に、見慣れた小さな姿が映った。
「……亜麻、なにしてんの?」
 弁当片手に能面で俺を睨む、鈴珠であった。
 設問に対する俺の答えははなから求めていないようで、鈴珠はすぐさま攻撃に打って出た。手首にぶら下げていた弁当箱を振りかざし、両腕を掴まれて身動きの取れない俺へ。俺は反射で目を閉じる。
 覚悟を決めた俺に、予想された衝撃は訪れなかった。間に合ったかと息をつく。
「……遅ぇよ、一尺八寸。四秒かかった」
「すんません」
 目を開ければ、弁当箱を片手で掴んだ一尺八寸。鈴珠はそれを恨めしげに睨んだ。
「なんで邪魔するの、私市。わたしより亜麻の言うこと聞くの?」
「いえ。もし弁当箱が割れて破片でも飛び散ったら、お嬢が危険だからです」
 鈴珠が黙り込んだ。一尺八寸は弁当箱をそのまま鈴珠の腕から抜く。俺の弁当までもを持とうとする一尺八寸を「いらん」と追い払ってから、双子にもエルボーをかました。
「いたーい。なにすんの亜麻ー」
「こっちの台詞だ! 一尺八寸なんざに頼らざるを得なかった俺の心のほうが痛いわ!」
 一尺八寸を付き従えて、鈴珠が廊下を進む。背中から滲み出る鈴珠の不機嫌オーラに、慌てて追いかける俺。それを追随してくる双子と物集女。
「なんなんだお前らは!」
「だって、あたしたちだって敵と仲良くなりたいんだもーん。亜麻だけずるいー」
「亜麻といれば確実に生徒会と接触できるじゃーん。特に鈴珠とはさー」
 ここ数日で知ったことだが、この双子は意外にも人懐こく社交性がある。思えば、俺のことも最初から呼び捨てにしていたのだ。距離を詰めるのが早い。
「じゃあ、物集女はなんなんだ」
「あ……わ、わたしも同じ理由っ。仲良うなりたくて」
「……本当かよ?」
 その友達を作らんとする姿勢は評価するが、最初の印象に加え、昨日のこともある。おそらく、鈴珠と物集女が仲良くなることは不可能だ。
 階段の手前にある自販機前で、最後の生徒会役員と邂逅した。和先輩たちだ。
 和先輩たちは男女混合のグループの中にいた。姉は女子サイド、弟は男子サイドに別れて、何の違和感もなく楽しそうに騒いでいる。二人の性別など、わかりはしない。
「あ、イッチーたちだ。ほら、見てシズ、イッチー」
「おんなじもん見てんだからいちいち報告しなくていっつの」
 和先輩たちは俺らを見つけるやグループの輪から抜け出してきた。コーヒー缶を手にした姉が、鈴珠の頭を撫で回す。
「やーん、イッチー今日も可愛い。どしたの、みんなでお昼?」
「うん。よかったら、こっち来る?」
「だって。どうする?」
「俺は別にいいけど」
「じゃあ行く。待ってね、教室からお弁当持ってくる。先行ってて」
 自販機に群がっていた友達に一言二言声をかけてから、教室へ向かう和先輩たち。屋上へ上がってしばらくすると、和先輩たちがそれぞれ弁当を持って戻ってきた。
「やっぱ日当たりいいね。さすが裏生徒会の特権」
「それより、ごめん、友達といたのに」
「いいのいいの。私がイッチーと食べたかったんだもん。気にしないで」
 よくもまあ対等に話す奴である。きのみさん理論を認めてしまっただけに指摘できないが。
 何となく生徒会側と裏生徒会側に分かれて座る。鈴珠から始まって時計回りに、一尺八寸、和先輩たち、双子、物集女、俺である。
「亜麻」
 肘で俺の脇腹をつつく鈴珠。
「どうした?」
「見てこれ」
 差し出された鈴珠の弁当は、中が悲惨なことになっていた。振り回したせいだ。
「亜麻のと変えて」
「それはいいけど、お前のより味付け濃いめだぞ」
「いい。これよりマシ」
 俺の綺麗な弁当と交換して、鈴珠が食べ始める。お茶を飲む回数はいつもより若干多いが、まあ大丈夫そうだ。それを見て弟が眉を寄せた。
「ていうか、わざわざ妹のと自分の、作り分けてんの……?」
「そりゃ、まあ。こいつ薄味好きですし」
「こいつって言わないで」
 鈴珠が俺の二の腕をつねる。「仲良いんだね?」と訊ねた姉には、俺と鈴珠が、方向の違う首の振り方をした。
「でも、和先輩方も仲良いですよねー」
「クラスメイトとも仲良くやっているみたいでしたしー」
 やや強引に双子が話題を転換させた。その意図に気付いて、俺が続く。
「お二人の本当の性別、周りは知らないって本当なんですか?」
「……っ亜麻!」
 喜怒哀楽の怒を示したのは鈴珠だけだった。一尺八寸は鈴珠の指示が出ていない以上、ただ静かにコンビニ弁当を貪っていた。姉が苦笑いで訊ねる。
「まあそうだけど……それって、ガセちゃん情報?」
 頷くと、諦めたように弟が嘆息した。
「無花果。ある程度俺たちのこと説明していい?」
「だめ。それをネタに脅されたらどうするの」
 鈴珠の当然ともいえる静止に、しかし声を荒げたのは物集女だった。
「そ、んなこと……亜麻は、しないっ」
 やばい、と思ったのは俺だけだったろう。庇ってくれたこと自体は嬉しいが、物集女の一言には幾つもの爆弾が含まれている。もちろん宛先は、鈴珠。
「なんでそんなこと言うの。なんで会って数日の人に、亜麻のこと説明されなきゃならないの。わたしのが絶対わかってるのに。ていうか、なんで亜麻って呼ぶの」
 疑問系なのに疑問符がつかない喋り口調。鈴珠が怒っている時の特徴だった。俺がここで余計な口を挟めば、鈴珠は性格的にヒートアップする。止める方法は一つだった。
 口ではなく、身を挟む。潰す勢いで鈴珠を抱きしめた。鈴珠が人外のような悲鳴を上げる。
「いややめていやいやいやぁ! 離して離してきもい恥ずいうざい!」
「ああもう鈴珠可愛い食べたい舐め回したい!」
「わかったわたしが悪かった、謝る! 謝るから! ごめん粉! 和(なごみ)たちも弱みにならない程度なら話していい! 亜麻は死ね!」
 解放した途端、鈴珠の拳が飛んできた。大した威力もないことを知っているので、甘んじて受け止めた。それがまた癪に障ったようで、往復を頂く。その間にも、双子が「よく今までばれませんでしたねー」などと情報を引き出しにかかっていた。切り替えが早い奴らだった。
「元々ここが生徒の自主性に任せるって校風なのは知ってたし、それに準ずるくらい学長が変人だったからな。もし一番合戦が作らなくても、俺らが似たような団体を作ってたよ。でもまあ、実際は入学初日に一番合戦が作ってたから、すぐ入って俺らの入れ替わり許可してもらって。だから俺らのことを知ってる奴らは最初から作る気なかったし」
「それぞれ、普通に入れ替わって暮らしたかっただけだからね。まあご飯食べながら話すのもなんだけど、恋愛の最終段階になるとばれちゃうけどさ。それまでは私は私、シズはシズで恋愛したくて。中学ん時は死ぬほど敬遠されてたからね、私たち」
 悲壮的な表情で言う姉に、ついその場が静まりかえる――ことを許さないのが、双子だ。
「じゃあ、ばらされたら困っちゃいますねー?」
「なのに、言っちゃいましたねー?」
 目で促されて、俺も続いた。
「俺たちがばらすかもって、考えませんでした?」
「そう言ってるうちはしないくせに。出雲郷くんも京ちゃんたちも」
 予想外の声が聞こえて、振り返る。庇の部分に寝ていたきのみさんが、上体だけを起こして微笑んでいた。いつの間か、中庭から屋上へと昼寝場所を変えていたらしい。
 伸びをしつつ、危うい庇上から戻ってくるきのみさん。
「……いつから起きてたんですか?」
「最初からずーっと、だよ」
 さらりと言ってのけながら、俺の弁当を指で摘むきのみさんだった。
「……味薄っ」

 それから数日、俺は一番合戦先輩の言いつけ通り順々に生徒会役員を回って歩いた。或いは朝だったし、或いは昼休みだったし、或いは放課後。
 定期報告は毎日あったが、俺以外は特に何をしているのかよくわからずじまいだった。
 よく考えれば、俺以外の全員の課題は曖昧模糊としているのだ。見槻先輩は『強くならないこと』、双子は『自身の強化』、物集女もまた『弱点の克服』といった感じに、どうも俺と違って具体的ではない。
 最も何をしているかわからなかったのが、一番合戦先輩だ。あの人はまず自分に対しての課題を俺たちに表明しなかったし、いつ会っても様子が変わった様子はない。したことと言えば、途中「一尺八寸のところへはもう行かなくてもいいぞ」と俺に命を下しただけだ。
 まあ、後から思えば全員が全員、きちんと動いていたのだが。
 そして、水面下で動いていたのはなにも俺たちだけでもなかった。

 冷戦状態に入ってから、一週間弱も経過した頃だっただろうか。裏生徒会での定期報告が長引き、帰る時にはもう太陽が沈みきっていた。
 蛍光灯の光を予想して開いた扉の先には、真っ暗な部屋があった。
「鈴珠?」
 呼んでみるが、返事はない。気配はあるし、玄関には小さなローファーが脱ぎ捨てられているのを確認済みだ。何度か名前を呼びながら、電気のスイッチを押す。だが蛍光灯そのものが切れているのか、光が灯る様子はない。
 だがカーテンが開いているおかげか、僅かな月明かりが部屋に差し込んでいる。やっと暗闇に目が慣れて、月光だけでも薄らぼんやり見えてくるようになって。
 その惨状に、息を飲んだ。
 今までに見たことがないくらいに、部屋が荒れていた。立っているものはテーブルから花瓶まですべてが倒され、カーテンは開いてなどいなく、レールごと引きちぎられているだけだ。床には割れたガラスが散乱し、そこに、黒とは違う色を見た。
 月の光が一層強く入り込み、その色を移す。ぽたぽたと雫のように垂れる、赤だった。
「……鈴珠」
 その赤を辿った先に、鈴珠がいた。床に座り込んで、髪も乱れている。項垂れたその表情は読み取れない。俺はガラスを踏みしめながら、一直線に鈴珠のもとへ向かった。
「どこだ」
 鈴珠はうんともすんとも言わない。隣に座る。
「切ったの、どこだよ」
 答えない鈴珠に焦れて、勝手に手を掴む。適当に掴んだつもりが初っぱなから当たりだったようで、掌に幾重もの切り傷があった。大方、ガラスを投げる時に切ったのだろう。
 手首でなかったことに、とりあえずは安心する。この怪我は、自己でなく事故だ。
 俺に触れられて拒絶反応を起こさないあたり、ヒステリーの原因はどうやら俺ではないらしい。俺ではないことが最も悪質で、最も苛立つのだが。
「……誰がやった。誰が、なにをした」
 呟いた自分の声は、予想以上の低く潰れていた。
 俺以外の誰かが、俺以上のことをしでかした。俺よりももっと酷い誰かが、鈴珠に何かをした。十何万とするだろうこの部屋の修繕費より、鈴珠の怪我自体より、そのことが苛つくのだ。
 眠っているのかと思うほどに、鈴珠は動かない。片手に収まりそうなほどに小さい顔を両手ですくい上げる。
 鈴珠は眠っても、泣いても、怒ってもなかった。
 ただ呆然と、憔悴した鈴珠の表情に、俺の中の何かが壊れた。
「言えよ! 誰がお前をこんなにした! 俺がいないところで、俺の知らないなにをされた!」
 抱きしめる手は、コントロールが効かずに乱雑になった。
 鈴珠が口を開いたのは、俺がようやく、ガラスで切った足の痛みを実感し始めた頃だった。
「……亜麻。あのね」
 からからに乾いて掠れた声。呟きは、砂嵐のようだった。
「お母さんに、会った……」
 痛い、と言わないのが不思議なほど、俺の抱擁する腕はきつくなっていた。鈴珠にここまでのヒステリーを引き起こさせるのには、十分すぎる材料だった。
「わたしを、引き取るって、言ってた。それで、わたしを、結婚させる……って」
 噛みしめた唇から、血が溢れた。こんな場面で、こんな形で、鈴珠から結婚なんて単語を聞きたかったわけじゃない。
「あのね……お母さんの知り合いが、息子とわたしを結婚させようとしてて……資産家だから、結婚したらお母さんもわたしもいい暮らしできるって、言われて……今まで苦労かけてごめんね、って。……でも、わたし、そんなのが聞きたかったわけじゃ、ない」
 鈴珠の声はいつの間にか濡れていた。血塗れの手が俺の背中を掴む。
「結婚したら、学校も、家も、全部変わるの。お母さんは、わたしと、亜麻、を、会わせる気なんて、ない……わたしの、今まで、全部なくなる……全部、だめになる……っ」
「……大丈夫。大丈夫だよ、鈴珠。ゆっくり息しろ」
 あやす手を優しくするのに精一杯で、抱く手はますます強くなった。
「やだっ……わたし、こんなの……っ」
「泣くな、鈴珠。大丈夫、絶対にそんなことさせねえ。どんなことになっても、ちゃんと俺が守るから。昔言ったろ、ずっとお前のそばにいるって。俺は嘘をつかない」
 足の痛みが悲鳴を上げるほどになっても、俺はただ、鈴珠を抱きしめていた。

 翌日、鈴珠は学校を休んだ。俺が休ませたと言ってもいい。戸締まりをしっかりした上で、まだ片付けの済んでないリビングではなく自室に残した。リビングの電話線は、念には念を置いて引っこ抜いた。もし何かあった時だけ刺し直せと言ってある。
 いつもは白先輩のいる体育館へと向かう足。まっすぐ会室へと向かう。
 会室には、退屈そうな一番合戦先輩が、約束通りに一人で待ってくれていた。
「お、出雲郷。どうした、改まって話があるなんて」
「一番合戦先輩。お願いがあります」
 首を傾げた一番合戦先輩に、揺るぎなく叩きつけた。
「鈴珠と、結婚させてください」

 三年前の冬、俺と鈴珠が別々の中学で一年生をやっていた時の話だ。
 数年前に両親が離婚し、それぞれ別に引き取られた影響で、俺と鈴珠が会えるのは月に数回程度――と、両親は思っていただろう。実際は学校帰り、毎日と言っていいほど俺と鈴珠は会っていた。その頃はまだ、お互いに仲が良かったのだ。
 それに、家に帰ったってろくなものじゃなかった。
 俺の方の父親は残業出張赴任の繰り返しで、一ヶ月に一度帰ってくるかこないかというレベルの仕事人間だったし、鈴珠の方の母親は離婚前と何ら変わらず知らない男の元を泊まり歩いている。聞くところによると、母親は結婚中もパートと偽って水商売をしていたらしい。
 どちらも見るに堪えない程の最低な親だったが、父親には感謝をしたい。仕事で長期家を空けて、だけれど金はそこそこ入れてくれる。一人暮らしも同然だ。
 だからこそ俺は鈴珠を家に連れ込めたし、飯を作ってやることもできた。そうでもなければ、きっと鈴珠は今頃この世に存在していなかったことだろう。
 金はあるんだからさっさと鈴珠も引き取れよ、と何度も父親に訴えたが、どうも母親の方が『母子家庭手当てがもらえなくなる』という理由で親権の放棄を拒否しているらしかった。
 こちらの家に泊まらせることも考えたが、不定期に帰ってくるらしい母親を恐れて鈴珠は律儀に毎晩安アパートへ帰った。母親が仕事を終える時間を過ぎてから帰ることは、一度たりともなかった。
 そんな鈴珠が、ある日深夜三時ほどに俺のマンションを訊ねてきた。驚いて出てみれば鈴珠は寝間着らしきTシャツ一枚、今にも死にそうな白い顔をしていた。
「鈴珠!」
 俺はインターフォン越しではなく、すぐさま一階まで降り、そして、絶句した。
 奇跡か不幸か。その日は東京にも雪が降る夜だった。雪が降り注ぐ白い路上、鈴珠は裸足で立ち尽くしていたのだ。ロングだった髪は、ばっさりと肩のあたりで乱雑に切られて。
「なん……どうした、なんで、そんな格好……」
 玄関へ入れようとしたが、鈴珠はそれを拒否した。掴んだ手は、氷よりも冷たい。
「……亜麻が」
「……俺が……?」
「亜麻が、連絡したんでしょ……児童相談所」
 心臓を握りつぶされるような感覚だった。鈴珠は俺を睨みさえせず、水よりも氷よりも静かな温度で俺を見つめていた。
「今日の夕方頃来たの、児童相談所の人。やめてって言ってるのに、ちょうど帰ってきてたお母さんを起こして……少し話して、何もせずに帰ってった。また何かあったらすぐに言ってね、なんて言って……何もしてくれなかった。……何も、できないくせに!」
 鈴珠が殴ったのは、俺の後ろにあった扉だった。血の滲む拳を見て「鈴珠!」と制止をかけたが、鈴珠は何かが切れたかのように暴れた。
「どうしてよ! わたしはこれでよかったのに! 昼間は亜麻といて、夜は一人で! たとえちょっとお腹がすいたって、夜中酔っぱらったお母さんに無理やり起こされて作れもしないご飯作らされたって、それでまずいってお茶碗投げられたって! それでもわたしは、昼間、亜麻といれるだけで幸せだったのに! なのに、怒られた、叩かれた、追い出された!」
 俺より小柄なはずの鈴珠が、俺を押し倒した。スウェットを通じて雪の水分が背中からじんわり入り込んでくる。頭上からは雪なのかそれとも他の何かか、雫が落ちてきた。
「亜麻が可愛いって言ってくれた顔殴られた! 亜麻が綺麗って言ってくれた髪切られた! 亜麻が偉いって言ってくれた門限破った!」
「……鈴、珠」
「どうしてくれるの! もうわたし行くとこなくて、亜麻にも褒めてもらえない! 全部亜麻のせいだよ! もう、わたし、どうしたらいいの……っ! 責任、取ってよ……!」
 力尽きたかのように、鈴珠が俺の胸に倒れ込んでくる。抱きとめた体の小ささと冷たさに、俺の心臓が針でも刺されたかのように痛んだ。
「ごめん、ごめん、ごめんっ……ごめん、鈴珠、ごめんな。本当にごめん」
「謝られたって、もうわたしっ……捨て、られ……っ」
「俺がいる。俺がちゃんと責任持ってお前を引き取る。親父やあの女がどう言おうと、もうお前を一人になんかさせない。俺がずっとお前のそばにいる。……一人でもいいなんて言うなよ。昼間だけで幸せなんて言うな。ずっと一緒にいてやるから。だから、俺と幸せになろう、鈴珠」
 こんな時にもかかわらず、俺は少し喜んでいた。今まで泣きも叫びもしなかった鈴珠が、初めて大泣きしていることに。やっと、鈴珠を強引に連れ出す理由ができたことに。
「好きだよ、鈴珠」
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