二章


「書記、ですか?」
「うむ、書記だ」
 二つ向かい合わせに置いた長机の間の奥、裁判所で言うならばちょうど裁判長の位置。その場の絶対者のポジションである席に座った一番合戦先輩は、そう宣言した。
 翌日、俺は登校した途端、一番合戦先輩に拉致された。
 いやこの言い方だと語弊がある。実際に手を下したのは双子と見槻先輩だ。一番合戦先輩はずっと俺の横でにやにや笑っているだけだった。もっと質悪い。
 連れて行かれたのは、昨日もぎ取った裏生徒会の会室だった。特別教室と称したただの物置部屋を、昨日俺たちが帰った後に生徒会役員総出で片付け、掃除までこなしてくれたらしい。おあつらえ向きに役員用の長机と会長用のでかい教卓まで用意されていた。
 一番合戦先輩曰く、これは単なる敗北した者の義務らしいが。
「ていうか、朝の活動はしないって言ってたのに……」
 双子がもうすでに一番合戦先輩の便利な手足となっていることには突っ込まないとして、どうして俺まで。
「本来、朝のこの時間は教室で鈴珠と語らい合うための時間なんですよ」
「よかった、私は一人、尊い少女の朝の時間を救ってやれたわけだな」
「まぁ、せっかく立派な会室を頂いたんだしー」
「そりゃ、使わなきゃ勿体ないよー」
 ねー、と顔を見合わせる双子。今日も変わらず学ランとジャージだ。
「京双子の言う通りだ。今までは私と見槻二人だったから打ち合わせなども屋上で済むくらいだったが、今後はそうもいかないだろう。それにだな、出雲郷が壁や天井が欲しいというから、昨日わざわざ私は文房具代千二百六十円を犠牲にして戦ってやったんじゃないか」
「あれ自腹!?」
「当たり前だ。裏生徒会に経費などない。一介の高校生には結構きついぞ、あの文房具芸は。近接戦ならまだしも、私はあれらを投擲して使う遠距離が基本のスタイルだからな。投げた後に回収というのも格好がつかないだろう。だから毎回のたびに購入している」
「じゃあ使わなきゃいいじゃないですか」
「懐にいつでもある安心感」
「キャッチコピーみたいに言われても困ります。しかも凶器を」
「もーいーじゃーん。諦めろ亜麻ー」
「戦いには相談も大事だよー。認めろ亜麻ー」
 双子が俺と一番合戦先輩の不毛なやりとりを打ち切った。ナチュラルに呼び捨てられていた。
「で、なんだっけ。書記?」
 見槻先輩が話を戻す。一番合戦先輩が大きく頷いた。
「そう、書記だ。今までは私と見槻だけでも十分機能していたが、これからはそうもいかない私が仕入れた情報によれば今週中には生徒会が変わるらしい。ああいや、こんな言い方をしてはあまりに今の生徒会が哀れだな。今週中に生徒会不信任の決議があり、私の予想ではおそらくそれが可決される。さらに言えば、今のところ時期生徒会役員として名乗りを上げているのはなかなかの手練れだ。今のところ会長の立候補はまだいないようだが……とにかくだ」
 スニーカーを床に叩きつける一番合戦先輩。
「これからはそこそこ真面目にやらねば、京双子のコスプレ紛いの格好を容認させるだとか、出雲郷の日本の法律さえもを凌駕する過ちを認めさせ学校側に責任をなすりつけるだとか、見槻はどうでもいいが、そのように自由な世界が作れないということだ! いいのか京双子、変態教師にその衣服を校則違反を盾に剥ぎ取られても! いいのか出雲郷、お前と妹が別々になるような進路を組まれても! 見槻、はどうでもいい!」
 整えられた一番合戦先輩の爪先が俺たちを指していく。
 俺と双子は顔を見合わせ、小さく頷いた。
「鈴珠にはきちんと事情を説明して、通学路もきっちり覚えさせます。今は辛いかもしれないが、いずれの幸せのために今は我慢してくれと! 俺たちの明るい夫婦生活のために!」
「応援していいのか微妙だが、うむ、まあ、よし! 京双子はどうだ!」
「もちろん、精一杯戦いますよー」
「変態は亜麻だけで十分なのでー」
「そうだな、その通りだ! ラストは見槻、副会長!」
「今まで俺に散々言っといてよくそんな堂々と話触れるよね、鼎。……まあ、俺は去年と同じ通り、俺にできることをやるだけだし」
「そうか、私は最高の仲間を持ったな。ならば今日のうちに最高の書記を連れてこい」
 灼熱のような笑顔のまま、一番合戦先輩が全員の肩を叩いて回る。
「せっかく今年は会計と庶務まで揃ったんだ、こうなりゃ書記もさっさとコンプリートしたいだろう。有能なお前たちなら、書記一人捕まえるなんて簡単だよな?」
「いや、でも、一日って、」
「まさか書記一人も捕まえられない奴が、日本の法律に背こうなんざ思ってないよな?」
「……はい」
 その後、全員と携帯の番号とアドレスを交換した。交流目的などではもちろんなく、書記を見つけたらすぐさま報告するためだった。
 そんな俺が一番驚いたのは、双子がちゃんと一台ずつ携帯を持っていたことだった。
「常に一緒にいるくせに、二台も必要あるのか……?」
「あたしたちとしてはぁ」
「会長がスマフォ持ってるのも意外だったですけどぉ」
「まあ、鼎の場合は困った時に呼び出す用だから」
 何でだろうか、『困った時に』と『呼び出す』の間に『俺を』という単語が入る気がしてならない。色々と恵まれているぶん、見槻先輩は苦労も多そうだった。
 会室を出ながら、それぞれのアドレスが入ったスマートフォンを仕舞う。
「そういや、出雲郷は妹に携帯持たせてるのか?」
「ああ、持たせてませんよ。あいつとんでもない機械音痴ですし。それに、もし万が一ネット犯罪に巻き込まれでもしたら心に癒えない傷を負わせてしまうじゃないですか」
「じゃあもし妹がピンチになってたりしたらどうすんだ。いくらお前が重度すぎるシスコンっつっても、さすがに二十四時間ぴったりってわけにはいかないだろ」
「それはちょっと怖い部分でもありますけど、でもまあ――」
 そのとき、俺の第六感が何かを感じ取った。寒いわけでも気分が悪いわけでもないのに、鳥肌が全身に広がり、耳の奥がきんきんと鳴り響く。
「出雲郷、どうした?」
「いや、なんか、今悲鳴みたいなのが……」
「悲鳴? なんか聞こえたか、見槻」
「物音すらしてないけど……? だってまだ普通の生徒は来てないだろ?」
 スマートフォンで時間を確認する見槻先輩。確かに、今は登校時間より少し早い。俺らの場合、鈴珠が朝にも弱いため、二度寝防止のために早めに学校へ来ているだけだ。
「亜麻の勘違いじゃないのー」
「なーんも聞こえないよー」
「や、絶対に誰かがどっかで叫んだ。……ほら、今も!」
 その声が誰のものであるか、俺はその一瞬で判別した。できてしまった。
 声の主を突き止めさえすれば、あとはもうそこまで一直線だ。階段を駆け上がって一年生のフロアまで上がり、サイレンのように鳴り響く直感を頼りに廊下を走る。
「亜麻!」
「やっぱりお前か、鈴珠!」
 俺の予想通り、たどり着いた先には鈴珠がいた。誰に聞こえなくとも、俺にだけは鈴珠の声が届いたのだ。スマートフォンなんかより、もっと明確な電波によって。
 双子という理由だけでクラスを分けられたはずの鈴珠は何故か俺の教室にいた。
 その小さな背に、一人の女子を庇って。
 鈴珠が対峙しているのは、明らかに頭の弱そうな金髪と茶髪の女子二人だ。ばさばさした人工の睫毛と、カラコンだろう、日本人にあるまじき瞳の色が恐ろしい。
 四人の状況はわからないにしろ、こんな馬鹿そうな女たちと鈴珠、どちらか正しいのかなんて考えるまでもない。迷わず俺は鈴珠の前に出る。控えめながらも、鈴珠が俺の肘あたりを掴んできた。
「どうした」
「学校来るなり亜麻がどっか行ったから、ちょっと探してやろうと思ってこの教室来たら、そこの女たちがこの子に水かけようとしてたから。止めようと思って」
 女たちの足下にはバケツが置いてあった。重かったのか、半分ほどまでしか水は入っていないが、それでも嫌がらせとしては十分すぎる物品だろう。
「そうか、鈴珠は偉いな。あと、俺はどこにも行かないぞ。ずっと鈴珠のそばにいる」
「きも!」
「きっしょ!」
「それはきもい」
「おいそこのギャル女共、麗しき鈴珠の声にノイズを被せるな」
 鈴珠に罵倒されるぶんにはむしろご褒美ですらあるが、女たちのそれは非常に不快だった。
「つーか、なんでお前らこんな早くにいんだよ。馬鹿女は馬鹿女らしく、遅刻当然の恥知らず顔で登校してくればいいだろ。二つの意味で厚顔だしな、お前ら」
 女たちの不自然に明るい色をした眉毛がぴくりと動く。色んな物を顔の上に乗っけているせいで、双子とは違う意味で表情の変化があまり感じ取れない。
「あのさー、別にあたしら最初っから水ぶっかけようとかそういうアレじゃーねーし。ちょーっと机とかロッカーに悪戯してやろうと思ってただけなのに、その女が早く来すぎなんだよ。マジ空気読めっつーの」
「てか、そのおさげ女もなに? 人のやることにいちいち口挟まないでくれる? これはあたしとそこの女の問題なわけでさー、何でお前がしゃしゃり出てくんの? あー、見るからに優等生だもんねー。ポイント稼ぎ的な?」
「……亜麻、こんなのでも一応は女子だから。手出しちゃだめだよ」
 俺の不穏な空気を感じ取ったのだろう、肘を掴む鈴珠の力が強まる。見ると、鈴珠の庇う女子も不安げに俺を見上げていた。
「お前ら三人、全員纏めてすっごいむかつく。お前に至ってはなに、彼女のヒーロー気取り?女同士に喧嘩の男が出てくるって時点でドン引きだけど」
 俺の事はいい。ただ、顔と首の色が違う女が、鈴珠を不細工呼ばわりするのは許せない。どこに目がついているのか。
「ちっげーよ由美! そうだ、こいつら中学ん時から有名だったじゃん。ほら、四中の。名字違うだけで、こいつら実の兄妹だって!」
「え、嘘、マジ? じゃあなに、こいつ、妹に向かってあんなこと言ってたん? なにそれ、超シスコンじゃん」
 それがなんだ。俺はシスコンだ。知ってるわ、そんなこと。
「まー、あたしとしちゃ妹の方に引くけどね。高一にもなって兄貴の後ろに隠れて、助けてお兄ちゃんってやってんだぜ。マジない。いい加減兄離れしろよ」
 ぶつっと、頭の中で音がした。鈴珠の手を振り払うなど勿体ない上に申し訳ない限りだが、今だけはやむを得なかった。緩みまくった女たちのワイシャツを掴む。
「ふざけんなよ、……ふざっ、けん、なよ……! お前ら、んなこと、言って、」
「亜麻、ばか! そんなことしたら退学になる!」
「んなこと言って、本当に……」
 鈴珠のハープのような声に、不快な金切り声が混じった。ああ、ちくしょう。
「本当に鈴珠が兄離れしたら、どうしてくれんだよ!」
 このまま窓の外にでも放り捨ててやろうかと腕に力を込めたところで、
「亜麻!」
 俺の唯一の操縦士であろう鈴珠の声が、ようやく耳に届いた。振り返ると眉を寄せた苦々しい表情の鈴珠が俺を睨んでいた。やらかしたか、と思わず女たちの襟首を離したが、どうも二人は怯えからかその場に座り込んで動きはしない。
「……亜麻」
 はあっと力強い溜息をついた鈴珠が一度だけ頭を振り、そして、
「ばっかじゃないの。女には殴るより精神攻撃。基本でしょ」
「……仰せのままに、お嬢様!」
 にやりと笑った鈴珠の期待に応えるべく、目下にあったバケツを渾身の力で蹴り飛ばした。
 腰を抜かして床にへたり込んだままの女二人に水は直撃し、狙い通り顔から上半身までがびっちょりと濡れる。
 さすがに学校メイクにウォータープルーフは使用していなかったのか、塗りたくって作り込んでいた二人の化粧が水によって蕩ける。ようやく我に返った二人が目に入り込もうとする水滴を取り除こうと、袖で顔を擦った。
「自称俺の鈴珠よりもお綺麗な顔、見せてやろうか。ほれ」
 誰が俺の鈴珠、と呟く声を背中に、インカメラモードにしたスマートフォンを差し出してやる。擦ったせいで睫毛は取れ、目の周りは真っ黒に染まり、眉毛がなくなった素の顔がそこには晒し出された。あまりに二人が無言で見入っているので、ついでにシャッターボタンを押してやった。
 無駄に研ぎ澄まされたシャッター音で、はっと肩を震わせた金髪の方が立ち上がる。睫毛と巻き髪が取れたせいで落ち着いた顔となって、こっちのが可愛い気もする。
「お前、マジ……っ」
「おうおう、お前頭の色の割には結構可愛い色のブラ着けてんな。それとも今日はこの後デートだったか。もしそうなら悪いことした」
 はっとして自分をようやく見下ろすが、もう遅い。俺はもうシャッターを切っている。今度は全身、水に濡れて桜色に透ける下着まで込みでカメラに収めた。
「こんの……っ」
 今度は茶髪が足を振り上げ、俺のスマートフォンをピンポイントで破壊しにかかる、が。
「あ、おい、そんな足上げたら水色のパンツが」
「……っ!」
 俺の嘘を真に受けた茶髪が、慌てて足を下げる。
「なあおい、んな短いスカート穿くならスパッツも穿くなよ、男の夢が失われるってもんだ。つーか、反応したってことは、お前少なくとも水色のパンツを所有しちゃいるんだな。さすがに持ってない色言われたら嘘だってわかるだろ。ちなみに俺が水色っつった理由は、昨日洗濯機回した時に見た鈴珠のパンツが水色だったからだが」
 鈴珠にバケツで殴られた。
「ひ、ひと、ひとの下着の、いろ、な、なに、見てんの……!」
「俺が家事してるんだからそりゃ見るだろ。ましてや鈴珠のパンツとか、俺が家事しなくたって見る。干してるお前の下着を三時間見て過ごせる」
 バケツで殴られて足で蹴られた。桃色の下着が見えた。
「鈴珠、お前そんなピンクのパンツいつ買った? 少なくとも一週間前まではお前のタンスになかったぞ。……ああいや違う! これはお前のタンスを漁ったとかではなく、洗濯物を仕舞う際の不可抗力であってだな! そりゃ若干家事の合間に鑑賞したりはするが!」
「死ね! もしくは血縁関係切って!」
「ちょ、ま、いだっ、待て鈴珠、あいつらが逃げる!」
「もう写メ撮ったし追いかける理由ない! だからもう死ね!」
 結局鈴珠の暴行が止んだのは、本当に女二人が消え去った後、しかも逃げてから五分近くが経過してからのことだった。叫びながら動いていたせいで、鈴珠も呼吸困難気味である。
 女二人との戦闘はもちろんのこと、昨日の生徒会室での乱戦ですら俺は無傷だったのに、今は体のあらゆるところが痛い。口内に鉄の味が満ちていたりもする。だがまあ、精神的に満たされているのでよしということにした。
 そこでようやく、事態の発端と原因の女子の存在を思い出した。教室の隅で所在なさげに縮こまっていて、さすがの俺も罪悪感を感じざるを得ない。
 だがその女子は、若干おかしな格好をしていた。いや、何も双子や一番合戦先輩のように格好自体がそこまでおかしいわけではない。そうではなく、女子はこの場にふさわしくない衣服を着ていたのだ。
 五十公野学園の制服は、茶色のブレザーに灰色チェック、もしくは黒スカートが正しい状態である。俺の周りには鈴珠しかその状態の人間がいないという点には、とりあえず目を瞑ろう。
 だがその女生徒は、紺色のセーラー服を着ていたのだ。
 洒落っ気などがあまりない代わりにどこか清楚な雰囲気を醸し出す、古き良き紺色セーラーだ。それにカーディガンを羽織っている。
 そのセーラー以外は、至って普通の女子高生だ。淡い栗色の髪を頭のてっぺんでお団子にしているのも、控えめなフレームの眼鏡も、平均より僅かに小さいくらいの体躯も。あえて言うならば、この騒ぎの中にいてさえ一言も喋らなかったということくらいか。
 下がった眉と全身から出る遠慮オーラのようなものが、その女子生徒の気弱で内気な性格を一目に物語っている。よく言えば控えめ、ぞんざいに言うなら人見知り。
「ああ、ええと、大丈夫か?」
 裏生徒会に在籍する女子たちのような肝の据わった人にならともかく、こんな見るからに怯えた少女に向かって、いきなり格好についてなどを問い詰めるようなことはできないので、さしあたっては当たり障りのない質問を投げかけた。
 おだんご女子はこくこくと首を上下させる。
「怪我とか、ないか。どっか濡れてたりとか」
 今度は、ふるふると首を動かす。そのせいでずり落ちた眼鏡を指で押し上げ、潤んだ瞳で俺をじっと見つめてくるおだんご女子。
 このままでは埒が明かない。そろそろ他の生徒も来るだろう。
「何であいつらに、……あー、あんなことされそうになってた?」
 いじめ、という単語を濁しはしたが、質問の核はしっかり残したつもりだった。一言納得できる理由を述べてくれれば、もうそれ以上踏み入るつもりもなかった。
 だがおだんご女子のとった行動は、はっとして手を意味不明に動かし、おろおろと辺りを見回し、何か言いたげに口をぱくぱくさせた後にもごもごともさせ、最終的に、だっと逃亡する、というものだった。なんだか擬音の似合う女子だ。
 無言で騒いで無言で走り去った彼女に、鈴珠が呆然と呟いた。
「……なんだったの?」
「さあ」
 ただ、教室を出て行く時、思い出したかのように俺たちの方を向いて一礼をしたので、やはり悪い子というわけでもなさそうだが。どうにも行動の読めない女子だった。
「んなことより鈴珠、お前はなんかされてないか。怪我とかしてないか」
「されてないしてないどうもしない。もっともらしい理由つけて触ろうとしないできもい」

 そのおだんご女子が俺と同じクラスなのだと気付いたのは、朝のHR中だった。
「物集女(もずめ)粉(かけら)」
 担任教師の話を聞き流し、昨日配られた一学年の名簿プリントをポケットからおだんご女子の名前を割り当てる。名前順に座っているため、すぐにわかるのだ。
 粉とは、これまた変わった名前だ。当の物集女は窓際の席、まるで小学生のようにぴっちり膝に手を揃えて座っている。所作こそは地味でおとなしいものなのに、ブラウンのブレザーや黒髪が蠢く中、紺色のセーラー服と栗色の髪をした物集女はかなり浮いて見えた。
 それを見てようやく、なるほど、と思う。
 物集女の性格からしてわざとあんな頓狂な格好をしているわけではなかろう。セーラー服を着ているのにもそれなりの理由があるのだろうし、きっとあの髪だって天然ものだ。
 だがそんな物集女にとっての理由は、他人にとっての免罪符にはならない。
 この世界は異質なものに厳しい。ブレザーばかりの集団の中で、一人どこのものかもわからないセーラー服を堂々と着てきている物集女は、明らかに異質だ。そしてその厳しさは、妬みにもなり得る。自ら着手しなければあんな可愛らしい色の髪にはなれない女たちにとって、物集女のあの色の髪はさぞ羨ましかったんだろう。羨みは妬みだ。
 担任が出て行った後の教室で、物集女と目が合った。席を立った物集女が、与えられた僅かばかりの自由時間を各々勝手に過ごすクラスメイトたちの間を通り抜けてくる。通り過ぎざま、物集女が俺の机にそっと載せたのは、いかにも女の子といった感じのファンシーで可愛らしいメモ。そこに小さく、こう書かれていた。
『さっきは、ありがとう』
 クラスメイトに不信感さを抱かれないためか、そのまま何事もなかったかのように教室を出て行く物集女。俺も自然を装って立ち上がり、その背中を追いかけた。
 とてつもなく綺麗な字を載せたメモを、ポケットにねじ込んで。
 特にすることもなかったのか、物集女は無人の廊下をぶらぶらと歩いていた。だが俺が迫ってくることに気付くと、びくっと肩を跳ねさせ、そして、逃げた。
「ちょっと、おい! 物集女!」
「……っ!」
 明らかに、俺から逃げていた。慌てたように廊下をとてとてと走っている。
「ん、のやろ……っ」
 そこまであからさまに逃げられれば、俺も意地になるというものだ。必死な物集女本人には悪いが、物集女は、遅い。その小動物めいた走りには、小走りでも追いつけた。
 追いついたのは物集女が下ろうとしていた階段の踊り場。壁に手をついて物集女の行く手を阻む。なおも逃亡を図る細い肩を、壁に押しつけるようにして掴んだ。
「捕まえた」
「や……っ」
 思わず、というふうに漏れ出た物集女の声は、外見に見合った細く高いものだった。
「なんで逃げんだよ、お前」
 怯えたように俺を見上げる物集女は、その問いに答えることなく薄く唇を噛みしめた。
 物集女はしばらく狼狽えた後、俺の胸元に指を添えた。その指が『は』という動きをする。数秒間をおいて、『な』、次は『し』、最後に『て』。……はなして。
「うう、ぉ、わっ! 悪い、すまん!」
 ようやく自分が暴漢紛いの体勢を取っていたことに気付き、両手を上げる。左手に残る肩の感触が今更生々しい。鈴珠以外の女子に興味などないと言ってしまいたいが、何を言っても今は言い訳にしかならないので黙っておく。
 てっきり逃げるかと思われた物集女は、意外にもその場に留まっていた。自分の片手をもう片手で握りしめるようにしながら、ちらちらこちらを伺っている。
「あー……の、さ。もっかい訊くけど、なんで逃げんの」
「………………」
 ふるふると首を横に振る物集女。だからそれじゃわかんねっつの。
「つーかまず、なんで喋んねーの。こっちでいいから、ほれ、答えてみ」
 自分の胸をとんとん叩いてみせると、おずおずといったふうに指を伸ばしてきた。こそばゆさを堪え、その指が描く文字を読み取る。
『こんぷれっくすだから』
「……コンプレックス? 別に変だとは思わなかったけど」
 とてもじゃないが、恥ずかしがるほど異質な声ではなかったはずだ。むしろ可愛いに分類されるべき声質だろう。
『ほんとに?』
「本当に。俺がここで嘘ついて何の得があんだよ」
『じゃあ、しゃべっても、わらわない?』
「当たり前だ」
 指を離した物集女は、覚悟を決めるように目を閉じる。次に目を開けた時の、頬を朱に染め目を潤ませた物集女は、鈴珠以外の女子――一番合戦先輩や双子のような特殊人間たちを除く――が全部同じ顔に見える俺ですら、ちょっと、いやかなり、可愛く感じた。
「ほんまに、わたしのこと、笑わへん……?」
 そんな物集女が上目遣いで、儚げかつ不安そうな声で発した、大阪というよりは京都訛り寄りの関西弁を聞いて、俺は思ったことがある。
 物集女。それはコンプレックスじゃなく、武器だ。

「わたし、京都から一週間くらい前に引っ越してきてん。書いたり読んだりするぶんにはいいんやけど、喋るとなると、なかなか慣れへんくて……ただでさえ制服間に合わへんくて目立っとるのに、こんな言葉使っとったらなおさらからかわれてまうから……」
 時は過ぎて、昼休み。屋上である。
 我が五十公野高校の屋上は、例によって一番合戦先輩たちが勝ち取ったものであるらしく、一番合戦先輩の許可が下りた人物であれば誰でも利用ができるらしい。改めて一番合戦先輩に許可をもらうようなことはしなかったが、まあ大丈夫だろう。
 お互い大して腹が空いていないということで、持っているのは飲み物のみ。俺は普通に麦茶、物集女はパックの緑茶である。
「いや、お前……喋ってもからかわれないと思うぞ。むしろ人気高くなるっつーか」
「あ、あかん! だって、わたし、あんまり、目立ちたないんよ……昔からよぉからかわれとったし……向こうの学校でもな、ただ友達と喋ってるだけやのに、よく男の子に呼び出されたりしたんよ? いじめられるんちゃうんかって、怖かってん」
 それはきっと、告白だ。
「行ったら行ったで、『ごめん』言うて逃げはるし……からかわれてるんよ」
 それはきっと、お前があまりに怯えるから悪いことをしてる気になるんだ。
「……まあいいや。それより物集女、昨日あいつらの前で喋ったのか?」
「あいつら?」
「ギャル女たち」
 薄いレンズの向こうで、薄茶の瞳が瞬く。
「伊藤さんと中村さんのこと……?」
「や、知らんけど。なに、お前名前とか覚えてんの」
「学年、全部の人の覚えてるよ?」
「マジで!?」
「うん。試す?」
「じゃあ、変な格好した双子の名前」
「京右京さんと京左京さんやろ? 回文みたいでおもろいなぁ思っとった」
 物集女はそこで少しばかり目を伏せてから、俺を見上げ、はにかんだ。
「それから、出雲郷亜麻くん……わたしを、助けてくれはった人」
「鈴珠もな」
「すず? あ、ええと、無花果さん? そういえば、出雲郷くんの妹さんなんやっけ……」
「おお。つーか、本当に全員覚えてんのか……」
「早う馴染むためにと思ったんやけど……結局あかんかった。早速いじめられてもうた」
 苦笑を浮かべる物集女。その手中にあるパックが僅かにへこんだ。
「……なあ、物集女ー」
「うん?」
「お前が望むならさ、なんだっけ、伊藤と中村? の、写真学校中にばらまいてやってもいいぜ。したら、少なくともお前じゃなくて俺になるだろ、標的」
「あ、あああかん! そんなことしたら、伊藤さんたちが可哀想やんか! ……それに、出雲郷くんに、迷惑かかってまうし……」
 親指でパックをべこべこへこませながら、物集女が身を捩る。
「それに、元々はわたしが悪いんやし……こんなださい中学の制服着た眼鏡女がいたら、わたしかて変に思うし……わたし、可愛くもないし……勉強も運動も得意やないし……」
 自己嫌悪のループに入った。物集女の場合、元々のステータスがどうこうではなく、そのびくびくした態度が一部の女子の鼻につくのだろう。物集女のそういうところが可愛く見えてしまう男が多いだけに、なおさら。
「でも、ほら。物集女だって得意なことあるだろ?」
「得意なこと……」
 新品の上履きを見つめていた物集女は、慌てて首を横に振った。
「あ、あらへん、よ。わたしなんて、なんもあらへん」
「あるだろ、得意なこと……ってか、上手いこと」
「な、なに?」
「字。物集女、字めっちゃ上手いじゃん」
 ポケットにねじ込んでいたメモを取り出してやる。物集女は緩んだ微笑を浮かべた。
「昔から、やっとったから。習字の他にも、お茶とかお花とか、演舞とか、そういう、なんて言うんやろ……そう、古くさいもんは一通りやらされとったんよ」
「へえ、さすが京都だな。っと……わり、今のはちと偏見か」
「ううん、ええよ。実際『京都の女なんやから』なんて言われたこともあったし……今時大和撫子なんて流行らんのに、アホみたいやろ?」
 それでいじめられたら元も子もないのになぁ、と呟いて、表情を曇らせた。
「でも、うん、字……は、得意かもしらん。でも、それだけ。字が綺麗でも、水はかけられてまう。ううん、わたしがかかるならええの。でも実際は伊藤さんたちにかかってもうたし……出雲郷くんとか、無花果さんとか、他の人にも迷惑かけてまう。ただ静かに過ごしたいだけやのに、なんでこうなってまうんやろ……わたしなんて字書くくらいしか取り柄なくて、ルールに則ってなくて、でも妙に目立ってもうて……どっか、わたしが隠れられる裏の存在? みたいなんがあればええのになぁ……なぁ出雲郷くん、そういうとこ、知らへん?」

「というわけで、書記見つけました」
「でかした出雲郷!」
 放課後、物集女を連れて会室へ行くと、一番合戦先輩が嬉々として教壇を叩いた。
 その脇では双子がやる気なく手を叩き、見槻先輩は独特の目つきで俺の連れてきた物集女を観察していた。俺がやれば変態扱いの所行も、見槻先輩ならば許容されるのだ。
 粗方裏生徒会という団体の目的と内部構成については説明しておいたものの、実物を前にするとやはり恐ろしいらしい。俺の背中に隠れた物集女は、怖々一番合戦先輩たちを伺っている。
「ていうか、あんだけ言っといてあんたらは成果なしですか」
「出雲郷を信じていたからな」
「亜麻に華を持たせてやろうと思ってさ」
「めんどくさかったからー」
「だるかったからー」
「ああちくしょうどっちに怒ればいいのかわからん!」
 嘘を言われても本音を言われてもむかつくとは。
「俺と同じクラスの物集女粉。字の上手さは俺が保証します。ほれ、自己紹介しろ」
 背中に張り付いていた物集女を前に押し出すと、助けを求めるように俺を見上げてきた。無言で首を横に振り、さらに一歩、前へと出させる。
 これは物集女自身のためだ。いくら戦闘狂の一番合戦先輩や双子がいるからといって、物集女が自分の願いも言えないようではルールの変えようもない。誰の前でも話せるようになれとは言わないが、せめて裏生徒会くらいでは喋れるようにならないと後々困るのは物集女だ。
「物集女、粉、です……出雲郷くんと、おんなじクラス……です」
 できる限り訛りの出ない文を選んだ結果、俺とまったく同じ紹介にはなっているが、まあよし――と物集女を引っ込めてやろうとしたところで、
「京双子。ちょっと」
 一番合戦先輩が双子を呼びつけた。机の上に座って足をぶらぶらさせていた双子は迅速かつ従順に一番合戦先輩のもとへ向かい、何かを耳打ちされる。
「あー、はい。りょーかいしました」
 それを聞いて頷き、二手に分かれる双子。掃除用具の入ったロッカーへ一直線に向かった左京が、中から箒を取り出す。左京が投げて寄越した箒を受け取る右京。
 右京は能面のまま物集女に箒を握らせ、戸惑うその顔から眼鏡を取り去った。
「亜麻、これ持っててー」
 勝手に外した物集女の眼鏡を俺に押しつける右京。俺が手を差し出すより早く右京が手を離したため、反射で俺も眼鏡を受け取ってしまう。
「なに……」
「亜麻、危ないよー」
 俺が問いかけるより早く、左京がちりとりをこちらに向けて投擲してきていた。右京は受け取る気配を見せない。真っ直ぐに俺へと向かってくる。
 何事かと判断する余裕も避ける時間もなく、思わず目を閉じてしまった。
 すると、至近距離で空気の割れる音。おお、と歓声めいた声を上げる双子。
 恐る恐る目を開けると、目の前にはちりとりが転がっていた。ただし、割れて真っ二つとなった状態で。俺の隣で、物集女が静止している。ただし、箒を構えた状態で。
「も……物集女……?」
 そろそろと手を伸ばしてみる。一秒もかからず、箒が降ってきた。
「わ、わたしに、触らんといて!」
「触ってない触ってない!」
 耳を掠った危機に戦慄し、慌てて飛び退く。双子はすでにいない。
「京都出身の物集女と聞いて、まさかとは思ったが……どうやら本当らしい。出雲郷、お前が連れてきたのは高名な剣道師範の娘だ」
 一番合戦先輩は、襲われる俺を悠々と眺めている。
 物集女の剣もとい箒は、素早く鋭く落ちてくる。
「だがまあ案ずるな。所詮は娘は娘だろう。何しろ母親の方は生粋のお嬢様だからな。ぬくぬく温室で育った箱入り娘なんかの剣など、畏怖に値しないさ」
「……いま、なんて」
 会長席で長広舌を振るっていた一番合戦先輩へと、文字通り物集女の矛先が向く。
「おや、どうしたお嬢様」
 一番合戦先輩は余裕めかせて微笑む。
「……わたしが、なにもできへんただの温室娘かどうか、その目で確かめてください」
 物集女は双子に勝るとも劣らない俊敏さで机の上に乗り上げ、一番合戦先輩へと襲いかかった。一番合戦先輩の隣で物集女を見ていたさすがの見槻先輩も、顔色を変えて素早く飛び退く。
 一番合戦先輩はあくまで悠然と立ち上がり、すんでの所で襲撃を避ける。
「私だけを倒したところでお前の実力などわからん。私はとてもか弱いからな」
 もう突っ込む気すら起きない俺と同様、見槻先輩が肩を竦めた。
「そんなにも自己を顕示したいのならば、ここにいる全員を降伏させてみろ、物集女」
「そ、んなの――」
 物集女がちらりと俺を見た。一番合戦先輩は残酷に続ける。
「なんだ、それっぽっちのこともできずにこの会室へ足を踏み入れたのか? とんだ楽天思想のお姫様だな。これだから余所者は」
 すぐさま、箒が空を切る。一番合戦先輩は自分の髪先にさえ箒を触れさせない。
 それにしても、物集女はこんなにもわかりやすい挑発に乗るような人間だっただろうか。
「……わかりました。全員に『参りました』て言わせればええんですね」
 物集女の眼鏡は現在、俺の手中だ。眼鏡を覗いてみると、くらくらした。やはり伊達ではない。つまり物集女は先ほどより視力が落ちているはずである。
 にも関わらず、物集女は異様なほどの正確さで見槻先輩の立つ壁際へと跳ねていく。
「うお、ぉっ! 女の子にここまで積極的に迫られるの初めて……っ」
「わたしもです。あなたがわたしの初めての人」
 内気な物集女はどこへやら、一種の妖艶さを含んだ微笑みを見槻先輩へと向ける。
「やられた。きみ、男のツボわかってんじゃん」
「そんなら、このまま一気に行かせてもらいます」
 ステップを踏むようにして逃げる見槻先輩へ、正確に箒を振り下ろす物集女。見槻先輩もバック転で箒を蹴り弾くも、すぐさま物集女は体勢を立て直す。
「見槻!」
 一番合戦先輩が叫ぶ。振り返ると同時、見槻先輩は頭上から水を浴びた。いつの間に準備したのか、双子が水の入ったバケツを抱えていたのだ。
 もれなく全身を水浸しにした見槻先輩が抗議の声を上げかけて、止まった。
 物集女の攻撃が止んでいたのだ。
 標的であるはずの見槻先輩は未だ目の前にいる。なのに物集女は、それを見失ったかのように静止していた。
「声を出すなよ、見槻。そのままシャワーでも浴びてこい。風邪を引くぞ」
 一番合戦先輩の指示に従い、そっと物集女から距離を取り、外へと出て行く見槻先輩。シャワーは部室棟にあるため、行って帰ってくるだけでも結構な時間を要するだろう。しばらく見槻先輩は帰ってきそうにない。
「あー」
「なるほどですー」
 水を見槻先輩にかけたのも一番合戦先輩の命だったんだろう、ようやく納得がいったとばかりに双子が頷き合う。すぐさま物集女の箒が振り下ろされるが、双子はそれを軽々避ける。
 机を踏み台に、教室の壁際に置いてある本棚へと乗り上げる双子。その方向に向かって物集女も飛び上がる。双子は自分たちの足下にある片付け損ねの本や花瓶を蹴り倒しながら逃げていく。物集女にぶつけようとこそはしていないが、破壊音が連続的に響いた。それでも物集女は、飛び回る二人へと追い縋る。
 唯一状況を理解できていない俺は、静かに小走りで一番合戦先輩へと駆け寄った。
「どうなってんですか、これ!」
「はて。なにがだ?」
「この状況が!」
 一番合戦先輩は一瞬、本気でわからないというふうに首を傾げ、ああと頷いた。
「腕は向上すると予想していたが、いやはや、眼鏡を取っただけで気の強さまでこうも上がるとはな。まるでちょっとした人格変化だ。いやこれこそまさに『周りが見えない』と」
「上手いこと言ってる場合か!」
 思わず上げてしまった大声に反応し、物集女が僅か二歩で俺の懐に潜り込んできた。慌ててその頭部に手をつき、でんぐり返しの要領で物集女の背後に回る。
「なあ出雲郷。剣道は普通、面を着けるスポーツだろ。ということはコンタクトや専用眼鏡でもない限り、眼鏡を外して試合をするということだ。これは剣道だけでなくすべてのスポーツに言えることだが、スポーツをするにおいて目がいいに越したことはない」
 物集女を羽交い締めにする。箒が振り回され、ふくらはぎにぶち当たった。思わず離してしまうと、物集女は俺に見切りをつけて再び双子たちの方へ。
「だがまあ、見ての通り物集女は目がよろしくない。ということは、だ。人間、視力を失ったら次はなにを頼りにすると思う」
 俺の背後では、双子が手当たり次第に物を蹴り飛ばしている。これによって、双子たちは自分の足音や気配を殺すことができる。故に、物集女の標準が定まりにくい。
「まあ、見槻の場合はこっちに反応されてたわけだが」
 自分のすっと通った鼻をとんとん叩く一番合戦先輩。思えば、見槻先輩からは常に香水らしき甘い匂いが漂っていた。ただそれは常人ならば洗剤の匂いともとれる程度の仄かなものだったはずだ。俺も今、一番合戦先輩に言われなければ気付かなかった。
 香水を水で洗い流すことによって、見槻先輩は物集女の標的から外れた。そういうことだ。
「ということで、答えだ。人間視力を失えば、他の感覚器官を頼りとする。味覚――はともかくとして、他の三つ。聴覚、嗅覚、そして触覚だ。物集女が聴覚を使わせなくしている京双子を今現在追いかけることができているのは、二人が派手に動く空気の流れだろうな」
 振り向くと、自身のギミックを明かされた物集女はどこか悔しそうにしていた。そんな物集女をせせら笑うかのごとく、一番合戦先輩はさらに舌を滑らせる。
「床を踏む音、道着や面の中で滲む汗の匂い、竹刀を振り上げる際の空気の流れ。剣道というスポーツは、聴覚と嗅覚と触覚が優れてさえいれば盲目でもそれなりに戦えるだろうな。いつから物集女の目が悪かったのかは知らんが、とにもかくにも、物集女は剣道によって視覚以外の感覚器官が研ぎ澄まされたわけだ」
 その代わり、とさらに続ける。
「眼鏡を取って世界が曖昧となるせいで、普段物集女を抑圧している理性の箍も外れる。内気という皮が剥がれ、本来の性格なのであろう負けず嫌いで挑発に乗りやすい一面が露わとなる。つまり、腕は上がるがリスクも上がる」
「リスク、ですか」
「今はいいが、例えば生徒会と戦う時なんかどうだ。向こうが物集女のこの性質を見抜いて、喋らなくなってしまえば――更には、見槻と同じ香水なんかをつけられてみろ。残るは触覚、空気の流れのみ。さすがの物集女でも足音や走り方なんかで敵味方見分けることは難しかろう。だから、うっかり隣を通ったお前や私を叩きのめすなんてことも――」
 ぞっとした。
 危ない目に遭うのは俺たちだけでなく、ひょっとしたら物集女自身もだ。ぼんやりとは見えているんだろうが、少なくとも聴覚などに頼らなければ敵の位置もわからないほど視力が悪い状態で動き回れば、物集女も怪我をする可能性がある。
「ただ、上手く扱いさえすれば、物集女はもしかしたら私よりも強い。ダイアモンドの原石とは、物集女のためにあるような言葉だよ」
 挑発のニュアンスを込めて、一番合戦先輩が俺へと囁きかけた。
 俺の手には、双子から渡された物集女の眼鏡がある。こんな薄いレンズ一枚さえ取り払ってしまえば、物集女はこんなにも自分自身で動けるのだ。
「まあ物集女本人のリスクは拭えやしないがな。物集女のためを考えるなら、裏生徒会には入れない方がいいか?」
「……いえ。物集女はここに入れます」
「ほう」
 一番合戦先輩はわかっている。何もかもを、わかりきっている。俺だってわかる。
 最初からこの人は、物集女を手放すつもりなどない。
 俺の指紋で汚れてしまった眼鏡のレンズを袖で軽く擦り、鮮明にする。床を踏み込み、跳ねた。双子の起こす喧噪に足音が紛れることを祈りながら。
「物集女!」
 俺の声に反応した物集女がこちらに顔を向け、一瞬の迷いもなく箒を振り下ろす。俺はそれを真正面から喰らう――より早く、眼鏡を、物集女にかけた。
 すると機敏に動いていた物集女の体が、ぴたりと止まる。双子による騒音も同様だ。
 俺はその物集女の肩を素早く抱き寄せ、顎をつんと持ち上げて微笑む一番合戦先輩に、
「物集女のことは、俺が守りますから」
 おお、と双子が揃って声を上げ、ちょうどシャワーから帰ってきてジャージ姿となった見槻先輩がジャージを着ていてすら憎しみを感じるイケメン面で口笛を吹き、一番合戦先輩はただでさえ細まっていた瞳を更に細めて笑み、
「あ、え、ぇうっ……!?」
 物集女は、顔を真っ赤にして腰から崩れ落ちた。

「認めてもらお思っとったら、ちょぉ、やり過ぎてもうたみたい、ああもう、ほんまごめんなさい……! わたし、片付けますから!」
 散々双子が蹴飛ばしたものたちを片付けようとするが、元の位置がわからない物集女にそんなことができるはずもない。元に戻った瞬間物集女の背を柔く叩いて微笑みかける見槻先輩に続いて、双子も片付けを手伝い出す。
 俺はといえば、一番合戦先輩に呼びつけられていた。物集女に聞こえない程度の声で話す。
「ということで、私はこれから生徒会室に乗り込んでくる。物集女粉という女生徒の保護及び服装等による差別禁止を取り付けるためにな」
「要するに、物集女のあの格好をからかったりするな、と」
「本当は京双子たちの服装許可も取り付けねばならんのだが……残念ながら、今の校則では一日に変えられる校則は一つまでと決められているんだ。その校則自体を変えてもいいが、そうすると私は本格的に授業を受けなくなってしまうからな。自重している」
「どんだけ戦闘狂なんですかあんた」
 ふふん、と鼻で笑った一番合戦先輩は何故かとても得意げだ。
「して出雲郷、生徒会不信任の決議が今日の昼休みに為されたらしい。もちろんそれは可決されたとのことだ」
「へえ、じゃあ立候補ももうすぐなんですね。会長は見つかったんですか?」
「いいや、まだだ。つまりだな出雲郷、今日のこのバトルが本当のラストバトルらしい。いやはや、昨日あれだけ格好をつけて終戦を告げてしまっただけに恥ずかしいものがあるな」
「あなたにも恥じらいとかあったんですね……あいででてっ」
 ハイカットのスニーカーで俺の足をなじりながら、一番合戦先輩は楽しそうに微笑む。
「残念だな、出雲郷。そんなラストバトルに参加できないなんて」
「え、は……なに、俺出させてもらえないんすか」
「出られないのはお前だろう?」
 意味がわからず首を捻る。一番合戦先輩はとっておきの秘密をばらすかのように恍惚と、
「実はだな、お前の愛しき妹君から『お腹すいた』との言伝を預かっていたんだ。ちなみにこれを預かったのは、昼休みの廊下でだ。妹君は、どうやらお前を捜してうろついていたようだったが。いやあ、大層怒っていたよ」
 人の不幸は蜜の味、という言葉がこれほどまでに似合う笑顔もないだろうと思った。

 今朝、俺は鈴珠に弁当を渡し損ねていた。
 鈴珠は方向音痴である。故に、入学したばかりである高校の購買の場所などわかるはずもない。そしてその方向音痴を直してやろうと思ったことは一度としてない。俺がいれば十分だろうと思っていたのだ。
 だがそんな俺は今日、物集女と共に屋上にいた。無論、昨今の学校事情を知っている普通の生徒であれば、普通は屋上など鍵がかかっていると思って立ち寄りもしない。
 つまり、鈴珠は俺を見つけられず、ということはつまり、購買を見つけられず、ということはつまり、昼食を食べられず、つまり、こういうことなのだった。
「亜麻なんて大っ嫌い。死んじゃえ」
 全速力で帰宅した俺を迎えたのは、不機嫌この上ない鈴珠だった。俺が慌てて即席で作ったラーメンにも手をつけず、普段は見もしないニュースを見つめている。
「ごめんごめんごめん、ほんっとにごめん!」
「別に謝ってほしくなんかないし。もう知らない、話しかけないで。もうこれからわたしの洗濯も片付けもしなくていい。見ないで触らないで」
 ソファに丸めて置いてある鈴珠の脱ぎっぱなしの制服の皺が気になりつつも、手をつけられずにいる。俺への反抗心だろうか、昨夜畳んで置いてあった洗濯物もぐしゃぐしゃにされているし、ゴミ箱は倒されている。
 これほどまでに鈴珠を怒らせたのは半年ぶりだ。半年前は、俺が同級生の女子に告白されたことが鈴珠の耳に入った時だ。弁解させてもらうとすれば、告白の手紙をもらっただけで、決して付き合ってなどいない。だが鈴珠はその時もこんなふうに怒って、『わたしの世話なんかしてないで彼女とデートでもしてくれば?』と俺を家から追い出したのだ。
 その翌日、教室のど真ん中、その彼女の目の前で『俺は妹が好きだ』と叫ぶことによってその事件は解決したが。今思うと彼女には悪いことをした。
 だが今回はそうもいかない。何しろ過ぎてしまったことなのだ。
「鈴珠、わかった、ごめん。でも、とりあえず飯だけは食ってくれ」
「いらない」
「ラーメンが気に入らねえなら他のもん作るから。うどんでもパスタでも、なんでもいい」
「いらない。もう二度と亜麻のご飯なんか食べない」
「……頼むから」
「いらないってば!」
 机上にあった丼を手ではね除ける鈴珠。当然丼は倒れ、その中身はフローリングへとぶちまけられた。
「もう全部なにもかもいらない! 亜麻もいらない! 大嫌い!」
 常人からすれば異常ともいえる唐突さ。今までの落ち着きは嵐の前の静けさだったのか、甲高い声で叫ぶ鈴珠。苛立ちが頂点に達すると、昔から鈴珠はこうしてヒステリーを起こすのだ。
 まるで小学生だ。が、本気で怒った小学生ほど怖いものはない。
 何をしでかすか、わからない。
「ごめん、本当にごめん!」
「もう知らない知らない! 大嫌い!」
「俺の事は嫌いでもいいから、せめて、飯だけは食ってくれ! 俺の飯が嫌なら買ってきてやるから! 心配なんだよ!」
「亜麻になんか心配されたくない!」
「つーかなんでそんなに怒ってんだよ……! 昼飯くらいで!」
「くらいじゃない! だって亜麻、ずっと、」
 目に涙を浮かべた鈴珠は、そこで一度息を詰めた。堪えていた涙が溢れ出したことで、詰まっていた二の句も転がり出る。
「ずっと、わたしのこと、ほったらかしにしたくせに!」
 ――それか。たかが一回の飯如きで、と思っていたが、原因がそれならば納得もいく。
「今日のお昼だけじゃないもん! 亜麻、昨日からそうだもん! 気付いたらいない! それに、本当は今朝だって、怖かった! でも、亜麻、いないし……今まではわたしが怖い時は絶対そばにいてくれたのに、朝はいつも一緒だったのに、なんで! なんで、一緒にいてくれなかったの! 昨日の、部活見学だって、ほんとは、亜麻、と、一緒に……っ」
 しゃくり上げて言葉にならなくなってきた鈴珠の背を撫でる。鈴珠はそれを拒絶することなく、俺のブレザーにしがみついて泣き声を上げた。まるで子供だ、本当に。
「亜麻と、いっしょ、なら、部活なん、って、どこでも、よかった、のに……ひとり、に、しない、で……ずっと、一緒って、むかし、言った!」
「……うん、ごめん。本当にごめん。俺が悪かった。ちゃんと一緒にいるから」
 小さく軽い鈴珠を抱き上げ、膝に乗せる。痙攣するように揺れる背中を、とんとんと叩く。艶やかな黒髪に包まれた頭部は、驚くほどに小さい。
 確かに、俺がおかしかったのだ。今までは鈴珠が嫌がろうが逃げようが、何がなんでも付き従ってきたのに、この二日間俺はよく鈴珠の前から姿を消した。それどころか、愛しの鈴珠のことを忘れて物集女と話し込んだりなんかしていたのだ。そりゃ鈴珠だって怒る。
「ちゃんと説明するから。だから鈴珠、ごめん、とりあえず降りてもらっていいか」
「……なんで」
「好きな女が膝に乗ってて反応しない男がいるとでも思ってんのか」
 数秒してから、意味を理解した鈴珠に真っ赤な顔で殴られた。よかった、いつもの鈴珠だ。

 部屋を簡単に掃除し、作り直したラーメンを鈴珠が啜っている。俺にしがみついて泣きわめいたことを今更恥じているのか、それとも先ほどの俺のセクハラ発言がまだ尾を引いているのか、鈴珠の頬はまだ染まっている。
「美味いか?」
「……普通」
「そうか、普通はいいことだ」
 コップに注いだ麦茶を差し出してやると、一気に飲み干した。なので今度は麦茶の入ったペットボトルごとキッチンから持ち出してきてやった。
「喉渇いてんのか」
「……ん」
「あんだけ泣いたもんなあ」
「な、泣いてない!」
「俺のブレザー鼻水まみれにしたのはどこのどいつだ」
 おかげで入学早々ブレザーをクリーニングに出さなければいけなくなった。俺としては鈴珠の鼻水くらいいくらでもついて構わないのだが、鈴珠本人が嫌がったのだ。
 明日からの服装については、一番合戦先輩に連絡してみた結果『物集女の服装のみでなく、裏生徒会は全員服装自由という校則を取り付けたから平気だ』ということなので、クリーニングが終わるまで俺は私服登校となる。
 鈴珠はぐしぐし鼻の下を擦って、
「か、花粉症だもん……」
「じゃあ病院行って注射打ってもらうか」
「……亜麻のばか!」
 俺の足をべちべち蹴るが、そんな細い足では痛くもかゆくもない。ああ可愛い。
「そんなことより、亜麻」
「ん?」
「さっき電話してた女、だれ」
 浮気を問い詰める妻の如く、鋭く睨んでくる。鈴珠が着替えている間にこっそりとしたつもりだったのだが、どうやら聞かれていたらしい。
「先輩。二年の。お前今日昼休みに灰色の髪した人と会ったろ。あの人だよ」
「何でそんな人と亜麻が知り合いなの」
「あー……だから、それはだな」
「どもるってことは、話せないような関係なの」
「俺とあの人はそんなんじゃねっつの」
 なんだか浮気を弁解している夫のようだ。
「だから、それが今俺がしてることだよ」
「……どういうこと?」
 眉を寄せる鈴珠に、すべてを話した。俺が今裏生徒会なる団体に所属していること、そこのトップが先ほどの一番合戦先輩であること、昼休みはその勧誘をしていたこと、裏生徒会で俺が何をしようとしているかということ。
「ばっかじゃないの?」
 すべてを説明し終えたのは、鈴珠がラーメンを平らげてから少しした頃だった。鈴珠は今、丼を洗う俺の足下に座り込んでいる。
「校則で許されたって、法が許してくれないに決まってんじゃん」
「まあ法律くらいは何とでもなるだろ」
「例え法が許しても、このわたしが許さん!」
 座ったまま冷蔵庫に向けて決めポーズを取る鈴珠。そろそろ鈴珠の少年漫画好きも矯正するべきだろうか。なんて思ってたら、鈴珠は自動で冷めた。
「てゆーか、校則と法律、普通逆だから」
「あー、じゃー俺、高校出たらいい大学行って政治家目指そうかな」
「それはだめ」
 手が寂しいのか、俺のふくらはぎで遊ぶ鈴珠。揉むな。
「なんで」
「わたし大学行く気ないもん。だから亜麻も行っちゃだめ」
「鈴珠大学行かねえの?」
「行く必要ないし。高卒まではないとバイトもできないだろうから高校行ってるだけで、本当は今もめんどくさい」
「こらこら、大学行かないとろくな仕事にも就けませんよ」
「わたし就職しないもん」
 随分と恥じらいのないニート宣言だった。戒めのつもりで鈴珠の頬を抓る。足の指で。
「ばか、やめて」
「働け、ニート予備軍」
「なんで?」
「なんでて。勤労は日本国民の義務だぞ」
「だって、亜麻が養ってくれるんじゃないの?」
 当たり前のように言いながら、鈴珠は俺の足に頬を擦り寄せた。
「そしたらわたし、ちゃんと家事覚えてあげるよ。亜麻が仕事終わって帰ってきたらいっぱいの料理とあったかいお風呂とエプロン姿のわたし。どう?」
「ユートピアです」
「はい決定。わたしの将来の夢、亜麻のお嫁さん」
 俺の足に腕を絡ませながら、ころころと笑う鈴珠。ああちくしょう、可愛い。すべては鈴珠の策略だとわかってはいるのに、胸の高鳴りが止まらない。男って、馬鹿だな。
「でも、ちょっと寂しかった。ほんとは亜麻と同じとこ入りたかったのに……」
 今度は憂いた表情を見せ、吐息を足に吹きかけてくる鈴珠。
「あー……ごめん。でも会計とか、二人で一個のポジションにいんだよなあ。俺たちも双子ってことで一緒に庶務入れりゃいいんだけど」
「んーん、いい。寂しいけど、我慢する」
「そうか? あー、まあ、これからはできるだけほったらかさないように気をつけっから」
「うん」
「生徒会なんかはまだポジション空いてたのになあ。惜しい」
「へえ、そうなの?」
「おー。まあ俺からしたら鈴珠とのゴールインを邪魔する奴らなわけだが」
「ふうん。その生徒会ってどんなの?」

 後から知ったことだが、女が優しくなる時は基本何かをねだる時か男を騙す時なのだった。
 見槻先輩、もっと早く言ってくれ。

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