一章


 無花果鈴珠。俺の双子の妹である。そして、俺の好きな人だ。
 俺と名字が違うのは、小学生の時に俺たちの両親が離婚し、俺は父親、鈴珠は母親のところへ引き取られた影響だ。かつては鈴珠も出雲郷鈴珠だった。だがそれを近親相姦の言い訳にするつもりなどは全くない。親が離婚しようとしまいと、俺らの血縁関係までは切れない。俺と鈴珠は紛れもなく、血の繋がった兄妹である。俺は鈴珠のことを、妹として好きなのだ。
 むしろ俺は全国の兄妹、姉弟たちに訊きたいのだ。どうして異性が間近にいて恋をしないのだろうかと。そりゃ誰もが鈴珠のように可愛いわけではない。実際、二卵性双子の上異性ということもあって、俺は鈴珠のように外見的恩恵をあやかっていない。
 だが例えばだ。例えば、自分の妹や姉がとてつもなく、そりゃもう犯罪的なまでに可愛かったらどうする。もしくは弟か兄が格好よかったら。それでも人は恋をしないことが可能なのだろうか。親とは違い、近しい歳の異性を。
 否。不可能だ、そんなこと。少なくとも俺は。一番近くにいて一番相手を知っているのだから、好きになるのも当然なのだ。
「いや、お前、それ犯罪だから」
 じゅろろろ、とパックのいちご牛乳を吸い上げる音が、俺の熱い想いを掻き消すかのように空しく響いた。一番合戦先輩は見かけによらず甘党らしい。
 生徒会へ入ることを決心したのはいいが、俺にも一番合戦先輩にもその後のことがある。また放課後落ち合うということで一旦別れ、俺は入学後についての説明を受けに自分の教室へ、一番合戦先輩は授業へ。お互いに遅刻したのは言うまでもない。
 そうして放課後だ。学校内を俺がまだよくわからないということもあり、待ち合わせは本日二度目となる中庭。
「民法第734条、近親者間の婚姻の禁止。直系血族又は3親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない」
 飲み終えたパックをゴミ箱へと見事に投げ入れ、淡々と一番合戦先輩は言う。
「さっきまでルールは壊してこそって言ってたじゃないですか、一番合戦先輩」
「……ただし、養子と養方の傍系血族との間では、この限りでない」
「ああいえ、俺と鈴珠は正真正銘の兄妹ですよ。同じ遺伝子で同じ腹から生まれてきました」
「出雲郷、兄妹間にできた子供は八割の確率で何らかの問題を抱えるらしいぞ」
「子供を作る気はありませんよ。女っていうのは、子供が生まれるといきなり旦那を放置するじゃないですか。嫉妬で我が子を殺すのは誰も望んじゃいないでしょう」
 一番合戦先輩は額を押さえて溜息をついた。
「つーとなんだ、お前はさっき実妹に告白してたわけか」
「ふられましたけどね」
 外人のようなオーバーアクションで一番合戦先輩が肩を竦める。その際グレーの髪がさらりと揺れて、その耳に煌めくピアスが見えた。確かこれも校則違反だが。
「ところで、今日はこの後どこに?」
「ああ、そりゃ、生徒会室だ」
 ベンチから立ち上がって首を回す。「まだ続けますか、この話」と言う俺に手をひらひら振って、一番合戦先輩はそのまま校舎の方へと歩き出した。俺もそれに着いて行く。
「あの、一番合戦先輩。放課後活動とかがあまり頻繁なようなら、俺ちょっと。今日は特別ですけど、本来鈴珠と一緒に帰らなきゃいけないんですよ。もし下校中に悪い虫とかがついたら大変ですし。登校もそうですので、朝の活動も無理です」
 五十公野学園は土足で校舎に上がる高校ではあるが、女生徒の靴はローファーと決まっている。だが一番合戦先輩は、廊下をカラフルなスニーカーで歩いていく。
「シスコン通り越してただのストーカーだろとか悪い虫はお前だとか色々言及したい部分はあるが、私たちの生徒会は朝も放課後も活動しないから大丈夫だ」
 そのまま階段を上がっていく。途中すれ違った教師は苦い顔を逸らすのみ、一番合戦先輩の格好に注意をすることもない。これも一番合戦先輩の言う『壊したルール』だろうか。
「じゃあいつ活動するんですか。昼休みとか?」
 それで生徒会活動というものは成立するんだろうか。俺が知る限りではあるが、生徒会というのは漫画の世界などでいかにも絶大な権力を持っているかのように描かれるが、実際はただの雑用係のようなものだったはずだ。しかも結構な量の。
「いいや、それもない。休み時間というのは、休むか遊ぶためにあるんだからな」
 きゅっ、と一番合戦先輩のスニーカーがリノリウムの床と擦れ合う。踊り場で体を反転、更に階段を上る。少し呼吸が辛い。受験明け故の運動不足だろうか。
「もしかして休日登校ですか? それこそ無理ですよ。鈴珠のお世話しないと」
 最上階にたどり着いた。だが一番合戦先輩は最後の階段までもを昇り始める。
「もう突っ込まないぞ、私は。それも違う」
 ようやく一番合戦先輩の足が止まった。目の前にあるのは、屋上へと続く扉だ。首だけで振り返った一番合戦先輩は、やはり笑っていた。
「正解は、チャイムが鳴るまで、だ」
 ノブを握る。捻る。押す。扉が開く。風が吹き込む。俺の髪が揺れた。
 そこに、一人の男。屋上の床に座り込んで、スマートフォンを弄っている。一番合戦先輩が軽やかに屋上へ踏み入ると、男も顔を上げた。
 屋上へ出ると、スマートフォンから目を離した男が立ち上がり、一番合戦先輩が振り返る。
 そして堂々と告げた。
「ようこそ、新入生」
「ここが私たちの生徒会室だ!」
「今すぐ『室』の定義を調べてこいよ!」
 嫌な予感は、していたが。
 一番合戦先輩と男は目を丸くしている。
「なんだ出雲郷、不満でもあるのか」
「ありまくりですよ! ていうかないんですかあんたら!」
「ここが最高だと思うけどね。見晴らし、っていうか、見通しいいし」
「景色の良さは壁や天井よりも大事か!」
「あのー」
「あのー」
 俺の後ろにあった扉が、軋んだ音を鳴らして開く。聞こえてきたのは重なった声。
 そこに、二人の少女がいた。似た顔で、似たように屋上を覗き込んでいる。いや、似ているなんてもんじゃない。顔立ちはまったく同じだ。先ほど重なって聞こえた声も似ていた。おそらく一卵性の双子なんだろう。かくいう俺も双子なので、そこは大したポイントでもない。
 それよりも問題なのは、二人の出で立ち。
 右にいる方は学ランを着て、左にいる方は赤いジャージを着ているのだ。
 いや、何も制服の上に羽織っているというのならば、まだ納得のしようもある。だがその二人はぴっちり前を閉めて、上はそれのみ。少しも着ぶくれしていないところから見て中にブレザーを着ているわけでもなさそうだ。下は両者とも黒スカートとハイソックス。この五十公野高校の制服スカートはチェックのものと無地で黒のものがあるので、一応下半身だけは校則通りである。スカートを穿いているところから見て、男装趣味というわけでもないらしい。
 顔にぴったり添わせるようにカットされたショートの髪に、そこまで身長が小さいわけではないのに華奢なせいでちんまりとしたイメージの体、あまり感情を浮き上がらせない小さな顔。絶世の美少女とは行かないまでも、とても可愛らしい二人だった。
 それら素材を台無しにする珍妙な格好の二人は、やはりステレオに言った。
「ここって、裏生徒会でいいんですよねー?」
「……は?」
 ばっと一番合戦先輩を振り返る。
 そこには、罪悪感も焦りも微塵もなさそうな笑顔の一番合戦先輩がいた。
「いかにも、ここが自由と青春と正しさを追求する非公式自治団体、裏生徒会だ!」

 正式名称は、対生徒会用反因習的文化向上委員会――というらしい。
「これまた壮大な名前をつけましたね」
「いい名前だろ。私がつけた」
「格好いいを勘違いした中学生男子みたいなネーミングセンスをお持ちのようで」
「童心を忘れないのはいいことだ」
「童心っつーか中二の夏休み気分っつーか」
「ともかく、さっきのを略して裏生徒会だ」
「略どころか『裏』っていう新たな単語わき出てますけど。そんなことより、一番合戦先輩」
「なんだ」
「あなたは俺に嘘をつきましたね」
「さて、覚えがない。私はちゃんと言ったからな、対『生徒会』用以下略委員会だと」
「略しちゃいけないとこだけしっかり略すな!」
別に俺は、怒っちゃいないのだ。というより、一番合戦先輩が俺を言葉で欺いていたことに対しては特に何も思っていない。ああそうやっぱり、くらいだ。もしそれが許せないというなら、嘘が発覚した時点で屋上を飛び出している。
 元より一番合戦先輩の突飛な発言の数々から、どうせ生徒会といえどまともな団体でないことは予測していた。双子の発言にも、純粋に驚いただけだ。
 どんな存在でも、どんな方法でも、俺がすること、願うことは変わらない。鈴珠と結婚したい。それだけだ。俺自身犯罪を犯そうとしているのに、騙されたくらいでなんだ。
 ただ、あくまでも正当法を装う嘘つきな一番合戦先輩に不条理さを感じてるだけで。
「諦めろ、鼎にゃ何言っても無駄だだから」
 苦笑を浮かべて俺の肩を叩くのは、先客でもあったスマートフォン男。その顔は嫌味なほどに整っていて、つい顔を背けたくなる。
 私物なのだろう薄茶色のスラックスに、第二ボタンまで開けたワイシャツ、申し訳程度に引っかかったネクタイと紫のカーディガン。くすんだ茶色の髪といい、さりげなく身につけたシルバーアクセサリーやピアスといい、身に纏うものすべてが派手なのにちゃらく見えないという不思議生物だった。俺がしたらしたらきっとそれこそ格好いいを勘違いした中学生だ。何が違うんだろうか。顔か。
「それよか、まずは自己紹介だな。誰から行く?」
「あー、じゃあ、あたしたちからいきます」
 まったく同じ状態で座り込んだ双子が、まったく同じテンポで名を上げ、まったく同じタイミングでやる気なく手を挙げた。
「京(みやこ)右(う)京(きよう)、一年でーす」
「京(みやこ)左(さ)京(きよう)、一年でーす」
 今度は被ることなく順に名前を述べる。文字通り右にいた学ランの方が右京、左にいたジャージの方が左京だ。まるで打ち合わせでもしてたかのようなスムーズさで二の句を継ぐ。
「ここに入部……入会? 立候補? まぁとにかく、入ろうと思った理由はですねぇ、まー、見てもらえばわかると思いますけどー、あたしたちこんな格好してるじゃないですかー」
「そしたら入学式追い出されちゃって、教室にも入れてもらえなかったんですよー。これは学校側が間違ってると思ってー。いくら言われたところでこれはやめられないしー」
「てゆーか、やめたらやめたで『同じ制服だと見分けがつかない』とか文句言うのは目に見えてるんですよー。だからむしろあたしたちのが正しいわけでー」
「だからむしろ、感謝すべきですよね、これ。それでもこのままだとまともに勉強もできないってことで、だったらあたしたちが正しいことを証明しようと思ってー」
「ああもう鬱陶しいなお前ら! いちいちセリフ分けんなよ!」
「えー」
「一緒にも喋んな!」
 ギャルどころか一般の女子にすら見えない格好をしておいて、喋り方だけは無駄に今時の女子高生なのもいらっとくる。
 しばし双子は困ったように顔を見合わせたが、口を開いたのは右京だった。
「まぁつまりー、ルールに従えって言うなら、こっちがルールを変えてやろうと思いまして。で、どうせ追い出されてすることないしって色々調べてたら、どうにもこの学校には裏生徒会なる団体があるということがわかりましてー」
 そこまで言って、右京が黙り込んだ。右京も左京も、能面のまま俺をじっと見つめてくる。
「……もういい。ジャージ、続き喋れ」
「はーい。でですねー、聞くところによると、裏生徒会ならルールをぶっ壊せるとのことでしたので、ここに訪れた次第ですー。あ、この場所はぁ、手当たり次第に網羅してたら見つけましたー」
 間延びした話し方と交代制のせいでえらく時間がかかったが、つまり要約するとこうだ。
 自分たちの校則違反を注意されたのが気に喰わない、と。
「くだらないな」
「まあ、出雲郷よりはマシな理由だな」
「ええ!?」
「なに真面目に驚いてんだ」
 この小学生みたいな理由に俺の純粋たる鈴珠への想いは負けたのか。
「ということで、これが双子の妹との結婚を渇望する出雲郷亜麻、私がたまたま入学式を中庭でサボっていたら見つけて勧誘した一年だ」
 ついでとばかりに出会いの経緯と紹介をこなされた。双子は微かに眉を寄せる。
「……双子ですかぁ」
「……ナルシストですかぁ」
「馬鹿言え! 俺と鈴珠は全っ然、これっぽっちも似てねえよ! つーかあんなに可愛い鈴珠と俺なんかを一緒にすんな! この世の可愛いものランキング万年首位である鈴珠を馬鹿にすることは例え女でも許さねえ!」
「……な?」
「これは……はい、相当」
「心中お察ししますー」
 妙なところで意気投合を果たす一番合戦先輩と双子だった。
「で、俺が美人局(つつもたせ)見(み)槻(つき)。鼎と同じ二年で、一応副会長。美人局先輩って呼ばれるのはあまりにエグいんで、呼ぶなら下の名前でよろしく」
 俺と双子の間に引かれた明確な何かを壊すように、例のイケメンがひらひら手を振る。どうやらこの先輩、顔だけじゃなく声まで綺麗に出来上がっている。もっと言えば百八十はありそうな長身で、なのに細身。天は二物を与えずどころか三物も四物も与えていた。
「ちなみに俺の認めてもらいたいルールっていうか考えとしては、『男の浮気は文化』ってやつね。最近女の子に頬引っぱたかれすぎてやばいからさ」
「わあ、死ね!」
 勇気を妬みが上回っての失言だった。
「すんません、ついうっかり本音が」
「隠す気ないなお前」
 まあいいや、とゆるりと笑う見槻先輩。笑顔は完璧、性格は気さく。ゴットイズデッド。
 残るは一番合戦先輩だ。自然と集まる視線を受けて、一番合戦先輩はにやにやと笑んでいた。満を持して、の空気にご満悦なのか、こほんと咳払いまで挟む。
「一番合戦鼎、二年。この裏生徒会の会長でもある。私の願いはどうにも一言で説明しきれないが……まあそうだな、あえて言うならば『自由に生きたい』だな」
「一言で説明できてるじゃねえか」
「てゆーか、会長はぁ」
「もう既に、自由ですよねぇ」
 双子と初めて意気投合した。一番合戦先輩は軽く肩を竦める。
「まあ聞け、若者たちよ。確かに私は自由だが、論点はそこではない。考えてもみてくれ、お前たちはなんのために勉強をする? ああいや、出雲郷は黙っててくれ。どうせ妹のためだろ。そうではなく、一般的に人が勉強する意味といえば、自分の将来のためというのが大半だろう。そこで問いたい、どうしてそのような知力社会が根付いてしまったんだ? これらはすべて、ループするからだ。そういうふうに育てられた人間がいずれ大人になってそういう社会を形成する。他にもそうだ、『今のうちに苦労を経験しておかなければ大人になって苦労する』とよく聞くが、じゃあ大人になってから苦労を強いるのは誰だ? 答えは、自分自身だ。そういうふうに育てられたから、自分も若い者に苦労を強いる人間となるのだ。加齢者が『俺の若い頃は』などと多く口にすることからも、この事実は明らかであろうが。年長者の言うことは聞いておけ? 年功序列かなんだ、年上の者がやっていれば悪癖ですら正しいとのたまうのか。誰もが本当は自由を求めているはずなのに、素直にそれを求められずにいるのが今のこの不自由な世界だ。だから今、私たち若者が動かなければならない。自由な世界を作るために、この不自由な世界を変えるために。私たちは自由であるべき、否、私たちは自由なのだ!」
「はいよ、鼎」
「うむ、ありがとう。愛しているぞ見槻」
 見槻先輩から差し出されたペットボトルの水を一気に飲み干す一番合戦先輩。その飲みっぷりからみて、あんな長文を喋り倒して大層喉が渇いていたんだろう。五百ミリリットルのボトルを空にし、それを投げ捨てる。
 俺や双子の視線をどう勘違いしたのか、一番合戦先輩は薄く微笑んでみせた。
「ああいや、愛していると言っても私と見槻はそういう関係ではないから安心してくれ。京双子も出雲郷も、存分に見槻を誑かしてくれて構わん」
「俺が見槻先輩を誘惑した際はどうか構って欲しいんですが。目を覚まさせてください」
 一番合戦先輩は無視して続けた。
「おはよう、こんにちは、おやすみなさい、いただきます、ごちそうさま、いってきます、ただいま、ありがとう、ごめんなさい――とまあ、日本にはいろいろな挨拶があるが、『愛している』というのはそれら挨拶に添えると簡単に親しみを込められるぞ。お前らも使ってみろ」
 先ほどまでの演説などなかったかのように笑う一番合戦先輩、の投げたペットボトルを拾いに行く見槻先輩。「すまんな。愛してるぞ見槻」「はいはい、俺も愛してるよ」
「で、具体的にはなにするんですか? 生徒会とディスカッションでもなさるおつもりで?」
 あくまで願望と愚痴でしかなかった一番合戦先輩のご高説を聞いた上で、その質問を投げかける。一番合戦先輩は白く細い顎を指で撫で、
「いや、話し合いでも勝てないことはないだろうが……ん、そういえば出雲郷はこの会室が不満だと言っていたな。……ふむ、百聞は一見にしかず、か」
 ぼそりと呟いた一番合戦先輩が、片方だけ唇を上げてみせた。
「見槻、今はいつだ?」
 哲学者か記憶喪失者かタイムトラベラーしか口走りそうにないことを言う一番合戦先輩に何ら突っ込むことなく、スマートフォンで時間を確認する見槻先輩。
「十二時十分、授業があったとするならば四時間目。チャイムが鳴るまであと二十分」
「ちょうどいいな。まだ生徒会は残っているか?」
「入学式後は向こうさんも生徒会室でお忙しくしてるでしょうなあ」
「上出来だ」
 指の骨をぼきりと慣らす一番合戦先輩は、非常に楽しそうだった。
「出雲郷、論より証拠だ、着いてこい。京双子、君らもだ。ここを裏生徒会と知ってなお立候補するくらいだ、自信はあるんだろう? お手並み拝見と行こうじゃないか」
「はーい」
 素直にステレオで返事をし、一番合戦先輩の後をついていく双子。一番合戦先輩を筆頭に、双子、見槻先輩と俺という形で屋上を出た。
「なあ、出雲郷。出雲郷っていちいち言うのめんどいし、亜麻って呼んでいい?」
「ああ、別にいいですよ。妹のおかげで呼び捨て慣れてるんで。それよか、論より証拠って言ってますけど、あの人は証拠オンリーすぎてそれがなんの証拠なのかすらわからないんですが」
「あー……じゃあ俺が論を担当するよ。鼎の証拠の後に論じたるから、もちっと待ってて」
 顔や女好きの面にそぐわず、見槻先輩は意外といい人らしい。一番合戦先輩が右腕と誇るだけあって、先ほどのように淡々と業務をこなせもする。完璧だ。
「さて、戦場に到着だ」
 一番合戦先輩が足を止めたのは、生徒会室の前だった。今度はパチモンでも言葉のマジックでもなく、本当の。
「覚えておけよ。これが自由の掴み方だ」
 嬉々とした調子でそう言った一番合戦先輩は、生徒会室とプレートのかかったドアを、思い切り蹴り飛ばした。短いスカートを顧みることもなく、全力で。
 驚く暇もなかった。咎める気は起きなかった。あまりに、一番合戦先輩が楽しそうだから。
 薄暗い廊下に、光が差す。生徒会室に設けられた大きな窓から差し込む陽光のせいだ。春の光の中で、一番合戦先輩はあくまでも楽しげに、自由を宣言してみせた。
「対生徒会用反因習的文化向上委員会会長、一番合戦鼎! 可愛い生徒から生徒会への要望を言付けに参った! 私たちに、会室寄越せ!」
 一番合戦先輩の道場破りもどきに、中にいた生徒会役員と思しき数人が立ち上がる。そこに何故か驚愕はなく、あるのは少しの呆れと、明確な苛立ち。
「京双子!」
 笑顔のまま、一番合戦先輩が双子を振り返る。双子はゆったりこっくり頷く。
「ええ、大丈夫ですよー」
「はい、わかってますからー」
 喋る速度と反比例するかのように、双子が恐るべき早さで動いた。向かった先は、生徒会室の中にある移動式ミニ黒板だ。淡い色の髪を揺らし、双子が手にしたのはチョークと黒板消し。役員はまだ反応できていない。その間にも双子は長机の上に跳ね上がり、机を蹴る勢いで真上に飛び上がる。
「つまり」
「こーゆうことですよねー」
 チョークと黒板消しを、双子が役員に向かって投擲した。躊躇など一切ない。
 辺り一面に白い粉が舞う。ようやく役員も事態を把握したのだろうが、もう遅い。粉末は目眩ましとなり、役員は炭酸カルシウムを大きく吸い込んでしまう。それを回避したところで、机や床に直撃しては欠片を飛び散らせるチョークのせいで動けやしない。
 真っ白になった生徒会室と噎せる役員たちを見ながら、一番合戦先輩は、
「オーライ! 君らは今日を以て、裏生徒会の会計だ、京双子!」
 これ以上なく嬉しそうに叫び、パーカのポケットからシャーペンやコンパスといった文房具類を取り出した。しかも、先の尖った凶器のようなものばかり。
「傷害は犯罪ですよ、一番合戦先輩!」
「お前に犯罪を指摘されたかないな出雲郷!」
 未だ悶えている役員たちに向かって、文房具を投げる一番合戦先輩。わざと外したのだろうか、血は一切飛び散らない。だが何人かの衣服がそれによって壁や床に縫い付けられた。
「わぁー、会計だぁ。細かいこと嫌いだけどー」
「やったぁー、会計だぁ。なにするかわかんないけどー」
 まったく喜びの伝わってこない歓喜の声を上げながら、白い靄の渦中から見事に脱出する双子。そのまま舞い戻ってくるようなことはなく、次に向かったのはプリント類の棚だ。
 その光景を俺は呆然と、見槻先輩は感心したように見つめている。
「女は強いな。なんか俺らいらない気もするけど、まあ、ほれ」
「は……何ですかこれ」
「辞書。投げりゃ攻撃、構えりゃ防御っつー優れもの。生徒会は女子多いし基本は守りで行きなよ。女を泣かしていいのは修羅場ん時とベッドん中だけだから」
「野郎は?」
「知らん」
 言いながら、飛びかかってきた男の役員の頭を辞書の角で殴る見槻先輩。
「これが鼎の言う証拠。じゃ、俺が論を提供してあげっからよく聞いとけよ」
 おそらく重要な書類なんだろう、大量のプリントが入った棚を双子が蹴り飛ばす。そのせいで数百枚というプリントがぶちまけられ、一種幻想的にひらひらと舞う。一番合戦先輩の流れ弾だろうか、飛んできたシャーペンを見槻先輩が辞書で叩き落とす。
「よく漫画とかであるじゃん、生徒会に意見して校則とかを変えるってやつ。あれの超進化版……いや、むしろ超退化版か。それが俺たちが今やってること。原始的に、暴力的に。この学校で自由を手にするには実力行使しかない。裏生徒会はそのためにある。まあつまり、さっきお前が言ってた『裏生徒会はなにをする』って質問に一言で答えるとするなら、」
 喜びの種類こそは違うものの、一番合戦先輩と同じく確かに嬉々として話す見槻先輩と俺の間を、パイプ椅子が通過していった。壁に叩きつけられたそれが金切り声を上げる。
「生徒会との、バトルロワイヤルだ」
 白い粉の中、椅子やら文房具やらが飛び交っていた。
「見槻! 今回は腕試しみたいなもんだ、さっさと終わらせるぞ!」
「ああ、はいよ。……ってことだから、戦いながら話すわ。お、亜麻、前見ろ前」
 椅子を振りかぶる男子生徒の下腹を蹴り飛ばしながら、見槻先輩が俺の前を顎で示す。
 見るとポニーテールの女子生徒が何かスプレーのようなものをこちらに向けていた。反射的に辞書を顔面前で構える。直後、周囲にフローラルな匂いが漂った。辞書を退けた時目に入ってきたのは、見槻先輩がその女子を抱き寄せている場面。どうしてこうなった。
「へえ、グッチ。いい香水使ってんじゃん。目潰しなんかにするのにゃ勿体ないね」
「うぇ、ひゃ、えっ?」
「でもまあ、きみには似合わない。今度俺が別なのをプレゼントしてあげるよ」
 真っ赤になった女子生徒の手から香水を引ったくる見槻先輩。一瞬固まってしまったのがその女子の運の尽き、双子にがっちりと腕を掴まれ、奥へと連行されていった。
「香水を武器にするとか、本当卑怯ですよね。消えてしまえばいいのに」
「亜麻、見る方向違う。何で俺見てんの」
 さりげなくカーディガンのポケットに入れたその香水はいかようになさるおつもりだろうか。初対面の女子から香水を剥ぎ取ったことのない俺には理解しかねる。
「で、なんだっけ……ああそう、つまり裏生徒会のすることは主に校則の改変ってことだけど。具体的な手順としては、まずこちらが要望を掲げる、それを一発で生徒会側が受理しなければその場ですぐさま交渉。但し、文字通りの直接交渉で。決着はどちらかのトップが負けを認めることでのみ成立する。生徒会側が負けた場合は、裏生徒会の要望を呑み、校則の改変、または追加。裏生徒会側が負けた場合は、要望の取り下げ。再提出は三十日以上経過してからじゃなきゃ不可。……っと」
 話しながら、見槻先輩は倒れ込んできた女子を受け止める。丁寧に立ち直させる見槻先輩に女子が見惚れるのも一瞬、今度は一番合戦先輩の羽交い締めがかかった。話を聞いていたのか、チョークスリーパーをかけながら見槻先輩の説明を継いでみせる一番合戦先輩。
「裏生徒会が動いていいのは授業中のみ。正確には、始業のチャイムが鳴ってから終業のチャイムが鳴り終わるまで。休み時間の戦闘は校則によって禁止されてる。他の生徒の迷惑になるからな。おっと、京双子が挟まれている。見槻、後は頼んだ!」
 意識を手放した女子をその場に捨て置き、双子の救出に向かう一番合戦先輩。それに手を振るだけで返事をし、再び語り部は見槻先輩へ。
「まあ、この校則も俺らが変えようと思えば変えられるわけだけど……別に俺らにとって何ら不利な校則なわけでもないし。で、」
「出雲郷、屈め!」
 声に導かれるまま膝を折ると、すぐさま一番合戦先輩のハサミが飛んできた。いつの間に復活していたのか、扉にハサミで固定されたのは、先ほど見槻先輩に角で殴られた男子だ。
 見槻先輩はその腹に拳をめり込ませ、何事もなかったかのように続行する。
「つまり裏生徒会の『裏』ってのは、漫画とかでよくある裏の活躍者的な意味じゃなく、あー、そうだな、言うなれば学校裏サイトの裏みたいな感じ」
「嫌な裏ですね……っつか、だったらそんなの、生徒会に意味なんてあるんですか? それに襲撃されてばっかで、なのに普段は事務仕事、なんて割に合わないんじゃ」
「それがまあそうでもない。あっちはあっちでそれなりの自由が確約されてるから。具体的に言えば、服装なんかは結構自由にやれるはず。第一、やりたくなきゃ立候補しなけりゃいいだけの話だし。生徒会に立候補するのなんて、多分ドMか正義のヒーロー気取りの変人だよ」
 言いながら、見槻先輩は本を投げ捨て、俺の肩を抱いた。気付けば、殆どの生徒会役員は縫い付けられるか倒れ伏しているかだった。
「ま、この生徒会とはこれがラストバトルになりそうだが」
「え?」
「生徒会は一年に一度、信頼できるかどうかの選挙があってな、もしそれが可決されりゃ役員は総取っ替えっつー仕組み。ほら、あれ。三権分立の国会と内閣みたいな」
「今年の生徒会、それ可決されそうなんですか?」
「んー、ほぼ確実。頭脳勝負ばっか考えてて、肝心の腕っ節が立たない弱小だから。今去年一年で俺と鼎に散々負けたからね、今月中に開かれる不信任案は可決されると思うよ」
「見槻、出雲郷。終わったぞ」
 声を上げた一番合戦先輩の方を見ると、生徒会長と思しき女子が双子にサイドをがっちりやられていた。他の役員は残らず文房具で足止めされて、手出しできない状況にある。
 滅茶苦茶になった生徒会室と、追い詰められた生徒会長。
 見槻先輩の言葉通り、もう生徒会側の敗北は明らかだった。
「裏生徒会の教室使用許可証に判を押すのが最後のお前の仕事だ。いいな、生徒会長」
 一番合戦先輩のそれは、もうすでに要望や意見などではない。拒否は許さないとばかりの、命令だった。生徒会長は一番合戦先輩を悔しそうに見上げてから、力尽きたように首を垂れた。
「……はい」
「そうか、素直ないい子だ。明日の朝までに手続きは済ませておけよ」
 勝者の余裕で生徒会長の頭をぽんぽん叩くと、軽く手を振って双子の拘束を解かせる一番合戦先輩。足下にあった本や倒れたラックを蹴り飛ばし、にっこり笑ってみせる。
「私たちの勝ちだ。無事ルールを壊し、会室をもぎ取った。帰るぞ」
「はいよ」
「はーい」
 鼠色の髪を揺らし、颯爽と生徒会室を後にする一番合戦先輩。見槻先輩と双子もそれに続き、屍の役員たちだけが残る会室に向けて黙祷を捧げてから、俺もその後を追った。
「ところで出雲郷、お前はどうするんだ?」
 淡々と歩く双子と見槻先輩に挟まれた一番合戦先輩が問う。まるで自販機の前で友人に何を飲むかと尋ねるくらいの気軽さで、俺の未来を俺自身に決定させる。
 いつだってこの人の言葉には重要な単語が抜けているが、それでも何を訊かれているかがわかってしまった。今更入るか入らないかなど、そんな些細な問いを投げかけているのではなく。
「字汚いってよく鈴珠に言われてるんで、庶務でお願いします」
 それはお望みの返答だったらしく、「また妹か」と一番合戦先輩がつまらなそうに笑った。

 明日には会室も用意できてるだろうということで、今日のところはこれで解散となった。一番合戦先輩と見槻先輩、双子、俺という別れ方。余談として、見槻先輩は一番合戦先輩の鞄を持ってやっていた。ジュースをねだられてもいた。
 そうして自宅であるマンションに帰ると、もうとっくに帰って着替えているんだろうと思った鈴珠が制服姿のままリビングにいた。
「いつ帰ってきた?」
「今」
「なんでこんな遅いんだ」
「部活見学してただけ。ていうか、父親みたいでうざい。着替えるから出てって」
 腰の辺りを蹴られ、リビングから廊下へと逆戻り。鈴珠が自室に行けばいい話だとも思うが、そんなことを口にしたりはしない。なぜならリビングの扉は磨りガラスなので、うっすら着替え中の鈴珠が見える。直接見るより興奮するのはきっとチラリズムの心理だろう。
「部活どっか入んのか、鈴珠」
 ぼやけた肌色を目に焼き付ける。中学の時は俺も鈴珠も帰宅部だった。
「多分入んない」
「なんで。……あー、金のことなら心配すんなよ? 俺が親父に言ってやるから」
「そんなんじゃないって。今日ほとんどの部活見てきたけど、どこもつまんないんだもん。なんていうか、友達同士で楽しんでやってるだけ、みたいな。全然燃えない」
「……なあ、やっぱりお前少年漫画の読み過ぎだって」
「亜麻のせいでしょ」
 確かに、兄のいる女子は少年漫画に嵌りやすいと聞く。その逆はあまりないようだが。
「いーよ、入っても」
 扉が開いて、部屋着となった鈴珠が姿を見せた。こちらが不安になるほど小さく細いその体と幼げな美貌に、いつも通り見惚れた。
 低い位置で二つに纏めた黒髪は柔らかに腰まで伸び、陶器のような白肌はくすみの一つもない。錆色をした大きな瞳は、いっそ俺を拒絶するかのごとく強く輝いて。百五十センチもない鈴珠は、頭一つぶん低い位置から俺を睨み上げていた。
 白いTシャツにタオル地のハーフパンツという無防備な格好のせいで遠慮なく晒された白い足を眺める。と、視線に気付いた鈴珠に平手打ちをされた。相変わらず躊躇も手加減もない。
「変態」
「ありがとう」
 持っていた制服を顔面に叩きつけられた。嗅いだ。新品のせいで、まだあまり鈴珠の匂いがついていない。ウールの匂いだけだ。察した鈴珠にすぐ取り返される。
 しっかりと制服を抱えながら、鈴珠が不満げにもごもごと呟いた。
「……ふったのに」
「ふった? ……あ」
 一番合戦先輩の登場や生徒会とのあれやこれやによってすっかり忘れていた。
 そうだ、俺は今朝、鈴珠にふられたんだった。まるで何事もなかったかのように接してしまった。いや、気まずくなったりしないでよかったのだが。
「ふったのに、何で亜麻だけそんな普通にしてるの。むかつく」
「亜麻だけ、って……もしかして鈴珠、朝からずっと気にしてたの? 俺のことを?」
 鈴珠が爆発した。見た目的にも、精神的にも。耳まで朱色に染めながら、俺に殴る蹴るなどの暴行を際限なく加えてくる。甘んじて受けた。
「なわけないでしょ! うざい亜麻きもい亜麻! 自意識過剰!」
「ツインテでツンデレで妹なんてやばいくらいに使い古されたキャラなのに、なんでお前はこんなにも可愛いんだろうなあ……あ、いた、痛い鈴珠、そこやめて、子孫繁栄できなくなる」
「ばっかじゃないの、ばっかじゃないの! もういいから早くお昼ご飯作ってよばか亜麻!」
 今度はリビングへと蹴り転がされる。キッチンに押し込められて、リビングとを隔てる引き戸も閉められた。だがこのマンションは対面キッチンとなっているので、リビングのソファに座る鈴珠は丸見えだ。まだ横顔が赤かった。
「鈴珠、なんか食べたいもんあるか」
「知らない! 勝手にすれば!」
「あ、そう。じゃあお前の大嫌いなゴーヤチャンプルにするわ」
「……麺類! 苦くも辛くもしょっぱくも酸っぱくもないやつ!」
「はいよ。あー、こらこら、暴れたら下の階の人に迷惑だろ。やめなさい」
 足をばたばたさせたまま、苛立たしげにクッションを投げてきた。鈴珠がいつも昼寝の時に使うクッションだったので、避けずに顔面で受け止めた。シャンプーの匂いがする。
 俺が避けなかった意図を悟ったのか、なおさら鈴珠が暴れる。ソファの上で転げ回るぶんにはいくらでも好きにしてくれて構わないので、落ちて怪我をしないようにとだけ願いながら手を洗う。落ちた。だが元気そうだった。床を手でばんばん叩いている。やめろというのに。
「亜麻!」
「なんだい」
「テレビつけて!」
「いや、リモコンお前の目の前だけど」
「つけて!」
 これが鈴珠でなければはっ倒すか窓から放り捨てるかするところだが、残念ながら俺の可愛い鈴珠なので素直にリビングまでテレビを点けに行った。俺の邪魔をしてやろうという気持ちはわからんでもないが、それによって遅れるのは鈴珠の昼飯だということに気付かないらしい。
 床の上でうつ伏せになっている鈴珠の手にリモコンを握らせて、キッチンへ戻る。冷蔵庫を開けたところで、またも鈴珠お嬢様の不満が爆発した。
「亜麻! 面白いテレビやってない!」
「あー。まー、平日の昼間だからねえ」
「なにそれ、ダジャレ?」
「……ごめん、今の素で言っちゃった」
 どうにもこの調子では本格的な料理ができなそうなので、冷凍の麺と粉末のスープ、それと残っていた今日が賞味期限の豚肉で、肉うどんを作ることにした。鈴珠は主食以外をあまり摂取したがらない質なので、炭水化物さえあればとりあえずは文句を言わないだろう。
 最もそれでは栄養面的に問題があるため、普段は俺があれやこれやと苦労しておかずを喰わせているのだが。それでもなぜか鈴珠の成長は著しくない。俺の努力が足りないんだろう。
「亜麻、暇」
「大人しく再放送のドラマでも見てなさい」
「嫌。どうにかして亜麻!」
「んー……あ、確かHDDにこの前テレビでやってたやつ録画してあるぞ。おまえの好きな、ほら、なんだっけ、名前忘れた。あれだ、城が動くアニメ」
「嘘! 見る! どこ、どれ!?」
「だからHDD……っつってもわかるはずないな」
 濡れた手を拭いて、リビングへ。鈴珠――の命で俺――が撮り溜めたアニメでぱんぱんのHDDから、どう考えても高一が嬉々として見るものではないはずのアニメを選択する。
 家事はもちろん、鈴珠は機械類にも弱いのだ。それから刺激の強い食べ物、生魚、虫も。ついでに方向音痴。小学校の時とはいえ、学校からの帰り道で迷っている鈴珠を見かけた時はどうしようかと思った。思えばそれ以来だ、俺が登下校を付き添うようになったのは。
 そんな放っておけないという母性にも似た気持ちが、いつからか明確な恋愛感情になった。
 原因は鈴珠があまりに可愛く育ってしまったことと、あとは、両親だろうか。
「はいよ、後は勝手に再生されるからもう弄んなよ。CMは飛ばすの諦めて見ろ」
「えー……」
「新しい発見があるかもしれんだろ。CM見て欲しいもんあったら買ってやるから」
 変なボタンを押されないようビデオのリモコンを鈴珠から遠ざけキッチンへ戻る。ようやく調理に集中できるようになった。漫画かアニメを与えておけば、とりあえず鈴珠は静かになる。
 ついでに返却しておいたクッションを抱きしめ、鈴珠は大人しくテレビを見始めた。
 その真横にある窓から正午過ぎの柔い日の光が差し込み、健康的かつ日常的に部屋の中を照らす。鈴珠と二人きりということもあって、俺はこのマンションを気に入っていた。
 中学一年の冬から、俺と鈴珠はこのマンションに二人で暮らしている。生活費はすべて父親持ち。両親が離婚してそれぞれの親に引き取られたはいいが、すぐにその生活も成立しなくなった。夫婦関係すら円満に築けない人間たちが、良好な親子関係を維持できるはずもなかったのだ。俺と鈴珠が別居していたのは、小学校の二年間ほどだけ。
二人暮らしを始める前はまだ鈴珠も素直な性格だった。今の状態からは考えられないが、毎日俺のもとへ足繁く通ってきていたのだ。
 春の光とテレビの音が部屋を満たす。まるで同棲中の恋人のようだ。このまま結婚さえできればいうこともないのだが。
「あでっ」
「なに?」
「指切った」
「ばかじゃないの。普段そんなミスしないじゃん。なんで?」
 結婚のことを考えていた、などと言ったらこれ以上に出血しそうだったので、
「お前の太腿見てたから」
「ばかじゃないの」
 鈴珠は呆れたように立ち上がり、ふらふらどこかへ行ってしまう。ああ、俺の太腿。
 だが、リモコンがないとはいえあの鈴珠がアニメを放置してどこかへ行くとは思えない。一体どこへ、と不審に思っていると、鈴珠がキッチンに入ってきた。「ん」と俺に手を差し出してきたので、素直にお手をする。手の甲の皮を抓られた。
「なに考えてんの?」
「鈴珠のこと考えてる」
「きもい」
 置いた手を反転させる鈴珠。そして、手にしていた絆創膏を俺の指に巻き付けた。不格好に、不器用丸出しのぐちゃぐちゃで。リビングでは誰も見ていないアニメが垂れ流されている。
「なに切ってたの。肉?」
「おう、豚肉」
「うどん?」
「肉うどん」
「ふーん。早くしてね、おなかすいた」
 ふらふらと、またリビングへ戻っていく。巻き戻そうとして、だがテーブルの上に置かれた複数のリモコンのどれがビデオのものなのかわからず、ちらりと俺を見てから、眉を寄せつつもクッションを抱いて鑑賞に戻った。言ってくれりゃ巻き戻すのに。
「鈴珠」
「……なに」
 ほんのり色づいている鈴珠の耳に向かって、親しみを込めた礼を送った。
「ありがとう、愛してる」

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