二度寝したな、と薄らぼんやり思った。
 空気の冷たさ的に、早朝。そのくらいの時間に一回目を覚ましたのだが、あまりの頭痛と眼球の奥の鈍痛にすぐ瞼を降ろした。一秒も経たずにまたお休みタイム突入。
 そして二度目の起床。いや、まだ床に寝そべったまま目すら開けてないから起床とは言わないかもだが。文字的に。まだ夢の世界に半身を突っ込んだ状態のまま、布団だろう、自分の下に敷かれている柔らかな布に体をすりつける。
 頭痛は未だ健在。瞼を引き上げると眼球の鈍痛も再開するのだろうか。ますます目覚めたくなくなった。
 昨日、結局どうしたんだっけな。
 ええと、どっから思い出せばいい。そうだみんなべろべろに酔っぱらって、俺も最後には神崎に呑まされて意識どっか行って。
 ……あれ? 俺今、どういう状況?
 寝心地のいい床から飛び起きて、頭痛に呻いた。そして今度こそ起床。居間だった。そんで、俺が今向いてるのは縁側。太陽の照りつけ方からして、もう正午は過ぎてるだろう。
 方向を変える。乱雑に敷かれた布団が何組も俺の周りにあって、布団の海ってこういうことを指すんだろうなと思った。ごちゃごちゃとひとかたまりに隙間なくまとめられた布団には、酔いつぶれたらしき全員が寝かされていた。もちろん一人につき布団一組なんて贅沢は許されてないから、全員が全員方向も布団も滅茶苦茶にこれこそ雑魚寝だろう。
 一応顔ぶれを確認してみると、婆ちゃんを除いた全員が存在していた。もちろん雛乃さんも。ということは、婆ちゃんが敷いてくれたのか、これ。うつ伏せで寝てる奴がいるあたり、移動の時は転がすくらいの乱暴さだったんだろうが。
「………………」
 そして少し離れて俺の隣には、神崎が寝ていた。そのまた少し離れたところにコップを握ったままの柊先輩と涙の跡がまだ頬に残る木葉、由鶴と夜宵と一ノ瀬は家族みたいに川の字。俺が最後に見た内部構成と変わっていない。
 ……そう、神崎。
 酔ってた。俺も、神崎も。神崎は最初からぐるぐるしてて、ぐるぐるしたまま俺に突進して、何故か俺に酒呑ませて。そんで、抱きついてきて、とんでもないことばかりを口走っていた。
 頭痛が自己主張を激しくし始めたので、もう一度寝転がって目を閉じる。もう一度目を開けるのが、ますます、ますます嫌になった。
 起きて、どう神崎に接すればいい。昨日のことを覚えているのか、どういう意味だったのか、結局何を言いたかったのか。ああ、神崎に限ったことじゃない。他の奴らもどうしよう。特に夜宵とか木葉とか。自我崩壊してたし。
「……受け入れろ」
 がさがさに乾燥した喉で呟くと、咳き込むほどの痛みを伴った。それで他の誰かが起きないか息を殺して耳を澄ませたけれど、身じろぎの音一つ聞こえない。安堵の息をつき、再び体を弛緩させる。
 俺は、この世界を受け入れられるのか。まだわからない、と昨日の俺は結論づけたはずだ。けれどこんなに枯れまくった喉じゃ、同じことを神崎に尋ねることは出来なくて。俺の中で勝手にNOと決めて、だから神崎は飛び降りたものなんだと納得した。
 ただ、神崎が不幸であるのかはわからない。
 幸せだと神崎は笑った。けれどその目は水面のようで、ゆらゆらと不安定に揺れていて。まっすぐに見ていた何かを、一瞬だけ見失ったような。
 神崎は俺を酷いと称した。どっちがだ、と今更反論してみる。いつもやること唐突で、それについての説明は一切なくて、不明瞭な不純物ばかりが溜まって。疑問は尽きない。よく今まで訊かないでいれたな、と他人事のように感心してみた。
 俺は消化しなければいけない問題を、今までずっと山積みにしてきた気がする。引っかかりはさして問題じゃなかったんだろう。むしろ問題は、その引っかかりを無視して積み上げ続けた俺だ。両親のことも、婆ちゃんに言われたことも、神崎のことも。全部後回しにしてきたツケが、この頭痛だとでも思っておけばいい。
 でもとりあえずは、目の前の事柄を片付けよう。
「んんー……あ、いたたた、痛い、頭痛い! ちょっと彼方、起きてー! あたしたち、昨日何したっけ!?」
「うん……? ……何で私コップ持ってるんだ?」
「天原お前何で今宵の隣に寝てんだもしかしてまさかお前そんなこといやでもお前」
「おにいちゃん、とりあえず私のこと抱きしめるのやめて。苦しい」
「喋るたびに殴るのやめて兄ちゃん! あとこのハイヒール誰の!? ひな先生!? 何でこんなのあるの!」
 議題は、覚醒し出した友人たちへの接し方について。


「やばい、何も覚えてない」
「私は記憶があるだけ忌々しい」
「恥じるべきことはな……ある」
「黒柳せんぱいに抱きついたもんねおにいちゃん」
「覚えてないことにしておきたい」
 どの発言が誰のものだったのかは、ご想像にお任せする。完全に記憶を失っているのは木葉だけのようだが。
 俺たちはまたも婆ちゃんが作ってくれた冷やし中華を囲み、遅めの昼食に勤しんでいる。布団はもう撤去した。雛乃さんだけは起きる気配がなかったので、居間の隅に放置。元々全部この人のせいだしな。存分に体の節々を痛めてもらいたい。起床時、間接の軋みに悲鳴を上げてくれたらいいなとささやかに願ってみた。
 もうすでにみんなは直立歩行が可能なところまで復活していて、所々二日酔いに苦しむ呻きが漏れるもののそこまで大きな被害を受けた者はいないっぽい。
「真白は? 昨日のこと覚えてる?」
「ん?」
 麺ではなくきゅうりやハムを率先してつまんでいた神崎が顔を上げる。寝癖で酷いことになった髪を結ぶことすら諦めて、だらだら零れる様はそうめんみたいだった。
 神崎は今のところ何も言ってこない。酒に強いんだか弱いんだか、二日酔いの症状は一切出ていないらしく平然としている。ただ昨日の名残として、目尻がほんのり赤らんでいるが。
 昨日のことはすべて忘れたのかと一瞬期待したけれど、
「ん、覚えてる」
 きゅうりを咀嚼しながら、あっさりと頷く。神崎は量自体はそこまで呑んでいるわけでもなさそうだったし、当然と言えば当然か。それに何があろうと、神崎が記憶を飛ばすということはなかなかになさそうだ。何となく。
「じゃーやっぱ覚えてないのあたしだけかー……ねー今宵ちゃん、あたし昨日どんなんだった? 変なこと言ってた?」
「ひえっ!? えーと……」
 一ノ瀬が目で助けを求めてきた。真実は黙せ、と頷く。
「……特には。ちょっとテンション高かったかもしれないですけど」俺の教えを享受して、一ノ瀬は笑顔で嘯いた。
「そっかー。でも覚えてないくらい呑んでそれで済んだなら、まだマシだよね!」
「でもほどほどにしてくださいね、将来も」
「うん、わかってるわかってる」
 将来も、と強く釘を刺したあたり一ノ瀬もしっかりしてるよな、としみじみしてしまいそうになる。一ノ瀬は呑んだらどうなるんだろう。
「ほら、これあんたらの服」
 どこかに消えていた婆ちゃんが居間へ戻ってきて、大量の衣類を畳の上に散らばす。洗濯してくれたのであろう俺たちの服。「わー出来たてほやほやーー!」と木葉がその山にダイブし、ふんわりと仕上がっていたそれをプレスする。婆ちゃんはそれを咎めはせずただ呆れたように目を細めて、「よっこら」と腰を降ろす。
「うぅう……」
 すると部屋の端から低い呻き声が聞こえて、ずるり、と妖怪みたいに這う生物。泥みたいになった雛乃さんが寝惚け眼を上げ、腫れぼったい瞼を晒す。
「おはようございます」
「んー……あー……今何時」
「おはよー、ひな先生。今は二時半くらいー」
「何だ、まだそんな時間……」
 駄目人間だと精一杯主張して、行動を停止しかける。けれど生徒たちが勢揃いしていることに気付いて、塵ほどにしか残っていない教師としての尊厳を保とうとしたのか二度寝は避けたみたいだ。腕だけでずるりずるりと這って、某ホラーテレビみたいに髪をこれ以上ないほどごちゃごちゃにしている。
「つーか、ばーちゃんなにそれ、ずるい……アタシのは?」
 冷凍庫から持ってきたのか、一人だけアイスを涼しげに食している婆ちゃんのを見て、前身のスピードを速める。それを面倒そうにして、
「ああ? 家主の私が勝手して何が悪い。食いたきゃ自分に取りに行くこった」その横顔を足で押しのける。雛乃さんは抵抗する力もないのか、ばたりとその場に突っ伏した。
「二日酔いの娘労れ……」
「老体の親労れ。食い意地の張った奴め」
 無表情に言い返す婆ちゃんはまるで雛乃さんの動向にそっくり、いや雛乃さんが婆ちゃんにそっくりなのか。どちらも俺の母親には似ても似つかないが。
 俺の母親は、どちらかと言えば感情の抑揚が少ない人だった。真面目なわけでも不真面目なわけでもなく、例えば俺がいきなり不良になったとしても「何してんの、馬鹿だね」の一言で済みそうだ。そんな母親が気楽な反面、小さい頃はどことなくうら寂しさを感じた記憶がある。もしかして俺のこの性格は母親譲りだったのかもしれない。そんな母親を相手に駄々をこねるのも馬鹿らしかったけれど。
「……誰かアタシのアイス取ってきてー……」
「馬鹿娘。生徒をコキ使うんじゃないよ」
「プライベートな時間である以上、今はこいつらただの知り合いのガキじゃんか……」
 いつもより二割くらい力のない声と動きで、のっそりと台所へ向けて這い出す。そんな雛乃さんを笑って見送ったりやる気なく声援を送る者こそいるが、助けようという人物はいない。俺含め。
 雛乃さんは台所からアイスを取ってきて、日の当たる居間に頭が出ると同時に力尽きた。半身はまだ台所に取り残されている。意識が半分なさそうなのに、仰向けに転がってアイスをくわえたあたり色々感心した。そしてそのまま動かなくなったので、また眠り始めたのだろう。口だけはもごもご動いているが。
「………………」
 やっぱり、俺や母親と比べて、婆ちゃんと雛乃さんはあまりにわかりやすい。行動は読めないが、いつだって感情の最前線は『自分が楽しいかどうか』だ。楽しんで笑うためならば、なんだって厭わない。自己中心的と言ってしまえばそれまでだが。
 楽しそうで。面白そうで。まっすぐで。歪みがなくて。一直線で。迷いもなくて。自分の本能に、感情に素直だ。それが例え、他人から見れば情けないと後ろ指指される行動であったとしてもだ。誰のためでもなく、自分のためだけに生きている。誰のせいでもなく、自分のせいにして生きている。
 そんな親類のことを、俺は、
「彰、こいつらさっさと帰しな。下手したらまた居座るよ。帰るも帰らないも勝手だが、学校サボるのに教師の家はないだろ?」
「ああ、はい。そのうち送ります」
 そう悪戯めいた笑みを浮かべる婆ちゃんや、欲望と惰性に任せて睡眠と食事を貪っている雛乃さんが。俺はきっと、羨ましかった。世界のすべてを受け入れられる、俺とはほど遠いこの人たちのことを、遠く感じていた。
「わたしもアイス食べたい」
 そしてきっと、どこまでも自分に素直で、幸せだと笑った神崎も。


「お邪魔しましたー!」
 夕方頃、少し暑さが引いてからようやく木葉たちは俺の家を出た。未だ昨夜の余韻に(記憶にも二日酔いにも)苦しむ奴はいたが、これ以上居続けると本格的に帰るタイミングを失いそうだった。
 俺は婆ちゃんに促されて、神崎を後ろに乗せてみんなを送り届けていた。神崎は逆方向なのでついてくる必要はなかったのだが、本人が行きたいと言い出した。よく考えれば神崎がいないと下手したら家に帰れなくなるので、受け入れる他ない。ついでに村の道も何となくながらに覚えておきたかったからちょうど良い。
 一番近かったのは一ノ瀬兄妹で、俺の家を出て十分ほどで到着した。
「色々とありがとうございました、黒柳せんぱい。楽しかったです」
 一ノ瀬は丁寧にお辞儀をして、さっさと中に戻ってしまった夜宵のぶんまで礼を述べる。夜宵が完全に引っ込んだのを見て、俺の裾を引く。一ノ瀬の身長に合わせて身を屈めると、耳打ちされた。
「おにいちゃんも照れてるだけですから。本当は楽しかったと思います」
「それはない」
「おにいちゃんのこと、一番わかってるのは私ですよ」
 反論出来そうもないことを言って、にっこりと微笑む。俺が黙っていることに満足したのか、「それじゃ」と再び頭を下げて家の中に戻った。
 そして次は木葉。けれど木葉は途中まで行ったところで、
「あたしの家、みんなとちょっと違うとこなんだ。結構脇に逸れるから、ここまででいいよ。彼方たちが遅くなっちゃう」
 と細道の前で自転車の向きを変えた。確かにその奥はまだまだ家のようなものは見えない。どうしようか迷ったけど、柊先輩や由鶴もいることだし、とおとなしく従った。
「じゃあ悪いけどここまでで」
「うん。今日は……っていうか、昨日からずっとありがとね。なんか、無理に連れ回しちゃってごめん」
「いや、俺も楽しかったし」
「彰が楽しんでくれたならよかったかな。実は、仲良くなりたいからってちょっと急いたかも、って心配してたの。今日はゆっくり休んでね」
「木葉もな。あと、俺は本当気にしてねえから」
「うん。そっか……うん」
 まだ寝癖の直りきっていない前髪を気にしながら、木葉は笑い顔を見せる。その頬が夕陽に染まって、少し悲しげな表情に映った。そして小さく、顎を引く。何事かを呟いたけど、それは聞こえない。ということにした。
「それじゃ、また明日学校で! ひな先生に今度こそお弁当作ってもらうんだよ!」
 ぱっと明るい表情で手を振って、俺が何かを追求する前にペダルを踏み込んでいた。もちろんその背中を追うなんてことはしなくて、意味深に木葉が残した一言はすぐに俺の耳から剥がれ落ちる。
「黒柳、どうした?」
 木葉が去ってなお立ち尽くしている俺をどう思ったのか、柊先輩が声をかけてくる。急いで自転車に乗り直して、「すみません」と進行方向に戻った。
 深追いはしない。俺のことで手一杯なうちは、無駄に探ったりしてはいけない、んだと思う。土台が間違っていた俺は、今まで積み上げてきたものを、もしかしたらすべて破壊し尽くさなければならないのだ。それだったら、今は先に進むべきじゃない。
 ただ、答えるくらいの時間は設けろよ、と思っただけで。
 木葉はきっと、『何か残るかな』というようなことを言った。
 何か残せたどころじゃない。木葉は、今の歯車を動かすのに一番動いてくれた人間だ。神崎で真っ白に塗り直されたキャンバスへ、最初の色を添えたのは木葉。感謝してる、ありがとう、と言いたかった。……言いたかっただけで、言うかどうかは問題じゃない。いつか羞恥が負かされたら口にしよう、と心に決めつつ。
 今はまだその時じゃない。俺はまだ、腰に纏わり付く細い腕だけでも重くて精一杯だ。進んでいるのに引き戻されている感覚。
 神崎は確かな重みを持って、その軽い体で、俺の回転を留めようとしてくる。
「あ、私の家はここなんだ。古くさい家で恥ずかしい限りだが」
 重さに耐えきれず、というわけではなく、柊先輩が停車したので俺と由鶴もブレーキをかける。そこは前に聞いた通り、『ひいらぎ』と崩れかけたフォントの看板掲げる駄菓子屋だった。入り口のガラスは茶色っぽく変色した磨りガラスなので、中は覗けない。
「そのうちここにも遊びに来てくれ。黒柳なら割引するからな」
「ええ、お願いします」
 艶やかな黒髪を揺らして、控えめな笑い声を柊先輩が漏らす。この二日間で一番キャラが理解出来たのは柊先輩だった気がする。男前で頼りになって、けれど実は誰より女の子らしい。
 柊先輩は店の脇に自転車を停めて戻ってくると、何か思い出したようにぽんと手を打つ。
「あ、そういえばな。ずっと言おうと思って言い忘れてたんだ」
「はい?」
 微笑んだ柊先輩は、俺の頭を撫でた。一瞬理解が追いつかなくて、硬直してしまう。バランスを崩して「っとと」揺らぎかけた車体を柊先輩が押さえてくれた。
「白野沢にようこそ、黒柳」
 そう微笑みながら告げて、「それじゃ」と爽やかに踵を返した。残り香までもがミントを匂わせている気がする。昨夜、俺と同じシャンプーを使ったのだからそんなことはないはずなのに。
 何だか複雑な気分になった。沸き上がる気持ちは死ぬほどあるはずなのに、明確に表現出来ない。プラスの感情であるのかマイナスの感情であるのかすらわからない。それは、俺がいつも無感情と言われる時に似ている。
「さて、帰るか神崎」
「ん」
「待て待て待って俺をいないことにしないで!」
 元来た道を辿ろうとした俺の袖を、自転車から転げ落ちそうになっている由鶴が掴む。俺も強制的に進行をストップされて、こけかけた。
「危ないだろ!」
「えっ……あ、うん、ごめんなさい」
「わかればよし」
 元々冗談だったし、と漕ぎ出す。由鶴が後ろから着いてきて横に並ぶので、広い道はすぐに埋まる。咎める人はいない。
「お前んちってどのへん?」
「あー、海のほう。結構すぐだよ」
「へー」
 海。あるのは知っていたが、まだ行ってはいない。ここからでも遠くに海を眺められて、夕陽で水面が反射して輝いているのがわかる。でも、このへんに家なんかあったっけ。
 無言で漕いでいればいいものを、由鶴は普通の友達のように世間話を持ちかけてくる。
「そいや、彰は何で転校してきたの?」
「あー……」死んだ、とか言いにくいし。「親の都合」
「遠いとこに出張とか?」
「そんな感じ」あの世だけど。
 普通に対応出来るもんなんだなー、と他人事のようにぼーっと思う。相変わらず俺は頭でしか物事を考えていない。誰だっけな、頭じゃなくて心で考えろ、と言われたことがある。
 それにしても、俺が由鶴と二人……ではないな。神崎が後ろにいるけど、こいつはほぼ喋らないからたまに存在を忘れかける。なので表面上は由鶴と二人みたいなものである。そんな状況に陥るとは思ってもいなかった。というより男友達と二人きりで行動することも少なかった。お互いに踏み込みすぎず、踏み込まれすぎず。
 潮の匂いが鼻をつく。大分海が近くなって、少し気分が高揚した。
「俺このへんまででいーよ。すぐそこだし。彰はどうするの?」一旦地面に足をついて停止する由鶴。
「神崎、どうする。帰るか?」
「んー……」
 どっちつかずに首を捻って、足を揺らめかせる。由鶴は「ちょっと探索すれば?」と苦笑を漏らす。
「神崎が微妙な反応する時は、だいたいNOだよ。神崎、やだって言わないし」
「ふーん」
 初めて知った。考えがないわけじゃなく、ただ単に明確な答えを口にするのが極端に苦手らしい。というか、それを由鶴から説明されたことが腹立つ。如何なる状況であろろうとこいつにだけは教えを乞うまうと思っていたのに。
 由鶴の爪先を少し踏んで、気分をすっきりさせる。理不尽な暴力に何事かを喚いていたが、このくらい慣れっこだろうので放置していたら、案の定あっさりと話題を変換した。
「そんじゃ、また明日」
「おー、またな」
 海辺に沿うように走り出した由鶴をしばらく見送っていたが、しばらく進んだところで由鶴が停車した。首だけで振り返って、笑顔で手を大きく振る。
「彰、大好きだよー!」
「………………」観衆がいなくてよかった。俺までホモ扱いされそう。
 気色悪さからか、腰に回した腕でぎりぎりと絞め上げてくる神崎もいることだし、早々に目を逸らしておく。由鶴はさすがにそれを予想していたのか、満足そうに再び正面を向いて去っていく。
「そんじゃ、ちょっとぶらつくか」
「うん」
 ようやく腕を緩めた神崎を乗せたまま、自転車を走り出させる。すっかり橙に染まりきった景色は情緒溢れるもので、初夏の爽やかな暑さもなりを潜めていた。まだ蝉が活動し出すには早い時期なのか、海から聞こえるさざ波の音とタイヤの回転音ほどしか音がしない。
 夕陽が目に染みこんで眩しく、目を細める。神崎は俺を盾にしているおかげか、むしろ長すぎる髪がタイヤに巻き込まれないかどうかのほうが懸案事項らしい。
「彰、今何時?」
「ちょい待ち。……ん、あれ?」
 ポケットに手を突っ込んでみるが、目的の物は見あたらない。どうも携帯をまた携帯し忘れたらしい。むしろ最近はそっちのほうが当たり前になってきているので、特に名残惜しむこともなく手を引き抜いた。
「携帯、ないの?」
「忘れたっぽい。つか忘れた。いい加減腕時計とかつけるか……」
 東京にいた頃は携帯があるからと腕時計などつけもしなかったのに。
 高校の入学祝いに親戚からもらったそれなりに値段のする時計が、まだ部屋の段ボール内で眠っていることを思い出す。どの箱にしまったっけな。
「今でも携帯使ってる?」
「全然。たまに雛乃さんとかから電話来るけど、それ以外はあんま触りもしねえな」
「……いるの?」
「ぶっちゃけ今はいらないかもな。神崎、右か左かまっすぐか」
「まっすぐ」
「はいよ」
 十字路を直進して、だんだん海が近くなっていることに気付く。もしかしたら神崎は海へ行こうとしてるのかもな。こんな夕方から、しかも洗濯したばかりの服で海水浴しようなどとはさすがの神崎でも言い出さないと思うが。
 それにしても、携帯。確かにもう不要なのだが、何となく手放すのが惜しい。だが木葉たちは全員持っていないようだったし、連絡が来るとすれば婆ちゃんの家のほうに来るんだろう。白野沢に来てから携帯が活躍したといえば、時間の確認と雛乃さんからの諸連絡、あとは……ああ、俺の検索履歴にアルトカルシフィリアという黒い単語が残っているくらいか。俺の恥でないとはいえ、これは抹消したい。
「……もう必要ねえのかもな」
 携帯も、過去も。俺の部屋の段ボールと、携帯。それくらいしか俺の過去を繋いでいるものはない。記憶だって、すぐに上書きされて薄らいでしまうようなもの。ただ手放す機会を失っているだけ。
 下り坂で緩くペダルを踏んで、加速を楽しむ。下っている時よりも、それが終わってから足を動かさなくても勝手に進むあの感覚が好きだ。
「彰、右」
「はーいはい」
 加速を繰り返していた足を止め、流れに任せて右折する。と。
 飛んだ。
「……っ、…………っ!」
 いきなり開けた視界には、眩しいほどの夕焼けを反射して輝く海。目を焼かれて細める。抵抗する術も持たず、急カーブの先にあった堤防を飛んだ。自転車は堤防に前輪を引っかけて地面を滑りながら倒れ、俺と神崎だけが海へと放り出される。
「うお、お……っ」
 自転車の塗装剥げてねーかな、と一番に心配した。神崎どうしてっかな、と二番目に疑問に思った。三番目に、水の冷たさを怯えた。
「い、ってえ……!」
「う……つめたい……」
 水が全身を打つ。神崎が呻く。服に染みこんだ海水は冷たく、鳥肌を立たせる。一番に心配した自転車は、堤防に隠れて見えない。水面に顔を出して、神崎も隣に浮かんでいるのを確認する。とりあえず怪我はなさそうだ。
 今更寒気が走って、冷や汗は海水に紛れる。もしこれが上手く海に飛び込んでいなければ、地面にスライディングしていたのは自転車じゃなく俺と神崎だ。
「……神崎、おい、大丈夫か」
「ん……」
 海水に白い髪を広げて、神崎は濡れた前髪を額から剥がす。薄いワンピースも肌にべっとりと張り付いて、若干透けていた。
 足を伸ばすと何とか俺は届いたが、俺より身長がない神崎は若干溺れかけで、慌てて拾いに行く。
「足届くか?」
「んー……」微妙な反応。つまりNOか。
「まあ俺でぎりぎりだしな。ほれ、掴まれ」
 神崎を抱えることにあまり抵抗がなくなった自分が怖い。度重なる神崎との密着のせいで、年相応の動揺を得ることが出来なくなった。
 おとなしく俺に掴まって、というより正面から抱きついてきた。何かもういいやと諦念と神崎を纏めて抱き、肩に担ぐ形で堤防の方へ戻る。薄い生地ごしに神崎の低い体温が伝わってくるのを、海水の冷たさで誤魔化した。
「神崎、お前さー……ここに堤防あること知ってただろ?」
「うん」
「何で言わねえの?」
「海入りたい気分だったの」
「………………」
 真下まで行くと意外と高さがある堤防を見上げて、肩にぶら下がっている神崎を一掃重く感じる。もう何も言及しないが、神崎といるとよく濡れるということはわかった。いつも着眼点が違う神崎に合わせて違う方向に叱ってみる。
「いいか神崎。服のままは入ろうとすんな」
「だって水着持ってなかったから」
「何でお前は目先のことしか考えねえんだよ……言えば別の日に連れてきてやるっつーの。だからこれからはやめろ」
 堤防の端を掴む。片手で上がれる……わけがないか。大人しく堤防を離して、重力に従って一旦海に沈む。神崎は浸けないようにした。
「うん。……海、連れてきてくれるの?」
「もうちょっと暖かくなったらな。お前も今冷たいだろ」
「……ううん」背中に水をかけてみた。「ひわわ……っ」「ほら冷たいんじゃねえか」
 不満げにむくれる神崎を堤防の上へ押し上げ、「……おい」「ん?」「ちょっとは上がる努力をしろ」ようやく堤防の端を自分の手で掴んだ神崎を堤防へ乗せる。ワンピースの裾からぽたぽたと雫が滴ってきて冷たい。
「よ、っと……」
 腕の力で体を海面から引き上げ、足で側面を蹴って這い上がる。膝が軽く擦れていたが、血が滲むほどでもない。
 神崎は濡れて気色悪いだろう髪も服も気にすることなく、水面をじっと見つめている。白い横顔は黄金に輝く。俺はその隣に腰を降ろしながら、神崎が理由を嘯いたことを悟った。海に入りたい、なんてことを神崎が言い出すはずもないのだ。
 一つ、積み木をつまみ上げる。土台はまだ見えない。どんどん崩していく。新しく積み上げることはしないまま、ゆっくり壊す。
 今ここで崩さなければ、すべてなくなってしまう気がした。向き合わなければ、二度と見つけられない気がした。神崎の頬を伝う海水が涙に見えた。淡い赤色に染まって、神崎が今にも消えそうな気がした。
 もしかして、泣くために、涙を海水で誤魔化すために、なんて絵空事をふっと思った。そんなわけはないからこそ、恐れていた部分に柔く触れる。
「……神崎は、覚えてるのか?」
 何を、とは言わなかった。大袈裟に揺れる肩と、神崎にしては酷く迅速な首の動きで俺に向けられた瞳。
 弾けるように反応した神崎は、泣きそうな顔をしていた。
 地雷を踏んだか、と後悔しかける自分を、押しとどめる。このくらいで退いてどうする。今更、積み直せない。崩す、壊す。
「昨日お前が何を言ってたのか、俺にはわからねえ。……俺はただ、お前が、」
 息と唾を一緒に飲み込む。でも二の句は舌の上で転がして、放つタイミングを伺う。神崎もそれを留めようとはしないで、唇を薄く噛みしめながら言葉を待つ。
 すべてが崩壊してもいいと思った。
 それはきっと、今まで無視し続けてきた俺の責任だから。
「お前が飛び降りたことを、俺は知ってる」
 プラスか、マイナスか。どちらかわからない表情で、神崎は目の拘束を解く。ぎゅっと眇められた瞳は俺を咎めているような気がした。
 触れてしまう。向き合おうとしなかった部分へ、いきなりの無遠慮さで踏み込む。神崎の白さにも、触れる。胸の引っかかりは消えない。ようやく放出されたはずの疑問は、違う形になって俺の中を蠢く。
「………………」
 神崎の色味の少ない瞳に夕陽が差し込んで、その曲面を濡らす。神崎は一度喉を鳴らし、海の向こうに視線を投げながら声を絞り出した。
「わたし、守りたかった」
「……は?」
 表情は動かない。目も動かない。ただ、真白い髪先が風に揺らいだ。
「何もかもを、守りたかった。わたしはここにいて、わたしはここで生きてるって、教えて、自分を守りたかった。何も守れないわたしのことが、わたしは嫌いだった」
 そしてさらけ出す、揺らいでいる根本。ようやくここまで崩した。
「もう、彰がいなくたって大丈夫だって……証明したかった」
「………………」
「守ってくれる人は……彰も、お母さんも、もういなかったから」
 首を傾けて微笑んだ神崎は、泣いていなかった。ただ、痛そうに苦しそうに辛そうに泣きそうに笑って。綺麗で美しくて、歪んでいて。
「わたしのお母さん、死んだの。病気で。……ここね、お母さんのお気に入りの場所だった。わたしもお母さんも、ここから海を見るのが好きだった。あるとき、ここから落ちたわたしを、お母さんは助けてくれた。でも今日は、彰」
 ………………。
 息を、吸う。吸う。吐く。たどり着いた根本を直視して、俺は罪悪感で押し潰されそうになる。俺は本当に、馬鹿だ。
「神崎」
「ん?」
「ごめんな」
「……うん」
 わかってた、と神崎は笑う。ただその目には揺らぎを見せて。あと一歩俺が踏み出せば、泣いてしまいそうに見えた。それなのに俺は、言い切る。
 過去を、否定する。
「俺、お前のこと覚えてないんだよ」
 俺は多分、凄く昔、神崎に会ったことがある。
 さすがの俺でも、そのくらいは神崎の言葉の端々から感じた。俺がこの白野沢に来た時、何らかのきっかけで俺は神崎と出会った。神崎は俺にそのことを思い出してほしくて、きっと必死だった。
 何で言わなかった、なんて愚問はしない。神崎は何度も俺に問いかけていた。自分を覚えているか、と。縋るようなその問いを弾き返したのは俺だ。
「わたしは覚えてる。でも、彰には教えない。これはわたしの記憶。彰には、彰の記憶があるから。彰が訊かないように、わたしも訊かないから」
 それが優しさであると信じて疑わない。怒っているわけでも、嫌味でもなく。ただ純粋に、それが正しいことだと信じ込んでいるのだ。
 すべてを忘れて、神崎を拒絶し続けた俺のことも、俺が忘れている過去のことも、これからのことも。すべて許容して、受け入れる。何色でも受け入れる白さと、何色でも弾き返す白さを持ち合わせて。だから、誰にも触れられない。
 俺も昔は、そこに触れたんだろうか。神崎の母親も、俺の両親も生きている世界で。すべての幸せがあったその世界で、俺は神崎の白さに触れられていたのかもしれない。
「神崎」
「ん?」
 飛び降りた理由は、未だにわからないけれど。
 それはきっと神崎にとって、なぜ俺が白野沢にいるかという疑問と同じなんだろう。俺がまだ、それに答える勇気が掴めない以上、問いただすのは間違えている気がした。訊けばきっと神崎は答えるだろうし、嫌がりもしない。けれど、訊かずにいる。
 忘れた過去と、今更自覚し始めた両親の死を背負って。
 忘れられない過去と、悲しみすら感じない母親の死を背負って。
 幸せと不幸を、背負いながら。
 消えた俺と、消えない神崎。
「帰ろうか」
「うん」
 今はただ、帰る場所がある幸せに笑う。


 帰ると、またびしょ濡れになった俺を婆ちゃんが出迎えてくれた。
 神崎は俺の家の前で降りて、「歩いて帰る」とさっさといなくなってしまった。俺はそれ以上深追いするべきでないと踏んで、おとなしく見送った。
 婆ちゃんも必要以上には詮索せず、ただタオルを手渡してくれる。ただ、玄関ですれ違う際、「悲しそうだね」と嬉しそうに笑っていた。俺は何も答えなかった、というより答えられなかったけど。
 居間へ入ると、風呂上がりの雛乃さんが畳にべったりと寝転がって麦茶の入ったコップを握りしめていた。
「ただいま帰りました」
「おかえりー。……って、あれ?」
 首だけを起こして、俺の周りを確認する雛乃さん。何を探しているのかがわかったので、質問を先回りする。
「神崎なら帰りましたよ」
「あ、そう」
 またぐてりと寝転んだ。海水を少し飲み込んだせいで干からびたように乾く喉を潤すため、台所に入って冷蔵庫の中から麦茶を取り出す。
 冷たくて美味い。雛乃さんが管理しているだけあって、飲み物だけはいつも凍みるほど冷え切っている。歯の裏側が痛くなるようなこれも、最近は心地よくなった。
「てゆーかさ、彰元気ないね」
 噎せ返りそうになった。咳払いで誤魔化しながら、コップを持って居間へ戻る。
「……そう見えますか?」
「大人をナメんなっつーの」
 一番最初に会った時のように、肩で笑う。寝転んだまま器用に麦茶を飲んで、顔だけ俺へ向けた。
「アンタ、わかりやすいし。感情が表に出にくいからこそ、ぱっと見でテンションの落差がわかりやすいんだよ。そういう奴のが扱いやすくてアタシは好きだけどね」
「………………」
「何があったの、なんて訊いてやんねーかんな。元々『何かある』奴に何かあった、なんて最低もいいとこだろ。馬鹿でこそあれ、アタシは最低になりたくないしね」
 目を細めて笑む雛乃さんに、心底安堵してしまう。この人が叔母で、婆ちゃんが祖母で、俺の引き取り手がこの人たちで本当によかったと、無意識に思ってしまったのだ。初日に感じていた重荷も苦痛もいつしか全部消えて。
 畳の心地よさにも、廊下の冷たさにも、もう慣れた。個性が強すぎる白野沢の人たちにも、何もない白野沢にも、少しは慣れた。
「それにさ、アタシ実は色々無視してたんだよね」
「無視?」
「アンタがさ、色々考えてたのとか。ほんとは知ってたんだけどさー、あん時はどこまで入り込んでいいのかわかんなくて」十分入りこんできてたろ。「シリアス嫌いだし。アタシがいいこと言うと色んなものが崩壊するし。主にキャラ」
 爪先を絡ませて、いつもよりゆっくりとした速度で喋る。きっと考えながら話しているんだろう。
「ばーちゃんが訊いたこと、あったじゃん。初日にさ、ばーちゃんの部屋で。ぶっちゃけ、そんなこと訊いていいの、っていう冷や冷や感もちょっとあったけど……それ以上に、彰の気持ち確かにわかんねーなって部分あってさ。だから口挟まなかったけど、アンタ結局わかんないとか言い出すし」
「……雛乃さんでもびびることとかあるんですね」
「そりゃ人間だし。でさー、改めてアタシから訊きたいんだけど……ちょっとアレンジする。拒否権はなし」
 何となく予想はついた。だから止めなかった。訊く権利も、答える義務も、雛乃さんと俺にはある気がしたから。
「あのさ、彰は今……幸せなの?」
 答えは用意していた。わかりませんは通用しなさそうだったから、「ご想像にお任せします」と誤魔化すつもりだった。けれど雛乃さんは、平手で俺の口を軽く叩いて塞いだ。まるで優しい叔母のように、柔く微笑む。
「いいよ、今は。拒否権はないけど、無回答なら許すから。ばーちゃんが言ったみたいにさ、幸せも不幸もこの世界に混合してるなら、この質問答えられるはずがないんだ。アタシだって答えらんない」
「………………」鳥肌。何故かは、わからない。
「アタシは傲慢だ。自分勝手で、馬鹿で、気まぐれ。わけわかんないこと言ってるのも、馬鹿みたいなことしてるのも自覚してる。でも、だからこそアタシは言い切れる」
 息を吸い直して、腹筋だけで起き上がる。それでも立ったままの俺のことは見上げる形で、その身長は活かされない。誰よりも高いところから誰よりもみんなを見渡せるその高さは、今は必要がない。
「アタシとばーちゃんは彰の家族だし、彰はアタシとばーちゃんの家族だ」
 最初から、俺はこの人に敵うはずがないのだ。それは最初からわかっていたことで、俺が出来る足掻きなんてせいぜい、雛乃さんより早く家を出て学校へ行くくらいのもので。
「家族と友達がいれば幸せは絶対に散りばめられてるっていうのがアタシの持論だからね。裏側にどれだけの不幸せがあろうと、そんなの見なきゃ済むことだろ? 幸せかどうかはわからないけど、アタシは不幸より幸せでいたいと思う」
「家族と友達ですか」じゃあ、過去の俺も幸せでいたのか。気付こうともしなかったけれど。
 再び寝転んで天井を見つめ始めた雛乃さんは、きっといつまでも変わらない。世界は常に動いていて、何もかもが変わらないでいれることなんてない。だからこそ、この人だけは変わらずにいてほしい。そうすれば、俺はいつだってどこにいたって帰ってこれる気がした。
 立ったままグラスの中身を飲みほして、空になった雛乃さんのコップと一緒に台所へ運ぶ。居間を出る直前、雛乃さんを振り返った。
「雛乃さん」
「んー」
「俺、ここにいていいんでしょうか」
「うん。いろよ。アンタの家はここだろ」
「そうですか」
 頬が自然に緩む。わかりきっていた返答を耳にして、俺は酷く安心していた。雛乃さんのぶっきらぼうな言葉にすら、満足して。
 肩の荷物が無理やり引きはがされた気分だった。こんなもんいらねーだろ、と雛乃さんに奪われて、捨てられる。
 また一つ、崩したものが積み直された。
 ハッピーエンドでは、ないけれど。
「さて、」どうしようか。
 忘れてはいけない。俺が突っかかっている原因を。すでに忘れてしまっている神崎のことを。
 俺が神崎を忘れていたという事実には気付いたけれど、忘れていた内容を思い出したわけではない。少しだけ幸せが増えただけで、満ち足りるにはほど遠い。
 この世界を受け入れるため。
 神崎に、この世界を受け入れさせるために。
 神崎が飛び降りたことを知ってしまっている俺は、そうするしかない。神崎は何かを知ってほしくて、何かを叫びたくて、飛んだ。だったら俺は、どれだけ高く飛んでも結局はこの世界に足をつけて歩き続けるしかないことを神崎に教えなきゃならない。
 神崎が何かを守りたいように、俺は今の世界を守りたかった。
 それは、神崎を引っくるめての世界。神崎も木葉も由鶴も柊先輩も一ノ瀬も夜宵も雛乃さんも婆ちゃんもクラスメートも村の人も佐村先生も東海林さんも柊先輩の妹も死んだ俺の両親も神崎の母親も東京も白野沢も存在する、この世界。
 守りたいと思わせてくれたこの世界を、守りたかった。
「ん?」
 薄暗い廊下の途中、婆ちゃんがしゃがみこんで何やら作業をしていた。ふらふら近寄って目を凝らしてみる。ワインレッドの表紙に光沢を帯びているそれは、大きさからしてアルバムだろうか。
「何してるんですか、それ」
「ん、ああ、彰か。いやね、彰が来た日に雛乃が写真持ってたろ? あれ、仕舞わないまんま放置されてたからね……貼り直してんだよ」
 やれやれ、と続きそうな溜息を漏らして、収納となっている扉の向こうにある大量のアルバムを面倒そうに見上げる。十冊以上はありそうなこの大量なアルバムの中からよくもまああんな一枚の写真を見つけたものだと感心してしまう。
「………………」あれ?
「ったく、面倒くさい。どこから抜き取ったんだか……」
「俺も手伝います」
 婆ちゃんの隣に座って、積まれたアルバムを開く。さらっとした埃の感覚に眉を潜めたが、暗がりでよく見えないのをいいことにそのまま続行する。
 もしかしたら、この中に神崎の写真があるかもしれない。もし俺と神崎が昔にここで会ったというならば、その時は俺の両親も婆ちゃんも雛乃さんも一緒だったはずだ。その中の誰かが、一枚くらい写真を撮っていても不思議じゃない。可能性は限りなく低いし、見つかったところで俺が何かを思い出すという確証なんかないけれど。
 何かが変わればいい。何かが見つかればいい。何かが戻ってくればいい。
 しばらくそうして婆ちゃんとページを捲っていたが、神崎の写真どころか雛乃さんが引き抜いた場所すらわからない。暗いせいで俺は眼球が疲れだして、婆ちゃんは腰が痛み出したらしい。
 なので倉庫の中のアルバム全てと、ぶつくさ言いつつ作業をしていた婆ちゃんの手元にあるアルバムを拾い上げる。かなりの重量に心が折れそうになるが、
「俺がやっときますよ。ついでにアルバム見てみたいですし」
「……そうかい? じゃあ任せちまうよ」
 よっこらせ、と立ち上がった婆ちゃんの腰から怪しげな音が鳴る。それを見送って、俺は重いアルバムを抱えて部屋へ戻る。案外あっさりと承諾してもらえたが、内心納得しているかは定かでない。というより、何となく見通されている気しかしない。
 どさどさと乱暴にアルバムを投げ捨てると、結構な音と埃が立った。咳き込みながら座り込んで、一番上のアルバムに触れる。表紙に積もっていた埃が、すでに汚れていた指へさらにべったりとついて、不快極まりない。だがページを捲る限りつき続けるだろうので、そのまま放置する。
「やっぱ大雑把だよな……」
 表紙に何も記録してない上、中を開いてみると撮った日付もバラバラだった。雪の日の写真と真夏の写真が同じページに存在している。婆ちゃんと雛乃さんの管理なのでもとより期待などしていなかったが、これは予想以上に骨が折れそうだ。仕方ないと腹を括って、どんどんページを捲っていく。
 ページの中に白いものがあれば逐一確認して、見逃さないよう慎重に目を通す。目が働いている間も脳は勝手に稼働する。
 俺はそれを捜し出して、どうするつもりなんだろう。神崎が明確に望んだわけでもないのに、昔の記憶を掘り出して、幸せだった世界と今を比較して、それで、……それで? おまえの母親もあの頃の俺ももういませんところで何で飛び降りたんですか、なんて尋ねるつもりなんだろうか。
 どうするかなんてわからない。ただ、俺は知りたかった。神崎がどこまでも緩く微弱に発信するSOSの意味を。神崎がいつもまっすぐに、馬鹿みたいに俺を信じきってた理由を。神崎にとって、俺は一体何なのか。
 俺にとって、俺は何なのか。
「彰?」
 部屋の入り口のほうから声をかけられて、顔を上げないまま相手を認識する。婆ちゃんと雛乃さんしかいるはずがないのだから、識別なんて簡単だ。
 雛乃さんは一心不乱にページを捲る俺と、その横で山を成しているアルバムを見て瞬きを一つ。驚愕でも困惑でもなくて、生理現象のようで無意識ではない瞳の開閉。部屋の中には入ってこないまま、襖にゆったりともたれ掛かる。
「何してんの?」
「探し物ですよ」
「えー? アタシとアンタとのうら若き思い出はそこにないぞ?」
「きっと来世にでもあるんでしょうね」雛乃さんのうら若き頃に俺はまだ誕生していなかったですから、という一言は、命が惜しいので押しとどめた。
 アルバムは一冊目の半分までもまだ行っていない。いつになったら終わるのだろうか。
 雛乃さんはしばらく俺がページを捲るのを眺めていたが、三分もしないうちに飽きたのかすぐに気配はなくなった。
 走ってもないのに無駄に音が大きい足音が遠ざかっていくのを聞きながら、畳の上に放置されて視界に入っていた携帯をたぐり寄せる。時間は午後六時半。このあとに雛乃さんは夕食を作るだろうから、それから風呂に入って続行しよう。
 出来るだけ早く、思い出してしまいたかった。出来るだけ早く、思い出してやりたかった。誰より早く、気付いてやりたい。
 神崎が、飛び降りてしまう前に。


 神崎は、飯を食いに来なかった。
「まあ予想してたけど」
 一人ごちて、アルバムのページを捲る。
 神崎が髪を結ぶあの習慣も、見ているこちらが息を飲んでしまうような危なっかしい食べ方も、あちらこちらに飛んで落ち着かない視線も、必ず少し残すコップの中身も、近かろうが危なくなかろうが夜道を一人で帰るなと言ってもそこだけは譲らない頑固さも、夜の闇に消えていく光みたいな白さも、今日は見ることが敵わなかった。
「……つーか」俺、神崎のこと知りすぎ。
 いつの間にか、こんなに神崎と慣れ親しんでいたのか。交わした言葉数こそ少ないはずなのに、密着率は高かった。それと、俺が神崎に目を向けている時間も。
 きっと神崎と出会えば、誰もがあいつを見ずにはいられない。その白さに目を惹かれて、子供のような危なっかしさと純粋さに目が離せなくなる。どれだけ苛ついて嫌になっても、結局構ってしまうし、世話を焼いてしまう。その効力は、面倒くさがりな雛乃さんが自ら家に招き入れるくらいだ。
 神崎はきっと、どこかで時間が止まっている。あいつだけが昔に取り残されてしまって、でも本人はそれに気付かないままでここまで時は過ぎてしまった。
 それを止めたきっかけは、明らかに母親の死だ。けれどそのことに神崎は気付かず、悲しいとすら思っていない。だから雛乃さんはここへ招いているのだろうが、そのことを指摘したりはしない。たとえ指摘したところで、神崎は首を傾げて終わりだろう。そういう感情が、欠如してしまっているから。
 何で俺が、そのために頑張っているのかなんてわからない。神崎の歯車を回すのに俺が必要だなんて確証はないのに、俺は必死に何かを探し求めている。
「………………」
 全部、自分のことだからだろう。
 俺が今していることは、神崎のためでありつつ、俺のためでもある。今の自分を、神崎という存在に投影して見て、ようやく色々なものが到来して。
 でも俺には、婆ちゃんも雛乃さんもいる。だけど神崎は、……神崎は今、どうしているんだろう。一人きり、この村のどこかで。俺がここに来てからは初めてとなる一人の夜を、家族のいない家で。
 柄にもなく、胸がきりきりと痛んだ。神崎が可哀想だなんて思っちゃいない。ただ、それを不幸だとも思わない神崎が、いかに一人で生きてきたかということがありありとわかってしまって、心苦しくなった。幸せを知らない神崎は、不幸を不幸だなんて思わない。幸せを幸せだとも思わない。
 結局のところ、俺は神崎を救いたいと思ってしまったのだ。分不相応にも。
 寂しいも、悲しいも、苦しいも、痛いも、嫌だも、教えてやりたくなった。神崎にとってそれが正しくなくたって、望まないことであったって。それを知ってしまったことで、神崎がこれから先もっと苦しんで、一度も見たことのない泣き顔を晒すことになったとしても。それが正しい姿であると、自分が間違っている俺だからこそ知っていたのだ。どんな結果になったって、俺は後悔なんてしない。
「あー……腰いって」
 ずっと丸めていた腰を伸ばして、仰け反った体を戻しきれず仰向けに倒れ込む。そのまま白い蛍光灯を見上げて、過剰な光量摂取で眼球が押し込まれるような痛みが到来するまで体を伸ばしきっていた。
 ……そういえば、何で神崎は今日、飯を食いに来なかったんだろう。海辺で色々吐露してしまった気まずさだろうかと考えたけど、神崎がそんなことを考えるような奴なら俺はここまで苦悩していない。
 目を閉じると、眼球の疲労が率先して睡魔を呼び寄せる。余計なことすんな、と無理やり追い払い、再び体勢を立て直す。
 すべての疑問は、明日学校で神崎に訊けばいい。
 明日は、来る。
「さてと……もう一頑張りすっか」
 肩を回す。腰をねじる。体を伸ばす。
 頑張れなくなるまで、頑張ろう。


 かんざき。……ま、しろ。


 窓から、白い朝日が差し込んでいた。
 光がアルバムに貼られている一枚の写真を照らして、ますます白さは増していく。消えそうなほど、儚く、脆く、輝いて。
 見つかったのは、朝になってだった。
 徹夜のせいで鉛を詰められたように重い体と、上からプレスされてるように痛む眼球。それらはもう動かず、こみ上げてくる何かを食い止めるのに精一杯だった。
 かたりと物音がして、部屋の入り口に雛乃さんが来たことを俺の耳に知らせる。
 雛乃さんは何かを言うわけでもなく、呻くでも嘆息するでもなく、すべて予想の範疇であったとばかりにまっすぐ俺を見下ろしているだろう。俺の目線は手元の写真に注がれているので、本当のところはわからない。
 からからの喉を震わせて、声を絞り出す。声も震えた。
「なんで、言ってくれなかったんですか」
「アタシが言ったところで、誰も幸せにはなれないから」
 雛乃さんの言葉には、迷いも淀みもない。この人は正しい。どこまでも正しい。だから、俺は泣きたくなって、どうしようもなくなる。
 俺のすべてを、否定された気分になる。
 俺が異を唱えることなんて出来るはずもなくて、雛乃さんの複雑ながらも歪みのない視線を受け続けるしかない。どうせ今口を開いたって、「なんで」「どうして」しか出てこない。
 見つけた写真には、幼い頃の俺と神崎が写っていた。
 俺は相変わらずで、今と同じく、嫌いな写真に収められて不機嫌そうで。
 神崎は。……真白は。
 真白は、泣いていた。
 今よりは短い、ただその頃からずっと変わりのないくすみのない白さの髪を揺らして、俺と手を繋ぎながら泣きじゃくっていた。
 泣いていた。
 あの頃からずっと、真白は泣いていた。
 もっと早くに気付くべきだった。
 わかってだろ、黒柳彰。
 あいつがずっと助けを求めて泣いていたことなんて、知ってたくせに。
 どうして忘れた。
 どうして忘れられた。
 俺は、知っていたのに!
「真白」
 うわごとのように、唇が勝手に動き出す。体も勝手に動き出して、鈍重に立ち上がる。制服を引っ掴んで、習性通り、顔を洗うために洗面所へと足は向く。
 神崎なんて少女を、俺は知らなかった。
 俺は、弱くて泣き虫で脆い、真白しか知らない。
「………………」
 アルバムから乱暴に写真を引きはがして、学ランのポケットにねじ込む。雛乃さんを素通りして、廊下へ出た。朝の涼しさが俺の涙腺を刺激してくる。
 何が、真白を救うだ。何が、後悔なんてしないだ。
 早速、どっちも出来てねえじゃねえか。
 俺はすべてを忘れて真白を救うどころか一人にさせて、それについて酷く後悔している。馬鹿じゃねえの。馬鹿だ、俺。
 全部思い出した。
 思い出して、俺は走り出した。
 真白を、迎えに行くために。
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