「………………」
 大惨事だった。和気藹々としていた食卓は、今は魑魅魍魎が徘徊する地獄。想像しく楽しそうであるのに変わりはないはずなんだが、うむ。婆ちゃんは酒を少しだけ啜っていい睡眠薬になったあたりで平然と部屋に引っ込んだ。
 唯一無事な一ノ瀬と目が合って、困惑の色がありありと浮かぶ。
「おい元凶」
 畳の上で寝転がっている雛乃さんの肩を揺すってみた。呻きながら水面上に意識を出したと思えば「あっひゃふぁっふふあー!」甲高い笑い声。妖怪じみてて怖かったので、すぐに距離を取った。雛乃さんの顔は赤らんで、目はいつも以上に据わっている。弱いくせに何故呑むんだ。「……、……!」
「黒柳せんぱい」
「おう、一ノ瀬か」
 あまりの惨状に、不安を覚えたのか一ノ瀬が俺の傍に座る。夜宵はそれを咎めなくて、というより咎められる状態じゃないため一種の平穏が俺と一ノ瀬の間にだけ漂うが。前を見れば、そこは酒池肉林。「……っ!」
 現状報告。雛乃さんが木葉たちに酒を呑ませて、見事なまでに全員が泥酔した。『カレーには酒』と意味のわからない持論を繰り広げて自分だってそんなに強くない(らしかった)くせに呑みまくって、そして最後には『お前らもぐいっと』と教師失格なことを言い出した。
 そして一番に木葉と由鶴が好奇心も剥き出しで呑んで、それに釣られるようにして次々と。さすがに神崎まで流された時は焦ったが。一番やばいっぽい匂いがした。だが、
「ましろ、のんだ? 真白も、のまなきゃ、だめだ、よー」
「ん」
 溶けて畳に染みこみそうなほど危うい木葉と話している神崎は、とりあえず大丈夫ぽい。頬が桜色に染まっているくらいで、目に見える「……っ」異変はない。「……!」
「とりあえず……お前はうるさい!」
 あまりにもひっきりなしに喋っているものだから、今まで脳内ではサウンドオフにして何とか無言に変換、妙に勢いのある口パクとしてやり過ごしてきたがさすがに目の前で叫ばれていては音漏れが激しい。あと一ノ瀬にも影響が出ているし、さすがに見過ごせない。
 一ノ瀬の長所をひたすら挙げ続けるというわけのわからない宇宙語を自ら発信して自ら受信という限りなく無為で迷惑な行為を垂れ流していた夜宵は、ようやくその動き回る口を止める。普段より三倍くらいは強い眼光で睨まれて、怯みかけた。
「あ? ていうか、お前誰」
「そこからかよ。……俺は、一ノ瀬今宵」
 本人が隣にいるが、嘘をついてみた。謂わば泥酔チェックのようなものだ。むしろこれで酔いが醒めて一ノ瀬を強奪しながら正気に返ってくれれば助かるんだが、
「そうか今宵か! よーしよしよしお兄ちゃんだぞー大好きだこよーい!」
「ひいぃいいぃいいぃぃいぃいいぃ!」
 めちゃめちゃ笑顔で抱きついてきた! 頬ずりやめろ! きっしょい! うわあぁああぁあぁ! どうしよう嘘つかなきゃよかった一ノ瀬助けて! 助けろ! ていうか拗ねてる!「おにいちゃん、わたしのことわからないんだ」なら今すぐ引き取ってくれこれ! 俺いらない!
「今宵は今宵だよ俺の今宵だ誰にもやらん! 俺は妹が好きだ大好き結婚してえよ法律変われ今すぐに俺たちのために今宵の幸せのために法律改変しろマジで! 俺はほわっとしててスレてなくて純粋でしっかりしてて優しくて可愛くて小さめなそうたとえば今宵のような今宵が大好きだああっぁああぁあああぁぁあ!」
「わかった! 俺が悪かったよだから離してくれ妹云々以前に俺とお前は結婚とか無理だ前見て現実見て俺の性別見て! 俺今宵じゃねえんだよ早く離せ離してくださいごめんなさい許して!」割と本気で謝っちまったじゃねえか!
 一ノ瀬夜宵の場合。こいつは一ノ瀬に手渡される酒まで呑ませまいと自分一人で請け負った結果、脳味噌がどこかから駄々漏れているんじゃないかという状態になった。わんこそばよろしくコップ空けてたからな。「ていうかいい加減離せ!」
 無理やり引きはがして蹴り飛ばすと、今度は由鶴とぶつかる夜宵。足下からじろりと由鶴を睨め上げて、入道雲を想起させる動きで立ち上がる。
 ……天原由鶴の場合。
「ロリコン兄ちゃん! あひゃっはっはぁ!」
「うっせえアルトカルシフィリア野郎!」
「何それ何語? 何かかっこいいんだけど、アルトカルシフィリアユヅルとかちょっと強そうじゃない? やばいよ?」
 いつも通りだった。少し嘘。怖いもの知らずとなって、馬鹿が加速した。
 俺は途中居間から抜け出して持ってきていた携帯をポケットから取り出して、一日ぶりにディスプレイとご対面。愛用の検索ブラウザをブックマークから出して、検索窓に横文字を打ち込んでいく。アルトカシル……違う、アルトカルシフィリア。……へー、『ハイヒールの靴などで踏まれることに快感を覚える性的思考』。……へー……つまりドMってことか。アルトカルシフィリアユヅル、マゾ由鶴。まあ的確ではあるが、頭があんなどろどろに腐ったような泥酔状態でよくこんな単語がするっと出てくるな夜宵。逆に怖い。
 今ならばド変態と呼称しても「俺は今宵です」の一言で鳥肌と共に無事を得られるだろうレベルにまで落ちぶれた夜宵は、視界から失せた俺のことはもう知らんと言わんばかりに由鶴と顔を突き合わせ一時中断していた電波放出を再開させる。
「おっまえ今宵が何で天使か知ってるか? そりゃ天使が今宵だからだよ。あ、ていうか天使ってなにかお前知ってるか、今宵のことなんだぜ凄いだろ凄いんだよ。俺はロリコンでもシスコンでもなくて今宵が今宵だから今宵のために今宵が今宵であるがために今宵だけが好きなんだよたとえ今宵が今宵じゃなくても俺は今宵が好きだ今宵だけが大好きだ早く嫁に来ねえかな今宵」
「ごめん兄ちゃんが何言ってるのか全然わからないしね、ていうか、ひゃっひゃ、何回今宵って言ったのか数えてたけどわかんない、ひゃっひゃっひゃ。兄ちゃん覚えてる?答え合わせしようよ今の。俺的には一二回なんだけどどうかな」
「ばっかじゃねーのばーかばーっか。十七回だっつのばーか! 十二回言ったくらいで今宵が今宵であることを説明出来るかよ!」正解は十四回だけどな。
 当の本人である一ノ瀬がどんな表情でいるのか気になって隣を「あれっ」一ノ瀬がいない。顔を正面に戻すと、夜宵の横に立って腕を伸ばす一ノ瀬。夜宵の手を取りその手をふんわりと握り込んで「おにいちゃん」と微笑み。お、おお? なんだこの雰囲気。もしかしてもしかすると一ノ瀬、お前今の熱弁なんかで兄のことを、
「いい加減うるさいよ、おにいちゃん」
 握った夜宵の爪の生え際、痛点が存在するそこにきつく爪を立てた。俺も昔友達にやられたことがあるが、あれは地味な割に死ぬほど痛い。案の定夜宵は悲鳴も上げずに撃沈し、追い打ちをかけかのように「えい」と可愛らしい声、一ノ瀬のえげつない攻撃がもう一つ。二の腕の皮をつまんで力を込めた。薄皮攻撃とはなかなかやるな。
「……つーか……」
 一ノ瀬も大概ブラコンだろう。今の二連攻撃の片方は戒めのためとしても、もう一発は自分が放っておかれたことへの憤慨の表れじゃなかろうか。実際その場にオムライスみたいな形で丸まった夜宵の傍から逃げてくることはしないし。もし素面の夜宵がこの現場を見たら拍手喝采歓喜感涙ものだろうに、残念だ。
「あっきらーぁ」
「はい」いかん。敬語癖がつき始めている。
 膝をついたまま畳をずりずりと移動してきたのは、見るからに酔っぱらった木葉。普段も生クリームにレモンを混ぜた感じの喋り方なのだが、酒が加わるとどろどろに溶けて粘着質なスライムみたいな声になっている。我ながらよくわからん例えだが。
「木葉、お前酔いすぎだ……」
「えー? んー、えへへ、酔ってないよーお。みんなで騒いで、ご飯たべてー、ひな先生とか岬さんまでいてー、たのしーんだってー」
「酔ってる奴はみんなそう言うんだ」
 そういえば神崎はどうした、と思って視線を巡らせると縁側のほうに出て夜風に当たっているらしかった。あいつは落ち着いてるし、とりあえずは平気か。
 それよりも木葉の酔いを何とか、「……うえっ?」泣かれた。
 視線を戻した先の木葉は、スライムを何とか浄化しようと(しているかは定かじゃない)ぼろぼろ涙を零していた。何だ俺何かしたか、と慌てかけるが、そういえば――、
「……お前、もしかして酔うと泣き上戸になるのか」
「違う、もん、酔ってないもぉぉおぉんんん……!」
 こいつは、酔っぱらいじゃないか。
 木葉はぐずぐずと鼻を鳴らし、しゃくり上げる。木葉神音の場合、泣き上戸になるようだった。プラス幼児化。
「ち、違うって、いってるの、っに……彰、あたしのこと、信じっ、て、くれないしいぃいい……! うそついてる、って、疑うのぉおおぉおおぉぉ……」
「………………」
 誰か助けて。こんな幼児俺は知らない。
 一ノ瀬に救援を求めようとしたが、夜宵に抱きつかれてまんざらでもなさそうに必死に背中をばしばし叩いているので兄妹の触れあいを邪魔するわけにはいかない。矛盾なんてないんだ。「黒柳せんぱい、見てないで、助けてくださいよー! おにいちゃん、これ、酔って力加減……いたいいたたたっ!」見えない聞こえない。決して先ほど助けてくれなかったから同じ思いを味わってもらおうとか思ってない。
 他に誰か、と見回した先には唯一酒に強そうな柊先輩。酒が気に入ったのか、夜宵並みに法律なんて知ったこっちゃないムードで酒を呑み続けている。やはり頼るべきは(変態じゃない)先輩に限る。
「柊先輩、これ……木葉どうにかしてくれませんか」
「………………」
 ガン無視された。俺の声など聞こえていませんな雰囲気で、注ぐ、呑む。注ぐ。呑む。注ぐ、注ぐ、注ぐ、……溢した。また呑む。
「……柊先輩」
 よく見ると、目の焦点が定まっていなかった。一番弱いのはこの人だったのか。
 下手したら命まで危ないと踏んで、コップを柊先輩の手元から奪い取る。それすら気付かずしばらくは酒を机に与え続けていたのだが、コップがないことにようやく気付いて手を止める。
「黒柳?」
 がしり、と服の裾を掴まれる。髪を乱したまま見上げてくる様は、背筋に鳥肌が立つほど怖い。途端に柊先輩の将来が心配になった。というわけで。柊彼方の場合、静かにキレる。
「私のだぞ? 横取りはいけねえって、習ったよな? 雛乃にも、言われて、知ってんだろ?なあ、おい」
 怖い怖い怖い! 普段の口調に巻き舌が加わって、爽やかさや清々しさなど微塵も見えず、極妻のようになっている。この人の将来よりまず先に俺の身の安全を憂うべきだ!
「彰、聞いてる? あたしね、酔ってないんだよ? ちゃんと聞いてよおおぉおぉお……お話、すればきっとわか、るっから……うええ、えぇええぇええ……!」
 背後霊みたいに木葉は張り付いて耳元で子供みたいに泣き喚き始めるし、泣きたいのはこっちだ馬鹿野郎。前から極道怨霊、後ろからすすり泣き幽霊もとい大泣き幽霊。ちらりと横を見ると、夜宵に抱き潰されたらしい一ノ瀬はぐったりと畳に横たわったままいい笑顔でぐっと親指を立ててきた。今更土下座で謝りたくなった。助けて。
 木葉の泣き声はますます甲高くなって俺の鼓膜を刺激し続けるし、ずるずると上昇してくる柊先輩は怖いし重いし。まるで四面楚歌。二面なのに。
「何してるの、彰」
 救世主。俺が柊先輩から奪ったグラスを取って、神崎が不思議そうに俺を見つめていた。透き通るような瞳は、酒のせいかいつもより混沌としてるように見えるが。
「神崎、助け……っむぐ」
 コップを口につけさせられた。中身をかなり大量に口内に流し込まされて、つい飲み込んでしまう。ついに飲酒してないのは一ノ瀬だけになった、とぐらついた脳を補正するように考える。何か考えてないとすぐに酔いそうだ。
 ていうかこいつ、もしかして。神崎も、酔ってる。
「おい神崎……」
「彰は、わたしと遊ぶの」
「え、っ……ぐ?」
 えっぐ。エッグ。Egg。卵。ちなみに俺は調理の手が施されていない卵が苦手だ。生卵、ゆで卵、目玉焼きは食べられない。けれど卵焼きなんかにしてしまえば、むしろ好物。面倒くさい子供、と母親が嘆いていたのを思い出した。
 動揺しすぎて話が逸れて頭が過去へタイムトリップ。過去と未来どちらに行きたいか問われれば、俺は即答で過去を選ぶ。未来は待っていればいつか向こうから歩み寄ってくるが、過去は遠ざかっていくばかりだ。追いかけられると逃げたくなって、逃げられると追いかけようとしてやっぱり自分も逃げてしまう。鬼ごっこでは鬼をやるより逃げるほうが好きだったし。まあ、鬼って孤独感漂うから嫌いっていうのもあったが。だからって別に未来から全力で逃走して俺を未来へ導きたければ捕まえてみろよきゃっきゃうふふをしたいわけじゃないが。
 逸れた道から更に小道へ入ってしまった。小道を走り気味に戻って、逸れた道を早足で戻って、元の道へ帰還。はいゆっくり直進。俺を押し倒して抱きついている神崎がいました。これが正しいルートである。嘘つけ。
 というわけで、たっぷり脳内で十三行使って、現実を受け止める。
 木葉と柊先輩を力尽くに引きはがして、もつれた足のままによろけて俺を押し倒して、正面というか上から神崎が覆い被さって抱きついてきていた。夜宵とは違う意味で、全身に鳥肌が立った。酒で揺れて、実際にも揺れて。
 この際木葉と柊先輩にでさえ助けを求めそうになる。けれど酒を持っていない俺には興味がないのか、定位置へ戻って誰のだかもわからないグラスを引き寄せる柊先輩と「かなたぁああいいいいぃいぃい、何で怒ってるのおぉお……あたし、なにもしてないの、にーいいいいぃいいぃい!」びわわわわ、とフルーティーな泣き声を上げながら柊先輩にまとわりつく木葉は俺など眼中にないようだった。
「ん、彰あったかい。わたしのあきらー」
 ひぃ、と悲鳴が上がりそうになる。俺の胸元に柔らかな頬を押しつけ、猫のようにすり寄ってきた。手のやり場がなくて、みっともなく空中でばたつかせる。
 神崎も例に漏れず、無言で酔いまくっていた。とろんと溶けたような目と、舌っ足らずな喋り方。やっぱり一番危ないのはこいつ。見目でわからないだけ質が悪い。
 ……ていうかこれ、正気に戻った時神崎に記憶あったら俺やばいんじゃないのか。
「か、……んじゃ、に」違う! 落ち着け俺! それは某美少年グループの名前だ! 頬を引っぱたいておいた。「かん、じゃ、ざ……かん、ざき。神崎。おい、目を覚ませ」
「目、あいてる、開いてる。彰のこと、見てるー」
「そっちの目を覚ませじゃない!」
 神崎真白の場合、……これはなんだ、甘えたか?
 衣類越しとはいえ神崎と頭の先から爪先までぴったり密着して、じんわりと熱と汗が接した部分から滲み出す。神崎も体温自体は高いようで、徐々に荒くなる息に合わせて顔の火照りもわかりやすいものになっていく。
 頭が痛い。酒が回り始めたのか、浮遊感が俺に寄生している。夢見心地という状態に陥っているんだな、と冷静にぼんやり思った。いかん、矛盾。俺酔ってる。自覚してる出来るだけ、まだマシだろ?
「彰ー、わたしともお話、してくれないと……わたし、忘れちゃうんだよー。彰、みたいに。ねー、彰ー」
「な、にが……」
 木葉のスライムにシナモンを混ぜてお湯で溶かして無理やり甘ったるいクリームに戻したような喋り方。べっとりとまとわりつくそれは、酷く居心地が悪い。酒のせいか?
 神崎は柔らかく微笑みながらも、翳りを見せた瞳に揺らぎを見せる。何だ、これ。
 途端に、記憶が巻き戻った。初日、婆ちゃんの部屋で話を聞いた日。あのとき婆ちゃんが話していた内容自体は、薄れ始めている。何だっけ、と状況に似合わず無意識にその言葉を探り始める。あの時は何とも思わなかった言葉が、神崎の大きすぎる眼球と共に疼く。
 神崎は薄い唇を蠢かせて、声と吐息を融合させながら言葉を紡ぎ出していく。吐息の割合のが多くて、今にも霧散して消えてしまいそうな儚さで。
「彰は、凄く、酷いの」
 婆ちゃんには、まず、悲しいかを訊かれた。あの時の答えと、今の俺の答えは変わっていない。むしろ歯車が止まってしまったことを理解したから、考えることすら放棄している。
 そのあとは?
「でもね、わたし、今凄く幸せ」
 いつかは理解出来る、と。何もかも上手く行く、と。そういうふうに俺は大人へなっていく、と。俺は何て思った。綺麗事だと思った。正解だ。
 けれど今実際、俺は上手く行ってるじゃないか。今までの人生をすべて凝縮しても足りないくらい、楽しいと思ってるんじゃないのか。でも俺は、まだその混沌とした塊を飲み込めずにいる。なぜなら、俺はその中に不純物があるのを知っている。何かが引っかかっているのだ。頑張って組み立てている積み木の一番下が間違っていることに気付かないまま、積み上げ続けているような。
「みんなと居れて、楽しいの。彰も、来て、くれたし」
 ああもう、神崎うるさい。頭の中に直接手を突っ込まれて掻き混ぜられてる気分だ。思考を掻き回して、歯車に触れかけるところでまた引っこ抜いて。いっそ吐き気みたいにせり上がってくる不快感。
「ねー、彰。覚えてる?」
 そう、例えるなら。俺の中で育っている塊の中の不純物の正体なんか、目に見えているじゃないか。文字通り。目の前の白い女。
 ちょうど、降ってきた時と同じ体勢でいる。俺の上に神崎がいて、俺は何も出来なくて、神崎は微笑んで。俺は何が何だかわからなくて苛立っているのに、神崎だけはすべて知っているとでも言いたげに幸せそうで。
「わたしが、飛び降りたこと」
 そう、それだよ。
 ……っあ、………………れ?
「彰は覚えてないって言ったけど、わたしは知ってる、よ。覚えてるの。彰、わたしを助けて、くれた。彰がいなくても平気だったって、本当は知ってたけど。嬉しかったの」
 あれ、あれ、あれ。おかしい。お前はそのこと、忘れてくれって。言った? ……言って、ない。言ってないんだ。俺が、勝手に。
 お前がここで、持ち出すのか? みんな、明日になって記憶がないなんて限らないのに。もし誰かが聞いてて、明日になっても覚えてて。それでお前、「何で飛び降りたの」なんて訊かれたら、どうすんだよ。なあ、神崎。答えろよ。俺だって、ちょっと酔ってるけど、絶対覚えてるんだぞ、このこと。
 神崎、お前。
「彰はいつだってわたしを助けてくれる。だからわたしは飛べるの」
 何の話を、してるんだよ。
 混乱と、焦燥。はにかむ神崎と対照的に、俺は目尻に雫が溜まるのを感じた。何、俺泣いてんの。何で。胸の痛みも鼻の奥の痛みもなくて、痛みもなしに人間って泣けるのか、って少し哲学。当たり前に、ぐらつく脳では答えなんか導き出せないけど。
 溢れはしない涙が、ただ溜まり続けていく。神崎がぼやけて、本当にあの日の再現みたいに意識がたゆたう。神崎の長い髪も空気を読んで滑り落ち、首を擽る。
「彰、泣いてるの」
 神崎の手が俺の頬を撫でる。掌だけが妙に冷たくて、それにすら泣きそうになって。俺の意識とは別のところで、何かが動いていた。
 何事かを呟こうか叫ぼうかわからないけど発声しようとしたけど、声帯は俺のコントロール下にないみたいだった。二酸化炭素を無理やり押し出しただけで、間近にいる神崎にすら届かない。
 けれど俺の喉が嗄れていることには気付いたのか、神崎がグラスを俺の口元に寄せてくれる。俺は疑いも考えもなくそれを嚥下。
「あ、え、」酒、だった。
 揺らめいていた世界は、急速に回転し出す。歪んだ神崎は泣いているように見えた。けれど本当に見えただけみたいで、一瞬だけ捉えた神崎はやっぱり笑っていて。
 俺は? ……俺は、婆ちゃんの言葉を反芻していた。
 なあ神崎。幸せも不幸も、全部ここにあるんだってよ。だからさ、訊いていいか。
 お前はそんな世界を受け入れたくないから、飛び降りたのか?
 お前の答えは、NOだったのか?
 そしたら神崎、今度は俺の答えを聞いてくれ。
 俺はまだ、答えが出せない。
 だから何も考えないで目閉じて、世界が動くままに身委ねて。
 あ、もう一個質問。一番端的で重要。
 神崎。お前は今、幸せなのか?

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -