一週間の学校生活が過ぎ、週末。
 初めて過ごすこの村での休日は、婆ちゃんと同じくらいの時間帯に起きることから始まった。休日は夕方近くまで起きてこないらしい雛乃さんに代わって婆ちゃんの作った昼飯を食べ、扇風機に吹かれながら典型的なだらだら生活を満喫していた。のだが。
 前振りは、なかった。
 居間で婆ちゃんと二人して寝転がりつつテレビを見ていたところ、呼び鈴が鳴る。ぴんぽーん、という音ではなく、びー! というブザーのような音だったのでちょっとびびった。
「彰」
「はい」
 玄関のほうを顎で指され、無言の命令に黙って従う。畳という快適な寝台から離れることには後ろ髪を引かれたが、廊下は廊下で涼しいので未練はすぐに取り払われた。ようやく間取りをすべて覚えたばかりの廊下を早足で通り、雛乃さんのビーサンを借りて玄関に降りる。
 そして扉を開くと、
「突撃! 隣の転校生ー!」
「………………」
 隣の在校生である、木葉がいた。しかも単身ではなく、俺の顔見知りを全員連れて。詳しい内訳は、木葉、神崎、由鶴、一ノ瀬兄妹、柊先輩。
「雛乃さーん、生徒が家庭訪問に来てますよー」
 とりあえず状況の判断を年長者に委ねて、廊下の奥へと叫んでみる。
「お花の中で眠っているので蕾が開くまでは起きれませーん」と、遠目に返事がきた。
「そのまま枯れてしまえ」届かないよう、小声で。
 ていうか、起きてた。飯作りたくないからって寝たふりを慣行していたのか。絵に描いたような駄目人間っぷりで今日も安心だ。
「で、何事ですか?」
「あれ? 真白から聞いてないの?」
 薄手のパーカーにデニムを合わせた木葉が、後列にいた神崎を不思議そうに振り返る。神崎はワンピースに薄いベストを一枚羽織った格好で、ぼうっとその場に立つ以外の動作を閉鎖していた。……というより、実は神崎の私服を見たのは初めてだ。他の面々も初めてなのだが、神崎の私服は想像がつかなかったから、意外と普通で女の子らしい服装に驚いていたりする。飯を食いにくる時はいつも学校帰りで制服姿だったからな。
 木葉の視線に顔を上げた神崎は、
「言うの忘れてた」
 あっさりと事実を告げる。昨日も飯を食いに来たが、シチューを貪るのに集中して忘れていたらしい。
「あ、そなの? えーとね、んとね、何だその……つまりあれだよ、遊びに行こ?」
 頬を爪で掻いて、木葉が微笑む。……微笑む? 笑顔こそしょっちゅうだが、木葉の微笑などなかなか見たことない。何だこの不自然さと違和感は。
 そして遊びに誘われているのか、俺は。今まではまず電話かメールだったから、すでに準備万端の状態で迎えに来られるのは新鮮というかもしかしたら初めてだ。予定はないから別にいいか、と頷こうとしたら、
「というわけでー」木葉が叫ぶ。「作戦B決行!」
「作戦B?」
「気にしなーい!」
 いえー、と木葉が親指を立てる。
 そしてその親指を、くいっと前に倒した。瞬間。
「はい、確保ー!」
 由鶴が飛び出てきて、抱きつかれた。
 抱きつかれた。
 抱きつかれた。
 大事なことだから三回言ってみた。ごめんあとも一回。抱きつかれた。
 鳥肌。悪寒。吐き気。
「うわあああぁああぁああぁあぁああ!」
「ゆけ、みなのものー! 混乱に乗じるのだー!」
 幼稚園児の学芸会よろしく死ぬほど棒読みな悪役もどき、楽しそうに腕を薙いだ木葉を合図に動き出す。
 まずは一ノ瀬が俺を通り過ぎて「お邪魔します」と廊下へと上がり込み、丁寧にも靴を揃えて駆けていく。当たり前のようにその無垢な背を追おうとして「お前はいらないだろ!」と柊先輩に腕を掴まれる一ノ瀬(兄)。
「何なんだよ! ていうかきもいからお前は離せよ!」
 頑丈に張り付いた由鶴が力尽くでは引きはがせず、脛を蹴り上げてみた。耳元で呻かれて非常に不快だが、効果は抜群だったようなので継続。
 すると、結構簡単に崩れ落ちた。
「っぐ……俺はもう、だめ、だ……!」
「役立たず!」
「……あれ……神音、お前、キャラが……」
「彼方と夜宵は由鶴排除してー! で、代打に真白!」
「ん」
 それぞれ言われた通りの役割を、果た、……す?
 神崎に抱きつかれた。今度は繰り返す余裕がない。
 足下にあった由鶴の抜け殻を柊先輩と一ノ瀬(兄)が茂みの中へと放り込み、そして木葉の命通りの人物が、その身を以てして俺を雁字搦めにしてくる。
 俺が文字通り動けないでいると、一ノ瀬が廊下を駆け戻ってきた。由鶴の不法投棄を終えて手持ちぶさただった一ノ瀬(兄)がここぞとばかりにそれを抱きとめる。
「もう、おにいちゃん邪魔! あ、岬さんから黒柳せんぱいの借用許可もらってきましたー!あと、鍵は玄関です!」
「おっけ。真白、そのままね! 離しちゃダメだよー!」
 一ノ瀬の報告を受けて、玄関へと上がり込む木葉。棚の上に置いてある籠の中から目ざとく一つの鍵をつまみ出した。雛乃さんが「アタシだと思って大切にしてね」とか言いつつ勝手に女子用のストラップをつけた俺の自転車の鍵。
 木葉はそれを掲げて、
「ミッションコンプリート! 作戦成功!」
「それだけかよ!」抱きつかれ損だ。前者と後者、どちらにとは言わんが。
 もう自分の役割を果たしたと理解したのか、神崎がゆっくりと離れる。顔の火照りを自覚する俺とは裏腹に、温度のない表情で首を傾げていた。何日一緒にいても神崎だけは慣れない。いちいち行動がぶっ飛びすぎだ。
「さ、行こ行こー」
「行くって……どこにだよ?」
 木葉に背を押され、自分の自転車前へとたどり着く。木葉は手にした鍵で勝手に自転車の解錠を果たす。
「それは行ってからのお楽しみー」
 木葉は自分の自転車を放置、俺の自転車の荷台に飛び乗った。最近は自転車に乗れない系女子がブームなんかね。
「……何をしてるんでしょう、木葉さん」
「行くところの地図をちゃんと覚えてるのが真白しかいないから、真白にあたしの自転車貸して先頭漕いでもらうの。だから悪いけど、あたしは彰のお世話になるよー」
「何で俺!?」
 他にも誰かいるだろ、と首を回してみる。
 一ノ瀬(兄)の荷台には一ノ瀬。まあこれは予想の範疇だ。学校の駐輪場に一ノ瀬サイズの自転車はいつだって停まっていなかったから、想像がついていた。神崎、は除外。ただでさえ自転車に乗れるということに驚いている俺なのに、二人乗りなんて一抹の不安どころじゃない。まず踏み出せそうにないし。本命の柊先輩は、荷台がついていなかった。ネジはとても小さなもので、まあまず足をかけることは出来ないだろう。
 となるとやっぱり俺しか「ねえちょっと!」いな「俺の荷台ついてるんだけど!」いらし「何で俺の方だけ見ないようにするの!?」い。外野うるせえ。
「わかったわかった、乗れ。空いてるのがないなら仕方ねえ」
「ほんと? やったっ」
「俺の声聞こえてる!? 俺の姿見えてる!? 俺の言葉はあなたに届いていますか!」
 神崎とは違って最初から横向きに乗車、掴むのは荷台と俺のシャツの裾をちょっと。やはりこれが正しい二人乗りの姿だろう。二人乗り自体正しくないという指摘はとりあえず置いておくとしての話。
 神崎も見て学べ、とか思ったらすでに凝視していた。相変わらず侘びしい表情の変化でこちらをたっぷり十秒ほど見つめてから、正面に目を戻す。木葉の自転車は若干サドルが高いのか、足が浮いてるくせに直そうとしない。
 止めようとするより早く、神崎は走り出す。


「何で普通に連れ出せないんだよ」
「こうでもしないと都会の子はお外に出たがらないかなって」
「都会の学生に全力で謝れ。確かに多いかもだが、全員が引き籠もりだと思うなよ!」
 半ば強制的に家から引きずり出された俺は、木葉を乗せたまま最後尾についていた。
 先頭を走るのは神崎で、ふらふらと危なっかしい運転をしている。雛乃さんと違って原因がわかりやすく、よそ見ばかりをしているのが遠目にもわかる。隣にいる由鶴にしょっちゅう衝突しかけていた。
 景色こそ変わらないものの学校へ行く道とはまた別で、俺の知らないテリトリーへ突入している。本当にいつか村案内をしてもらわないといけないかもしれない。駅と家と学校くらいまでの道しかわからない上、何となくで進めば間違いなく俺は遭難する。
 ふと顔を上げて神崎を見て見ると相変わらずの蛇行運転で、「神崎! ここだって! 目的地ここ!」と由鶴に呼び戻されるまで直進を続けていた。本当に地図頭に入ってるんだろうか。
 不安な神崎ナビでたどり着いたのは、
「……川?」
 道はアスファルトから砂利に変わり、目の前には小さな橋。その下には、石の間を流水が通過する小川となっていた。このあたりはいくらか住居が連なっていて、人の気配が感じられる。生活感があるって素晴らしい。
「わー! 小学生の時遊んだ、ここ!」
 俺の後ろで木葉が楽しそうに叫び、早く降りたいと言わんばかりに荷台をがたがた揺らしている。だからおとなしく乗ってろっつの。
「彰早くー!」
「待て待て、今停めっから」
 橋の根本にそれぞれ自転車を停め始めたのを見て、橋の通行の邪魔にならない程度のところに俺も自転車を停める。スタンドを立てるかどうかと言うところで木葉はもう飛び降りて、ホワイトとショッキングピンクのスニーカーを脱ぎ捨てた。スニーカーソックスも器用にお互いの足の指だけで脱いで、地面に放置。
「捨ててくなよ!」
「きゃー! 冷たそう!」
「聞け!」
 橋に放置される靴と靴下。遺書があれば完璧、とか考えてるはずもない。俺が木葉の靴下やらを処理するわけにもいかないので「あ、はい。私やりますよ」いち早く察してくれた一ノ瀬にお任せした。俺の妹をパシりやがって光線が側頭部に突き刺さっ「いたたたたマジで突き刺すな一ノ瀬(兄)」頭部に食い込む一ノ瀬(兄)の爪を叩き落とす。
「黒柳(彰)、その呼び方なんだよ」
「(兄)こそそのカッコ無駄すぎんだろ」
「お前に言われたくねえ」
 じゃあどうしろっていうんだ。一ノ瀬だと一ノ瀬と被るし。だったら答えは一つ。
「お兄ちゃん」
「どうしてそうなった」
「どうしてもそうなった」
「考え直せ」
「そうするよ」吐き気がしたからな。
 つか、普通に夜宵でいいか。一ノ瀬のこと今宵とか呼んだら抹殺されそうだし。
「わー、わー、なつかしー!」
 木葉は急斜面を裸足で滑り降り、水辺に近寄る。そして誰よりも早く川へと飛び込む。が、川の中に拳ほどある石らが無数に転がっているため、それに足裏を刺激されて飛び跳ねた。
「痛い痛い!」
「おっと」
 これを見越してか、きちんとサンダルを履いたままの柊先輩が、転びかけた木葉を受け止めた。ストレッチ素材のデニムは膝まで捲り上げられている。
「馬鹿だね、神音」
「昔はこんなに痛くなかったー! 足がちまかったから、むしろ石にフィットしてたのかなあ」
 ぶつぶつ言いつつも、結局はそのままゆっくりと小川の中を歩き出す。柊先輩は笑いながら後ろにスタンバって、いつ転んでも受け止められるようにしている。ううむ、やはり保護者。
 その間に由鶴と一ノ瀬兄妹も靴を脱ぎ終えて、というより一ノ瀬の靴と靴下は夜宵が下僕よろしく脱がせて、自分のビーチサンダルを一ノ瀬に履かせている。当たり前に大きいらしく踵は有り余っているが、確かにこれなら怪我する心配もない。
「ひょー! つめてー!」
「今宵平気か? 抱っこしてやろうか?」
「いらないってば! もう、おにいちゃん、子供扱いしないで!」
 斜面を降りるスピードそのままに川へ入る由鶴と対照的に、一ノ瀬の反論なんて何のそので抱え上げてからゆっくりと下ろす夜宵。その本人は素足にもかかわらず斜面を飛び降りていたが。
「彰もおいでよー!」
 木葉に大きく手を振られて、ようやく俺も斜面を降りる。サンダルは履いたまま川へ侵入すると、まだ水は冷たく、ここまでの運転で火照った体を急冷させていく。ふくらはぎ程度までの水かさや緩やかな流れも心地よく、若干の足場の悪さを抜きにすれば至高だった。……ていうか、これ雛乃さんのビーサンだけど、まあいいか。
「あれ、神崎は?」
 ナビ役を務めていた奴が欠員している。岸辺を見ると、ワンピースの裾をはためかせてぼうっと突っ立っている神崎がいた。ざぶざぶと水を割って岸辺に寄り、高いところにいる神崎を見上げる。
「何してんだよ?」
「んー……濡れるかもって」
 膝頭が隠れるくらいまではあるワンピースの裾をつまみ、心配そうに見つめてくる。どうにかしてくれと言わんばかりの視線をもらっているが、これは俺でも為す術がない。
 と、それに気付いた木葉が、
「だいじょーぶ! 入ってみれば多分平気!」
 根拠のない自信で、神崎の手を引く。抵抗するでも自ら入るでもなく下方からの力に一切耐えず、薄っぺらい体をした神崎はあっさりと重心を崩してしまう。自然と膝が折れ曲がって引きずり込まれ、小さな水しぶきを上げながら川の中へ座り込んでいた。浅い川と言えど、神崎の腰ほどまでがびしょ濡れになる程度は容易。
 そんな中、神崎は困るでも怒るでもなく、僅かに目を細めて、感想一言。
「つめたい」
 冷静な本人を前に、慌てふためいたのは濡れ鼠にした木葉だった。
「わーっ! 真白、ごめん! こんなつもりじゃなかったんだよー!」
「いいよ、だいじょぶ。神音は濡れてない?」
「いや濡れてないけど……じゃなくてー! これじゃあたしの気が済まない!」
 一人頭を抱えてその場で悶えた木葉は何を思ったか川から飛び出て「いたたた」学習せずに再び足裏のツボを刺激されて悲鳴を上げ、何とか斜面を這い上がる。そしてそのままアスファルトを濡れた足で駆け、川の真上にある桟橋に立つ。立つ位置とさっき一ノ瀬が揃えた靴的にもろ自殺志願者だ。
 木葉は全員の不審げな視線を一様に受け止めておもむろに目を瞑ってみせる。大きく手を広げ、ぱっと見は怪しい宗教団体。
「このわたくしの不祥事は、身を以て始末するつもりであります」そして木橋に足をかけ、身を乗り出して、「と、いう、わけ、で!」膝を屈伸、欄干についた腕をぴんと伸ばして、「ジャン、ピーングッ!」
 飛んだ。
 笑顔で橋から飛び降りた木葉を見て、神崎は水中に座ったままぼそりと。
「すごい」
「いや、凄いじゃねえから! 危ねええぇぇえぇええからぁぁああぁあぁあ!」
 何でここの奴らは何かと飛び降りたがるんだよ!
 このまま落ちたら足が痛いどころの騒ぎじゃない。ていうか下手すれば変なふうに回転して打ち所悪ければぽっくり、はなくとも、ぱっくりはいく。もういい。俺は飛び降り女の救済係としてこの村に遣わされたってことにしておけばすべて上手くいく。俺の感情的に。何言ってるか半分くらいわからない!
 というわけで、俺はまた下敷きになった。
 ていうか、単に真上にいた木葉は、二メートルほどの高さしかない橋から飛び降りて、真下の俺を踏み潰した。主に肩を。
 巻き添えにして倒れ込まれて、頭こそぶつけなかったものの、背中に石刺さる! つか水が! と文字通りに背筋の凍るような思いをしている俺の横で、川に全身を浸した木葉は二本指を神崎へと突き出すのだった。
「これで、おあいこ! 許して、ね!」
「うん」
「おい待て。おあいこじゃねーよ! 俺はどうした!」
 満面の笑みの木葉にはにかむ神崎、その二人の友情はともかくとして、だ。完全な部外者の俺が、一番水に浸っていた。全身ずぶ濡れになった俺を見て、二人は顔を見合わせる。
「彰、いたの?」
「彰、いたの?」
「ハモんな!」泣きたくなってきた。
 一部始終を見守っていた柊先輩は、耐えきれないといった様子で不意に爆笑し始めた。この人が笑いを噛み殺しているのを、実はずっと知っていた。神崎が濡れたあたりから。
「柊先輩……あなたって人は……!」
「ふは、はっ……まま、いいじゃないか」
 逆流をもろともせずに歩いてきて、柊先輩は川の水を手酌で掬う。それをひとすくいごと、神崎、木葉、俺とかけて、はてなマークを飛ばす俺ら三人へ、
「ほら、これで私が全員にかけたことになった。だからおあいこだな。そんで最後は、」
 髪を解き、石へ注意を払いつつも川の中へと仰向けに身を投じる。頭の先から爪先まで全身水を滴らせた柊先輩は、濡れて額に張り付く前髪を掻き上げながら笑う。
「私も、おあいこだ!」
 男前すぎた。
 うっかりときめきそうになった。乙女目線で。
「さて、と」
「ここまで来たら、全員濡れるしかないよねー……?」
 俺たちずぶ濡れ組の視線は残りの三人へ。素知らぬふりで一ノ瀬を庇う夜宵はとりあえず保留にして、一人の馬鹿。俺と神崎で目を合わせ、二人で頷き合う。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
 何故だか謝り倒す由鶴をあっさり捕獲、水の中へと沈めた。神崎は小さな微笑みで由鶴の足を引っ掴んでいるため、仲間サイドであるはずの俺すら恐怖を感じた。
「こら逃げるな夜宵ー!」
「神音、挟み撃ちだ。私はこっちから!」
 すると、一ノ瀬兄妹側を担当していた木葉と柊先輩が手間取っていることに気付いた。見ると、夜宵は妹を抱えて全力で逃亡している。誘拐犯みたいだった。
「ちょっと、彰たちも手伝って!」
「おー!」
 アスファルトのほうまで濡れ足を侵入させ始めた夜宵を捕獲するため、藻屑となり果てた由鶴を放置して追いかける。夜宵が女児誘拐事件の犯人として通報されないためにも、迅速に捕まえなければなるまい。
 いつもなら兄を咎める一ノ瀬も、今回に限っては楽しそうに「おにいちゃんもっと早くー!」「仰せのままに」と主従ごっこを堪能していらっしゃった。鬼ごっこと勘違いしていないか。
「今宵を手に入れたくば俺を倒してからにするんだな! まあそれでもやらんが! 死んでも今宵は離すまい!」「気持ち悪いこと言ってないで真面目に走っておにいちゃん!」「彼方、やばい、夜宵速いって! 何これ何でこんな速いの!? 今宵ちゃんパワー!? しかないよね!? 追いつけない!」「私が進行方向を塞ぐから、お前たちで確保してくれ!」「でも、今宵も逃げる可能性あるよ!?」「じゃあ俺が一ノ瀬捕まえ……たら、通報されて夜宵と同じ末路辿りそうだな! 神崎頼む!」「ん、わかった」「ていうか待ってよ、俺だけ置いていかないでよ! 今おばちゃんに『大丈夫? 溺れたの? トマト食べる?』って心配されちゃったよ! 最後の何!? そんなに俺トマト顔!?」「どっちかっつーと今のお前河童だぞ!つか怖いから来んなよ! 天パのせいで、髪がわかめめいてて怖えんだよ!」
 叫び散らしながら疾走する俺たちを、ほのぼのとした家族が「元気だねえ」と細い目で見守ってくれる。東京だったら即110番だろうに。
 その圧倒的なスピードですぐに一ノ瀬たちの前へと躍り出た柊先輩は、ターンをして進行方向に立ちふさがりつつそちらからから再び走り出す。逆方向に構える俺たちを見て、夜宵は再び川のほうへと滑り降りた。俺たちも当然追おうとして、
「と、っと……!」
「わ……」
 結構な段差がそこにはあったため、柊先輩を除く女子群が一瞬怯む。が、「大丈夫、神音降りて!」「来い、神崎!」由鶴が木葉、俺が神崎と手を取って飛び降りた。何も考えていなかったため、お互いに接触を恥ずかしがる暇もなかった。一瞬で分担が出来たことには突っ込むまい。それよりも今は、夜宵を沈めるほうが俺たちには重要事項なのだ。そういうことにしておこう。
「……そうだ!」
 飛び降りで足が痺れたのか、その場で足踏みをしていた木葉が口角を上げて俺と神崎の肩を叩く。手招きされるがままにその口元へ耳を寄せて、その作戦なるものを耳打ちされた。それにしても作戦が好きだな、こいつは。
「まあ、でも……」
「おっけ?」
「わたしはおっけー」
「よし行くか」
「え、なに? 何事?」
 一人だけ耳打ちのされなかった由鶴は、不思議そうな、悲しそうな顔で首を傾げている。そんな由鶴を見て、俺たちは微笑む。大丈夫だ、お前が一番活躍出来る。
 そして、その両足を三人で掴んだ。
「え」
 十分に安全なことを確認して、その体をぐるぐると振り回す。右足は俺、左足は女子二人。由鶴は状況を理解していないのか、ぽかんとしたままだった。
 好都合、とばかりに俺は少し先にいる柊先輩と一ノ瀬兄妹を確認する。
「柊先輩! よろしくお願いします!」
「え? ……ああ、なるほど。オッケー、準備万端だ!」
 俺たちを見て一瞬で状況把握をしてくれた柊先輩は、またも(存在しないはずの)乙女心を擽る笑顔で親指を立ててくれた。すぐに走り出して、川へ入り込んでいた夜宵の正面を妨害、陸地への急ターンを仕立て上げる。そしてターンしたと同時、再び夜宵の正面へ回り、柊先輩はその場にしゃがみ込む。
「……っな、な、なな……なに……っ!」一人、由鶴の悲鳴。
 柊先輩が身を低くし、夜宵がこちらを向いた一瞬が狙い目、「いっせーの……」照準を定めて、「せえぇっ!」思いっきり、由鶴をぶん投げた。
「……っ!」
 まっすぐに飛んでいったそれに素早く反応したのは、一ノ瀬。抱えられている状態から身を縮こまらせて首を引っ込めて、足に力を込める。木葉の予想通り。ナイスだ、一ノ瀬。
 俺たちは由鶴を手放した瞬間に走り出し、柊先輩や一ノ瀬兄妹の向こう側へと向かう。
「……あ?」
 そのことに反応出来なかったのは、俺たちの狙い通り兄のほう。由鶴の図体を正面から喰らって、後ろへと傾いた。その瞬間に一ノ瀬は兄の腕を踏み台に、前へ飛び出す。それを柊先輩が抱え、一ノ瀬を川に抱えたまま浸ける。後方へ倒れた夜宵と、一緒に重なっている由鶴は俺たち三人で支える。
「………………」
 夜宵は動かない。あの夜宵が後生大事にしている妹を不覚にも手放すほどの衝撃だったのだろう。だが、誰も同情の目は向けなかった。そして二人を、遺棄よろしく川へそっと捨て置いた。
「ミッションコンプリート!」
 景気よく声と手を上げる木葉の掌に、屍二人以外でぱちんと手を叩き合わせた。河童と融合している男二人は見て見ぬ振り――こちらだけは爽やかに行こうぜ、と口々に歓声を上げる。
 すると、
「神音ねーちゃんたち、いいぞー!」
「兄ちゃんかっこよかった!」
「青春ねえ……」
「ほどほどにしときなさいよ、木葉ー」
 いつの間にやら、道端や橋の上、そこらにギャラリーが集まってしまったいた。橋から身を乗り出して拍手を起こす小さな子供、しみじみ見つめる老夫婦、心配はしてなさそうな笑顔で忠告を促してくれる近所のお姉さん。
「いえー、どうもどうも!」
 小慣れたふうに手を振り返す木葉。俺と目が合うと、恥ずかしそうに目を細めて笑う。それに釣られて俺も軽く笑った。
「しょっちゅうか?」
「うん、名前も覚えられちゃったー。白野沢の悪ガキとして有名なのです、あたし」
 ピースサインを突きつけられる。木葉のコミュニケーション能力は推して知るべしなのだが、学校外までとは思わなかった。しかも多分この人たちは通りすがりなだけであって、木葉たちも毎回ここに来ているわけでもないんだろう。
「すげーな、お前……」
「そんなことないよ、彰にだって出来る出来る。きゃーきゃー騒いでたら呆れられちゃっただけだしねー!」
「いや……俺には無理だろ」残念ながら俺のコミュ力は高くない。
「そんなことないよ、ほら」
 木葉は俺の腕を掴み、高く掲げ上げる。されるがままの俺の手を操作して大きく振り、大声。
「白野沢に引っ越してきた黒柳彰! これからよろしくお願いしまーす! 黒い柳に彰で、黒柳彰をよろしくお願いしますー!」選挙かよ。当たり前に、それじゃ漢字わかんねーよ!と笑い声混じりの突っ込みが飛んでくるが。
「彰兄、覚えた! よろしくなー!」
「黒柳も木葉も、遊んでばっかいないで勉強しなー!」
 あとでー、などと軽く返しつつ、木葉は俺にも笑いかけてくる。簡単でしょ、と囁いて。
 俺の名前が一瞬で浸透して、気恥ずかしさから血液が頬にじわりじわりと集まってくるのがわかった。それに加えて、人付き合いってこんな簡単だったっけかと少し考えさせられた。
 白野沢に来てから忘れかけていたが、東京にいた頃俺はこんなに笑わなかったし声を張り上げることもなかった気がする。何となく周りに合わせて、意見も同調させて、まあいいや、を切り札に生きてきた。そして何より記憶から消えかけているのは、両親の死。夜中、布団に潜り込んでから少し思うことはあったものの、そう深刻に考える時間はまだ来ていない。婆ちゃんが一番最初に俺へ告げた言葉も、まだ理解は出来ない。
「………………」
 歯車は回っているのかと聞かれたら、確かに回っている。順調に、軋みなんて一つもない。ただそれは、前に動いていたものではないんだろう。新しく作られた『白野沢』という歯車が回り始めただけの話で、今まで動いていた『過去』の歯車はもう止まっている。別にそれでいいやと諦められるけれど。どうせろくなものでもない。
 さーて、どう締めようか。
 古から日本は、困った時は天気の話と趣味の話。残念ながら俺は無趣味である。お見合いには向かない。よって、答えは一つ。爽やかに綺麗に纏めてみようか。
 歯車の回った白野沢の空は、今日も青く晴れ渡っている。


「何でここに来るんだ?」
「雛乃さんが普段より渇望してる若さのお裾分けに来たんですよ」
「わーいすげーや吸引して干からびさせてやりたーい」
 わーいすげーや目が死んでる。若さより先に生気を吸い取られそう。
 びしょ濡れの俺たちは正面玄関で門前払いを喰らったので、裏の縁側で水気を拭き取っていた。そしてついでに生命力も雛乃さんに強奪されそうになっているが。
「やー、人数的に彰の家くらいしか入れないかなーって」
「近かったしな」
 さすが女子というべきか、木葉と柊先輩は婆ちゃんからもらったタオルで丁寧に髪を拭いている。一番髪の長い神崎がごしごしと豪快に掻き回しているのが少々気がかりだが。本人は髪の質なんて気にしていないんだろうな。
 ぶる、と頭を振るとまだ水滴が少し飛んだ。雛乃さんに顔をしかめられたので、タオルドライを続行。
「ま、いいじゃないか。こんだけ連れ込む奴が出来たのはいいことだろうよ」
 今台所で何事か作業をしている婆ちゃんは、全身ずぶ濡れで揃って帰宅してきた俺たちを寛容に受け入れてくれた。対照的に、雛乃さんは悲痛そうに眉を寄せる。
「そうは言ってもねばーちゃん、何か出せるものって言っても今日はスイカが一個しかないんだよ。アタシのぶんなんだよそれ」
「もう切り分けたよ、馬鹿娘」
「何てこったい!」
 婆ちゃんの手によって綺麗に切り分けられたスイカの盛られた皿が縁側に置かれて「よっしゃー!」と由鶴が飛びつくが、雛乃さんに蹴り転がされる。「これはアタシのもんでアタシだけのもんなんだ!」「あんたそれでも教師!?」「プライベートの雛乃たんは少々アグレッシブなもので。ほほほ」スイカを噛むと果汁が溢れて甘かった。蹴られた。「お前は何で食ってんだよ!」「木葉たちも食べな。ヒナは放っとけ」「ばーちゃんそんな殺生な! これアタシのスイカなのに!」「残念ながらこのスイカは私が年金で買ってきたんだよ」
 スイカの所有権がはっきりしたので、遠慮なく果肉を歯で齧り取る。前述した通り噛み砕いた途端に甘味が舌を刺激して、効率よく水分と糖分の摂取が認められて心地よい。あえて言うならば視界の端で「独り占めしないのでアタシにもスイカ食べさせてください」と頭を下げている愉快な叔母を見てると口内の果実が噴出されそうってだけだ。
 だいたい全員が体やら髪やらを拭き終えたのか、どんどんと縁側へ乗り上げてスイカを堪能し出す。ただ一人、縁側に座った一ノ瀬の足の指先まで綺麗に拭き取ってるロリコ「いたっ! 何で叩かれたの俺!?」「諸事情。気にするな」由鶴によって強制削除されてしまったが、夜宵がまだ丁寧に一ノ瀬へ付着する水滴を拭っていた。
 婆ちゃんが置いてくれた扇風機に身を委ねて、自然乾燥を待つくらいの適当さで済むのは野郎共くらいなものらしくて、下僕が控える一ノ瀬と髪先から未だ水滴を滴らせているのを気にもしない神崎以外はきちんと髪を乾かしていた。ていうか神崎はまだびしょ濡れのくせに拭かなすぎだ。
「こら神崎、床濡らしてる」
「ん?」
 手を果汁でべたべたにしながらちまちまと果肉を砕いていた神崎は、ようやく自分の髪が廊下に滴っていることに気付いたらしい。特に急ぐ様子もなくのんびりと髪を掻き上げて、「あーあー! その手で髪触るな!」神崎のキャンバスみたいな髪は、触れたところから赤い果汁色に染まってしまう。
「何やってんだい、神崎は……もういいからあんたら全員風呂行ってきな。いくら暑いってもそのままじゃ風邪引くよ」
 婆ちゃんが神崎を見かねてか、近くの棚から新しいタオルを纏めて引きずり出す。それを畳の上に放り、自分もスイカを一切れ手に取る。
 婆ちゃんの提案に対しての遠慮は大してないようで、というより反応からしてこのくらいは日常茶飯事だと言わんばかりに『誰から行くよ?』と木葉たちは顔を見合わせている。だが神崎をこのまま放置しておけないと踏んだのか、率先して名乗りを上げたのは柊先輩。
「じゃあ神崎、私と一緒に入るか」
「ん? ……ん」
 子供のようなスイカの食べ方をしていた神崎は素直に頷く。が、食べかけのスイカを持ったまま立ち上がろうとしたので、柊先輩と俺で諫めて五分かけて食べ終えさせた。満足そうな神崎の手を引いて「それじゃあお先に」と柊先輩が苦笑で廊下へ消える。
「じゃああたしはあとで今宵ちゃんと行こっかな? 今宵ちゃん、あたしでもいーい?」
「もちろんですよー。お願いしますね、木葉せんぱい」
「今宵、俺がいなくても頭洗えるのか? 洗ってやろうか?」
「洗えるよ……っていうか、毎日洗ってもらってるみたいな言いかたやめておにいちゃん!おにいちゃんは黒柳せんぱいか天原せんぱいと入ればいいんじゃないの?」
「「「絶対やだ」」」おや、珍しく男三人の気が合った。俺たち三人は女子の結束力と反比例するかのような仲の悪さだからな。
 それを「おお、息ぴったり」「仲良しさんですねー」とか評せる女子の脳内は野郎にはよくわからないな、わかんないね、わからんな、と顔をつきあわせて頷き合う。
 二つめのスイカに手を伸ばしながら、心地よい疲労感と涼しさに足を伸ばして体すべてを床に預ける。というより寝そうだ。昨日も夜中まで部屋の片付けをしていて、なんだかんだで睡眠は足りていないような気がする。気を抜くと本格的に眠りへ落ちそうなので、無理やり体を稼働させた。
「そういえば、何で今日川だったんだ? 他にも遊べるようなとこはあっただろ」とりあえず口。
「あ、それなんだけどね。真白が行きたいって言い出したんだよ、あそこ」そして耳から木葉の声を取り入れる。……神崎が?
 ゆっくりと落ちていく瞼には抗えない。壁に貼り付けた背中が濡れたシャツのせいでずるずると滑って下降しているのだが、座り直す気力もない。
「何かね、昔行ったことあって、また行ってみたいーって。最初は彼方んちの駄菓子屋さんとかも考えてたんだけどね?」
「へー……そのくせ迷いかけてたよな……」声が微睡んでる。自覚あり。
「そうそう。でもあたしとかも行ったことはあるから辿り着けてよかった。っていうか、ここってそんなに遊び場ないからあたしらが行くようなとこはみんな知ってるんだけどねー」
 木葉の声がぼやけてくる。自分では瞼を押し上げられなくなってきた。意識が沈殿していって、やばい、マジで寝そう。
「でも真白が言うには、」
「ヒナ、あんたの服出しといてやんな。また濡れた服着せるわけにはいかないだろ」
「……アタシが?」
「あんたが。早く行きな」
 木葉の声は途中でかき消される。雛乃さんがずりずりと横着に畳を這うような音が聞こえて、五秒も保たずに「……めんどくさ」と立ち上がる。最初からそうすればいいのに。
 ていうか、神崎が何なんだろうな。……とかまあ、また神崎のこと考えてるし。
 沈んでしまえ、と願ったら本当に沈んだ。おやすみなさい。


『こういうの、やめたほうがいいと思う』
『だって、またはもうないんだよ』
 ……何だ、この夢。
 つか、ああ俺やっぱ寝たんか。俺も風呂入らなきゃいけないはずなんだが。
 ていうか結局、神崎が何だったんだろうな、あれ。
『このまま、何もかも』
 声が頭に直接響いてくる。鬱陶しい。
 俺はこんなファンタジー色の強い夢を見るフラグなんて建設したことはない。ていうか、どっかで聞いたことある声だ。
 それも、つい最近。
『何を残せるの?』
 浮上。沈没。浮上浮上、沈没。記憶、意識、感情、夢、現実。すべてごちゃ混ぜになって、俺の覚醒しない脳内を責めるように揺らす。
 視界(目を閉じているのだが)が白く染まっていく。気分的にはブラックアウト、視界的にはホワイトアウト。だから目見えてないっつの。
 塗りつぶされて、塗りつぶされて、消えていく。
 声は、ぼやけて。
「大丈夫大丈夫、どんどん撮っちゃえ。こんな機会滅多にないだろうし」
「ていうかこれ夢じゃねえな!?」
 カムバック、アンニュイ。


「あ、起きた」
 覚醒して一番に、気怠い体を叱咤して体をバネ仕掛けのように勢いよく起こした。ぶつかった。寝惚けと相まってまた意識が遠のきかけた。
 真上で俺の寝顔を凝視していたらしい神崎に全力でヘッドバットをかまして、今度は本当に脳が揺さぶられる。神崎は少し目を瞬かせたけれど、そこまで痛がる素振りは見せない。どんな石頭してんだ。
 開眼一番畳に伸びた俺を、六人が囲っていた。内訳は省略。材質が粘土へ変化したように重く鈍い瞼を無理やり持ち上げると、全員が上気した肌で見るからにいい湯に浸かったあとらしかった。首を動かして時計を確認すると、げ、二時間も経ってる。
 俺はばりばりに乾いてしまった髪を手で確かめながら、もしかしたら意識がないだけで風呂には入っていたんじゃないかという淡すぎる希望を自らの手で打ち切った。まあこれで俺のほかほか風呂上がりだったら逆に怖いが。
 さて、と。
「さあ、デリートのお時間だ」
 きっと多分絶対に主犯であろう木葉に手を差し出すと、わかりやすく目を逸らされた。先ほどの言葉がすべて夢でないとすれば、結構な枚数の寝顔を俺は記録されている気がする。
 木葉が手にしているのはそれなりに古くそれなりに新しい微妙な世代のデジカメで、写メかと思っていただけにちょっと拍子抜けした。そういえばこいつらが携帯を扱ってるところを見たことがないが、もしかして誰も持っていないのだろうか。いくらこんな田舎といっても今時の学生が携帯を持っていないというのはかなり希少だが。
「第一、誰のデジカメだよそれ……」
「ひな先生が率先して貸してくれたー。言い出しっぺひな先生だし」
「おい親族兼教師!」
 俺の視界に雛乃さんは映らない。その代わりに婆ちゃんが台所から顔を覗かせて「ああ起きたのかい」と割烹着姿をお披露目する。
「カレー作ってるから彰もさっさと風呂入っておいで」
「え、ああ……はい」
 ぐらぐらする後頭部を押さえ、自分で自分を支えながら上半身を起こす。縁側の床板はじっとりと湿ってしまっていて、そういえば濡れたまま寝たんだったと再確認。畳の上じゃないだけまだよかった。
 身を起こして、伸びをして、眼球をぐるりと回す。と、同時にひん剥いた。
「………………」
 由鶴と夜宵は、雛乃さんのTシャツとジャージがぴったりだったようで、素っ気ないスタイルのよさも働いて不自然はない。動転しすぎて羅列順序と優先事項を間違えた。こいつらはどうでもいい。問題は女子だった。
 神崎は平然と、木葉はむしろ自慢でもするように、柊先輩は目元を朱に染めて,一ノ瀬はむしろ長すぎてワンピース状態。Tシャツ一枚きりの姿でそこに鎮座していた。
 俺はこんなイベント発生をしたつもりはなかったぞおい雛乃(さん)。
 座ったまま、ずりずりと尻で後ずさる。柊先輩はますます朱色を濃くしたが、神崎と木葉はむしろそれを面白がるように四足歩行で躙り寄ってくる。
「えへへ、彰ー。嬉しいでしょー、どきっちゃうでしょー?」
「……むらむら?」神崎は棒読みだった。雛乃さんあたりに仕込まれたな。
 柊先輩はもっとも正しい反応で、女子四人の中では一番身長があるせいかシャツの短さもかなり危うい。裾を押さえ、髪をしきりに触って落ち着かない。俺も落ち着かない。
「ひ、雛乃に何でもいいからジャージか何かを貸してくれと頼んだんだが……男子のぶんしかないと言われてしまってな。ジーンズは一本しかないと言うんで、私だけ穿くのもあれだから、な、ほら」
「そう、ですよねー……あは、はー……」
 何でこの状況で由鶴と夜宵は平然としてんだよ! 夜宵はアレ(言及はしない)だからだとしても、由鶴、おい! 健康な男子高生だろ!
「今宵ちゃんのシャツ長げー……先生とどんだけ身長差あんだろ」
「えへへ……でもちょっと長いですよね、やっぱり」
「それ逆に長すぎて邪魔じゃない? 俺輪ゴム持ってるよ、結ぶ?」
「言い訳つけて今宵の素足に触れようとするなこのド変態ロリコン野郎!」
「兄ちゃんに言われると凄く負けた気しかしないんだけどどうしたらいい!?」
 由鶴は一ノ瀬のほうに釘付けらしかった。「何か今凄く失礼な視線を彰から感じた……」由鶴うるさい。お前までチートにならんでいい。まあ冗談はともかくとしても、何だ、慣れてるとでも言いたいのか。由鶴の分際で。
 そして一ノ瀬は長さ的にともかくとしても、木葉と神崎はもっと柊先輩を見習え。こいつらに恥の概念はないのだろうか。神崎のいっそ青白い肌と、ほどよく焼けた木葉の肌。どちらも堂々と蛍光灯の下に君臨しているが。
「つか、何でそんなくつろぎムードな格好なわけ。もしかして飯食ってくんか」
「うん!」
「岬が、いいって。雛乃も、……いいって」若干の間。雛乃さんは何らかで渋ったな。どうせご飯の取り分が少なくなるとかそんなんだろうが。
 よし、よし。このまま離脱しよう。中腰まで復活して、廊下方面へと後退していく。その途中、俺が服を貸せばいいんじゃないかと思い当たって、「ていうか、俺の服をだな……部屋に、取りに行け。好きにとってってて、いいから」動揺の余韻で噛んだ。ついでに足も回らない。
「そうかじゃあちょっと失礼して借りるぞ黒柳ありがとうなもしあれだったら洗濯して返すからそこは安心しろちょっと行ってくる」
 最速で舌を回して、柊先輩が俺の発言から一秒待たずに居間を飛び出して行く。部屋の場所も何も告げていないというのに。廊下を音もなく空気だけを揺るがせて疾走していく。うむ、人目から逃げられればよかったらしい。何度も言うがあれが正しい。
「えー、暑いからこのままでいいんだけどなー。ね、真白ー?」
「ん。……男の子の部屋、入ったことないし」
 こっちがおかしい。後者に至っては恥じるべきところが違う。頬を染めるな小声で囁くな!
 それでも俺が全力で叱咤すると渋々ながら立ち上がって、裾を意識することもなく小走りで廊下へ出て行った。一ノ瀬も誘導するべきか迷ったが、それこそ俺のズボンなんて穿いたら裾を踏んで転びそうだ。あとすでに『お前の肌に触れたものを今宵に穿かせるなんて拷問させるわけねえだろうなあ?』な視線を飛ばしてきている兄が怖い。
 目にいい意味で毒というか眼球が痛いというか心臓に悪いというか総じてみればいいこととは思えない事態の処理をようやく終えて、俺も風呂場に向かう。カレーのいい匂いが漂い始めているから、急ぎ気味に入らなければいけないだろう。
 途中で女子三人と会わないか今度は悪い意味で心臓に早鐘を打たせながら、当たり前のように夕食時まで滞在しているクラスメートというものに違和感を抱かざるを得ない。しかも女子付き。長年連れ添った仲間でもこうはいかないだろうに、出会ってまだ一週間も経過していない。田舎すげーなと感心するべきなのか、俺すげーなと陶酔するべきなのか、木葉たちすげーなと正答するべきなのか。もちろん正答。
 かなり風呂場に近づいて、俺の部屋の位置的にもう女子とは出会わないだろうというところまで来てから、シャツを脱いだ。実は元々の湿りプラス寝汗で肌に張り付いてかなり気持ち悪かった。俺の着替えは脱衣所の棚に入れてあるから大丈夫だ。
「あっつ……」
 脱衣所の扉を開けた途端、今まで何人も入ってきたからか熱気で満ちあふれていた。すぐさまズボンも脱ごうかと思ったが、先にシャワーを捻って湯になるまでに脱いで時間短縮しようと横着なことを考えて扉を開けて、
「………………」
 トラウマと目が合った。
 湯船に入っていてくれて助かった。蓋が半分ほどは閉められて蒸しサウナ状態になっててくれて助かった。色の濃い入浴剤が入っていてくれて助かった。俺がすべて脱ぎきる前で助かった。でも人生で最大の汚点は出来た。
 雛乃さん、絶賛入浴中。
 予期せぬ覗き魔となった俺はその場で硬直して、扉を開けた姿勢のまま雛乃さんの大して驚愕もしてないような寝惚けた目と対峙し合う。湿気で睫毛が重くなってきたあたりで「ちょっと、寒いんだから閉めて」と至極真っ当なようで正しくない指摘が来たので「あ、すいません」とおとなしく扉を引き戻して。
 絶望した。その場にしゃがみ込んで、まだ昼間の余韻が残る湿ったジーンズの膝に鼻を擦り寄せた。泣いてない。ジーンズを新たに濡らしてなどいない。
 風呂場の中からぼんやりと輪を描いたような声が、面白そうに弾んで届く。
「年頃の娘を彼シャツ状態に仕立て上げてやったっていうのに、それでも叔母の覗きとは……欲求不満の男子こえー」
「誤解です曲解です誤認です! ていうかあれやったのやっぱりわざとかあんた!」どうも出来すぎだと思った!
「仕事以外でほとんど外に出ない女を舐めるな。ジャージとスウェットをいくつ持ってると思ってんだ、足りないわけがない。故意に決まってるだろ」
「あんたは人間として最低だ!」
 言ってから気付く。今の俺はそれを言える立場ですらない。雛乃さんはそこまで計画だったと言わんばかりに含み笑いを溢して、たっぷり時間をかけて高笑いへ変更していく。雛乃さんの爆笑。貴重なのに有り難くない。
「いやー。転校初日の遅刻に教室への乱入、ハートの上履き、神崎へのご奉仕強要、クラスメートへの弁当恐喝……そして覗きと。お前の弱みも増えたな」
「九割あんたのせいですけどね!」
 人の神経をピンポイントで逆撫でどころか搾り取っていくような笑い声が響いて、俺の心には大きな傷痕がついたのでした。一つ弁明しておくと、何も見ていない。
 トラウマが、また一つ増えた。


 湯加減は最高で、気分は最悪。足が重い。
「おかえりー」
 風呂から上がって居間に戻ると、すでにテーブルではカレーが湯気を立てていた。夏野菜カレーのようで、ナスやらカボチャやらが意図的に大きめのサイズに切られてごろごろと転がっている。
 女子たちもきちんと俺のジャージを下に穿いていて、裾を何度も折り返した大きすぎるそれはそれで色々と心打たれるものはあるのだが、ごほん。そしてそれを理解しているかのようににこにこ笑いかけてくる木葉と、生ぬるい笑みを貼り付けて俺を凝視してくるトラウマ。目を合わせないようにした。
「お待たせしました」
 髪を拭くのもそこそこに肩にタオルをかけ、ぽっかりと空いた一席へ腰を降ろす。トラウマと由鶴の間、神崎の向かい。柊先輩にでも世話を焼かれたのか、神崎の髪はさらさらに戻っている。
「いただきます」
「いただきまー!」
 それぞれスプーンを手に取って、ご飯を崩す奴、野菜をまず食う奴、掻き混ぜる奴と様々に食事を開始する。神崎はやはりまた髪を結ぶ作業。
「神崎、袖も」指先しか出ていない袖がカレーに付きそうだったので、惨事が起きる前に指摘。
「ん」差し出してきた。
「……俺がやれってか?」
「ん」
 会話をしろ。神崎の癖でもある中途半端な首肯。やっぱり無口ってわけじゃないけど、何となく寡黙っていうか引け気味なんだよな、こいつ。人形みたいって例えれば綺麗かもしれないけど、だとすれば神崎だけ他の人形よりも一段高いところに座ってるような。何をするにも、違う場所から。それは神崎の意志なのかどうか知らないが。
 温暖も寒冷もなく、ただ音も色も温度もない表情と声。それが神崎のとっての普通。揺らぎはある。けれどいつだって、瞳だけは迷いがない。どこを一直線に信じて見てるんだろうな、神崎は。
「ほら」
 三回ほど折りたたんだ袖を解放してやると、また「ん」。米山をスプーンで切り崩して、子供のように危なっかしい手つきで口に運ぶ。今にもぼとぼと溢しそうで怖い。
「彰、お母さんみたいだよねー」
「神崎せんぱい見てれば誰でもはらはらしますよー」
 くすくす、と木葉と一ノ瀬が意味深に笑い合う。俺と神崎の動きはシンクロして、首を横に倒して顔を見合わせる。
 傾けた拍子に、結んだ神崎の髪がコップにつがれた氷水へ浸かった。
 結んだ意味ねーじゃねーか!
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