神崎と二人きりになった。
 いや、半分嘘。でかい物体が横たわっている。
 婆ちゃんは再び惰眠を貪るため自室へ、雛乃さんは片付けを終えるなり居間の畳の上で夢の世界へ旅立った。二度と戻ってくるな。
 神崎はテレビに目をやりながら、適当に結わいたせいで癖のついてしまった髪を手で梳いている。その周りだけ発光しているような美貌を持つのに、どこか薄幸な雰囲気を纏うのは何故だろう。……いや、ダジャレじゃなくて。
 所在なく麦茶をつぎ直したグラスをずっと握っていたため、右手がびしょ濡れになっている。それを離してしまうと、行き場のない手だけが取り残された。
「………………」
 空気が重い。
 神崎は気にも留めていないようだが、テレビの音と雛乃さんの寝息だけが場を占めるというのは俺の精神状態的に非常によろしくない。
 指でテーブルを打つ。机が濡れるだけだった。
「ねえ」
 びく、と肩が揺れる。状況を打破したのは神崎からだった。神崎の打開は望めなかっただけに、安堵が胸を占める。
 このまま、昨日今日の重い記憶を埋もれさせてしまえばいい。神崎が望んだように、俺も神崎も忘れるのだ。神崎が降ってきたことも、神崎がそれを口止めしようとしたことも。
 だから俺はなるべく明るく返答して、
「なんだ?」
「今日、訊いたことなんだけど、ね」
「………………」
 そっちが持ち出すのかよ、と顔を歪めた。
 神崎の思考は読めないにもほどがある。何も言うなと念を押してみたり、掘り返してみたり。救援を求めようにも、でかい木偶の坊が一つ転がっているだけだ。
 なのに神崎は、
「あれ、ほんと?」
 縋るような目で、じっとりと俺を金縛り状態にしてくる。透けるような神崎の瞳に捉えられると、抜け出せなくなる。手を差し伸べてもみたくなる。
 俺があの時、とっさに手を伸ばして神崎を助けてしまったように。もし困っていた時は、何とかして救い出してやりたくなるのが神崎だ。だから俺は、理不尽な神崎の願いを叶える。言及はせず、見守る。
「本当に、何も覚えてない? わたしのこと」
「ああ。嘘はつかねえよ」
「……そう」
 神崎の微細な表情の変化には気付いた。何でお前がそんな顔すんだよ、と僅かながらも苛立ちが満ちもした。助けたくなるけど、苛つく。それが神崎の基本スペック。
 普段の無表情からさして変わらないそれだったが、確かに俺は見た。眉尻を下げて目を伏せ、唇を小さく噛みしめる神崎に。ここまで来ると本当にわけがわからない。
「……嘘じゃねえから」
「うん」
「………………」
 じゃあ、何だ。
 ミリ単位でしか動かないような神崎の表情に気付く自分も嫌だった。胸に駐在するもやつきの正体もわからない。神崎の表情はいつかどこかで見たような気がしてならないのだ。
 行ったり来たりと感情の落ち着かない神崎の顔を凝視するのにも疲れたので、濡れた手をテーブルに貼り付ける。熱気が染みこんだテーブルは、冷気を与えてはくれなかった。
 俺の手が乾ききるくらいの時間をかけて、神崎は自己完結を成したようだった。
「明日は遅刻しないようにしないとね」
「雛乃さんの陰謀がなければしないだろうよ」
 空気を入れ換えるように、これまでの流れを打ち切る。
 神崎は若干うねる髪の修正を諦めたのか、柱から畳へと背中の預け先を変更。長い髪が散らばるのも気にせず寝転がり、満足そうに目を細める。
「制服皺になってっぞー」
「大丈夫。そしたら明日は私服で行くから」
「そういう問題じゃねえだろ」
 ピースサインを掲げる神崎に、思わず笑う。神崎の私服見てみたいかも、と口走りかけた己の頬は引っぱたいておいた。大丈夫だ、問題ない。
「そうそう、訊こうと思ってたんだけど……彰は白野沢に来るの初めて?」
「いや、昔に来たことあるけど。覚えてねえや」
「来た時のこと、何も覚えてないの?」
「何も。あ、駅はちっとだけ見覚えあった気もする」
 記憶の海に溺れて、引き出そうとしたら俺ごと溺死しそうな奥底で、ではあるが。あんな見事な田舎駅をなかなか見ることもないので、それだけは印象に残っていたのかもしれない。
 屋根に遮られて日光の届かない薄暗い構内も、直射日光すらなければ涼しげに吹く風も。どこかで感じたことのあるものたちだった。
「そっか。なら、いつか思い出すかもね」
「まあ、別に思い出しても思い出さなくても構わないんだけどな」
 未だ掲げ続けていた腕が疲れたのか、ピースサインが力尽きてぱたりと畳に落ちる。しばらくは畳の冷たさに浸っていたが、腕をずりずりと移動させて顔上に置く。
 表情の見えなくなった神崎は、少し微笑んで見えた。
「早く思い出せるといいね」
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