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 この村に来て一番最初に行った場所は、病院だった。
 ……という悲劇は起こらず、俺はその場でほんの数分気絶したくらいで済んだ。起きてみれば俺を昏倒させた張本人である女はすでにどこかへ消えていて、誰もいないあぜ道に俺が寝転がっているだけ。
 激しく打ち付けた頭も起き上がる際に少し痛んだ程度で、大した怪我もなさそうだった。運良くあぜ道だったからだろう。
 あえて言うならば、残ったのは心の傷。
 情けなさと羞恥に顔を歪めながら、肘をついてゆっくりと立ち上がる。
「俺が何したってんだよ……」
 危うく田んぼに落ちそうになっていたバッグを拾い上げ、土埃を払う。土くささは拭えない。今日のためにクリーニングへ出したお気に入りのスニーカーは、すでに白く煙っていた。
「………………」
 涙が出そうだ。
 もう一度言う。俺が何をした。
 思い返してみたって、俺は特に目立った悪行などは人生で一度もしていない。そりゃ完全な優等生と言うわけにもいかないが、少なくとも降り立ったばかりの地――謂わば新生活のスタートをぶちのめされるほどのことはしていないはずだった。
 没個性。それなりにそこそこ、ほどよくまあまあ。際だった容姿も性格もなく、世界を動かす人物ではなく、その背景として生きてきた。
 唯一引っかかる記憶としては、小学校時代の通信簿。中学も揃えて思い出を漁ると、教師の一言コメントのようなところにはいつも『淡泊で、子供らしさがない』というようなことが書いてあった。まあもちろん、もっとオブラートに包んだようで包めてないような表記ではあったが。
「可愛げがない……ね」
 両親にもしょっちゅう言われていたからとっくに自覚はしている。俺は物事をどこか少し遠くから見ているようなところがあり、騒動の中心にいてすら感情の起伏が急激になることはなかった。……という、自己判断も遠くからしていたりする。
 だから両親の死を伝えられた時も、驚きや戸惑いを越して事実を受け入れる事務的な感情が稼働した。どこか遠く――例えるならば、俺は背景として事実を世界へ染みこませていた。
 だからどうした。なるほどわかった、どうでもいい。そんな気持ちさえ作用して。
 あぜ道を抜ければ、ようやく舗装のされた道へと出た。コンクリートから立ちこめる熱気が発汗を促す。
 空は何も変わらないはずなのに、急に温度が増した気がして泥沼に沈殿したような気持ちは嫌でも浮上する。暖気は冷気を越えて上昇し、俺の冷えた感情などは太陽熱の前ではあっさり沈んだ。
 日差しの下を歩いていれば無機質に再生されていた回想は自動停止、俺の脳内会議細胞は先ほど降ってきた物体についてへと議題を変える。
 飛び降りてきた際一番最初に目に着いたのは、白さだった。ぶわりと風に広がった髪は、白かった気がする。日本人にあるまじき髪色。ちなみに俺は日本人らしく、墨をかけたような黒だ。どうでもいい。
 俺が気になっているのは――いや、懸案事項はすべてに該当するのだが、飛び降りの理由や髪色なんかは俺が考えていても仕方がないので、そこはこの際捨て置く。
 それよりも俺が一番に悩んでいるのは、最後に見た表情だ。
 揺れる視界とシェイクされた脳内でもうっすら残っていた、あの微笑みと泣き笑いのような表情。飛び降りをした挙げ句に人を下敷きにしておいて、あの女は何故微笑んだのか。
 ……最初から俺を潰すつもりでいた、とか?
 俺は飛び降りなんかをする変な女に恨みを買われた覚えはない。そんな女を相手にしたこともない。っていうと、女癖の悪い奴みたいだが、恥ずかしながら生まれてこの方、女人と正式に交際をした試しはなかった。
 なんて、俺はここまで自分の影を見て歩いていたため、気付かなかった。変化しない景色に、定温を保つ気温。そこに、闖入者。
「黒柳彰。綺麗なお姉さんにハートを撃ち抜かれたくなければ、おとなしく土下座しな」
「……は?」
 俯いていた俺の視界に、綺麗な形をした爪が目に入ってきた。いや、地面に下ろしているサンダルから見えた、足の爪だけど。俺のものではない。どう見ても女のものだし、ていうか第一俺はスニーカーを履いている。
 脅迫するにしては、あまりに薄っぺらい声と内容。
 顔を上げると、そこには一人の女性がいた。「よう」などと気軽に手を振ってくるが、こちらはまったく見覚えがない。
 センターで分けた前髪が特徴的で、丸い額が堂々と晒されている。ショートとセミロングの判別がつきにくい微妙な長さの髪が鎖骨あたりで揺れ、そのすぐ下にある白いタンクトップの胸元からは恥じらいのない双丘がはみ出ていた。
 身長はかなりある。俺を悠々と越して、上からじっと見下されてるような気分。ていうか、見下されている。確実に。確信犯。
「えーっとぉ……」
 重たげな瞼の向こう、薄茶の瞳が俺を頭から爪先まで眺める。流水めいた髪を気に留めることすらなく乱暴に頭を掻き、手に持っているのはメモ帳サイズの一枚の写真と思しき物と俺を何度も見比べる。
「黒柳彰で合ってるよねえ……そんなでっけー鞄持って歩いてる男子高生っつったら君くらいしかいないし」
「……あの」
「あれ? 違うの? じゃあ誰だお前は」いきなり声質が変わった。
「いえ、その、彰で合ってますけど。誰ですかあんた」
「年上でしかも綺麗で巨乳のおねーさんに向かってあんたとはいい神経してるわな」
 タンクトップにジーンズと若い女性にしたらラフすぎる格好のその人は、けらけらと笑う。けれどその目は笑っていなくて、俺を射貫くように見ていた。
 ……何というか、変だ。悪意のある変さではなくて、全身から何か普通の人間とは違う物質を放出しているような変さ。言動も、その眼球も、雰囲気も。根拠のない圧倒的な『変』。異質とか異常とかそういうものではなく、日常に溶け込む程度の変さ。
「アタシはアンタの母さんの妹。つまりアンタの叔母だよ。ばーちゃんと一緒に住んでんだけど……ばーちゃんからアタシのこと何も聞いてないの?」
「いえ全く。てっきり、祖母一人なのかと思ってたんですけど」
「祖母って……まーいいや。……じゃあまあ、とりあえず自己紹介。アタシの名前は雛乃。烏丸雛乃。よろしく」
 そう言って口元だけの笑みで手を差し出される。葬式で会っているはずなのだけれど、お互い顔も名前も認知してないようだったのでそこには触れないことにする。それよりこの人独身なのか、なんてどうでもいいことを思いながらその手を握った。その指の細さに驚いたのは秘密である。
「黒柳彰です……って、知ってますよね。ていうかその写真なんですか」
「これ? そりゃーあれだよ、あれ……アンタを探す目印として、ばーちゃんのアルバムから借りてきたんだ」
「アルバムって、俺ここに来たのすっげー昔だったと思うんすけど」
「うん、だから結局役に立たなかったんだけどさ。てゆーかそれ以前のだし」
 ひらりと捲って見せてくれたのは、出生直後の俺の写真だった。ベビーベッドに寝かされ、名前のプレートには黒柳彰と書いてある。雛乃さんの表情を伺うと、無表情にへらりと笑っていた。大道芸人みたいな人だな。
「これでわかると本気で思ったのなら、今すぐ病院へ行ってください」
「思ってるわけないじゃんか。アンタはアホか?」
「理不尽すぎるだろ!」
 じわじわとした暑さもあって、叫んだ途端に目眩がした。まだ初夏とはいえ、日差しを遮るものがないこの地は紫外線をここぞとばかりに降らせてくる。
「いいツッコミしてるね、アンタ」
「………………」
 先ほどの続き。今話してわかったこと。この人の変さは、異常なのでも障害者でもなくて――稀に見る、生粋の変人だ。悪意はないけれど、嗜虐心はきっとある。
 簡単に言うなら多分、……電波。
 ひっきりなしに降りかかる災厄に早くも疲れ始めた俺を見た雛乃さんは、いかにも涼しそうな格好で面白げに目を細める。
「都会っ子はもう限界? こっからばーちゃんちまでまだまだ歩くよ。アタシはわざわざアンタを迎えに来てやったわけだけどね。わざわざ」二回言われた。
「……そりゃどーも」
 肩を揺らして笑った雛乃さんは「行くよ」と告げて俺の返事を待たずに踵を返す。剥き出しの肩胛骨が綺麗な形をしていて、うっかり見蕩れそうになった。間違えた。見惚れそうになった。どちらにせよ、実の母親の妹に抱く感情ではないが。
 ノー不埒、イエス健全な俺の視線を受けて、雛乃さんの中途半端な髪先が背中を撫でる。見てんじゃねー、と遮られたようで、目を引きはがす。
 東京とは明らかに違う風と気温。暑い。雛乃さんの歩く速度も加わって少し息を切らしながら歩いて行く。雛乃さんは足を緩めることも振り返ることもない。
「あの、雛乃さん」
「そんな畏まらなくていーよ」
「なあ、雛乃」
「はっはっは、元気のいいクソガキだなー。田んぼに投げてやりたいよ」
「雛乃、」「さん」「……は」ええい面倒くさい。
「雛乃さん! ……さん付けがいいなら、最初から言わなきゃいいじゃないですか」
「建前だけでも取り繕うのが大人だ」
「じゃあお訊きしたいんですが、立派な大人でいらっしゃる雛乃さんはここで何の仕事してるんですか?」
「ニート」
「………………」東京だろうと田舎だろうと、いるところにはやはりいるものなのだと実感する。
「っていうのは冗談だけど」
「雛乃さんが言うと冗談に聞こえませんね」
「よーしわかった、お前はアタシが再教育してやる」
 テンポよく会話を交わしながらも、雛乃さんはさすがにバテることも躊躇うこともなく進んでいく。ていうか、はぐらかされた? ……もしかして本当にニート。
 コンクリートの道を外れ、草を刈り取って形成された土道へ逸れる。一気に増量した木々ががさがさと鬱陶しく、小枝で頬を引っ掻きそうになった。
 今まで俺は大声を上げることなんて滅多になかったのだが、白野沢に来てから俺はペースを乱されまくっている。飛び降り女といい雛乃さんといい、俺の予想の範疇を全力で飛び越えたことばかりをしでかす。
「東京からどんくらいかかった?」
 雛乃さんが歩きながら尋ねてきて、ようやくまともな会話が開始される。
「本当は二時間半ちょっとで着く予定だったんですけど、俺が乗り換えとか手間取ったんで結局三時間ほど」
「へー。そんなかかるんだ」
「ええ、まあ」
「アタシも東京は若い頃にも何回か行ったことあるけど、っていうか今も初々しいピチピチ若者世代だけど、昔に比べて結構早くなったよねー。アタシが行き来してた頃は、まだあの線が開通してなくて……っていうか、これ年バレるな。お口チャック」
「独り言が激しいのは病気とか何とか」
「あはは、面白い冗談だ。アタシがお前を絞め殺して一人にならない限り、独り言じゃないはずなんだけどなー?」
「………………」
「まあ、でも疲れたは疲れたよね多分。今日はゆっくり休みなよ」
「お気遣いどうも。そのつもりです」
 沈黙。俺は景色を見るふり、目を逸らす。……今更気付いたけど、俺人見知りなのかな。それともこんなもんなのか。比較対象がないからわからない。
 ていうか、何でいきなりこんな日常会話を開始したのかもわからん。雛乃さんは無難で無為な会話を嫌うタイプだと思っていたのに。
「色々、どう?」静寂の口火を切ったのは、またも雛乃さん。
「色々?」
「あー、だからさ……ほら、奈美ねーと賢二のこととか」
 奈美ねーと賢二。それが両親の名前だということを思い出すまで、数秒かかった。
「……ああ」
 なるほど、これが訊きたかったのか。不自然なほど普通な言葉のやりとりは、この布石だったと。雛乃さん的には「普通の会話から本来の会話へと自然移行出来るアタシったら気の利く大人!」なんだろうが、残念ながらめちゃくちゃ不自然だった。この人の場合に限り、いきなり本題を出したほうがまだマシな気がする。
 とどのつまり、無神経インタビュアー風に言うならば、「あなた両親死んじゃいましたけど、今の気持ちとしてはいかがですか?」……まあ、俺が逆の立場でも訊くと思うので、特に怒りなんかは沸き上がらない。
「細かいことは父親のほうの親族が全部してくれたんで……俺はただ通夜と葬式出て、婆ちゃんに言われるがまま荷造りして、つかの間の一人暮らししたってくらいにしか」
「まあ、だよな。……えー、一人暮らしの感想は?」
「炊事洗濯掃除……二度とやりたくないです」
「アタシも思う」
 雛乃さんが先ほど作り出した微妙な間。両親が死んだことへの感想を尋ねるか、一人暮らしの感想を尋ねるかで一瞬迷ったんだろう。似たようなものだが、槍で的のど真ん中を貫くのと、針で的を地道に穿つくらいには違う。
「まあさ、奈美ねーもういねーけど。この村は誰にだって寛容だよ、何だって受け入れてくれる。例えアンタみたいなクソガキでもね」
「……はあ」
「つーか都会の奴らは一回クーラーも携帯もねー田舎で過ごしゃいいんだ。そのうちどうでもよくなってくるさ。そう、例えば……結婚とかもな!」
 言い聞かせるようだった雛乃さんの言葉が、後半だけとげとげしくなった。どこで前半と後半に分けるかはお任せする。
「………………」
 そこで会話が途切れた。雛乃さんもこれ以上続行する気はないらしく、無理に会話を続けようとはしない。自然の音だけを聞いていると、実は出会った時から感じていた感情が蠢く。いや見蕩れるじゃなくて。
 本人には悪いのだが、実のところ、雛乃さんが俺とこれから一緒に暮らすということに動揺していないわけではない。
 昔に母親から妹がいるとは聞いていたが、まさか祖母と一緒に住んでるとは思わなかった。
 俺がここに訪れた頃、昔からずっと住んでいたのかもしれないが、俺のこの村に関する記憶はないに等しい。祖母と二人でいれば色々と構われずに済むかと安心していたのだが、この人はどうも放っておいてくれそうもない。
 吉か凶かで言えば、確実に凶。
 脳内会議室を開放しようかどうか懸念していたところで、議題になろうとしていた雛乃さんが振り向いてちょっとびっくりした。
「そろそろ着くよ。アンタが前に住んでたお綺麗な家とは違って床が軋むような家だから、心の準備しときな」
 それから数十秒、雛乃さんの宣言通り、すぐにそれらしきものは視界に捉えられた。
 ぽっかりとした空間にその家は存在している。純和風家屋という脳内イメージをそのまま具現化したかのような、木材のみで形成された平屋。
 まったく記憶はないはずなのに、どこか鼻の奥がつんとする。泣きたいわけでもないのに、不思議な感覚。
 俺を嘲笑うように、縁側に吊された風鈴がちりんと鳴っていた。
「おいで。入り口こっち」
 雛乃さんに招かれるまま、これから俺が生活するその家の入り口へと向かう。途中、「どう?」と雛乃さんが尋ねてきたが、可も不可もなく、俺がどう思おうとここに住むという未来は変わらない。だから、あえて感想は控えて無言で通した。あとから気付いたけど、これは無視の部類に入るのか。
 玄関に入ると、木材の匂いが一番に俺の五感を刺激した。玄関は狭い広いで言えばかなり広く、雛乃さんと俺が横に並んでもまだ全然余裕があるほど。というより、外観からするにこの家全体が大きめなのだろう。
「二人で暮らしてるにしては、随分広いですね」
「死んだじーちゃん、お金持ちだったからね。じーちゃんっていうか、アタシの親父なわけだけどさ。この年になってかーちゃんとーちゃんはお互いに照れくさいんだ」
 ビーチサンダルを行儀悪く脱ぎ捨て、雛乃さんが一足早く廊下に上がる。とりあえず最初くらいは、と脱いだスニーカーをきちんと並べる俺を見て、雛乃さんも慌てたようにビーチサンダルを揃えた。
 ひんやりと冷たい廊下を歩きながら、落ち着きなく辺りを見回す。さっきまでの暑さはどこへやら、家の中に入ってしまえばクーラーなんてなくとも木材の冷たさに体温が吸い取られていくようだった。
「だだっ広いから最初は迷うだろーけどさ、まあすぐに慣れるでしょ」
「ええ、はい」
 その心地よさに揺られながら歩いていれば、不意に雛乃さんが立ち止まる。今までに通り過ぎてきた部屋の中でも一際大きな襖の前。
「ばーちゃん、彰来た。入るよ」
 襖を軽く叩いた雛乃さんは、俺へ目配せしてくる。
 準備はいいか、ということらしい。軽く頷き、雛乃さんが襖を引くのを見守った。
 すらりと引かれた襖の向こう、芥子色の座布団の上。薄紫の着物を着た祖母がいた。
 葬式の時に見た喪服ではないためか、前よりもずっと柔らかい印象が漂っている。メイクもしていないのに、なぜか今の方がすっきりして見える。
 そこにいるのにもっともふさわしく、もっともふさわしくない。小さく頼りのない体は、広い部屋にはあまりに不似合いだった。
 どうして俺を引き取ったんですか、と聞きたくなるくらいに。
「おいで」
 電話で聞いた柔い声が、静かな空間を揺らして優しく俺に届く。
 思わず硬直していた俺の背を荒々しく叩いた雛乃さんが、「今更何を緊張してんの」と笑ったのが聞こえた。
 緊張しているわけでも、嫌がっているわけでもなくて。
 ただただ、吃驚した。
 この年になって、おいでなどという言葉で呼び寄せられるとは思わなかったのだ。ましてや、溶け入りそうな、小さな子供に言い聞かせるような声で。
 どこかで聞いたような、そのセリフを。
 柄にもなく、小さく足が震えているのがわかった。
「………………」
 雛乃さんに背を押されて、ゆっくりと歩みだす。小さな机を挟んだ向こう側にいる祖母のもとへ向けて、足を踏み出す。
 冷たさに融ける。暑さに揺れる。脳内が混ざる。
 お座り、と告げられて、しなれない正座で向かいの座布団へと座った。
「彰」
「……はい」
「悲しいかい?」
 唐突に浴びせられた質問は、俺にとって予想外なものだった。世間話や日常会話では聞くこともない、怖いわけでも苛立つわけでもなく、どうしたらいいのかわからなくなるような声。
 悲しいって何だっけ、と思った。苛立ちやもどかしさこそ感じることはあるものの、明確にその感情を俺は捉えたことがない気がした。
 小学時代から駄々を捏ねることも泣きわめくことも恥ずかしいと認識していた俺は、いつからかどうしようもないことには、ああそう、だけですべてを片付けてしまっていた。俺に、その感情が芽生えたことはあったっけかな。
 何も答えない俺をどう思ったのか、祖母は目尻を少し緩めた。
「奈美と賢二……あんたにとっての母と父がいなくなって、あんたは悲しいかい? あんたの目には、何も見えないんだよ。あんたは、普通だ。至って普通。でも少し、感情が隠れてるね」
 数秒、沈黙が降った。
 祖母の声が優しく反響しては空気に溶けるような錯覚をしながら、雛乃さんが横目でこちらを見ている気配を感じ取る。
 また言われた。物心ついた時から言われ続けている、感情の起伏が少ないということ。日々が楽しくないわけでも、生活に不満があったわけでもない。ただ生きているだけ。
 右腕に鳥肌が立ったあたりで、俺は口を開いた。
「……まだ、わかりません」
 感情が消え失せたとか、精神が病んだとか、そんな大それたことは思いもしないし、実際そうでもないんだとはわかっている。
 実感が沸かないというのが、一番近い表現だった。
 俺の家族は特別仲が良いわけでも特別仲が悪いわけでもない。朝起きて三人で朝食を食べて、俺は学校、父親は会社へ行って、母親は家事をこなして、俺はちょっと友達と寄り道をしたりして、夕方には帰って、三人で夕飯食べて、風呂に入って、テレビ見て、寝て。毎日決まったようなサイクルに逆らうこともなく、生きていた。
 大雨の中、父親が傘を忘れて最寄り駅で足止めを喰らったらしいので車で迎えに行ってくる、と言って母親が出て行ったのも、サイクルの一つだと思っていた。ベッドの上で携帯をいじって、大した満足感もなく閉じては、暇に負けてまた開いて。
 だから、リビングの電話が鳴った時も、面倒くさい程度にしか思わなかった。
 父親を駅で拾って帰ってくる途中だった二人が、視界の悪さと路面の滑りやすさで運悪くトラックと正面衝突したと聞いた時、サイクルとして回っていた生活の歯車が軋んだ音を確かに俺は聞いた。
 今、その歯車はどうなっているのだろう。
 再び回り出しているのか、すでに止まっているのか。
 両親が死んだという現実をどう受け止めているのか、俺自身が一番わからなかった。綺麗に片付いているのか、汚くて地がすでに見えないのか。
 疑問はすべて、俺から俺へ。
「……わからないんです」
 机の木目を見ながらもう一度そう零せば、小さな笑い声が祖母から漏れた。のろのろと顔を上げると、深く皺の刻まれた笑み。
「ここにいればいつかは理解出来るさ。何もかもが上手くいく。そういうふうに、彰は大人になっていく。幸せも不幸も、すべてはここにあるんだよ。そんな世界を、受け入れられるかい?いいや、受け入れるんだよ」
 強要する問いでは、なかった。ただそれが当たり前であるのだと、教えるように。氷を吐息で溶かすように、ゆっくりと。
「………………」
 俺はただ、頷いた。それが確約出来るかもわからず、ただ、否定してはいけないものなのだと思った。
 綺麗事だとは、口には出さず。
 これもまた、無感情な気がした。言われたから、頷く。何も考えず、何も感じず、何を受信するでもなく、とりあえず、ああそう、と頷いておいた。罪悪感は、ない。
 それでも満足だったようで、祖母はにっこりと微笑む。そして祖母は、雛乃さんへと目を移した。
「ヒナ」
「ん」
「あんたは、彰の母親代わりなんだ。しっかり頼むよ」
「わーってるよ。……ったく、旦那もいないのに子供とはね。しかもこんなクソガキ」
 くく、と雛乃さんが笑う。祖母も笑う。
 俺だけが、笑えなかった。


 特に何を注意されるでもなく、長々と話が続くでもなく、すぐに解散を命じられた俺と雛乃さんは祖母の部屋を出た。
 俺はどこか夢のような感覚の中にいて、今言われたことのほとんどが脳の中でふわふわと漂っているようだった。ただどこか沈殿したような重さは、体中に蔓延していた。
 そんな俺を見た雛乃さんは、ばしりと肩を叩いてくる。タッパがあるため上からの力も加わってかなり痛い。
「ばーちゃん、いい人だろ?」
「……はあ、まあ。俺を引き取ってくれるくらいですし」
「何でアンタはそんなひねた考えしか出来ねーのよ」
「生まれつきです」
 可愛くねー、と雛乃さんが舌を出す。そんなのは自覚済みだ。
 あの穏やかな祖母から生まれたとは思えぬほど、雛乃さんは人の神経を逆なでしてくる。従わなければいけないような雰囲気を祖母が持っているとするならば、この人は何が何でも反抗したくなるタイプの人間だ。
「そういえば雛乃さん」
「俺を気安く呼ぶと怪我するぜ」色々間違ってるけどスルー。
「登場の衝撃で一瞬忘れてたっていうかつっこみ損ねてたんですけど、何で雛乃さん、あんな中途半端なとこで待ってたんですか? 確かに住所だけじゃまともに辿り着けたとは思えないんですけど、迎えに来るなら普通駅とか……」
「あー、うん。いやね、本当は駅まで迎えに行く予定だったっていうか、ばーちゃんに言われて嫌々渋々不承不承行ったんだけど、あんまり暑くて嫌になっちゃって、涼しくなる時間待とうかと思ってなんだかんだ理由つけて出る時間引き延ばしてたら間に合わなくなっちった。許してちょ」ぱちりとウインクされた。可愛くない。
「どこの文章を取っても面倒だったということが伺えるので、特別に今回だけ許しません」
「そうか、ありがとう。アタシの甥は優しいなー。惚れちゃいそうだ」
「自殺願望が芽生えた……天使が俺に手を振っています」
「天使? アタシか?」
「すいません。全身の細胞に酸素を送るので忙しいので、後にしてもらえますか?」
「今なら五十万でアタシと婚約が出来るキャンペーン中」
「俺がもらう側ですか?」
「アタシの若きお肌を長時間日差しに当てさせた罪は、セクハラと同じくらい重いぞ!」
 びしっと指された指が額に刺さる直前、後屈して何とか避けた。飛び降り女の件といい、もしかしたら俺は俊敏なのかもしれない。
 それはそうとして、この人と話していると話が脱線しすぎて無駄に喉が渇く。新幹線で買った緑茶がまだバッグの中に入っているのを思い出して、肩にかけていたバッグを廊下へ下ろし中を探る。
「知りませんよ。第一日焼けしたくないならその無駄な露出をやめたらどうですか」
「アタシ暑がりだから無理。真夏になれば生まれたままの姿で徘徊するかもしれないけど、この家で不健全な妄想は控えるように」
「ここから最寄りの交番までってどれくらいかかるんですかね?」
 駅で詰め込んだパーカーの下に埋もれていた。長時間放置していたせいでペットボトルはびしょ濡れになっていて、パーカーの一部が濡れて濃くなっている。それを取り出して蓋を開けようとしたところで、横からかっさらわれた。
「な、何者だー」レベルマックスの棒読みで驚いて差し上げる俺の半分はきっと、やさしさで出来ているんだろう。
「PPがなくなると砂になって消滅する美人と噂されているのはまさしくアタシのこと」
「PPってなんですか」
「ピチピチポイント」
「すでに干からびてないんじゃ……あいたたたたすいませんすいませんPPマックスの雛乃さん足の小指だけ踏むのやめてください」
 解放された小指の激痛に悶える俺を放置し、奪った緑茶を手に縁側へ腰掛ける雛乃さんは上機嫌。即興と思しき鼻歌なんかを口ずさみながら蓋を投げ捨てる。子供の見本には絶対になれない大人である。
 ご機嫌に足をぶらぶらと揺らしながら口をつけ、
「ぶっは!」
 噴いた。
 縁側の真下の土へと、それはもう豪快に。
「何ですか!?」
「ぬるい! アタシこんなの飲みたくなーい!」
 駄々をこねる子供のように足をばたばた振っては、廊下をばたんばたんと騒がしくさせる。これは酷い。頭が。
「ぬるいって……さっき持った時普通の温度でしたけど?」
「アタシはキンキンに冷えた氷水みたいなのしか飲めないんだバーカ!」
「そんなものをペットボトルのお茶に求めるなよ!」
 何ていうか、もう、面倒くさい。
 雛乃さんの前から立ち去ろうとして、というか逃げようとして、床に置いていたバッグを担ぎ上げる。早く雛乃さんの病が治りますように、と切願しながら。
 肩に乗る重い荷物の置き場を探しに、歩き出す。
 ……綺麗に纏めてみたはいいが、考えて見れば俺は自分の部屋を知らないため、結局雛乃さんに尋ねるしかなかった。
「俺の部屋どこですか?」
「わかりやすいとこ」
「………………」
 綺麗な放物線を描いて、再び蓋をしたペットボトルが投げられる。それを受け取って、溜息をついた。もう頼るまい。
 それ以上は言及せず、ようやくありついたお茶なのに飲むことは出来ないまま廊下を彷徨う。あんな説明で見つけられるかよ、とぼやいたその時、「……ああ……」と情けない呻き声が俺の喉から無意識に絞り出される結果となった。
 廊下に、一枚の襖に向けて赤いビニールテープで『←ココ!』と書いてあった。
「……わーお」
 空になっていたペットボトルをぐしゃりと握りつぶした。
 わかりやすいじゃねえか、ちくしょう。


「で。ここをこうずーっと行って、ここをこう、で、ばーんって感じ。だいたいわかる?わかるよな? ていうかわかれ」
 無駄にでかい紙の上に書かれたのは、直線と曲線の集合体だった。精神病患者っていうか、アートっていうか。
 お椀に盛られた白米、大根の味噌汁、おかず多々。つい十分前までは日本の夕食を具現化したようなものが並んだ食卓も、今じゃ雛乃さんのアトリエ状態だった。
 まだまだ雛乃さんの最先端異常者系アートは終わりそうにないので、こうなった経緯をゆっくりと追うことにする。
 べたべた感が残らないよう苦戦してビニールテープを剥がすという、雛乃さんのせいで無駄に加えられた過程を終えてからようやく入った俺の部屋は、今まで住んでた部屋より数倍広かった。一つだけ難をつけるならば、今までずっとベッド生活だった俺に布団が敷けるのかという不安だ。まあこれは追々慣れるだろう。
 ひんやりとした空気が気持ちよく、一面の襖を開けたところにある日陰の縁側もなかなか気に入った。元々あったのかそうでないかは定かでないが、それなりに新しいテレビの部屋の隅に設置されていた。
 肩にかけていたバッグの中の物をすべて取り出し、一つしかなかったコンセントを探し出して使いもしない携帯を充電器に繋いだところで、蓄積していた疲れがどっと現れた。
 積まれていた段ボールの一つを手に取り、ガムテープを剥がしたあたりで記憶は途切れている。次に記憶が始まっているのは「随分疲れていたのね、昨夜はアタシと(以下略)」なんて気色の悪い某叔母の声からだった。最悪の目覚めだ。
 どうやら段ボールに突っ伏して寝ていたらしい俺は、なんだかんだと外が薄暗くなり、夕食の時間になった雛乃さんが迎えに来るまで一度たりとも目を覚まさなかったらしい。
 俺が居間へ行った時、すでに祖母は夕食の席についていて、軽く頭を下げてから俺も食卓についた。東京の学校ではどんなことをやっていたの、なんていう他愛のない会話をしながらの食事、まではよかった。
 問題はそのあと。もちろん、原因は雛乃さんだ。
 あり得ないほど早食いだった雛乃さんは自分が食べ終わって暇になったのか、不意に「明日から始まるドキワクときめき生活の大事な要素である学校までの道のりを教えてしんぜよう」だの何だのほざいて自分の食器を乱暴に押しのけ、食卓に紙を置いた。超邪魔だった。まあこれも俺のためなんだろうし、と長い目で見ていれば、それが幼稚園児の落書きなんだから本当にどうしようもない人である。
 ……はい、回想終わり。我に返ってもまだ、雛乃さんはぐりぐりと紙に宇宙語を書き込んでいた。回想終了と共に終わっていてほしかったんだけど。
 祖母は呆れたように見守っているだけだし、手持ちぶさたになるのが嫌でちまちまと食べていたお椀の米ももうない。今の俺の選択肢は『声をかける』or「話しかけろ」「人の選択肢に割り込んでくるな!」しかも何で命令形だよ。
『YES』or『はい』みたいな選択肢しか与えられなかった俺は、今まで放置していた雛乃さんに仕方なく声をかける。
「雛乃さん」
「待ってました」
「まず油性マジックで書くのをやめたらどうですか?」
 一番の問題はそこだと思うのだ。極太の真っ黒い線ばかりが重なって、何を描いているのか全く持ってわからない。雛乃さんの手は止まることなくぐねぐねと動いているがどんなインスピレーションが降ってきているのか、俺には伝わらない。
 けれどわからないと困るのは俺なので、不本意ながらも雛乃さんのミミズ文字を真面目に解読しようと努力する。
「この四角いのはこの家……でいいんですよね」
「おまえが信じる道を突き進め!」
「ええそうしますよ。で、この三角っぽいのが多分学校で……この芋虫みたいなのは道ですか?」
「アタシが寛容でなければ、確実に今ここにある皿すべてを頭突きで割っていただろう。感謝しろよ」
 何で頭突きなんだろうとかくだらないことを一瞬考えたが、とりあえずはすべて合っていたようなので四角から三角までの道のりを凝視してみる。ほぼ曲線の集合体でしかないが、どうにか読み解こうと見つめ続ける。
 結果。
「まあつまり、家出てまっすぐ行ってりゃ着くんだけどな」
「先に言え!」俺の苦労は何だったんだよ。
 満足げに卓上の紙を折りたたむ雛乃さんに、最初からからかう目的でしかなかったことを理解した。この人はまともに相手したら負けだということをしっかり頭に刻んでおこう。
「ってか、風呂沸いてるか見てくるわ」
 自分の暇潰しが終わるやいなや、席を立って「てってけてー」と居間を出て行く雛乃さん。もちろんそれは効果音でなく、本人が口頭で作成したオノマトペである。
 卓上には、雛乃さんの押しのけたお椀たちが故意か否か忘れ去られていた。
「………………」
 自分のものと重ねながら席を立つ。溜息が祖母と重なった。
「すまないねえ、あんなふうに育てちまって」
「……いえ。まあ、慣れれば……す、素敵なんじゃないですか」
 息切れが起こるほど頑張った。そんな俺を見て、祖母が「無理しなさんな」と笑い飛ばす。
「奈美はそこそこ優秀に育ったのに、ヒナはどうもねえ。恥じるような娘に育てたつもりはないんだが、頭のネジを私の腹の中にいくつ落としてきたのやら」
「多分、右脳と左脳が分離可能なくらいには抜けてるんじゃないですかね」
 いつの間にか祖母もお椀の中を空にしていたので、二つも三つも同じようなもんだとそれをさらに重ねる。驚嘆と感謝を述べた祖母に軽く頭を下げ、襖一つ向こう側にある台所へとそれらを運ぶ。
 勝手がわからなかったので、とりあえず流し台の中にある水を張った桶へとお椀を投入する。極力気を遣ったつもりだったが、思いの外お椀同士の擦れる音ががちゃがちゃと鳴って肝を冷やした。
「そういえば、彰が通う学校だけどね。自転車で三十分かかるんだ、徒歩じゃ到底行けないだろう。明日にも必要なものだから、自転車を勝手に買っておいてしまったけどよかったかい?」
 座布団に座ったまま、先ほどより少々声のボリュームを上げている。俺が台所にいるからだ。何だかそれも申し訳なかったので、急いで居間へと戻る。
「もちろんです……ていうか、新しいの買ってもらっただけでも有り難いっていうか」向こうで使っていた自転車は、さすがに持ってこれずに置いてきた。
「ここはもうおまえの家だよ。遠慮なんてする必要ないさ。小遣いも出すし、それとは別に欲しい物があるなら言いな。向こうとは違って、金の使い道なんてたんとないところだけどねえ」
 ひひ、と悪戯っ子のように笑う祖母。それに対して、俺は複雑な気分だった。嬉しい中にも、引け目があるような。
「でも……あー、ええと……」
 そういえば俺は、この人を何て呼んだらいいのかすらわからない。頭の中で祖母、と認識していただけで、呼称としては正しくない。
 それを何となく悟ったのか、
「婆ちゃんでいいよ。何なら岬でもいいけど?」
 ぱちりと、不器用なウインクが飛ばされる。このとき、雛乃さんは確かにこの人から生まれてきたのだと確信した。勢いがなくなっただけで、二人ともそっくりだ。
「言い慣れないだろうが、言ってみな。婆ちゃんだよ」
 また、小さい子に教えるような態度を取られる。言い聞かされること自体も、この人を婆ちゃんと呼ぶのも気恥ずかしくて、少し躊躇った。どこか懐かしいような響きを含むそれを、怖々吐き出す。
「……ええと……婆ちゃん」……うあー。
「そうだねえ。よーしよく言えた」
 わしゃわしゃと頭を撫でられて、顔が発火するようだった。どうにかこの流れを変えたかったが、俺に逃げ口は見いだせない。
 どうしようかと目線を彷徨わせていると、居間の襖が必要以上の勢いをつけて開かれた。もちろんそこにいたのは雛乃さん。その場の空気を破壊するという意味では、たまにはこの人でも役に立つ。
「おっふろ沸いてたぞーい。一番風呂入りたい人ー。はーい」
「言いながら俺の腕掴むのやめてもらっていいですか?」
 雛乃さんに掴まれた俺の腕は、強制挙手をさせられている。最初から素直に「一番風呂どうぞ」と言えないあたり雛乃さんらしく、「一番風呂ありがとうございます」と言えないあたり俺らしい。叔母と甥の関係だけあって、どちらもよく捻くれている。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
 ここで拒絶する理由もないので、頭を下げながら立ち上がる。俺が片付けたテーブルを見て「すげー! 今度からやってもらおー」などと騒いでいる某お方は放っておいてさっさと居間を出ようとしたところで、「彰」と呼び止められた。婆ちゃんだった。
「行ってらっしゃい、彰」
「……行ってきます、婆ちゃん」


 頭やら体やらを洗っている間に、顔の発熱は何とか収まった。
 何度か繰り返し口にしていれば初めての呼び方にも少しは耐性がついて、何とか脳内で呼称をシフトすることに成功した。俺に対する婆ちゃんの小学生的扱いにはまだ慣れそうもないが。
 それよりも今は、もう一つの提案のほうが俺の気がかりだ。
「遠慮はいらない、なあ……」
 檜の風呂に浸かりながら、俺は先ほどの言葉を反芻していた。
 やはり何と言うか、それは無理、……だろう。
 ほぼ初対面の人にあれやこれや要求出来るわけはないし(脳が分離する電波生物は除く)、すでに俺は婆ちゃんに世話になりまくっている。
 自転車の件といい、ここまでの運賃といい、住む場所といい、学校費といい、当たり前のようにまだ契約されている携帯電話の料金といい、今も俺の胃の中で消化されているであろう食物たちといい、他にももっと俺の気付かないところで多く負担してもらっているんだろう。
 俺はそれに報いるために勉学に励み、心身共に健康な生活をし、極力携帯や電化製品の使用は控え「……って、……あー……もう気が滅入ってきた」そんな絵に描いたようないい子ちゃんを演じなければいけないのだ。
 これからもそんな生活がひたすらに続いていく。俺が自立し、ここを出て、自分の力だけで再び東京に戻れるようになるまでは。
 婆ちゃんも雛乃さんもいい人だ。だからこそ、俺もいい子でいなくてはいけない。
「……疲れる」
 ぼそりと呟いた俺の声が風呂場に反響するのを聞きながらも、俺が早く出ないと婆ちゃんさんたちが入れないんだよなあなんてことを考えてしまって、ますます自己嫌悪に陥った。気を遣いすぎている自分にも、そんな俺を嫌がっているもう一人の俺にも。
 ぶくぶくと顔の半分ほどまで湯船に埋めていると、少しだけ涙が出そうになった。
 本日三度目。俺が何したってんだよ。
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