Y

 呼んでいるのに、届かない。手を伸ばしているのに、どんどん離れている。縋っているのに、振り払われる。
 声にならない叫びが、宙で空しく霧散する。どうして、と見えない誰かを力任せに殴りつけた。ただ、一緒にいたいだけなのに。認めてほしいだけなのに。
 どうして――。


「あ、起きた?」
 目を開けると、視界が酷く滲んでいた。それでも歪んだ向こう側に、藍色の髪先が揺れているのが見える。
「ユリア……?」
「うん? ユリアだけど、それがどうかした?」
 ぼやける視界の原因が涙だと気付き、腕で目元を強く擦る。そのままの勢いで上半身を起こせば、ジョーカーの顔を覗き込んでいたユリアに思い切りよく頭突きをかましてしまう。
「いたっ! 酷いよ、ジョーカー。せっかく看病してあげたのに、いきなりこれはないでしょぉ……?」
「え、看病って……じゃなくて俺、何でこんなとこで寝て……」
 状況整理ができていないままに周りを見回してみれば、そこは見慣れたジョーカーの部屋だった。いつも通りのベッドで、隣にはユリアが座っていて。
 そんなジョーカーを一瞥すると、ユリアは少しだけ泣きそうな表情になった。手元に目を落とし、出来るだけ淡々と、何でもなさそうに。
「イヴ様とヴァレン様は、昨日の夜に帰ったよ。もう、あたしたちの手も届かないようなところに。帰っちゃったんだ」
 ――ユリアの言葉が、段々と遠のく。頭では理解していたことでも、現実を目の前に突きつけられた時、やっぱり世界はモノクロに変わる。
 逃げて逃げて、逃げた結果がこれか。ユートピアどころか、惨い現実をまざまざと見せつけられただけだった。
「ジョーカー。イヴ様たちは、もういないの」
 ユリアの言葉が、深く抉り込む。堪えきれない嗚咽が、何かから溢れ出すように音を上げ始めた。
「っ……! 俺のせいで、あいつは……っ!」
「……ジョーカーのせいじゃないよ。これは必然なんだから、どうやったって覆せない」
 目からぽたぽたと落ちる雫が、シーツを少しずつ濡らしていく。ユリアが俯いたまま顔を上げず、あくまでも平淡に呟くのが余計にやるせなさを倍増させる。
「俺は、こんな結果を残したかったんじゃない。あいつに何もかもを背負わせることが、俺の望んでいた最後じゃない……何で一人で背負って、何も言わずに消えちまうんだよ……! こんなことなら……っ、」
 ユリアの肩が揺れるのが見えた。膝の上で揃えた指先に力がこもり、爪が食い込んだところが白くなっていく。
 それでも、何も考えず、二の句を継いだ。
「好きにならなきゃよかった……!」
 言い放った次の瞬間、ぱんっと小気味いい音が響いていた。少し遅れて、頬にぴりっとした痛みが走る。頬を平手打ちされたのだと、数秒してから気付いた。
 見れば、ユリアが瞳いっぱいに涙を溜めながらも、ジョーカーを強く睨んでいた。
「何でそんなこと言うの……!? 確かに間違ってたかもしれないけどっ、報われないかもしれないけどっ! それでも、ジョーカーはイヴ様を選んだんでしょ!? だったら、そんなこと言わないでよ……! じゃないと、じゃないとあたし……っ」
 そこで言葉を切り、服の袖で目を拭う。そして、悲痛な叫びを上げた。
「あたしは、どうすればいいの……っ!? ジョーカーを諦めて、それを後押ししてしまったあたしは、どうすれば……っ! しっかりしてよ……!」
 ユリアに強く肩を叩かれて、ようやく後悔の念が押し寄せる。ジョーカーにもたれかかるようにして涙を落とすユリアの心情が、とてつもなく胸に痛かった。ユリアの気持ちを知っていながら、あまりにも無神経なことを言った。自分の気持ちを抑えて笑ってくれたユリアを、この目で見ていたというのに。
 けれど、今も冷め切らない感情は胸の中で渦巻いているというのに。必死で逃げたあの夜の真ん中、求めていることを忘れていたジョーカーたちに、違う選択があったのではないかと思ってしまう。何かを間違えなければ、誰も悲しむことのない最後があったのではないかと。この感情迷路に終わりは見えなくて。
 本当は、心のどこかで期待していた。茶会の席はまだ空いていて、そこへたどり着ける招待状も手元に残っているのではないかと。間違えたことをやり直してみたくて、けれどもう引き返せないほどに物語は進んでしまって。
「……けど、忘れられないんだよ。少ししたら帰ってくるかもしれないなんて、そんなことを考えてる。ヴァレンタインあたりの悪戯で、本当はまだそこらにいるかもって」
 窓の外には、きっちりと腐敗した元通りの聖堂がそびえ立っているというのに。冷たい建物はジョーカーの視線さえもを拒絶しているように見えた。
「忘れなくていいんだよ。どうして忘れちゃうの? イヴ様は覚えていてほしいんだよ。なのに、どうしてその気持ちを消す必要があるの? その想いを消してしまう必要はないんだよ。迷路の出口を見つけるには、まだまだ時間が足りないの。あたしたちの人生は、これからもずっと続くんだから」
 ゆっくりと説き伏せるようにそう告げたユリアは、少しだけ困ったように笑いながらコートのポケットへと手を差し込む。そこから引き出してみせたのは、白い毛糸で丁寧に編まれたマフラーだった。
「これね、ジョーカーたちがいない間、ヴァレン様と一緒に編んだの。ヴァレン様、まるでこういうのダメでね。けれど凄く楽しそうで、一生懸命なのが可愛かった。自分は何も残せなかったから、せめてものお礼って言ってたんだよ。ヴァレン様はたくさんのものをあたしたちにくれたのにね」
 妙に大人びた口調でそう言うと、睫毛を伏せた微笑み方をしながら、ユリアはそのマフラーをジョーカーの膝の上に乗せた。その温もりに、止めていた涙が再び視界を塞いだ。気付けばジョーカーはユリアの腕の中に包まれていて、ユリアはユリアで涙の雫を溢していた。
 言いたいことはたくさんあるはずなのに、そのほとんどが喉で詰まって涙へと変わる。もっと素直に吐き出したいことがあるのに、涙しか出てこなかった。
「忘れなくていいの、覚えていて。あたしたちの未来はまだ長いでしょう……? その中のこんなちょっとの時間で、あたしたちはかけがえのないことを教えてもらった。それを忘れる必要は、どこにもないよ」
「ごめん、ごめんな……おまえにもっと話せばよかった。勝手に一人で悩みこんで、おまえには心配かけっぱなしだった……! 本当にごめん」
 ユリアの細い指がゆっくりとジョーカーの髪に埋もれ、そっと撫でられる。最近のジョーカーは謝ってばかりだね、と泣き笑いするユリアの声。
「あたしたち、もっと話さなきゃダメだよ。あたしのこと、ジョーカーのこと。イヴ様のこと、ヴァレン様のこと。いっぱい話して、もう一度やり直そう? あの頃に戻りたいわけじゃない。新しく、一からやり直すの。もう一度、二人で満月を見れるようになりたい。それだけがあたしの願い」
 そうしたら、絶対に戻れる――ユリアの言葉がきちんと理解できたのかはわからない。けれどゆっくりと染みこんだその言葉は、迷路の脱出口に繋がる。
 もう無駄だったとは言わない。好きになれて幸せだった。たった一日だけれど、二人で逃げられて幸せだった。恋をして、キスをして、それだけでよかったと思える。淡く、何よりも甘く優しい恋。
 この恋を思い出に出来る日は、そう遠くないのかもしれない。


 イヴたちが去った一ヶ月後、ユリアと茶会を開いた。
「やっぱり、あたしたち以外の人から魔女様たちの記憶は消えているみたい。本当は全員のを消すつもりだったのかもしれないけど、あたしたちだけは残してくれたんだね」
 ホワイトとブルーのカップに注がれたアプリコットを飲み干しながら、ユリアは嬉しそうに笑った。ジョーカーはその隣でビターチョコケーキをつつく。
「へえ? まあ、消されても必ず思い出してたと思うけどな。特に俺なんか。ヴァレンタインに小間使い扱いされた屈辱は、一生この身に刻まれてるっつーの」
「あは、ヴァレン様らしい。あの人も強烈だったしね。でもやっぱりジョーカーが思い出すほうは……、でしょ?」
 意味ありげに微笑んだユリアの顎に、触れるだけの拳をぶつける。こつんと骨がぶつかり合い、ユリアは声を上げて笑みを深めた。
「でもジョーカーが元気になってくれてよかったよ。イヴ様たちって、本当に何の痕跡も残さないもんね。うっかりすれば、全部夢だったんじゃないかって思うくらい」
「俺は今でも思うよ。全部夢だったんじゃないかって。長い夢を見ていて、元から魔女なんていなかったんじゃないかってさ。そしたら結構楽なんだけどさ、」
 苦笑しながら、椅子の背もたれに引っかけてある純白のマフラーをぽんぽんと叩く。綺麗に編まれている中、時たまほつれている部分があるのだ。
「ヴァレンタインの奴が編んだとこだけ、すげー脆い。すぐ崩れた。何なんだろうな、あいつは。最後の最後まで俺に嫌がらせか」
「あははっ! じゃあそれが唯一の痕跡だ。ジョーカー、大事にしなくちゃダメだよ?」
「雑に扱ったらヴァレンタインに呪われそうだから、そうしとくよ」
「そっか。……あ、そうだ」
 ユリアは思い出したように手を叩くと、どこからか一冊の本を取り出した。表紙にはダイアリーと書かれている。
「日記か?」
「うん。でもこれはね、特別な日記。前の満月の夜から今までに、あったことを全部書いてるの。全部、魔女様たちのことを」
 どれだけの時を重ねても、この伝説が朽ちないように。
 そう囁いて、ユリアはその日記を大事そうに抱えた。いつか魔女が消えても、この地に強く美しい魔女が舞い降りたことだけは残るようにと。
「なあ、ユリア。その日記、俺も書いていいか?」
 この恋が、誰よりも優しかったあの少女が、後世にもずっと残るように。
 本を抱えたユリアは、この上ないほどに柔らかく笑う。
「ね、ジョーカー。思ったんだけどさ?」
「なんだよ?」
 ユリアは、窓の外に目を移しながら言った。
「あたしたち、凄い幸せ者だよね」
「そんなの、――当たり前だろ」


 その日の夜、ジョーカーは久しぶりに聖堂へと入った。やはりカビ臭い聖堂を進みながら、祭壇の傍らにあった梯子を見つけた。開け放した出入り口から差し込む月光だけが頼りの薄暗い中で手探りにそれを掴み、慎重に足をかける。身を縮ませるような音が幾度か鳴り響いたが、かなりの時間をかけてようやく天井まで達する。
 ぺたぺたと触ってみると、ノブのようなものに指先が触れる。ゆっくりと取っ手を掴み小さな天板を開けると、埃がばさばさと落ちてきた。
「う……あん時とは大違いだな」
 手で振り払い、咳き込みながらも天板の向こう側に手をかける。やはり軋む屋根に飛び乗ると、イヴと何度も見たあの景色が広がっていた。あのときは飽くことなどなかったが、こうして見てみるとここまで変哲のない町をよくあそこまで見ていられたもんだと思う。
 それでも控えめに腰を降ろしてみると、結局はすぐに立ち上がることはできない。フラッシュバックするは、ここで交わした会話やイヴの表情、凍るように冷たかった風の温度に、瞬く星々。何を乙女のような感傷に浸っているのかとも思ったが、今にも隣でイヴが笑い声を上げる気がしてならなかった。赤茶マフラーをはためかせながら、あの細い声を響かせて。
 イヴたちが去るとほぼ同時に、ここら一帯の気温はぐっと上がった。そろそろマフラーもいらなくなってくるのかもしれない。そしたら桜が吹き乱れ、ここからの景色もずいぶんと変わることだろう。
 ふと空を見上げて、今夜が満月だということにようやく気付いた。白く輝く丸い月は、どこまでも優しくどこまでも綺麗で。すると、
『ジョーカー様、幸せになれましたか……?』
「!?」
 一生忘れることもできそうのない声が、ふいに耳へと届いた。周りを見回しかけて、その声がどこか反響したような儚さだということに気付き、再び月を見上げる。
「……ああ。もちろん」
『よかった。ジョーカー様が幸せなら、私も幸せです』
 まったく余韻の残さない幻想のような声に、目を閉じて耳を澄ます。囁く声は、確かに想い人のもので。けれど、近くにはいない。目にも見えない。
「なあ、イヴ」
『はい? 何でございましょう』
「おまえは、幸せだったか――?」
 どうしていなくなっただとか、どうして何も言わずに消えただとか、そんな野暮なことは言わない。それはもう全部必要のないこと。そして、それもまた思い出。
 ずっと聞きたかったこと。ジョーカーやヴァレンタインのことばかりを気遣い、自分は後回しだったイヴの本音。ジョーカーはこの恋が、『思い出』と言えるほどに幸せだった。思い出はいつだって美しく、幸せな記憶として残る。
 けれどイヴにとって、その心にどう記憶は残ったのだろうか。傷にならず、きちんと思い出になれただろうか。それだけが心配だった。
『私ですか?』
「ああ。おまえにとって、俺とのことは重荷になってないか? 辛い記憶に……癒されない傷に、なってないか?」
 少しだけ間を置いてから、くすりと笑う声が聞こえた。まるで月が笑っているかのように。イヴは、微笑みを含ませて答えた。
『ジョーカー様……私は後悔なんてしてませんよ。貴方様と一緒にいられて、私はとても幸せでした。たとえ一生を添い遂げることができずとも、思い出はいつまでも優しく残ります。傍にいることはできませんが、いつだって見守っています故。だからどうか――』
 続く未来の先、私を忘れないでくださいね。
 そう呟かれるのと同時に、天から粉雪が降り注いできた。それは作り物かと思うほどに綺麗で、とてもゆったりとした速度で。ふんわりと舞い落ちる雪の粒に、ジョーカーは笑みがこぼれた。
『これが私に出来る、最後の贈り物になってしまうでしょう。ジョーカー様、お気に召していただけましたか?』
「凄く綺麗だ。絶対におまえのことは忘れない。それから……ありがとうな、イヴ」
『いいえ……私こそ、ありがとうございました。ずっと一緒にいられなくてごめんなさい』
 愛の言葉は囁かない。言葉で伝えられるほどに些細な想いではないから。これ以上に愛を伝える術を知らないからこそ、言葉を重ねれば陳腐になる気がして。
 多分、これが最後の雪になるのだろう。この雪がやめば、きっとすぐに春がやってくるはずだ。そうしてこの気持ちは風化され、いつか思い出となりうる。だけど、また冬が来れば必ず思い出すはずだ。
 哀しい恋ではなく、甘く優しいこの恋を。
『では……さよならです、ジョーカー様』
「……じゃあな、イヴ」
 そして、イヴの声は途絶えた。しんとした空間に、ひらひらと雪が舞う。その向こう側で光る真白い月は満ちて。
 雪が降るころ、きっと再び思い出す。
 奇跡の魔女のことを。
 人間よりも美しく優しい彼女のことを。
 そんな彼女と出逢い、好き合ったことを。
 でもそれは哀しい思い出ではなくて、

 満月に照らされ、雪に溶けた、愛しい日々。
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