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 夜になると、ヴァレンタインは腰を上げた。
「わらわは少し夜の散歩と行くぞぇ。風に当たりたいしの。ぬしらはどうする」
「俺はいい。動くのたるい」満腹で身が重い。
「私は夕餉の片付けがあります故。ヴァレン、お気をつけてくださいましね」
 ヴァレンタインは頷き、ゆったりとした足取りで屋敷を出て行く。それを見送ってから、イヴがキッチンへと引っ込む。シンクで洗い物をする音を背中で聞いて、ようやく気付いた。
 会ってから初めて、イヴと二人きりになったのだ。
 それを意識してしまえば、水がシンクを叩く音が大きく聞こえる。しんとした空間、かしましいヴァレンタインはいない。かちゃかちゃと皿が重なる音を、ソファに座ったまま、ただ聞いていた。
 しばらくその音だけが空間を支配し、やがて流しからは音が届かなくなる。洗い物を終えたのか、水が流れる音さえ聞こえない。変な静寂が満ち、そして、
「ジョーカー様」
「あぇ!?」
 極度の緊張にあったのか、イヴがキッチンから出てきただけでびくんと跳ねる。イヴはそんなこともいざ知れず、ジョーカーへにこりと笑いかけた。
「お暇でしたら、少しだけ付き合ってはもらえませぬでしょうか。食休みも兼ねて、いいところがあるんです」
「……いいところ?」
「はい」
 ジョーカーの手を掴むイヴ。ジョーカーが慌てるのもお構いなしで、イヴは奥にある二階へ続く階段を上がる。その時に、ジョーカーのコートとマフラーを抱えた。
 イヴは二階の天井にあった小さな扉のようなものを引く。
「うわ、天板になってたのか」
「ええ。どうぞお足元にお気をつけくださいまし。滑りやすくなっておりますから」
 先に上がったイヴに手を引かれ、狭い穴に体をねじ込んで上がる。これも、あの朽ちた聖堂からイヴが発掘したものらしい。
 そして顔を上げてみると、そこに星散る夜空が見えた。
「お……お?」
 イヴが手渡してくれたコートとマフラーを受け取ってからぱたんと天板を閉じ、屋根に腰掛ける。綺麗な夜空。
「凄いな、これは」
 この空は、生まれてきてからずっと過ごしてきた町のものだというのに。それなのに、どうしてこうも輝いて見えるのだろう。夜空を見上げるのがあまりにも久しいからか、それとも一緒に星を見上げる少女がいるからか。
「どうです? 少しは、疲れが癒えましたでしょうか」
「……え?」
 唐突な問いに、ジョーカーは顔をイヴへと向ける。
「今日と昨夜、ずっとヴァレンに振り回されてしまいましたでしょう? なので、落ち着けるやもしれぬと……いかがでしょう?」
 イヴはそう言って、首を傾げる。
 その仕草が、表情が、可愛かった。そんなところにまで気を配るイヴが優しすぎて。夜空が、綺麗だったから。
 魔女と人間のしがらみってのを考えるのが、とたんに面倒になった。
 その手を握る。とても冷たい手。
「ジョーカー、様っ……?」
「手、冷たい、な。……寒いか?」
「いえ、これは魔女ならば当たり前で……じゃなくっ、どうしました?」
 困惑したようなイヴの声。顔は上げられない。
「もしかして、高所恐怖症ですとか、……っくしゅっ!」
「おい? やっぱり寒いんだろ。上着も着てないし」
「んん……あ、お気になさらず。ただの生理現象で……ふぁっ!?」
「これ巻いとけ」
 自分の首から赤マフラーを抜き取り、イヴにぐるぐると巻き付ける。イヴは少し苦しそうにするが、抵抗らしい抵抗はない。
「ジョーカー様、これは?」
「マフラーだよ。知らないのか?」
「存じ上げませぬ。私たち魔女は暑さ寒さを感じませぬ故、このような防寒具は初めてにございます。……暖かいのですね」
 マフラーに頬を擦り寄せ、イヴは初めての感覚に酔いしれているようだった。マフラーを引き上げて身を縮ませ、鼻先を埋めるイヴ。ワンピースの裾がぱたぱたとはためいている。
「私、マフラーとやらが好きかもしれませぬ。柔らかくて気持ちよくて……暖かいものなのですね。何千年と生きていながら、存在も知らなかったとは」
「じゃあ、それやるよ。気に入ったんだろ?」
 イヴは一瞬だけ目を輝かせて顔を上げるも、思い直したようにふっと下げた。悲しそうな微笑みを浮かべ、目を細めて呟く。
「でも、ジョーカー様の物でしょう? 頂けませぬ」
「俺なら平気だよ。それに、そんな惜しげな顔されちゃあな」
 イヴは頬を染めてばつが悪そうに笑う。だが、手は確かにマフラーを強く掴んでいて。それから、嬉しそうに笑う。
「……では、お言葉に甘えさせていただきます。このお礼は、必ず」
 そう微笑みながら囁くイヴの吐息は、白い。


 馬鹿だ、と思う。自分の低脳さに、むかつきを覚えた。
 どうして忘れていたんだろう。
 ジョーカーはその姿を見た瞬間、己を強く悔いた。
「おかえり、ジョーカー。遅かったね? どこ行ってたのかな」
 ヴァレンタインの手によって、完璧に修復されたジョーカーの家の前。いつもとは違う、ふわふわとした白いワンピース姿の少女。
 スカートはフリルが段重ねになっていて、レースがたっぷりとつけられ、ふんわりとしたシルエット。首には、蒲公英色のマフラー。
 最初は、本気で誰だかわからなかった。
「ユリア……?」
「うん。おかえり、ジョーカー」
 少女は、……ユリアは、もう一度そう繰り返した。いつもの素朴なワンピースとはまるで違う、お嬢様みたいな格好のユリアは、それはもう愛らしい人形のようで。風を孕んで膨らむスカート、はたはたと揺れるマフラーの端。暗がりなので形などはわからないが、胸の前で何かを抱えているのがわかる。
「待ってたんだよ? 出かけるなら一言伝えてくれればいいのに、ジョーカーったら酷いな」
 ユリアは最上の笑顔で笑って、ジョーカーの腕を隣から抱きしめる。密着したユリアの身体の冷たさに、声もなく叫び声が上がる。ユリアの細い腕を掴み、正面に回した。
「おまえ、いつからここにいた!? 身体、めちゃめちゃ冷えてんじゃねえか! いつから待ってた!」
 ジョーカーの怒鳴り声に、ユリアは肩をすくめる。泣きそうに目尻を緩めてから、鼻をすすってピースサインを顔の横に掲げた。
「二時間、くらい」
「ばっ……馬鹿野郎! 早く中入れ、風邪ひくぞ!」
「うん、……ごめんね」
 イヴとは比にならないくらい冷たいユリアの手を引いて中へと押し込む。幸い、ヴァレンタインのせめてもの計らいということで、部屋の中はすでに暖炉で温まっていた。
 暖炉に薪を追加しながら、ユリアを暖炉の近くに座らせる。ブランケットをその肩にかけようとしたあたりで、
「あっ、そうだ。忘れてた。ジョーカー、あたしいいもの持ってきたんだよ? そのために待ってたの」
「ユリア! まだあんまり動くな!」
 テーブルの上に置いてある、抱えていた包みに手を伸ばすユリア。中にあるものを包んでいた小花が散る可愛らしいナプキンを解こうと、結び目に手を伸ばす。
「大丈夫大丈夫。もう、ジョーカーってばいつも適当な食事ばっかするから、たまにはあたしが――」
「ユリア……!」
 真っ白になってしまったユリアの指先が小さく震え、ずっと、二時間もの間大事そうに抱えていた包みが、
 落ちる。
 淡い橙色が垣間見えたその瞬間、かじかんだ指先では抱えきれない重みがふっと手から離れた。ジョーカーが手を伸ばした時にはすでに遅く、動くことすらできないユリアの足下にがつんと落ちた。
 散らばったのは、かなり頑張った後が十分に見える、弁当と思しき物。食材が無残に落ちてしまい、弁当箱の隅までもが欠ける大災害。
 ジョーカーが声も出せずにいると、ユリアはそっとかがみ込んだ。
「あー……あは。また、失敗しちゃった……結構、頑張ったのに、な? ごめんね、ジョーカー。すぐ片付けるから……」
 ユリアはそう告げたっきり、そこから動こうとしない。ただ汚れた床を見つめて、肩を小刻みに震わせていた。一緒にかがんでやれば、俯いたユリアからぱたぱたと雫が落ちて床に浸みていく。
「ごめんっ……! すぐ、すぐ片付けるから」
「ユリア」
 何の意か、ジョーカーはユリアを呼ぶ。ユリアは首を振って、額を押さえた。
「……あは、うまくいかないね。いっつも、こんな……何もできない……っ」
 ユリアはそうして、ただ静かに涙を落として。時折混じる嗚咽を必死に押し殺す。そんなユリアをとても見ていられなくて、冷えた華奢な肩を掴んで顔をこちらに向けさせる。大きく歪んだ瞳が、真っ赤に染まっていた。
「……ごめんな。ずっと待っててくれたのに、ごめんな、ユリア」
「ジョーカー……? 何でジョーカーが謝るの? 悪いの、あたしなのに……そんなの、言われたらあたし……」
 ついに、枷を失ったユリアがジョーカーの肩辺りに顔を埋める。前髪まですっかり冷え切ってしまっているユリアの身体は、全身が氷になったみたいに冷たかった。
「うぅぅぅぅ……っ! ジョーカー……っ、お願いだから置いて行かないで……あたし、一人はやだよ……!」
「……当たり前だろ……大丈夫だから、落ち着け。ほら、ブランケット。とりあえず温まれよ。な?」
「ん……ごめんね、ジョーカー……」
 ユリアを再び暖炉の前に戻し、ブランケットで全身を覆ってやる。未だにジョーカーにひっついたまま、ユリアは何度もぐずっていた。ごめん、と何回も何回も呟く。
「少し落ち着いたか?」
「うん、ありがと……ねえ、ジョーカー」
「ん?」
「今日、ここで寝てもいい……?」
 ユリアは、涙に濡れた瞳でじっとジョーカーを見上げてくる。雫がついた睫毛がきらきらと輝いていて、普段よりも数倍美しく見えた。
「……ああ。今から帰ったらまた冷えちまうからな。ベッドでちゃんと暖まれ。そうだ、おまえネグリジェか何か持ってきたか? その服じゃ寝られないだろ」
「ううん。ジョーカーにご飯渡したら、そのまま帰るつもりで来たから……」
「そうか、じゃあちょっとだけ待ってろ」
 ユリアをしっかりとブランケットにくるませ、タンスから着なくなったブラウスを引っ張り出す。ジョーカーにはちょうどいいが、ユリアにだったら少し大きいくらいだろう。ユリアにそれを手渡す。
「ユリア、もうちょっとしたらそれに着替えろ。そんで、出来るだけ早くベッド入れ。その間に俺は風呂行っとくから」
「……わかった。ごめん、本当にごめんね」
 ユリアはくしゃっと顔を歪ませてから、ブラウスを胸に抱いた。そのままうずくまったのを確認してから、バスルームに向かう。ずいぶんと冷えたバスルームに入り、少し物足りない気もするが今日はシャワーで済ませることにする。
 熱湯に近いシャワーを一気に浴びて、ほんの十分もしない間にさっさと上がる。がしがしと頭を拭きながらリビングに戻った。、
「おかえり。ずいぶん早かったね、ジョーカー。ちゃんと暖まってくれてよかったのに」
 少し大きめのブラウスに身を包んだユリアが、暖炉の前で両手両足をブラウスの中に引っ込めて座り込んでいた。ジョーカーがいない間にかなり冷静になったのか、少し恥ずかしそうにしている。
「なんか、本当ごめん。……ああもう、なに子供みたいに泣いてんだろ、あたし。すっごい恥ずかしい。ジョーカー、忘れて?」
「……迷惑なんて思ってないからな?」
「うん、わかってる。ジョーカーはそういう人だもんね。ありがと。……ねえジョーカー、よかったらベッドまで運んでくれるかな」
 ジョーカーに向かって両腕を伸ばすユリア。長めの袖がするすると落ち、肘から下の白い腕が惜しげもなく晒される。縋るように手を伸ばしてくるユリアをぞんざいに扱えるわけもなく、恐る恐るユリアを抱き上げた。
「うお、軽いな。藁みてえ」
「ふふ、ありがと。嬉しいな。一番言ってほしい人に言ってもらえた」
「え」
 ユリアは、腕の中でくすくすと笑う。面白そうに、ジョーカーの反応を楽しんでいるみたいに笑うユリアに、冗談だと理解した。溜息をつきながらユリアをベッドにおろそうとして、
「……おい」
「ふふっ」
 ユリアがジョーカーにしがみついて離れない。仰向けのままジョーカーの首をがっちりとホールドし、数センチの距離のところで微笑んでいるのだ。首と腰が堪らなく痛いこの体制に、仕方なくベッドに両腕をつく。
「離せ。俺は床で寝るから」
「やーだ」
「やだっておまえ……」
「……ね、せめてあたしが寝付くまで一緒にいて。お願い、少しでいいの」
 ユリアの微笑みが、悲しそうなものに変わる。不安そうに囁くユリアに、あっさりとジョーカーは折れた。ユリアに引っ張られるがままにベッドへと倒れ込む。
「おまえが寝るまでだからな?」
「うん、うん、わかってる。それでいいから、あたしが寝るまでは離れちゃやだよ? いつもあたしがジョーカーの我が儘聞いてあげてるんだから、今日くらいはあたしの言うこと守ってね?」
 ジョーカーが頷くのに安心したのか、ユリアは静かに目を閉じた。ぴったりとジョーカーにくっつきながら、吐息を洩らす。ユリアの甘い香りが髪から漂っていた。
 しばらくユリアの寝顔を見つめていれば、少しずつユリアの体から力が抜けていく。すっかりリラックスしたようにベッドへと体を沈ませたユリアから、やがて規則正しい寝息が聞こえてきた。「ユリア」声をかけても返事はなし。寝入ったらしかった。
「……おやすみ、ユリア」
 起こさないようそろそろとベッドから降りると、ブランケットにくるまってベッドのすぐ下で横になる。すぐに睡魔がジョーカーを襲い、瞼がとてつもなく重くなってきた。
 ユリアの小さな背中を最後に、ジョーカーの意識はぷつんと途切れた。

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