V

「ジョーカー、あんたさん何をしたんさね?」
 ジョーカーの左腕を診ていたクラウスが、不審げに白い眉を寄せる。ジョーカーの隣に座ったユリアは、未だすやすやと眠ったままの子供たちを見つめていた。
「……何も」
「何もってわけはあるまい。それとも、あんたは夜になると骨がくっつく体質かい?」
 まったくの痛みも重みもなくなった左腕。朝までひびが入っていた骨が、完治していると言う。
 クラウスは隣町の医者であるため、つい先ほどこの町で起きたことは知るよしもない。
 ジョーカーは何も言わなかった。するとユリアがそれを察してくれたのか、控えめな声を出す。
「クラウス先生、とりあえず今日のところはお暇してもらってもいいですか? この通りまだエースちゃんたちが寝ているし……」
 ユリアが少し目を伏せれば、クラウスはゆっくりと頷いて立ち上がった。ほの暗い心情をわかってか、ぽんとユリアの背中を叩いてから静かにクラウスが出て行く。
 それを確認してから、ユリアはジョーカーの傍らに座った。
「ありがとな、ユリア」
「ううん」
 沈黙。
「……腕、治ってよかったね。ジョーカーのことだから、凄く不便だろうなって思ってた」
「ああ。チビたちと遊ぶのも、これじゃ大したことできねえからつまんなかった。今日は助かったよ。ユリアがトランプ得意なのもあったから。……なあ、ユリア」
「……なにかな」
 暖炉の中で火花が弾ける音。やはり町はしんと静まって、この部屋も例外ではなかった。
「俺、初めておまえに負けたな。認めるしか、ねえもんなぁ……?」
「……うん。でもケーキはいらない。あたし、卑怯だったもん。あたしが不思議な力を持ってて、だったら魔女たちが来るのわかってて当たり前。トランプでいえば、相手の手持ちカードを透視できてるようなもの。そんなの勝負じゃない。フェアじゃないもん」
「そんなのわかってて勝負したんだ。アンフェアでも、勝つって思ってた。けど負けちまったんだよ……誰でもない、俺が」
 フルムーンの二大魔女は、現れた。
 美しく、残酷で、優しい伝説の魔女は。一番寒い満月の夜に、ジョーカーの前へと舞い降り、そして、爪先と指にキスをさせた。
 ジョーカーが嫌悪に顔を歪めたその時。
「ほぉう、潔いではないか。確かに負けは負け、貴様の負けだ」
 甘く苦い香りが、すぐ傍で漂った。
 弾かれたように振り向けば、ジョーカーの隣、ユリアとは反対側に座ったヴァレンタインが悠々と煙管を味わっていた。妙に風格があるその姿、ァレンタインは妖しげな流し目でジョーカーを見つめた。
「貴様に忘れ物だ。貴様、わらわに名乗らせておいて己の名を告げぬとはどういう契約違反だ?贄になった身、わらわたちを主人と敬うのが普通であるぞ」
 ユリアはすっかり萎縮して膝の上に乗せた拳を強く握りしめていた。ヴァレンタインが侮蔑するような薄ら笑いを浮かべると、ぱっと宙に人影が現れた。
「ヴァレン! あんまり勝手にどこかへ行かれると、私が迷ってしまいます。お願いですから、置いて行かないでくださいまし……!」
 イヴだった。睫毛に煌めく雫を伝わせながら、ふわりと着地する。ヴァレンタインは面白そうに目を細めながら、イヴを見やる。イヴはすぐにこちらに気付き、少し青ざめた。
「もっ、申し訳ございませぬ! またヴァレンタインが何かしましたでしょうか? ヴァレンっ、もうこの殿方には迷惑をかけぬと約束したはずでしょうっ!」
「失礼な奴よの。わらわは何もしておらぬわ。ただ、贄の名を訊ねに来ただけじゃぞ? ぬしこそ変な妄想をするでない。これだからぬしという痴女は」
 ヴァレンタインの嘲笑に、イヴは首まで紅にしてぷるぷると震える。何事かを言い返そうとしているのは見て取れるのだが、何せ唇がぱくぱくと動いているだけで声が出せていない。ヴァレンタインはなおさら愉快そうに笑う。
「んふはははっ! 本気にするとは、なんとも貴様らしい。なに、冗談というものよ。イヴめ、愛い奴よのぉ。それでこそわらわのパートナーだ。ほれ、貴様も寄るがよい。今ならこやつの傍らを譲ってやるぞぇ?」
「いいいり、いりませぬっ! ヴァレン、からかうのもほどほどにしてくださいまし!」
 イヴの反応に心から楽しんでいるのか、ヴァレンタインは寛容に笑う。イヴはヴァレンタインを挟んだジョーカーの二つ隣に腰掛けた。
 ヴァレンタインはしばらくイヴを弄ぶかのように笑い転げていたが、一頻り笑えば目尻に溜まった涙を指で弾いた。
「……ふぅ。さて、贄。そうじゃ、貴様よ。いつまでわらわを焦らせば気が済むのかえ。そろそろ名乗ってはどうだ? なあに、それほど怯えることもあるまい。何も名を教えれば魂を吸い取られるわけでもない。そんなの、名前なんぞ知らなくてもできるわ」
 ヴァレンタインの緋色の瞳が、つ、と細められる。口元には笑みをたたえているくせに、目は全然笑っていない。背中に鳥肌がたった。
「ほれ、言ってたもれ」
「……ジョーカー」
「ほう。ジョーカーか。よい名前じゃの。ふむ、そこらにたくさん転がっておるな、ジョーカーが。のう?」
 ヴァレンタインが煙管で示したのは、床に散らばったままのトランプ。何セットものトランプを使ったせいで、二枚には留まらない数のジョーカーが見て取れるのだ。まるで何かの残骸だとでも言われたようで、黒い渦が胸中を掻き乱す。唇をぐっと噛んで堪えた。
 すると、ジョーカーの気持ちを酌む気もないと言った様子で口端をつり上げたヴァレンタインが唇から煙を吹き出す。それはトランプに向かって吐き捨てられ、それを被ったトランプがぶわっと浮き上がる。宙の上で舞っている数枚のトランプは、数字の書いていないカードだった。つまり、joker。それらが一気にジョーカーの頭上へと舞い上がる。
「joker……ある時はゴミのように押しつけ合われ、ある時はスペシャルカードとされる魔法のカードよの。はて、貴様はどちらのジョーカーだ?」
「……っ!」
 にんまりと妖絶に微笑み、見えない糸を掴むみたいに指を引くヴァレンタイン。十枚ほどのjokerが、有り得ない速度で急降下してくる。
 ――切られ、る?
 息を飲んだジョーカーに向かって、カードが降ってくる。
 だが残り数ミリとなったところでカードはぴたっと停止し、ぱらぱらと呆気なく膝に落ちてきた。
 それらを操っていた女王ヴァレンタインはジョーカーを見てにんまり笑うと、暖炉の前で眠る無垢な子供たちへと歩み寄る。
「愛くるしいのう。このような年頃が一番楽しいというもの、年を重ねれば重ねるほど汚れるのが生物の運命よ」
 ヴァレンタインのほっそりとした指が、子供たちの頬にそっと触れた。
「大人になんぞ、なりたくはないと思わぬか?」
「っ離れろ!」
 ――思わず、引き抜いた短剣をヴァレンタインの首に宛がっていた。
 子供のままの姿で、生を終わらせてやろうかという意に取れたのだ。大人になどなるなと、これ以上成長するなと、そういうことかと。
 ヴァレンタインは剣を向けられながらも、嘲るように笑ってみせた。ユリアかイヴの叫ぶ声――やめてくださいとかそんな感じの――が耳に届く。
「わらわに刃物を向けるかよ。つくづく恐れ知らずな奴よの、貴様は。その人一倍強い正義感と度胸は認めてやってもよいがな、無力は貴様等如き人間なぞ、わらわに寄ることすら許されないのじゃぞ? 本来は、な」
「!?」
 次の瞬間、短剣がさらさらと溶けた。ヴァレンタインが指先で撫でただけで、雪みたいに細かな粒子となった剣は一瞬にして消え去った。
 存在ごと消えてしまった掌の虚無感に呆然としていると、ヴァレンタインはジョーカーの手首を掴み取る。ぐいっと引きよせられ、ヴァレンタインと鼻先が触れる零距離まで近づく。
「のう、ジョーカー。貴様はわらわの挑発に乗りすぎるというものぞ。思わせぶりなことを言ったとて、わらわが無罪な人間の子に危害を加えるとでも思っておるのか。魔女の名も廃ったものよの。そんな恥知らずな真似、わらわたちはせんわ」
「……そんなの、わからねえだろ。少なくとも、現段階で俺の中のおまえは最悪のイメージしかないんだ。だったらそれなりのことをしてみせるのが、道理ってものだろう」
 ジョーカーの言葉に、ヴァレンタインは心底驚いたようだった。切れ長の瞳をぱっちりと見開き、ぽかんといた表情。やがて、くつくつとさも愉快げに笑った。
「んっふふふ……そうよの、悔しいが貴様の言葉は理に適っている。確かに、善良だという証拠もなしに、初対面で足を舐めさせた相手を信じろというのは無理があったかもしれぬ。わらわだって最低で醜悪な下衆としか思わぬわ」
「……そういうことだ。わかったなら、そいつらから離れろ」
「ふん、了解した」
 ヴァレンタインは割と素直に一歩下がる。そして思い出したように手を上にかざすと、その手中に短剣が現れた。ヴァレンタインはジョーカーの手を取り、それを握らせる。
 その重みに、ぽかんとしてしまった。
「どういうつもりだ?」
「ぬ、意味がわからぬな。なんぞ?」
「俺に剣を返すってことは、またさっきみたいにこれを突きつけられてもいいってことかよ。それとも、これがおまえの『それなりのこと』なのか?」
「……どうして貴様は、そうもねじ曲がった考えを持つ。なくしてしまった物を探し出して、持ち主に返す。それじゃあ納得せぬとでも言いたいのかよ? ……まあそうよの、あえて言えば、それはわらわたちに取って何の意味もないからだ」
 ヴァレンタインはジョーカーを一瞥して、呆れと侮蔑が混じったような表情をしてみせる。
 なぜか、言い返す言葉が出てこない。
「魔女には、刃物なんぞ畏怖の対象にもならぬわ。首を切り落とされようと腹を割かれようと、死することなどない。怪我だって一晩もすれば治るんじゃぞ? 恐れることなどないわ、たわけ。――のう、そこの娘!」
 ヴァレンタインが呼んだのは、ずっと家具のように黙り込んでいたユリア。ひいっと悲鳴をあげながら、こわごわと面を上げる。
「娘、貴様の名は何と言う?」
「ユリア……です」
「そうか。よし、ユリア! そこでだユリアよ、この住宅の周囲に建物はあるかよ? 魔術でここに入ってきたもんでな、周囲のこともわかりゃあせん」
「えっと……もう使われていない聖堂が、右隣に一つだけ。殆ど腐り果てて、蔦なども絡み放題ですが」
 ユリアの言葉を聞いたヴァレンタインが、にぃっと唇を歪める。物凄く嫌な予感がぞわぞわと身の毛をよだたせた。そうして、ヴァレンタインはジョーカーに向かって煙管と言葉を突きつけた。
「ジョーカー、ついてくるがよい。いいものを見せてやろうぞ」


 ヴァレンタインがジョーカーを導いたのは、言うまでもなく隣の廃聖堂。ユリアが帰ってしまった今、魔女二人に挟まれるような形でジョーカーは立っていた。
 容赦なくジョーカーを叩く冷たい風は、マフラーをぐるぐる巻きにしていてさえ身を縮こまらせるくらいだ。傍らの二人はドレスやワンピースの上に何も羽織ったりはしていない。魔女というのは寒ささえ感じないのか。
「……本当に朽ち果てておるな。神を祀るところであろう、いくら使用せずとももう少し整えてやるのが信仰でないのかよ? せめて取り壊してやればよいものを」
「何だか恐ろしい場所にございますね……これでは神もこの地を見放してしまわれます。この町にはたくさんの聖堂があるようでしたが」
 二人がそう言うのも無理はない。本来は真っ白だったであろう外壁はくすんで灰色と化しているし、全体を鎖でがんじがらめにしているかのような蔦は何とも恐ろしく、まるで立ち入ることを建物が拒んでいるようだった。久しぶりに直視したが、ここまで酷い有様だとはジョーカーも思わなかった。
 だがヴァレンタインとイヴはその外装よりも、人間が神を崇める場所をここまで朽ちさせたということ自体に嘆いているようだった。
「悪い……」
「む? なぜにぬしが謝る。確かにこの現状を長く見て見ぬふりしていた貴様も片棒を担いでいたと言えるが、別に直接的でもあるまい。わらわに謝罪したとて、何も変わらん」
「ジョーカー様には何の罪もありませぬ。ええ、誰のせいでもないとわかってはおります。ですが忘れられるというのは、それが建物であろうと可哀想だと思ってしまうのが私というもの。お気にしないでくださいまし」
 暗に責められているような気がするのは、杞憂だろうか。
「そう思うなら、別にいいけどよ……それで、おまえらはここで何を始めようって言うんだ? とてもじゃねえけど、中に入るのも難しそうだぞ」
「愚か者めが。わらわたちを誰だと思っておる?」
 ヴァレンタインが愉悦の笑みを浮かべ、それだけで見惚れてしまいそうな仕草で唇をそっと指先で撫でる。その指をゆったりと伸ばし、聖堂へと向ける。すると聖堂に絡んでいた蔦がびくんと震え、しゅるっとヴァレンタインの指先へと引き込まれて消えていく。
 恍惚としたような表情のヴァレンタインはすべての蔦を回収し終えると、ぱんぱんと手を払う。鼻を鳴らして、ふくよかな胸元を見せつけるかのように背を反らした。
「こんなものよ。さ、中に入るがよい。楽しいのはここからじゃぞ、ジョーカー?」
 ヴァレンタインたちに導かれて、みしみしと不穏な音をたてる扉をゆっくりと開いて中へと入っていく。所々に張り巡らされている蜘蛛の巣と抜けそうな床にびびりながらも一歩踏み出すと、湿った嫌な空気がジョーカーを取り巻いた。不快感が全身を襲う。
「う……なんだこれ、凄え気分悪ぃ……」
「ジョーカー、覚えておけ。何も貴様がすべて悪いとは言わぬがな、放置してきていた貴様も原因の一つよの。よいか、これが貴様ら人間の罪よ。目を逸らすでないぞ、ジョーカー」
 ジョーカーの隣をすり抜けていくヴァレンタイン。その言葉はジョーカーの心にずっしりと響いた。動けなくなったジョーカーの背中を、イヴがそっと支えてくれる。その手に導かれるように、ゆっくりと前へと歩き出す。
 通路の傍らにずらっと並んだ数十個の長椅子。カビが繁殖し、ぬるついた深緑色の苔までもが張り付いている。歩く度に軋む通路にはレッドカーペットと思しき布が敷いてあったが、すでにただの雑巾のようになっていた。イヴとともにそろそろと進むジョーカーの数歩前を、ヴァレンタインがピンヒールで床に悲鳴を上げさせながら進む。
 ヴァレンタインは祭壇に上がると、踵を強く床へと打ち付けた。ぎしっと一際大きく床板がしなり、派手な亀裂が入る。
「先ほどわらわたちは、こんな有様だと神も愛想を尽かすと言ったよのう? だが案ずる必要はないぞえ、ジョーカー。この聖堂を放置したことも、神を捨てたことも、もう許す」
「だって、必要がないことでございます」
 気付けば、イヴまでもがヴァレンタインの隣に立っていた。その顔に浮かべた微笑みは天使のもの。
「神をいくら崇めて信仰しようと、それは無駄でございます。なぜならこの土地を支配し、守っているのは、他の誰でもない私たちであるのですから。ですので、この場所は僭越ながらも私たちが受け継がせていただきます」
「ジョーカー、貴様もこちらへ寄れぃ。そこにおると邪魔になるでな。そこはソファ予定地よ。押し潰されるぞ」
 押し潰されるという言葉に、素直に祭壇へと上がる。何となくだが、今のヴァレンタインの言葉で話が見えてきた気がする。
 つまり、
「土に埋もれしこの地、わらわが力を授けてやろう。さあ、蘇るがよい」
「再構築させてもらいます。私たちの都合で聖なる祭殿の形を変えること、どうかお許しください」
 ――こういう、ことか。
 突如吹き荒れた嵐のような風が、聖堂の中を滅茶苦茶に掻き回す。ジョーカーたちには一風たりとも当たることはない竜巻。数秒もしないうちにその風は収まり、その代わりに目を焼くような光が灯った。
「こんなものでよかったのでしょうか、ヴァレン。貴方様はいかが思われましょう? このような陳腐な内装で満足なさりましたでしょうか」
「うむ。なかなかじゃぞ、イヴ。ぬしのセンスはわらわも唸らせられるもの。もちろん、文句の付け所がないほどに完璧よ、イヴ!」
「お褒めにあずかり嬉しゅうございます」
 一言で言うなればそれは、屋敷だ。
 つい一分前まで穴が開いていたような天井はしっかりとダークブラウンに塗り直されて綺麗になっていたし、そこからは数千万円もしそうなシャンデリアがつり下がっている。クリーム色に薔薇が描かれた高貴な壁紙。ゴールドとブラウンでシックに統一された室内。ソファやらテーブルやらと、まるで貴族のリビングだ。ちなみに、ジョーカーたちが立っていた祭壇は、二階へと続く階段の一段目となっていた。
「どうかぇ? わらわたちの城は。さっきまでとは比にもならないであろう」
「……ああ。凄ぇよ、もう」
 ぐったりと溜息をつくほかないジョーカーを鼻であしらうと、ヴァレンタインは高級感溢れるソファに腰を沈めた。
「これからはお隣さんじゃぞ? よろしくしてたもれよ、ジョーカー」
「ご迷惑をおかけすると思いますが、どうぞ仲良くしてくださいまし。ジョーカー様」
 ヴァレンタインは不敵に微笑みながら唇を撫でる。イヴは天使の微笑を浮かべながら深々と頭を下げる。
 そんな二人を見ながら、ジョーカーはこめかみを押さえた。
「……勘弁してくれよ」

 こうして、千年魔女伝説は、開幕した。
 月夜の晩にだけ降る、雪。
 哀しくて優しい、恋物語。
 終焉への始まりが、今。
 開幕した。
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