≪探さないでください。≫
私は一行の文章だけ送って、携帯の充電を切った。
これで十分だ。
私は灰色の海を見ながら、ひとりで思った。

手に食い込むビニール袋を持ち直して、私は一息ついた。
日も落ちて到着した時と、日中に見るこの街は少し違って見える。
シャッターの降りた商店街、雨の跡で灰色になった壁の家々。
人が住まなくなって長いのか、ツタが絡まった家なども見かける。
この町は全体的に灰色をしている。でもそれが、今の私には、酷く心地いい。
誰も私のことを気にしていない。そんな気がするから。

そんなどうでもいいことを思ったとき、私の横を黒塗りの車が追い越していった。
この辺では見かけない、高級そうな車だ。少し前で止まったので、遠目でナンバーを見る。
そこには見知った東京の地名が書かれている。まさか。
後ろのドアが開く。ブルーフォグの跳ねた髪、ベージュのジャケット、チェックのパンツ。
氷帝の制服だと認識するや否や、私は駆け出した。
逃げ込める見知った場所なんて、さっき行ったスーパーと、昨晩泊った宿しかない。
宿に向かうには、彼が進行方向に立っていたから行けない。
スーパーに行向かうため、来た道を戻る。スーパーに行ったってどうにもならない。
でも、知った場所なんてそこしかない。どこでもいいから、逃げなきゃ。
重い袋をガサガサ言わせながら私は走る。
足音はあっという間に追いついて、私の腕を掴んだ。
「木之本!」
『っ、痛い、放して!』
腕が折れそうなほどにぎゅっと掴まれて、私は何よりも先に「痛い」と悲鳴を上げた。
顔を見ないようにしたまま腕を振って抵抗するも、手は全然振りほどけそうもない。
仕方がないのでそっと振り返る。予想通り、跡部は怒っていた。
普段から吊り上がった目と眉は、いつも以上に吊り上がっている。
息一つ乱しておらず、引き結ばれた口が小さく震えている。
その口が、小さく開いた。そして一呼吸息をすると、私の腕を引っ張った。
「……帰るぞ」
跡部は私の腕を引っ張ったまま歩き出そうとしたけど、私は足を踏ん張って抵抗した。
振り返った跡部は相変わらず眉を寄せている。アイスブルーの瞳を睨み返して、私は強く言った。
『私、帰らないから』
跡部は体の正面を私に向けて、私をまっすぐ見る。
「お前、何を言っているのか分かってるのか?」
『分かってるよ。私、ここで暮らす。もう家に帰らない』
「馬鹿なことを言うな。ここにはお前にとって他人しか居ないだろう?
赤の他人が、お前の事を本当に大事にしてくれるわけないだろ。
社会に出たこともねぇガキじゃ、何もできねえ。騙されるか利用されるかがオチだろ」
『私のことを大事にしてないのは、みんなそうでしょ……?
誰も私の事なんて大事にしてないじゃない!
お母さん、私のこと心配してなかったでしょう?
私なんて要らないのよ!』
「俺様が来ただろうが」
一層指先が腕に食い込んだ。不機嫌そうな跡部の顔は恐ろしく怖い。
冷静な声色にも、私は負けたりしない。必死に言い返す言葉を探す。
『っ、それは……そうだけど。
でも別に、跡部だってマネージャーが必要だから来ただけでしょ?
マネージャーなんてほかにいくらでも替えがいるじゃない。私じゃなくたっていいのよ』
「そうだな。マネージャーは替えが居る。
お前じゃなくたっていい」
はっきりと跡部の口から私の存在が不要と言われてしまうと、それはそれで悲しいけど。
それならそれでいい。その方が私も都合がいい。
『じゃあ私の事なんてほっといてよ。マネージャーの仕事は他の子にやってもらって』
「お前が望むのなら、そうしてやってもいい。
だが、俺はお前が不要だなんて言ってないぜ?」
『……、』
跡部はいつものように余裕そうな笑みを浮かべた。
私は息を呑む。そして続く言葉に僅かに期待する。
しかしその予想を裏切るように、跡部は一度口を引き結び、私を睨んだ。
「しょうもねえことで腐ってんじゃねえよ。お前は自己評価が低いだけだ」
その言葉に、私は落胆した。なんだ、跡部もそうか。
みんな勝手に、私に期待して重荷を持たせてくる。
厳しいだけだ。誰も私を認めてくれない、私はいつまでたっても頑張ることを永遠に強制させられ続けるんだ。
自己評価なんて、他人に褒められずして上がるわけがない。
ひとりでに上がっていくなんて人が居れば、そんなのは楽観主義者なだけだ。
自己評価のきちんとできる人なんて一握りだ。きっとその人は並大抵でない努力を重ねたのだろう。
そんな人が目の前にいるのかと思ってしまうと、嫌悪感で目元がひくつくのが分かった。
私の顔が相当引きつっていたんだろう。跡部はふんと鼻を鳴らした。
努力が足らねえとか、そんな嫌味をまた言われるのかと私は身構えた。
「木之本はマネージャーの仕事もよくやれてるし、お前を認めていない人間なんて俺は知らねぇ」
……えっ? どういう事?
表情を変えない私を気に留めず、跡部は続ける。
「まずはお前がお前を認めろ。そしてやりたいことをやれ。
そのうちにお前は自分が理想とする自分になれるだろうよ。
俺はお前のことを認めているが、お前がお前を認めてねぇうちは褒めてやらねえし側にも置いてやらねえ。
満足できる自分になったら、俺様に良いな。その時は女でも右腕でも、何にでもしてやる。
だからそれまで、自棄にならずに頑張るんだな」
もういいだろ、帰るぞ。と、跡部が再び私の腕を引っ張った。
……何というか。予想外に褒められてしまった。
この言葉をずっと待ってたはずなのに、突然のこと過ぎてどうしたらいいかよくわからない。
もう抵抗する気も失せた。仕方ないので、おとなしく引っ張られてやる。
でもなんか突然引き下がるのも癪だ。引っ張られつつも、口では引き続き反抗してやる。
『……なにそれ。
別に、跡部に認めて欲しいとも側に置いて欲しいとも言ってないし』
「フン。じゃあなんで俺様にだけ返信した?
自惚れていいと思ったんだが、違ったのか?」
振り返った跡部が自慢気に笑う。あぁ、今朝返信したやつか。なんで跡部にだけって知ってるんだ。
意味があると思われても面倒だ。適当に流そう。
『……たまたまよ。最新のメッセージが跡部だったの』
「ほう。ま、そういうことにして置いてやる。ほら、乗りな」
開いたドアに押し込まれる。後部座席に座ってから、落ち着いた頭でつぶやく。
『おばさんに、お礼言いに行かなきゃ』
持ってきてしまった食料品、置いてきてしまった荷物、迷惑しかかけてないしお礼も言わずに帰ることになってしまった事を一人後悔する。
私の言葉に動じず、跡部も乗り込んで、ドアが閉まる。緩やかに車が動き出す。
「いい。礼は俺様がしておく。置いてきたお前の荷物も箱に入れて送らせればいい」
『……結構必死だね』
そこまでして私をあの宿に戻したくないとか。
軽く揶揄う気持ちで言ったけど、存外その通りのようだ。跡部は頭が痛いというように米神を押さえている。
「はぁ……。お前、俺がどれだけ心配したと……」
『そんなの全然分かんないよ。跡部が私のこと実は認めてくれたのと、同じくらい。
……ねえ、私の事そんなに心配してたの?』
改めて聞いてみると、追っ払うように跡部は手を振った。
「うるせえ。俺様は寝る。
ミカエル、こいつが変なことしないか見張っててくれ」
「かしこまりました、お坊ちゃま」
『変なことなんてしないし。馬鹿。お休み』
そっと跡部の隣に座りなおす。
私の肩を使えば?と視線で言うと、跡部はふっと笑って、私の肩に頭を載せた。
そういえば、どうして私がここにいるってわかったんだろう。
まさか夜通しで、ありとあらゆる情報網を駆使して、私を見つけ出した……、なんてね。そんなわけないか。
何気なくポケットに入っていた携帯を取り出して、電源を付ける。
大量の着信やメッセージが届く。洪水のようだ。
未読のいくつかの中に、跡部からのメッセージもあった。
私の≪探さないでください。≫への返信が来ていた。何気なく開く。
そこには≪お前が勝手にするなら、俺様も勝手にする。≫とだけ書かれていた。
跡部が私を見つける前にこの文章を見たら、もう私の事なんてどうでもよくなったようにも受け取られるだろう。
だが実際は、探しに来てくれたのだから。彼も素直じゃない。
私の逃亡劇は失敗したし、随分と遠回りで面倒なことをしたけど。
私は今日やっと、受け取るべきものを受け取れた気がする。
そう思って、私は一人で静かに笑った。


霧の町に消える

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